広島女学院では三百五十人が原子爆弾の犠牲となって、
被爆当日とその後の四か月間に亡くなったことを。
そのうちニ百人以上が
十三歳から十四歳の生徒達でした。
百十七年という女学院の長い歴史の中で
最も悲惨な出来事であった一九四五年の八月六日、八時十五分は
一体何であったのか?
ヒロシマの悲惨を二度と繰り返さないために
今、一人の人間として私達にできることは何なのか?
「夏雲」に記された言葉に思いを寄せ――
ほんの短い時間ですが、
精一杯、語ってみようと思います。
人間にあって一番大切なもの
それは生命だ
それは人間に一度だけ与えられる
そしてそれを生きるには
あてもなく生きてきた年月だったと
胸をいためることのないよう生きねばならぬ
卑しい下らない過去だったという恥に
身を焼くことのないように
生き通さねばならぬ
そして死にのぞんで
全生涯が
また一切の力が
世界で最も美しいこと
つまり
人類解放のための闘争にささげられたと
いい切ることができるように
生きねばならぬ
(オストロフスキー)
●オルガン演奏――「十字架につけられ(J.S.Bach)」
N 一九三一年に始まった中国への侵略は、その規模を拡大し、聖戦の名の下で、日本中を
軍国主義に巻き込んでいきました。
一九四一年十二月八日の、真珠湾攻撃による太平洋戦争への突入。
宇品の港からも大勢の兵士が戦地へと送られていきました。
ミッションスクールであった女学院もまた、その渦の外にいることはできませんでした。
スパイ学校と呼ばれ信仰の自由は許されず、熱心にキリスト教を教えたゲ―ンズ女史など
八名の外人教師引き揚げは勿論、光井教頭以下四名の先生も、憲兵による厳しい訊問を受
け、学校を去らねばなりませんでした。
決戦遂行の名の下、幼い妹や弟達は家族と別れ、集団で田舎へ疎開させられ、学生達は学
業を捨て、戦場へ、兵器工場へと動員されていきました。
一度出された警戒警報が解除になり、ホッと一息ついていたあの日の朝、リトルボーイと
呼ばれる原子爆弾を積んだB29エノラゲイ号は、ひそかに広島上空に侵入し、その時を
待っていました。
コーラス 遠くから「讃美歌312」のメロディ―
いつくしみ深き 友なるイエスは 罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて などかは下さぬ 負える重荷を〜
(朗読者登場)
@ その朝は、晴れ渡った美しい朝だった。戦時中は正規の授業が廃止されて、学生生徒た
ちは、各種の勤労作業に従事させられていた。女学院専門部学生及び高等女学校の上級生
徒たちは、朝早く隊伍をととのえて、元気な足取りで、郊外の工場へ赴いた。高等女学校
の下級生一、ニ年は市内の清掃に当ることになっていて、先ず出発前に校庭に集合した。
午前七時頃であった。私はこれらの年若い生徒たちを前にして激励を試み、祈りを捧げた
のであったが、非常時下における彼らの労苦を思うと、胸がつまり言葉が途切れがちであ
った。彼らは、やがて先生方に引率されて、元気に行進していった。
生徒達を見送ってから、院長室で事務を執るため、部屋の真ん中ごろに進んだ途端/
A 私は中学二年の八月六日朝、赤い鼻緒の下駄に絣のもんぺをはき、大豆の入ったお弁当
と救急袋を肩にかけて家を出ました。雑魚場町の家屋疎開作業に行きました。二年生は、
崩れたコンクリートの塀のそばに二列に並びました。島崎先生は崩れ落ちた屋根の上で作
業の説明をなさいました。そして「お国の為に一生懸命働くように!」との言葉がありま
した。すると青く澄んだ空に、突然といった位にB29の爆音とともに飛行機雲が流れて
いるのを見ました。
みんなで「今ここに爆弾が落ちたらいっぺんに死ぬんよ!」と言った矢先/
B その日の私達の仕事は、雑魚場町で倒した家の瓦はぎでした。七時過ぎに家を出てから
学校に集まって指示を受けたあと、今の国泰寺高校あたりに荷物を置いて作業にとりかか
りました。「この辺に二階建ての家があったらええのにね―。」と話しながら友達と瓦をは
いでいると、突然/
C 広島駅から歩いて十分の地点に第二総軍司令部があった。私達二年生のうち十名ばかり
が仕事をする場所は、天井の低いバラック建てに近い狭い建物であった。西向きに並んだ
机の後ろに座って、配られたばかりの小さなカードに数字を記そうとした矢先/
D 私は当時十六歳でした。私達はみんな学徒動員で東洋工業に行っていたのですが、私は
体が弱く残留組みでした。そのため事務の方に回されて、京橋町にある財務局に勤めるこ
とになっていました。そのころ財務局には女学院生が五名位いたと思います。八月六日、
朝はいつもと同じように八時に出社し、事務を取り始めようとした時/
E あの日私は休暇で家にいました。それまで働いていた小銃づくりの東洋工業から、第二
総軍司令部暗号班に配置がえになったばかりの動員学徒でした。朝食の後、本箱から夏目
漱石の「草枕」を取り出し、縁側に出たその時/
F 私が被爆した時は、専門部の一年生でした。しかし、一年生といえども四月に入学して
から、実際には学校に行ったり行かなかったりで、ほとんど学徒動員で東洋工業などへ行
っていました。その日私達専門部一年生はたまたま召集があり、みんな登校していました。
そして、朝礼をするために全員が講堂に集まって、たぶん印具先生のお話を聞いていまし
た。それから先生のお話が終り、後ろの方から順番に廊下に出はじめました。何時だろう
かと、ふと後にある入口の大時計を見るために振り返りました。その時/
G その当時私は女学院専門学校に勤めておりました。戦時中の事とて八月でも休みなど一
日もなく、学生の半分は東洋工業で軍需品の生産にもんぺ姿で勇ましく働いておりました。
残りの半数は学校で勉強するようになっており、私はその日、幟町の専門学校で教える事
になっていました。八時十分頃、職員室から北側の廊下にでた途端/
H 娘は十三歳の誕生日を後二週間余りで迎えようとしていた女学院の一年生でした。入学
できたよろこびと感激に胸ふくらませての毎日の登校もあまり授業はなく、勤労奉仕や流
川の校舎から牛田校舎への備品運びばかりでした。あの日娘達の組みは当番でした。粗末
な弁当と水筒を持って元気に笑顔で出て行きました。B29の爆音が聞こえて今日もまた
偵察かと思った時/
I あの日、家を出て行ったあの子の後姿がありありと浮かんできます。門を出るとき何故
か出難い様子でした。一度は引き返したんです。「お母ちゃん、わたし今日、休みたい…」
と。でも私は、「今日出席すれば明日は交替休みでしょ。さっさと元気を出して行きんさ
い!」と励ましました。それでも彼女はしばしば後を振り返りながら如何にも元気なさそ
うに重い足取り。それは今日の悲惨な犠牲を、俗に虫が知らせたとでもいうものでしょう
か。防空頭巾を肩に、もんぺをはいたあの子の後姿が、今もはっきりと目に浮かんでくる
のです。
突然、強烈な、爆発音
全ての明かりが消える、 音のない世界、 キーンという金属音と共に
「キャー」「誰か―」「お母さーん!」「助けてー」「痛いよう、痛いよう」
「熱いよう、熱いよう」「お母さーん、お母さん!」などあらゆる断末魔の悲鳴
うめき声の中で―――
ストップモーション
N ●午前八時十五分、人類史上初の原子爆弾が広島市の上空五八○メートルの高さで爆発し
ました。
●爆風が、広島の街をなぎ倒していきました。熱線が、人々を生きたまま焼き殺しました。
目に見えぬ放射能が、何年経っても消えない傷を人々にもたらしました。
●その当日の生徒の動員先です。今でもおよその数しか解りません。
東洋工業には、教師九名、高等女学校ニ八○名、専門学校ニ七八名
広島鉄道局には、教師一名、高等女学校七ニ名
師団司令部には、教師一名、高等女学校五名、専門学校十名、
広島財務局、税務署には、教師一名、高等女学校ニ九名、専門学校ニ五名、
第二総軍司令部には、教師一名、高等女学校四○名、
雑魚場町の建物疎開作業には、教師十一名、高等女学校約ニ五○名が動員されていました。
高等女学校には、教師三名と生徒四十名、専門学校には、七日から東洋工業配属となる一
年生一四四名と教師十一名がいました。
これら女学院関係者約千ニ百名のうち、最も悲惨だったのは、雑魚場町に動員されていた
十二歳から十三歳の高等女学校一、ニ年生。
爆心地から一キロメートルのここでは、他の学校の生徒も含め、ほとんどの者が亡くなり
なりました。
あなたたち(あなたたち)
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
(あなたたち)
血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
(ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを)
たれがほんとうと思えよう(思えよう)
焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
(あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて)
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか
(なぜこんなめにあわねばならぬのか)
何の為に
(なんのために)
そしてあなたたちは
そしてあなたたちは
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない(知らないあなたたち)
ただ思っている
(あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を)
いま逢ったってたれがあなたとしりえよう
(そして眠り起きごはんをたべた家のことを)
一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない
おもっている(おもっている)
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている(おもっている)
かって娘だった
(にんげんのむすめだった日を)
@ 「何が起こったのだろう。爆弾が自分の家に落ちたのか、いやそうでもない。」そんな
ことを言いながら、白島町の長寿園の土手にはいったのは三十分位もしてからだったと思
います。そこで私が見たものは、ぼろ屑のようになった人、人のかたまりでした。肩のあ
たりからずるりとむけた腕の皮膚が指の先からぶらさがり、裸に近い身体は人間か動物か
――。私はそれが人間だと分かった時、背すじに何かが走り、目をつむってしまいました。
身体中がふるえました。
A 私はちょうど運がよくて、倒れた講堂の一部が、そのまわりにあった石垣に支えられて
できた空間にいたわけで、比較的楽に動くことができたのでした。下の方で、かもいに首
がはさまり助けを求めている人がいたので、助けようと思って持ち上げてみたのですが、
ビクともしませんでした。そのうち、あちらこちらからポッポッポッポッと火が出はじめ、
自分も早く逃げないと危険だという状態になってきました。私たちはどうしようもなくな
り、「ごめんね、ごめんね」と言いながら、必死になって逃げたのです。ともかく自分自
身がどうやって生きのびるかということしか考える余裕はなかったのです。
……今でもそのことが決して忘れられません。原爆の日が来るたびに、あの時の「助けて、
助けて!」と、自分が言った「ごめんね、ごめんね」とが自然に言葉になって出てきます。
全員 あの友もこの友もみんな死んだ みんな死んだ!
B 私の生家は鉄砲町三十六、現在の女学院中学の校門の反対側、女学院前の停留所辺りが
私の家でした。八日朝おじさんとともに家へ行き、あちこち掘り起こしてもらって見つけ
ました。母の金の歯型、それと姉らしき頭の骨一つ夢中で探しました。
大声を出して泣きながら掘りました。「母が死んだ。これが骨……」と、ただただ泣きま
した。精いっぱいに泣きました。悲しいより「なぜ、なぜ、死んだの? どうして家から
逃げられなかったの? バカね、お母さんも姉さんも……。」とめどもなく出てくる涙…
おじさんに手伝ってもらって、バケツ一ぱいのお骨を拾いました。
C まさか、この人達が、父、母、いやそうは思いたくなかった。どこかに避難してきっと
無事でいるに違いない。私一人を残して死ぬなんて、違う、違う! と心で叫んでみたが、
それは一瞬の気休めでしかなかった。四つの死体が芋のようにころがっている。みんな死
んでしまった。ただ一人、私を置いて……。
D 「これが妹の遺髪です。あの髪と、とめていましたピンと、それから上着の一部分を切
って結んでいます。今も妹のお骨はありません。……これだけが残っています。
E 三十年前のぼろくずとしかいいようのない姿の生きた人間。川に浮いているところを棒
で引き寄せられて木材の上に積み重ねられ、焼かれ、死んだ人間……。すり傷だらけだっ
た私も人間なら、あの人たちも人間でした。
F 私の生存は、全く奇跡の連続のおかげであったと申す外はない。講堂から出て廊下を歩
き出していた数名の学生が、手や足を落下木材におさえつけられ、助けを求めているのを
見、ひとりびとり引き出しては、おんぶしたり抱きかかえたりして公園につれ行き、適当
な場所に休ませることをした。こうして、私は八名だけ救い出すことができたが、それが
限度であった。やがて火が燃え移ってきて、校舎下に押さえつけられた、約百二十名の若
き学生を焼死せしめてしまった。翌日、火炎がまだ立っている中に、黒焦げで重なりあっ
ている彼らのむごい死体を、私はとても正視できなかった。
1 日ノ暮レチカク
日ノ暮レチカク
眼ノ細イ ニンゲンノカオ
ズラリト河岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ頭ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ッテユク 陽ノイロ
シズカニ オソロシク
トリツクスベモナク
2 夜
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチャメチャノ顔ノ
ニンゲンノウメキ ニンゲンノ
3 コレガ人間ナノデス
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
・・・・・・・・・・・・
「助ケテ下サイ」
トカ細イ 静カナ言葉
・・・・・・・・・・・・
4 ギラギラノ破片ヤ
ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノ
キメウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パットハ剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
5 真夏ノ夜ノ
河原ノミズガ
真夏ノ夜ノ
河原ノミズガ
血ニ染メラレテ ミチアフレ
声ノカギリヲ
・・・・・・・・・・・・・・
オ母サン オカアサン
全員
アア 戦争ハ
ニンゲンヲ破壊サセル!
(モートン・フェルドマン 作曲―PIANO FOUR HANDS [四手のためのピアノ]をバックに)
G 当日、赤十字病院にいた被爆者の人から聞いた話です。
「女学院の若い女教師が全身大ヤケドを負いながら、生徒を何人も運び込み、泣きむせぶ
生徒達を制していました。学院の礼拝で歌い慣れた讃美歌を合唱させていましたが、歌う
ほどにひとりふたりと次々息絶え、終には合唱がぱったりと絶えてしまったとのこと。
何故かみんな、静かで美しい最期だった……」と。
H 娘は当時、拾い年十四才で広島女学院の一年生でした。八月六日の朝、疎開家屋跡の後
片付けに、学校から同級生と一緒に出かけて行ったまま、帰って来ませんでした。
それでもどこかに収容されていないかと、一縷の望みをかけて、一週間方々を探しました
が、見つかりませんでした。毎年、平和記念館に行きまして、娘の名前を探しますが、未
だに遺骨を胸に抱いてやることができません。
I 家を出て一時間位たった頃、あの恐ろしい原爆が投下されたので、なんぼか行きたくな
かったろうに……休んでは叱られると思ったのでしょう。それが可愛想で可愛想でなりま
せん。死にに行かしたような……と。今でも出て行く姿が瞼に焼きついて離れません。
私は、早速学校の焼跡へ行きました。「四月には、この校門をくぐって入学したのに!」
と思い、いつまでもいつまでも焼跡に坐っていました。
「おかあちゃん、アツイヨウアツイヨウ!」の声が……どんなにか苦しかったことでしょ
う………。
・ 少女らは素直なりしよ長き列 なして行きたる炎天の街
・ 八月の六日の朝は晴れやかに 手を振り通り行きし少女ら
・ ここを過ぎし真夏の朝の幻影か 二度とは見ざるその少女らを
・ 荒莚に巻かれし少女ほったりと 足先見えていたりけるかも
・ 荒筵に巻かれ少女の運ばるる おかっぱ揺れていたりけるかも
・ 助けんとする人に母への伝言を 頼みて死にし友は十五歳
・ 爛れたる咽喉をしぼりて賛美歌を 唱いうたいて死に絶えし人ら
(讃美歌320番)
主よみもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に
ありともなど 悲しむべき 主よみもとに 近づかん
N これは広島女学院、三百五十名の「原爆犠牲者名簿」です。
(教職員・学生生徒の名前のスライドが写し出される)
名前 土屋時子
碑に刻まれた
名前、名前、名前…
それはもはや名前ではない
志半ばで死んでいった人たちの
顔である
声である
涙である
そして悲しい 影である
あなたの父さん、母さんが
はじめてあなたを見て
どれだけの思いをこめて
その名を選び、唇にのせたことか
だからその名前のひとつひとつ
いとおしくてかけがえのない
顔である
声である
命である
永久(とわ)に刻んだ 怒りである
ソロ 死んでいった人たちは
かえらぬ以上
生き残った私たちは
何をすればいい
コーラス 何をすれば
何をすれば
何をすれば
殺された人たちは
かえらぬ以上
生き残った私たちは
どうすればいい
どうすれば
どうすれば
どうすれば
折りづる 栗原貞子
いろどり美しい
折りづるよ
花びらのように
連なり、たばねて
巨大な房となる
原爆の子の像の下に
ひっそりしずもり
かの夏の日を追う折りづるよ
はばたいて告げよ
原爆で焼かれた日本の
子どもたちの願いを
世界の人に
全員 平和をつくり出す人たちは、さいわいである。
(マタイによる福音書 第五章9節)
@ あの日から七十年は草木も生えない――と言われていたヒロシマ。
A 街は、学校は、人々の暮しは、壊滅したかのようでした。
B それでも次の日には、町から電灯がともり、電車が走り、
C まだ熱い瓦礫の中から、奇跡的な復旧が行なわれ、
D 若葉が芽吹き、次の年の春も夏も巡ってきました。
E 広島を流れる川も輝きをとりもどしました。街には緑が茂っています。
F しかし多くの犠牲者たちは、戦争と原爆を忘れることはできませんでした。
G 悲しみは深まりやがてそれは、自ずから平和への祈りへと高まっていくのです。
H 五十八年前の女学院の八月六日を忘れないために、
I 私たちにできることは何だろう?
J 私たちは先輩たちのことを知り、
K その声を自分たちの言葉で語ることによって初めて、
L 今は亡き多くの人たちと共に生きている――ということを、
M 感じることができたような気がします。
N 二十世紀はまさに戦争の世紀でした。
O二十一世紀をむかえても、原爆は、戦争は、まだ終ってはいません。
(子どもたちのスライド)
●オルガン後奏――「祈り GEBET(Hugo Wolf)」