峠三吉被爆日記

(昭和二〇年七月二十九日〜十一月十九日)


七月二十九日 晴

姉 糸崎へゆく。尚ほわが体回復せず、倦怠の甚しきこと、痰の不快なること。

夕方道にて班長の請話あり。

 

七月三十日 晴 

小町の保健所にゆきて診察を受け、赤沈X線写真をとりもらふ、気胸はまだ受けられず。

家屋疎開を思ひ切ってやりある為町中も野の如し、戦後これに並木でも整ふればよき町となるべし。

白道赫日、眼も眩むがごとし、何と半月前の元気を失ひたることよ。

夕方入浴のついでに父や余のシャツなど少しく洗濯したれば又血痰あり。

 

七月三十一日 曇 

今井の姉へ投函。

読書、假睡など、此の処少々わが人生目標を見失ひたるが如し、体力欲し、体力あらば畑でも耕せむものを。

 

八月一日 晴

逸見君より来信、此の人にもこよなく健康をこそ望ままれ。敵我が方をあなどりてほしいままに接岸、本土を艦砲射撃しあり、何処なりと自由に撃て、今は我等唯戦備を蓄へむ。

 

八月二日 夜

隣家の若夫婦来り共にレコードを聴く、静かなる団欒の夜なり。

 

八月三日 晴

保健所に行きしが所長留守にてX線の結果も気胸の結果も出来ず赤沈の結果のみを聞きて帰る。

赤沈の結果は予想以上に悪く一時間四十二なりき、かく増加したるためし無し、少しく本気になりて病勢を押しやらねばなるまい。

 

八月四日 快晴

終日風心地よく吹く、姉は糸崎へゆく。老父が一人で台所をやってくれるので余は楽。

八月五日 晴

ひる頃より油絵を出し南の窓より風景を写生す、自画像描かむとし居たるなれど藍碧の空や地の緑の光をながめゐる急に風景がかきたくなりしなり。

夕方少し咳嗽発作を起し夜発熱す。夜半に至るまで敵機の行動しきりにして、八月五日広島を灰燼にすとの敵宣伝を効果あらしむ如くいかにもわが市に向かうがごとく、遂には宇部を爆撃せり、熱を押して用意を整う。

 

八月六日

今日こそは気胸を果さむとて朝食を早めに済せ家を出でむと二階にて用意を整へありし時(午前八時過頃)急にあたりの気配の異様なるを感じ眼をやれば外の面に白光たちこめ二階より見ゆる。畑や家並みの其処其処より音なく火焔閃めき白煙の斜めに立昇るが瞬間眼に映りぬ。

焼夷弾だと叫び上衣をひっかけたとたん猛然と家振動し窓硝子微塵に飛び天井裂け落ち片々身に降りかかる。爆弾だとかたはらの頼雄を伏せしめその上に布団を掛けやる。その時最早や轟炸の瞬間は過ぎゐしなり。後続の模様無ければとやゝ気を安らかせ、頼雄を気使い昇りきし姉より先壁土にて埋りたる階段を降りて父を呼べば父は壕より出て来ぬ。前額に拳大の腫れあり、その頂上より血流れ居れど大した事もなき模様。

余の額よりも血の濃く一筋流れあるを云はれて知りぬ。階下も踏み越ゆるに困難な程吹き飛びし建具の上に折重なりてピアノ其他の家具打ち倒れ惨憺たる有様。附近の兵士分宿所の前にて応急手当を為しゐると聞きて直ちに父を連れゆき繃帯を巻きもらふ。

その頃まで未だ敵の盲弾が翠町附近に落下したるものと思ひ居りしが、町の方を望むに煙雲とみに烈しく空を蔽ひ次第に大火の様子さえ望見さるるに至りし為都心部も容易ならぬ災害を罹りある事を知る。三々五々、全身ズルズルに剥けたる火傷者の裸体にて逃れ来るあり、タン架にて運ばれ来るあり。

大河方面へ避難する者相つぎて通る。

夕方近く専売局前の臨時宇品警察所へ行きて列に並び罹災証明を受け乾パンの配給を受く。トラックにて運ばれ来る負傷者多し、負傷せざるもの姿少なし。

夜、家消失せる為泊りに来りし住友支店長岩田夫人達の口より電鉄前附近より彼方は火の海にして、町なかは死屍と瀕死の苦悶者とに満つるといふ。嘗て罹災せる各大都市にも見ざる惨状を聞く。

敵は新兵器を使用せり、多分ロケット爆弾ならむなどとの噂つたはりぬ。硝子の破片を極力片付けて応接間に仮眠す。夜迫りてみゆる火焔(部屋の中迄明るむ)や不明確な空襲警報などに度々起さる。

 

八月七日 晴

終日家族各自階下のあと片付に働く。天井などの落つるものを落し壁土と共に細かに飛散せる硝子片は食物の中に迄混入し歯に当る。

木片は取除くに易けれど前者は掃けども掃けども尽きず。家の内なほ靴のまゝ歩くより仕方なし。

 

八月八日 晴

気に掛りゐたる河内さんを朝食前訪ねしが従姉なる人その家にありて彼女は運悪く当日勤労奉仕の為市庁舎の裏手あたりに出勤しありて爆撃の為負傷し、現在被服廠に収容中との事を聞く。

尚ほ三木の兄さんも舟入病院にありて生死不明とのこと、直ちに砂糖水などを作りて河内さんを見舞ふ。

閃光に焼かれたる蓮畑の中を通りて同廠にたどり着けば正門につめかくる不安気の人々他にも多くあり、暫く待たされたる後先ず重傷者の病棟よりと案内さる。炎熱の構内を横切って仮りの病棟となれるコンクリートの大倉庫に案内され、心を定めて収容所たる階上に足を踏み入れたる時の光景は終生忘れ得ず、又忘るべからざりものなりき。

鉄格子の高窓より僅かに入る光に冷え冷えと暗き倉庫内、広いコンクリートの床に毛布をぢかに敷きてその上に向き向きに横たわる半裸の火傷患者のその半ばは既に動かざる死屍と化す。

被服の香と屍のにほひと薬品と入り混りたる異臭あたりに満ち、巨大な柱の陰や片隅の暗みには糞便床に流れ、彼方此方より家族の名を呼び助けを求むる声、水を欲する声、泣き叫ぶ声、起こりては絶え絶えては重なり起り、広い庫内に反響して止まず。僅かに破れた猿又をまとひ汚れし繃帯と塗付せる薬品と砂と泥と火傷の赤剥けとにて顔面全身直視するに耐えぬ汚穢な形相と変じ振り乱したる髪のまゝ裸足を抛り出し横はるは殆んど女ばかりにして又注意してみれば殆んどが女学生なりしものゝ如きも無惨なりき。

河内さんは階段を上りつめた所に横はる。枕に頬をつけたまゝ細き眼を動して余を見上げゐしがやがて細き声にて余が名を呼ぶ。立止りたるまゝその変貌せる面に或ひは?・・との眼を注ぎゐたる余もそれにてそを確認す。

それより十一時頃迄負傷の様子を聞いたり簡単に慰めたり、手を把って部屋隅の便槽に連行したり託されし救護鞄の中味を披露したり、又彼女が眼を閉じある間に附近の水を求むる火傷者達の唇に水を注いで廻ったりする。

一人に注いでやればあちこちより多くの者叫び叫ぶ。火傷に水悪しとて余求むるほどにはやらず、心中ひそかに己の心の冷淡になり得る事に愕く。

(一人の女生徒遠くより水筒を振りてこれに水を入れて来てくれよ、と頼むをみしが余炎天下の遠き水のあり場所迄行く体力をいとひ遂に応ぜず。この事のみは気に掛りし為夕方もう一度行きたる時その少女のもとまで往きみしが既に水を充分得たらしく睡りゐたれば安堵して足を返しぬ)

帰る前に河内さんを比較的重態者の少い隣室に移す。今迄の場所は頭上にも背後にも既に死体となれる患者ありて死臭濃し。新しき毛布の上より今迄掛けてゐた毛布を持ちゆきて掛けやれば死臭ありとていとふ。

食欲進まず、粥でなく硬いめしなら食べられるかもしれぬ、といふ故急ぎ必要なるお丸と共に夕方米を炊いて行ってみる。三さじか四さじたべる。暗くなりてより従妹来る。あとをそれに委せて別れ帰る。暗黒の倉庫の階段を下る時反対側の高き手欄ごしにその少女ローソクの灯を捧げておぼつかなき光を送りくるゝ。

 

八月九日 晴

父上、死体のなほ散乱せる市中をぬけ徒歩にて高須の井上に行く。然して恭三さん叔父さん悦子さんの三人当日来遂に帰らざるを知る。午後河内さんを見舞、夜闇の中を帰る。生命はとりとめる如く思はる。

帰りてソ聯もわが国に宣戦を布告せるを知る。遂に僅かに残れる理想も夢も捨て遠からず我らも死する覚悟をする。

爆撃の惨苦の中に、灯も無き闇の中にソ聯との開戦を聞かねばならぬ我々である。

 

八月十日 晴

余に嫁を持たせて家を持つといふ父の希望も諦めてもらはねばならぬ、それがあらぬか、父、井上のことなどを云ひて涙声出し給ふ、老ひては弱る心の無理もなし。

朝河内さんの家に行き昨日頼まれた衣類其の他をそろえかつぎ帰り、家でとゝのへたるゲンノショーコなどと共に収容所へ持ちゆく、下痢さらに烈しき様子発熱もあり、火傷部総て化膿す。

ゲンノショーコをローソクにて温めて飲ます。

新しく収容され来りし三木正氏を一号館に見舞ふ。胸部より顔面にかけて無惨なる硝子破片創あり。両眼の失明は免れず、意識は確かなりき。

それやこれやで夕方迄帰りそびてゐたれば、父呼びに来て十日に広島の残部を爆撃するを敵が予告したりとの報あれば何でも今夜のうちに家族一同糸崎の病院に避難することゝしたれば早速に帰れといふ、仕方なく共に帰る。

直ちに荷作りをする。老父のみならとも角又いかに頼雄をかゝえあるとも、多少インテリなるべき姉が主となりてかゝるデマに踊ること不満に堪えねば自然のろのろと荷作りをなし既に乗り遅れるべき時間に家を出ず。老父の心情の為に余リユックを負ひ刀を手に同行す。汽車は姉の時間の思ひ違ひにて一時間も乗り遅れ仕方なく引返す。

余次又空襲警報出づ。

 

八月十一日 晴

朝、父、姉、頼雄の三人を糸崎に出発せしめて独り残る。いかに爆撃が怖くとも荷物を放置散乱せしめたまゝ一家をあげて逃亡するなどまことに見苦しき事なり。

爆撃を受くる迄は安易たる楽観に住し、一度爆撃を受くるや今度は兢々として怖れ過ぐるに到るは衆人の常なり。自分も人々も余はその傾向を押へむと努む。

下痢次第に烈し、河内さん達と同じ症状。粘液便続いて出づ。

夜、宇品方面に火焔上り警防団焼夷攻撃を叫びて走る。

高圧線の切れたるか六日に似たる光芒夜空に閃きたる時は余も再び彼の新爆弾かと狼狽し裸足にて壕へ走る。途中傾倒してしたゝか背を打つ。

 

八月十二日 晴

下痢止まず終日粥を炊いては食ひ臥床。

姉、食器をとりに帰り来り共に隣家の壕に泊る。

 

八月十三日 晴

下痢止まず。夕方市全薬局へ薬買ひにゆく。薬店もひっくり変ったまゝ。

一人めしを炊きて食ひ、一人万年床に横たはれるはのんびりとしてなかなか良し。鶏にえさをやる。猫も愛してやる。

 

八月十四日 晴

井上のこと気になる。河内さんの方は多分あれで大丈夫故今度は井上の方へ助けに赴かむと(かゝる場合には生き残りたる者が負傷罹災者の為に命ちをすりへらしても尽くすべきなりと思ふ)弁当を作りて家を出づ。

三人帰らぬとてそのまゝに放置すべきに非ず、せめて誰が収容所にでも収容されあらむか調べみるべきなり、されど叔母上と身重の従妹ではそもまゝならぬべし。往路、保養院(宇品)に寄りて下痢の薬をもたふ。宇品の憲兵隊にて負傷者収容者名簿を調べる。汽車にて広島駅に行き、其処より自動車をつかまへて己斐に赴く、廃墟と化せる市の変貌の甚しさ!二葉山、茶臼連峰、山脈全体茶褐色に焦げたり、非常の場合故彼の事件以来会はざる不文律となりある従妹とも会うべしゆく。

叔母顔面黝く隈取られよろよろと出て来る。慰めれば二人涙ぐむ。

二階に上り休息せば、靖子ちゃん泣く。

帰途己斐駅にてばったり天野君と会ふ、彼軽傷。汽車にて七時過帰宅。

 

八月十五日 晴

戦災荷物の取扱では今日迄なれば疲労に鞭打って父上の布団を荷作りし乳母車にて下大河迄運び広島駅へ持参、発送す。

発送後嘗て三桝君の家のあったあたりを尋ねてみる。焼跡の瓦礫の中にポツッリと一つのトタン小屋あり、其処に彼女寝ねあり、殆んど死せるものと思ひゐしに元気の様子をみて安堵限りなし。

崩壊の下敷となり血まにれにて掘り出されたる由。十一時の汽車にて帰宅。

昼食中父ひょつこり帰り来り、今駅で陛下御自身の御放送に依る休戦の御詔勅聞きたりといふ。事の意外なるに暫し保然たり、唯情け無く口惜しき思ひに堪へず。かくなる上は総ての財を捨て山に籠り命ちをもいづれ捨つる覚悟なりしを。午後天野宅にゆきてニュースを聞く。

八月十六日 晴

井上の為に天野君より借りたる自転車にて市役所、住友銀行其他を廻り負傷者収容者名簿や死体名簿などを調査す。これで市内外全部の収容者名を(当局にて判明せる)閲覧した事となれど(約三千名位か)遂に井上の三人の名無し、さればもはや調査の方法なし。現場にて即死或は焼死せるもの諦めるの他なし。遺骨も何もあらず。

左官町迄廻り帰途新橋、県庁橋を経て三番小路の跡をたづぬ惨澹たり、松村でも誰、田中でも誰、六本でも誰と殆んど死者を出さぬ家は無く模様。田中の跡にはなほ骨あり、又昔しよくかけた電蓄のモーター焼けてころがるをみる。

西応寺跡の墓地に参る。西隣りの酒倉のあとに陶器の酒樽のみ二、三残存す。

県病院、県庁等跡方もなし。更に帰途車を押しゆく田畑青年に会い、高須に於ける十日市の御二人(たけしさん、節子さん)の其後を訊ぬるに死亡せる旨を聞き驚く。

かく一時快方に向へる負傷者らの其後(原子爆弾の特異なる作用により)続々と死にある模様なれば河内さんも如何かと急に案じられ夕方被服廠へ自転車を飛ぶばせしが、嘗て彼女の寝てゐた場所には異なる人寝ねあり、中村の小母さんといふ人より果して河内さんも十三日の早暁死亡せる旨を告げらる。噫! 今日唯心事実を受入るのみ。

又わが心尽しの足らざりしならずや(かゝる場合相手が異性といふこと、又家人へ父や姉の余ひとりを思ふ為の精神的牽制が根限りの看護の誠意の制肘となる事の無念さ!)

余は人一倍冷淡なる人間、どこまでも冷淡になり得る人間、その本性を人に感付かれはせぬかと何時も汲々たる人間、このやうな思念が苦く胸にうごめく。

姉、頼雄と共に帰宅す。

鈴木内閣辞職す。陸軍大臣自刃す。

 

八月十七日 晴

姉、高須へお悔やみに行かむと家を出でしも遂に行き得ずして午後空しく帰る。

終日休養

東久邇宮組閣、大西中将自決。

 

八月十八日 晴

今度は余、高須に行かむ家を出で広島駅より首尾よくトラックに便乗して目的を達す。三戸にて仏壇を拝し、常子さん、たけしさん、節子さんの三つの菓子箱に入った御骨をおがむ。

ついで井上に行き調査の結果を知らせ仏壇へ参りて午後汽車のデッキにぶら下がり辛ふじて帰る。

陸海軍人に勅語発せられる。

 

八月十九日 晴

休養、昨日より糸崎へゆく準備(家人ら帰宅し留守番も要らず又病院の一室余の名にて折角借りある由なれば、連日の無理を休むる為又敵進駐の混乱を避けたき為もありて)。

午後、天野君に卵を生まぬ方の鶏を絞めてもらひ、夜スキ焼をする。父も帰宅す。

 

八月二十日 晴

リュクを負ひ蚊帳を持ちて糸崎の日赤療院に来る。療友からよく噂を聞きし所、風景絶佳、三七号室に入る。

 

八月二十一日 姉来る。昼は海風、夜は山の風。

八月二十二日 咽喉痛、島山の月美しき。

八月二十三日 風邪、血痰少し、元気な患者らの夕涼み。

八月二十四日 発熱、灯火管制の何年振りかの全面解除。天気予報の放送等に泪あり。

八月二十五日 胃酸による咳嗽発作、血痰。

八月二十六日 隣室の大和青年の国学趣味。

八月二十七日 昼食後大咳後血痰や多量(夜止血注射)。

八月二十八日 午前中にて完全止血、当熱八度。

八月二十九日 解熱。読了「白猫」「芭蕉」「俳諧精神の探求」「女の日記」。

八月三十日  一当室、第六号へ轉室。医者口●の安静を奨む。

八月三十一日 支払日、病院へ六拾一円也。ラッセル消退。

          室代(食事含む)

          二等(四円)十日分、一等(五円)二日分  計五〇円

          レントゲン写真八円、注射二本三円     計十一円

          附添(二円)牛乳代など義兄が支払ってくれる。

 

九月一日 曇 雨

気胸を此処に来て初めて行ふ、久し振りなり。五月、鶴見保健所以来のこと。既に効果の程は判明しある故あまり気も進まねど、何にしても残された唯一のあまり期待のもてぬ試み、横隔膜手術のことなども早急には出来ぬ故それまでのつなぎに行って置く。老父や家人の気休めにも。気胸後直ちに血痰少々。

 

九月二日 雨

階下の山口といふ婦人に牧師が来たら会ひたき旨を頼み置く。カトリックの牧師なれど、話を聞くも又よからむ。

急に涼し、夜遅く姉来る。

 

九月二日 雨

東京湾上、米戦艦ミズリー号上に於て我が日本帝国の聯合国に対する降伏條約調印式行はる。

新聞面にて何処々々の皇軍降伏といふ見出し、小さくあれど眼に胸に泌む。嘗て三千年来かゝる文字の組まれ使用されしことありや、絶対に無し、口にする事さへもっての外のことなりし、それが今我らの時代に於て行はれたるとは。

噫!帝国海軍、日本陸軍、といふ言葉もこれよりはあらず。

 

九月三日 雨

独逸人牧師(神父)扉をノックして入り来る(クロムエルバッハ氏)暫く話す。広島の幟町にゐし事ありと、三木の三人兄弟を知りある由、嬉しく又私に胸痛し、痩せた心置きない振舞ひの男なり。

読了「女の一生」「我が愛する生活」「わが闘病」作詩少々。

 

九月四日 曇時々強雨、荒れ模様続く

セファランチンを与へられ服用飲む。極微量(隔日一服)。

原子爆弾の其後の悪影響は存外に軽視を許さぬ模様。余のあの直後の粘液性下痢、或ひは現在の口唇水泡なども疑へば疑へる症状なり。

夜、階下の山口婦人に質疑をたゞし旁々話しにゆく。

姉が美しい人が一人ゐると云ひ居たるは此の人の事ならむ、カトリレズムの形式美に心酔しある口振りなり。

 

九月五日 久し振りに晴れて暑し

早朝日の出を観むと屋上に出づ、雲美し。

「療病求道録」読了。豆をいりて喰ふ、どんな粗末なものでも良し菓子を充分に食ひたき思ひ此の所しきりなり。

階下の渡り廊下にて写生をなす。

 

九月六日 晴

昨日の中国新聞に軍需管理部の行方不明部員の消息を求むる広告ありてその筆頭に旧庶務課員田中忠文の名前あり、今迄行方不明では恐らく絶望なるべし。

心中深く懸念しありたれど彼もやはり彼の日の犠牲者の一人なりしか! 学校時代より最も信愛しありたる彼! 七月十六日の夜彼の妻の心尽しの馳走を共につゝきつゝ四方山話しに愉しき時を過せし鮮やかな最後の思い出よ! いたづら盛りの子供と生まれたばかりの赤ン坊とを妻と交る、あやし叱りながらこよなく仕合せさうなりし面影よ! せめて妻や子なりとも助かってゐて欲しいものなり。

朝食後血痰あり、大和君話しに来る。

 

九月七日 晴

此の所、朝何時も四時半頃より眼が覚める。海の明けて来るのを待ちながら信仰書をひもといたり、詩を作ったりする、六時過に朝食。十一時過昼食。四時過ぎに夕食、八時半消灯なり。

附添を郵便局にやりて八拾円引出し来る。

医者に聞けば横隔膜捻除術を行ひても効果のあがらぬ時は又気胸を為す事も出来るとの由。

「平安の旅」読了。鯛一尾二十一円にて購入、久し振りに兄と舌鼓を打つ。

 

九月八日 晴

気胸百五十M、体重は相変らず40Kそこそこ、今井の兄姉より手紙あり。

山口婦人よりロザリオ(念珠)をらる。粗末なる物なれど黒珠に香の匂ひ染み所持によし。

「公教要理」読了。セファランチン服用し今日はやゝ遅く眠る。

 

九月九日 終日雲色々 日曜日

逸見君より来信あり、久し振りなる如し。

院長休日なれば午後本院全景の写生をせむと下の鉄道線路迄降りてみたれどどうも画材に不適当にて止む。

やゝ濃い痰多し。

「結核の科学療法」読了。

一号室の石堂君より書籍を借る。

 

九月十日 快晴

薬局の平原女史カトリックの話しを話しに来る。修道師の様子などを訊ぬ。

附添留守なればとて兄と二人で火を起したりしてゐると隣り近所の窓から御茶などを持ち来りくる。

読書、作詩、洗濯など、「ドイツ詩抄」読了。

夜屋上にて義兄達と話す。三原方面の灯美し。

 

九月十一日 雨

朝食後から島影霞みやがて南窓の素硝子に斜めの筋を引いて静かな雨が来る。

「公教要論」「風とともに去りぬ」上巻読了。

眼が覚め、鐘が鳴り、体温を計り食事をし、食後の安静。

鐘、読書、稀に人との会話・・・夜はラヂオ。

鐘と食事と読書と詩作の生活だ。

会計掛に五十円支払ふ。

イリ豆を喰ひ牛乳を飲む。

 

九月十二日 晴

昼食後義兄と芋を焼いて食ふ。

井上素子君より橋本夫人六月の爆撃に依り重傷を受け九日夕可部の奥の小村の寺にて死亡せる旨の通知あり、余を愛しくれし同夫人の死は又父に哀れなり、夜返信を認む。

 

九月十三日 曇小雨

独人牧師来室一時間あまり四方山の話をする。先隣りの室の中年婦人も共に聞く。

小使に頭髪を刈りてもらふ、相当の刺腕なり。

気胸二百M(陰圧なりと)四・五日のうちに退院したとき旨を話し置く。

「小泉八雲読本」読了、参考となる頁を多く写し置く。

 

九月十四日 曇

昨夜一号室の石堂青年より頼まれたる同君の亡父の肖像画を鉛筆にて描く、同君と短歌や基督教の話など。

赤沈を計りもらふ、一時間21、二時間61、平均25・5。義兄も計りもらいしが一時間五十はかりなりし由、気をゆるすべからざる状態と思はる。

夜、一人屋上のベンチに臥て空を仰ぐ、院内のラヂオ涼やかに音楽を奏であり。過ぎ去りつゝある自分の一生がかすかな焦燥と不安と希望と期待とをもってかなしく思はる。雲の裂け目に時々星現れて消ゆ。

暗黒の列車の通過。ひそやかな波の音。

消灯の鐘の後パスカルク瞑想録を読み続く(上巻読了)。

 

九月十五日 晴 夜時雨 

昼前、姉上多くの御馳走を持って来院。昼食には巻ズシなど充分に頂く。

原子爆弾の影響を心配しゐたるも老父、頼雄も先づ無事なる模様にて安堵せり。無花果を多く食す。

大和君の三十六号室へ別れに行きしが、絵を一枚頼まれ午後屋上にて風景画(海峡晴日)を描く。

昼過出発せる姉、汽車に乗れず引返し来りし為夕食後共に屋上に登りなどす。

雨降り出でたれば降りて少時石堂君の部屋にて話し帰室す。夜、読書。

院内の文学愛読者友元氏に少し話し掛け、トルストイが好きなること、文学は思想性無がるべからざること。出来るだけ読みぬくこと(書く為には)等を聞く。

九月十六日 晴後雨

午前三時半頃、姉出発。闇の木陰を懐中電灯で照らしながら坂を降りてゆく。

余の退院の時手伝ひ旁々来たく思ってゐた老父を断ったことなどを仕方なくも気の毒に思

ふ。

夜半の院内をしのび歩いてみたり葬儀堂へ行ってみたりする。

大和君来室、絵を贈る。婦長さんとの話合ひにて轉出証明の都合上、明日退院の予定を明後日とす。

現代日本文学全集、日本詩集を急ぎ閲読す。

夜に入りて雨戸激し。

ラヂオニュース中にて比島に於ける日本将兵の人民又婦女子らへの聞くに耐へぬ惨虐暴行行為をこく明に放送する。胸間苦悶、ラヂオを叩き毀したく覚ゆ(事を疑ふこういふニュース皆がだまってきいてゐる・・・)我にも或ひはそのやうな行為ありしならむ。然し敵方にも必ずや無しとは云へぜるべし、これ如何とも防ぐあたはざる戦争の通例なり、単なる勝者の得手勝手なり。

しか思へども、心底更に声ありていふ、敵もしたからとて我方の行為が悪くないいふ事が出来るか・・・

戦争、戦争だとて兵士の一人一人に至る迄高度の文化と高貴然して曇り無く高き指導精神が滲み込んでゐたならかゝる事は起さずに済ませられぬはせぬか・・・

即ちひいては八紘一宇の耽なる理念の一皮下に暗黙のうちにひそむ在来の低俗な帝国主義、民族的利己心の存在を証明し或ひは日本民族の実は未だ野バン妄マイの境を脱せぬことの証明ともなるに非ずや・・・

又思ふかゝる放送が子供達の柔い耳に入った場合如何にその魂を無惨に傷付けるかを。

かゝる放送をなさしめる彼らのやり口のいかに底深く陰険なるかを。

 

九月十七日 暴風雨  

詩集「美しき朝」読了。竹間てるよ氏の話なかなか好もし。

山口婦人に借用中のカトリック書を返しにゆき暫く話す。宗教画のモデルにしたい様な端辣な美しい顔である。

診察室にゆき義兄と余とのX線写真を見せてもらふ。

其他手紙書きなど。

明日も帰れぬらしい荒れ方なり。

 

九月十八日 曇

一夜の風雨の凄じさよ。洋館の此の一棟も時々振動し、眠りを醒さるゝ事二、三度ありき。

朝食後小使に荷作りを頼みて弁当持参。

退院の手続き挨拶を済して糸崎駅へ行きしが、昨夜の風雨にて鉄道方々不通、開通の見込立たず、午後迄待ちて帰る。

附添の老婆迎へに来あり、線路の埋没せる処あり、帰途療院下の売店にて双葉の種子など分けもらふ。午後より晴れて気持良き天気となりぬ。

疲労を覚え、病院に帰りてホッとする。

 

九月十九日 晴

鉄道は当分開通の見込なし。船便を訊ぬに附添を尾道迄やる。

夜、石堂君別離の宴を張りて呉る。即ち二人で彼のベットの上に座りこみフライパンにて砂糖あげしたる芋を鱈腹食べた上、彼の父君の北京土産たるピーターパン(コゝア)を飲む。充分なる甘味、五体に沁み透るが如し、彼の青春懺悔と共に此の夜の美味を忘れず。男子至る処好友あり。(何ぞ女子にして好人の乏しき)

 

九月二十日 晴

今日より船便あるらしき模様なりければ午前四時過、療院をあとにし糸崎駅に向う。十時頃やっと切符入手(この間荷物を背に再度ばかり糸崎の桟橋前迄舟を求めて走る)。

尾道着、鉄道桟橋より商船桟橋迄捜せども宇品への船便無し。

広島へは、一度今治に渡るより方法なしとて療院に引返ざりしとせしが、丁度阿賀迄ならゆくといふポッポ舟あり、駅の掲示によると呉線の不通個所は三原――広島にして、阿賀よりは鉄路帰広出来る様子なりければ、五十人二十円宛出してそれに乗船。月明の海上を誠に愉快に航進、9時頃阿賀に着きしが、着き見れば汽車無し●●、

仕方なく漁家に一泊す。僅かに布団をかづきてまどろむ。

 

九月二十一日 晴

広島に向う者四名、とり残されしま舟を求めてさ迷へども舟なく、米はなく腹は減るのみ、加うるに昨夜ひきたる風邪にて体の苦しきこと甚し。

苦慮の末、一隻の漁舟三百円ならば宇品迄行くといふ。余、金なく他の者喜び乗り込む。余、金なし、舟出でむとす。

余、金なし、音戸迄淡い望みをかけて三里の道を歩がむかなど思ふ。体苦しく、米の用意なし、舟出かゝる。遂に余も乗りこむ。

(一人増えて五人)六拾円を投ずるも生命には替えられず、朝凪の海を舟は進み十時過頃宇品着。

郵便局にて貯金を引出し、立替くれし兵隊に返金す。

帰宅して思ふ、惜しむべからざる場合は金を惜しむ勿れど。

 

九月二十二日 雨々々

壁崩れ、畳腐れ、不愉快なる事夥し、家の中を下駄で歩く。

寝てゐれば布団も濡る。

青木の小母さん、康ちゃん、明日より来て泊まる。

二人共、又勇君も原子爆弾に死なざりしは幸いなり。

 

九月二十三日 風邪症状去らず、家の中の清掃など。

九月二十四日 ラヂオを修繕せむとすれど遂に直らず。

九月二十五日 勇さんの御蔭にてこの頃毎晩炭など入手す。

九月二十六日 青木の小母さん、康ちゃん去る。二階の掃除。

九月二十七日 二階の六畳の方をやっと畳をしいて寝られるやうになる。

九月二十八日 晴れ

台所の掃除、頼雄の洗腸の手伝いなど。

 

九月二十九日

九月三十日 曇 小雨

義兄糸崎へ帰る。家の拭掃除、これにて家内の下駄履きは止められる。

父と姉が、余が齢のわりに落着いてゐると褒める。余は常に齢相応の精神的生育不足を危惧しゐるなれば仲々嬉し。

 

十月一日 曇

天野君の家に行き庭で話す。

彼、宇品に花店を開く計画を語りて余に手伝ひを求めたれば承知す。満洲の兄よりの仕送りも絶え生活の手段を考究せざるを得ずなりし昨今なれば恢復期の仕事として小遣ひかせぎでも出来れば好都合と思はる。

午後咳嗽発作、悪寒発熱あり。

父と共に裏の倒壊を枝塀を少し修理す。

夜、老父と四方山の話し、自分の持たる金で、父に一度思い切り御馳走を食べさせし。原子爆弾で失ひたるかけがへなき友人、田中忠之、橋本夫人、河内さん。煙草の配給二十六円。

 

十月二日 曇小雨 風

気胸三百五十M(●●)八時半頃より汽車にて二十日市の保健所に向ふ。広島駅で待ちし為十一半頃弁当を食したる後歯医者にて奥歯の脱落せるセメントを入れ、●へ気胸消せたるは三時半頃となる。

市電の不通個所多く、天満川の渡舟などで時間をとり帰室したれば既に六時なりき。

闇物資に関する情報を集めるに積極的体力と金の問題に帰するが如し、現在苦しくとも最早終戦せるなれば前途は僅か宛なりとも光明あり。

夜に入りて風烈しくつのる。窓破れありて眠り難し。

疲労甚しく感ず。

 

十月三日 曇

午前中休養。天野君玄関迄来訪。

午後、頼雄座敷よりより四畳半へ移るといふので四畳半の部屋を父、姉総掛りで片付ける。

再び停電にて夜は暗黒に。

 

十月四日 曇 暗澹たる天候の続くこと。

天野君、中野君を連れて来訪、応接室にて少時話す。真面目さうな青年なり。花店の計画、店舗難の由。此の三人にて開かむとする花屋の商売果たして成功するや否や、余には全く不明。

姉も発熱、頼雄の尿を試験してみたるにタンパクある如し。

 

十月五日 曇、やゝ晴間あり久し振りに陽光をみる。

昨日と今日で五反田の親爺が屋根を修繕してくれやうやく漏らずなりぬ。昨夜も発熱を感じたれば今日こそ安静を攝らむとせしも、とみに加はる空気の為北側の窓塞ぎや三度の炊事などの為終日働いてしまふ。

老父も連日健闘、二人にて一杯飲み肉を食ふ。夜、静かな星月夜。

 

十月六日 好晴、久し振りの青天、新涼の気満つ。

家の修繕作業を後回しにして午前中先頃より気に懸りゐたる三枡君を見舞ふ。焼跡のトタン小屋の中に蚊帳をつりて寝ねあり、相当の重態、自分でも今後はもつまいといふ。讃美歌など歌ひ極力慰める。何か喰べたきものはないかと訊ねれば「柿」といふ。何かして欲しいことは?と問へば「音楽が聞きたい故ギターを持って来て奏いてくれ」といふ。

午後老父を相手に物置の屋根を片側だけ修理す。

 

十月七日 曇後雨

父と共に物置の屋根及び二階の窓を修理し、二階座敷にやっと畳を敷く。

此の頃連日の労働量相当に達し終日殆んど横になること無けれど怪衒なる盗汗、喀痰のやゝ増加、時折の血痰位のことにて案外好調に続きあるは、我ながら頼もしく感ず。

夜食後例の如く父二階の余が部屋に来り寝る迄の時間を四方山の話につぶす。

我が方の敵捕虜虐待事件相ついで暴露され、苦々しき限りなり、●●●なる軍人特に軍事下士官など困りものなり。

教育々々、これからの日本に最も肝要なるは高き人格を育成する教育なり。

読書「ソヴィエト読本」

治安維持法の撤廃、政治犯の釈放等々連日の新聞は嘗ての日本に夢想も出来ざりし新事態を報道す。政治といふもの、時代といふもの、今年の後半程これらについて眼を開かせられたることなし。

但し注意すべきは米の我らに対する「教育」に虚勢せしめられざることなり。

 

十月八日 雨

六時起床、かまどを炊きつける。

此の頃寝覚が大分気持良い、健康感を覚える。

二階の拭掃除をして大体二階の修理作業を完成す。夕方近く天野君の宅を訪れ、一時間ばかり花店の商売に付いてなど話す。

此の頃思ふこと、終戦となって良かったといふこと。戦いを続けてゐたら唯死あるのみであったが、いくら苦しくとも戦いが終わったゆえからは前途に光明を待ち得るといふこと。

(余に於ても終戦直後よりてこれだけの気持の変化が生じてゐる)

 

十月九日 雨

火曜日なれば気胸に二十日市迄赴かむと弁当持参にて家を出でしも電車停電にて動かぬ為止むなく帰る。途中猫(ミーチャン)を捨てゝ来る。永年飼はれし鼠取り上手のいゝ三毛猫なれど鼠を喰ひかけにて所嫌はずころがし家間を不潔にせしめ又先夜は布団の上にて流産せる故遂に服や頼雄も閉口せる故なり。

午前中休養、午後少し片付けものなどを為す。

今夜も停電にて灯りつかず。

新聞の片隅に閣僚の意識的サボタージュ云々の記事ありしも現今の世状は全く閣僚のみならずあらゆる部面に於てサボタージュの行はれあるやを疑はしむる。民衆こそよきつらの皮なり。

 

十月十日 雨

枕を作る。煙草と砂糖の交換。

咳嗽発作、発熱。夜暴風雨。

捨猫帰り来る。

 

十月十一日 風 晴 嵐去り空気がはる。

百舌しきりに啼く、あたり畑も道も水の氾濫。

朝のうち虚脱感、午後より回復。

深みゆく秋風裡、高天の碧蒼に思念を浸して漸く焦燥に似る思ひあり。

 

十月十二日 金曜日 曇時々晴

姉発熱臥床の為、今日のみは安静、読書でもせむと思ひ居りしに、終日炊事や大工仕事に費して過労してしまふ。

夕食の後片付を済し、困憊の体を二階に運びて横になれば一日を何の為に費してゐるのか分らなぬやうな思ひに堪へがたし、時間を空費し生命を浪費してゐるやうな気がする。

嘗て姉のかうした気持を余は批難した事がある。余は今こそその立場に立って考へる(男女の相違を除外して)

要するに自分に何か出来るやうな思い上って考えへが捨て切れぬうちはこの悩みよりは逃れられぬ。

砂糖をこっそり使って老父の為に豆菓子を作ってやり老顔をほころばしめた。

頼雄にも半熟卵でも作った食事をせしめてやる。

掃除をし、煮物をし、鍋釜を洗ふ。

かうした一日が何故に空費であらうか、かうした一日の底にこそ人事の生涯の一齣として取り上げていゝ深い光があることを何故余は体認せぬにであらうか?

凡ゆる理想、凡ゆる憧憬、あらゆる信仰の先に先づ「生」の事実を認識し信じねばならぬ。

此処に何よりも(勿論区々たる藝文よりも)巨大な第一義が存する。

 

十月十三日 土曜 晴

腹痛下痢。古い大豆に当りたるらし。東の窓修理。玄関前の片付けなど。

 

十月十四日 日曜日 好晴 非常なる秋晴れ

戸外に誘はる、運動会や祭りなど偲ばる。午前中二時間多くの洗濯をなす。

天野君寸来。昨日、今日、米兵三々五々と門前の道を通る。英語会話の必要を感ず。

夜遅く天野君門前より呼ぶ、寝巻のまゝ出てみれば、外は良き月夜、彼、段原に花店を開く事にせる旨を告げ、旁、昼間頼み置きたる松茸の風呂敷包みを門扉越しに渡して呉れる。

すばるの星座も東天に美し。

 

十月十五日 晴

昨日の相談の如し父早く起きて風呂を焚き給ふ。余その為に朝食の仕度をなす。然して食事後、父は銀行へ三戸家の金を出すつかひに。余は脱衣場に小山を為し、いつかな減りたる事なき洗濯物の洗濯にかかる。

風呂の下を焚きついでは洗濯をしてゐるうちにいつか昼近くなり続いて御飯炊き御茶ごしらえなどする。

父帰り来り、此の頃の習ひごとし、姉と頼雄を寝室にて。余らは茶の間にて昼食を済し片付けをなし、父と共に風呂に入りて背中を洗しあひてやっと休養すれば既に三時近く。此の頃ぶっ続けの体動なり、体への懸念多し。

夕食後天野君との相談になる広告看板を書く。明日より開店予定の「みどり洋花店」の前途よ多幸なれ。

十月十六日 晴 

気胸に行かむと天野君と共に出掛けしも電車不通の為余のみ中止。杉生栃畔にて弁当を食べて帰る。帰りも結局歩かざるを得ず疲れる。

一寸店の件にて寄る。

夜、中野君、今日仕入た花の処置に付て困り来訪。共に天野宅に行く、丁度彼帰り居り、ともかく明日専売局前の路上にて開店する事とする。

月夜、花瓶とダリアの花束をもらっひ帰る。

明日、うまく売れるかどうか?、明日は露店花屋のおやぢとなるわけ。

今日の疲労と咳嗽により夜半発熱あり、眠れぬまゝに新聞など読む。憲法の改正、●●法の改正、特高警察等四千名の一斉休職、共産主義者らの放免、財閥の解体、等々、どの一つを取り上げても眼を疑ふやうな事実の連続也。あゝ果たして今夜は明けつゝあるのか、嘗て夜闇である事を知らなかった我らなのか。然してひらけゆく明るみは眞実永遠にして望むべく歓ぶべきものであるか?

 

十月十七日 晴

花の店「みどり」、一名、みどり洋花店の開店日。早朝起床。英語の紙看板を一枚黒書し朝食を済ませて天野君の家に行き車に花瓶のポンポンダリアを満載して専売局前停留所のあたりの急造小屋に至り店を開く。途次数人の買手あり、上客は青年、少女にして最も下客は佛さん花を呉れといふ婆さんなり。

昼食に交代で帰り四時半閉店。花の三分の一は残りたれど、売上高五十円三十五銭。仕入高の四十二円は越えたれば安心す。花の好きなりし娘の霊前に供へたしなど云ひて来る母親

もあり。

夕方、西村博雄兄の父君に会す。慶子さん、実雄君、原子爆弾にて死せる由、実に気の毒なり、又、田頭牧師も死し給へる模様なりと、残念に堪へず。

帰宅は六時、父上、姉、頼雄迄待ち兼ねて花屋の成績を聞く。然して飯を沢山供しねぎらひくるゝ。わがさゝやかに金をもうける仕事の為にかく一家の心よりの援助を受くるは幸ひなり。

明日の朝は自分が早く飯を炊いてやる故、早く寝て疲れを休めよと父上の云ひられ給ふ。

朧ろなる八日月、ポンポンダリアのやゝ褪せしをれたる姿、眼閉づれば瞼にちらつきさすがに疲れを覚ゆ。

 

十月十八日 雨

朝、天野宅に行き今日の花を送り出したる後余のみは休む。今日の花は昨日のより美し、雨なれば客足如何ならむと思ふ。

竹の救急具を父に切りもらひて花筒を若干作る。

姉がヴヰオリンを教へてくれといふので音階を教へる。

頼雄、絵を教へてくれといふので昨日のダリアの花瓶を写生してみせる。

老父と粉を挽きて菓子を作り三時に食す。

ポスター一枚描く。

かくて一日の休養、虚脱疲労感やゝ回復す。

昨今、東條軍閥なる語新聞に使はれ嘗て日本に軍閥など存在するいはれなしと敵の実体を突殺せる我らも何時の間にか此れに慣れむとす。

日本内地の全軍人七百万の復員は遂に完了せる由、かくて日本には最早陸軍も海軍も消滅せる事となりぬ。僅か二ヶ月と少しの以前に誰が此の事を予想したらむ。

 

十月十九日 曇

朝雨少し降り居れどやがて止む。

店を使ふ事を断られ今日は専売局前のガソリンステーションの横に屋台店を出す。白いポンポンダリヤ多く残る。売上八十円あまりにて天野君も余もへとへとに疲れ三時前に店を畳んで車をひいて帰る。昨日は米軍人来り、日語にて花瓶一個を求め買ひゆきたる由。

夕方まで天野宅にて横になって話す。母君とも同家の家庭間のことなど種々話す。

夜、月明るくすでにやゝ寒き色に照り風動づ。机に向ひ童話の腹案につめし置き早く寝る。

 

十月二十日 雨

四時半頃より眼覚め眠れず。疲れに依る盗汗あり、床中にて作詩一つ。

父上五時頃より、余の為に朝の炊事にとり掛りくれ給ふ。また昼前には店に弁当を持参しくれる。

今日は露店にテントの屋根をつけた本格的のもの。売上高はじめて百円を越す。五円、三円、二円の花束など。

おかみさん連中より、おぢさんおぢさんと呼ばれてくすぐったし、鼻下のヒゲがものをいふならむ。三時閉店す。

 

十月二十一日 曇  

早暁看板を描く。

八時頃、例の如く天野君とは車を曳き、余は花を抱いて専売局前停留所のガソリンスタンドの横に開店。

昨日の残品と昨夜の少しの仕入(二十五円)とを二時間頃迄にて殆んど全部売る。売上百数円、少しく暴利に似たれども、そのうち世間落着き競争者出で店でも●へればかうはゆかずなるもの。先づよからむ商売を行へばどうも人物が悪くなる如きあり用心を要す。

閉店後A、N二人は緑井へ出発。故に明日は休店とす。

緑井の進物用の肉及び蓮根を少し宛分けてもらふ。

夕方自転車にて蓮根の買出しに出掛けしも入手出来ざりし為、被服廠寄宿舎跡に寄りて薪用材を拾ひ自転車を裸足にて押し帰る。

疲れ過ぎるならむか生活に興奮してゐるのか、此の数日よく眠れず、体はその割に続く。

 

十月二十二日 晴後曇

花屋休店。

午前、、朝食後進駐軍より出で闇屋より買入たるコーヒーを入れて皆でのむ。美味なるてと

甚し。

それより老父は乳母車を曳き、余は自転車にて被服廠にゆき薪や枝切れを取り帰る。

午後先頃より気に掛りゐし三枡さんを見舞に赴し、約束のギターと時計を持参す。既にその面変りゐてばさばさの髪、力なき眼、褪せてつむがぬ唇など、明らかに此処数日の生命と思はる様子なり。

前に行った日より一週間目の十二、三日、秋晴れの続いた頃、いかに今日か今日かと余を待ちたることかと細々といふに、胸沁みる慚愧あり、河内さんの時も、この人の時も余は何時も関心に盡さむとして盡しおぼせざる不誠意の悔恨を刻み永く自虐の苦汁を飲まねばならなくなってしまふ。

彼女らは勿論歓び泪をもて感謝した、然し余はどうしても余自身に満足出来ぬ。あゝその死の後から思ひ出して我ながら全力をつくしてよくしてやったと肯定出来、青空を仰いで翳なき思いに浸り得る程のことを行ってみたい。

神の名の為ならばわが肉体を賭してもかまはぬ。

ギターを弾き讃美歌など唄ひやる。トタン小屋の表で近所のかみさんや子供らが騒々しくさはぐのを病人はしきりに気にする。母も来りて何度も生前の礼をいふ。

いづれ天国で再開出来る旨を語りあふ、語りながらかゝる重大な秘蹟的思念をたやすく口に云ひ得るやうになった自分の信仰と又一脈残る不謹慎を呆んやり思ふ。

花束を枕頭に飾ってやる。今日は余が来る為の恵みによってか比較的気分がよく幸ひに話しが出来たなどゝもいふ。

自分の顔が変ってゐるだらうと何度も上眼使ひにきく。

入口からすぐ続く焼土の風景、沈む灰雲‥‥壁一重向ふで風呂に入るとさはぐ女子供たち。

土産に蓮根と玉ネギをもらって明日を約し帰る。迫る宵闇さすがに蔽うで切れぬ連日の疲労、同じ療友ながら治り働く余、死にゆく彼ら。これらの差異のきびしさ深さ――。

 

十月二十三日 曇 火曜日

気胸日なので止むを得ず店を天野君に委せて「あじな」迄ゆく、(四百M)

途中五日市で降り杉村を訪ねてみしも会えず。

気胸を済し夕方近くやっと三桝君の家迄帰着し、頼まれゐた電灯を臥床小屋にともるやうにしてやる。其他、アメ、柿、水呑、呼鈴などを置いて来る。

又来てくれ、又来てくれと頼まる。

神よ、彼女に平安を与え給え!

夜、明日の花の準備に天野宅にゆく。

 

十月二十四日 晴

姉、糸崎へゆく。石堂君へ「光ある中に――」を託す。

店、今日の花は仕入れが百十七円もかゝってゐる程高値で沢山な為、原価まで仲々出かず苦心す。商売はむつかしいもの、高く売るのみが能にあらず。

体疲れねむたし。

 

十月二十五日 晴 急に冷涼を加ふ。

店を出す。夏に被服廠で親しくなった第一生命の中村さんに遭う。花を六円買ってくれたので昼食をたべに帰る時届けて置く。

店を三時頃しまひ着たく。庭木を少し切りて休養。

夕食後、姉糸崎より帰着。義兄は異状なき由。

意思同君絶安中の由。

何と無く心気衰へむしろ死を憧るゝの情あり。

 

十二月十六日 好晴

店に豪華な大輪の菊花を並べて菊の香りに浸る。来客少なければ今日はもう売らむと焦る気持を検て、静かに秋色深き空を眺め、童話の腹案を練ったりする。

昼食後寸暇を盗んで自転車にて三枡さんを見舞ふ。

老婆の如き朧貌、雀の足のごときてのひら。出来るだけ死ぬ迄に何度も来てくれ頼まる。夜毎呼吸困難に耐へた死を待つその様を見れば本人のいふごとくむしろ早く召し給はむことを望みたくなる。ギターを少し弾いてやり薬と飴を置いて来る。

店、近所の半壊家屋を暫く使用させてもらふ話着く。昨日よりは花を運んだり露店を出したり畳んだりする苦労がはぶけるかと思へば嬉しい。

夕雲を仰ぎながらひとりで露店を街頭で畳んだりする時など、しみじみと独り世に戦ふやうな気持ちを覚える。

中村さんが余のさうした様を眺めて生きるものも辛いと呟いてゐた眼の色思い出す。

咳嗽多く咽喉よりらしき出血あり。

 

十月二十七日 快晴 

起床時より咽喉ひどく多量の痰あり調子悪しき為に店を休み安静につとむ。

天野君心配して来てくれやはり販売方面を常に任せ得る女の子でも雇はむといひ出す。経費がかさむなれど余も肉体的に到底現在の状態では続け得ぬ故止む無くさう頼む事とする。そのかはり報酬の方は心中に諦も覚悟をする。

健康を毀しては何にもならぬなり。

夕方入浴気持良し。

夜、中野君来訪。先日頼み置きし小麦が一升手に入りたりと持参しくる、一升と煙草三箱と交換の條件なり。大喜びにて煙草を全部(三十箱)投げ出し一升をもらふ。金ならば百九十円のものなり、父も姉も喜ぶ。

 

十月二十八日 快晴

昨日休んだ埋合せんと今日は弁当持参にて店に出る。大輪の紅菊を十三本売る。販売の合間に暗く汚い店の掃除など、やはり露店の場合より位置悪く客足少し。

夕方、天野君昨日より鰯を買ひ来る。久し振りなので美味なり。

 

十月二十九日 快晴

朝花を抱いて店に行く時、菊の香にむせつゝ眺める北部山脈が冴えた風の中でいちじるしく澄んだ秋の貌を示してゐる。

今日は秋の祭りの日、戦ひが終ったので焦土の巷にも何とない祭礼気分が満ちて、美しい着物姿の女の子も散見される。

店は菊一色と密柑の販売。

午後より天野君に任せて、三枡さんを見舞ふ。

もう言葉を発するのも苦しき模様。黙って枕頭に座り顔に止る蝿などを追ってやったり唇を浸してやったりする。時折讃美歌を唄ひやれば、痩せ細った面輪の目尻に流るゝ涙の露あり、今日が最後の別れのつもりらしく帰る時刻となれば蝋のやうな手を出して握手を求め生前の感謝を繰り返し述ぶ。既に死を既定の現実として既往の事どもを別れの言葉の如く耳もとに囁けば不覚にも我が眼にも浮か来る涙なしとせず。

帰途山上女史の家に寄りて信仰書を借り来る。

久し振りに、和田、逸見、平野の三氏より手紙来る。

 

十月三十日 雨

逸見さん、平野さんに書信投函。

弁当持ちて店へ行き終日頑張りも今日は売上金最低のレコードを作る。花を売りつゝ押入れの奥より前住者傘修繕業氏の置土産を引っぱり出してどうか使用に耐へるやつを製造する。

菊に多くの虫あり、そのせいか此の頃股間に蚤様の痒腫あり、拡大の傾向を示す。

連日疲労あれど体の調子も未経験無き程良き此の頃なり、かく運動量の増加を得たる事未だ発病以来嘗て無し。十年をかけて此処迄回復し来りしなり。老父をはじめ多くの人々の慈愛の賜物なり。

今日は平野氏の姉より手紙あり。酒井といふ人、余の理想を地で行って小学校教員となりし由。まことに日本人の人格の育成こそ最も根元的にして又最終的の大事なり。その為には果敢な公民教育社会教育と共に、名もしれぬ野花の様な青年の骨が子供達の為に多く埋められねばならぬ。

 

十月三十一日 晴 夕雨あり

晴れた空に雨雲拡がり、菊の花の並ふ売台越しに並木の舗道がむ濡れてゆくのを爽やかに眺める。売上好成績、天野君と愉快に売る。

三村牧師より返信あり。田頭先生御一家の様子初めて判明す。それによると先生は行方不明にて絶望、奥さんは遺骨発見、潔君のみ生存されし由。まことに愁傷に堪えす。

田頭先生を失ひしは余にとっても実に取り返しのつかぬ痛恨事なり、かけがへの無き先生を失ひたり。

あの温容慈顔今や亡し、あの教養あの人格に接するの日地上にては永遠にあらず、又彼の夫人の●の如き愛にも――

原子爆弾に対する呪ひを一入深しす。

●●氏より久々に葉書あり、皆余の爆撃より逃れての生存を喜びくれあり。

三枡さんへの薬を買ひ天野君へ託す。

店よりの帰途父に会ふ。訊ぬれば、姉に蓮根を洗ってくれと執拗に頼まれるが面白くなくて散歩に出で来し由。困りたる事と思ふ。今日は姉風邪にて自分で出来ぬ故もあらむも、日常老父に台所仕事を頼むのは正しき事とは思へず、姉自身はそれを大して奇異に感ぜざる様にみゆるはむしろ不可思議千番なり。

老父はそれらの不満がつのる度びに姉は我々が家にゐるとそれだけ忙しく時間がつぶされる故出てもらひたく思ひあるなりと信じとむらし。余は姉が我々と別居する方を特に希望しあるとは思はざるも、大体に於てかゝる事に遭ふたびに早く居候生活を止めねばと考ふ。働く老父の姿を哀れにも思ふ。朝のめし焚き、鶏の世話、庭仕事、薪取り、家の修理、外出用事、等々の仕事に寧し日なき此の頃の父上なり。此の家の為にもどれ位盡しあるかとも思ふ。

早く世様よ落ち着け、食料事情よ緩和せよ、さすれば例ひ嫁をもらはずとも、東京なり大阪なりに出て何処かに勤めて老父と二人アパートにっ住ひでもせむに‥‥。

わが体力よ伸びよ!金よもうかれ!父上よ永生きし給え!

夜、問題の蓮根を半分洗ふ。姉熱八度あり。

 

十一月一日 快晴 

此の手紙着き次第御出越されたしとの、和田静史よりの手紙に接したれば、今日店を休みて中野に行く事とし早暁老父に朝食の準備をして貰ひ弁当の用意をなし、リュックを肩に家を出づ。東山漸く縹色の空に影をつらねそめて風澄み朝露蓮内の上に沈めり、会はむとして会ひ得ざりし十年の明日を経て遂に今日、彼の病床を訪ひ会談し得ると思へば昨夜より眠り難き程の思ひあれば足も自づから勇む。

七時、広島駅に着きしも汽車は九時しかあらず、時間の空隙を利して三枡さんのバラックをおとなひみしが、彼女はとうとう今未明三時頃息を引取りし処なりき、昨夕天野君に持たせやりし花を胸の上に抱むき顔には白布をのせ枕頭か片付けられ朱盆に線香の灰崩れたり、暫らく枕頭に座し、心中に祈りす。つき切りて一泊せし山上女史と共に天国の章の讃美歌を一つ静かに合唱しやれば歌声次第に耐え難くふるえて、夫人の涙その膝に大粒の光を落とす。

母君の涙しつゝ語り給う彼女生前の事就中云ひあひして家を出で自殺の疑念ありし事や死の数日前の念佛を思はず奨め給ひし母君への瀕死の病者とは思へぬ思いやりある然も確固と落着いた信仰の辨のことじもにはもらひ泣きをす。白布を除きその面を凝視すれば眼落ち窪み一層の激変を示す白蝋の如きKの面正に文字通りのなきがらなり。汽車の時刻も迫れば哀傷の胸を風の中に辞す。

(逸見姉の手紙の如く彼女余を慕ひありしや? 余を兄と思うへり、その外他念無し、といひ続けし二十歳の少女の心、そはかなしくも慕ふといひて可なるものと同質のものを諦めと謙抑の意思の殻に秘めありしものならずや?

然して余は理念に基づく誠意と普遍的感情をもって盡し来りしならずや? さなりさなりといふべきならむ、又彼女も余も隔恋なくそれでよかりしあますなしと肯定するなり、)

 

中野駅下車、帰途の切符を行列して買ひ置くや水害に野菊咲く道を三十分急ぎて和田家をとふ、額の汗を拭ひもあへず広場を横切りて土間に立ち声を掛れば昼前の農家の関しん困たり、敷居をのぞけかば布団の裾みゆ、直ちに和田君に非ずや、峠来たりと声を於てば「おう」と答ふる。思ひに充ちた声あり、小走りに縁先へ廻り障子の裡へ靴を捨てゝ入れば、彼なり彼なり、色褪せし布団に仰臥し手ずさの毛糸編棒をすて手鏡をとりて頭上より近付く余を写しのぞかむと焦る。男はあゝ少年の日、机を並べそのまゝ病院に別れも和田美智喜の十数年痛苦を経し姿なりき、こゞもり声にて「ホラホラ峠さんが、わしも此ないはないこんなざまですよ」と品もうひがみも何も無い深い慈顔微笑にい云けるが最初に彼の発せる言葉なりき。

互ひに十年の歳月のさすがなる変り方に頷く。

もぎたての熟柿などを間に暫く戦争の事や空襲の状況などを話し、やがて父や上母君も畑より来れて挨拶され世話話しなどす。共に良き御両親なり、昼食を充分によばれ午後は日向の様にねころびて●●の話しなどする。

あたりの風景も古りし農家の居心地も、いかにものどかに閉寂にしてもことに愉し。会ふまではつもる話の山ほどもと思ひしに会ひみれば互ひに多くは語ることもなくたゞ黙ってあひあまる暖かなる満足を覚ゆ。彼は頭も硬直して動かず。手鏡を自由に活用す。

夕方帰る。土産に玉ねぎ、松茸、青葉などをリュック一杯頂く。汽車にわりこむ際リュックの負ひ革切れる。夜になりて帰宅、皆土産の熟柿に喜ぶ。

 

十一月二日 晴

昨夕己斐にて食せし松茸の油煮が悪かりしらしく下痢あり、明治節なれば附近にて二、三結婚式あるらしく生花の注文多し。

明日の準備の為早く帰る。

夜半迄かゝりて竹の花筒に油絵具で図案を描く。まさに大多忙、眠るひまなし。

 

十一月四日 晴

早暁より今度はポスターを描く。

会場に立てるものなり。どうやら朝迄に間に合せ、十一時半頃天野宅にゆけば

こゝへも彼ら菊とダリヤの水あげと束ねに奮闘中なり。中野氏の途中で買ひ来りしハゼ煮などする。余のみ先発、店によりて花瓶を自転車に積み焼跡の中に聳ゆるもと中国配電の建物に至ればすでに会場はさゝやかながら出来て、米将兵三々五々出入りもあり、二階よりはピアノの音など洩れ久々に眼に入る製飾の万国旗などものびやかなり。

直ちに交渉して入口中央を占め、みどり洋花店のポスターを掲げ一足遅れて着きし花を並べる。

商売仇あり、すでに好場所無ければ入り来て右にこれ又花を飾る。会場とみにひき立つ。

ジープやトラックにて米将兵多く来たり大理石の台どしんめじろ押しに並びて米語をしゃべる。案にたがひて花は少しも売れず、大体に於して兵士らはあまり買物をせず、将校たち着物を多く買ふ。二、三百円のものなり。

姉の言ひて家より持参せし銀のそろひたる扇(宿屋でもらったかなんかしたもの)を花の横に置きて十五円の定価をつけおきし処、彼ら手にはとれども仲々買はず、十円に下げて、ある一人が眺ゐし時手まねにて二本共で十円の意味を通じせしめし処、直ちにOK!とよろこんびて買ひゆけり。もう一本の正月用のも五円で売る。花は売れずこの副業のみ繁栄の体。

アメリカ女二人来し時兵がそれに買ひ与へる二束、五円也が今日の売上なりき。他の花店の花も彼らは遂に買はざりき、女性なく生活にそれだけの余裕未だ無ければならむ。

主催者らしきりに気の毒がりてくるゝ。

案外のくたびれもうけに残念会でもやらむと、夜天野宅に三人集まる。然し丁度、山口ゴム支店長など客もありし為、天野君の父上などと共に六人で卓を囲み酒などのみ松茸をつゝく。

四方山の話の末九時過辞去。帰る時天野君封筒をくれたれば何ならむと思いしに、先月分の給料袋なり。営業報告と共に金五十円入ってゐる。本給七十のつもりの模様。

大体利益あらば三人で案文比例にて分けそのかはり無き折はもらはずといふつもりでゐしに「給料」など、いかにも店主と使用人を思はすやり方で来たると気に入らざりしもまあまあと有難く受く。

帰れば父もよろこびて給ふ。余がはじめて働いて得し金なれど佛壇に供し礼拝す。母上よ母よ、と念じながら::少々酔ひも手伝ふ。

 

十一月五日  過労、下痢中を又昨夜暴食せし為、夜半より本格的の下痢にてへばる。

十一月六日 今日より店を休み、就床、気胸日なれど休む。

十一月七日 下痢もっとも激し(一時間半おき)。

十一月八日 中野君、メリケン粉を持参しくる。七升獲得。

十一月九日 やゝ回復に向ふ。藤田いとのさん身のふり方相談に来る。

十一月十日 ●●●●よりお粥にする。障子張りなど。

十一月十一日 離床、散発にゆく。店に寄る。

 

十一月十二日 晴時々曇

藤田の小母さんを高須の方へ所望された為その話をしに厳島に行く、すべての交通正に地獄の如しある島にあって連絡船のみは無しの如くゆったりと気持よし。

土産物など求めてその家を尋ぬるに留守。

称名庵を訪れ懐旧の情にふけり嘗て夕涼の帰途この門前にて母にうながされよく立ち小便を(門前の)などを踏み歩き、裏手の小山にて弁当を食す。

神社あたり迄ぶらつきなどしては浜田家をとひしに遂に留守なりければ置手紙を託した。三時の連絡船にて帰る。帰途、井上に寄りしも叔母上は既に●●へ御出発にて山脇の人にのみ会ひ帰る。

帰途より日暮れ、寒い風の中を瓦礫を踏みて走らされ、やっと終電車に間に合ふ。

廃墟に夕月のみ懸り疲労困憊の心に思へらくあゝ戦災を受けざりし京都にでも走りたしと。

 

十一月十三日 晴

店へ出づ。原子爆弾で亡くなり人々の百ヵ日に当る今日なれば佛前用の花を買ひに来る人多し。

暫く休みたる為に店あれ花少なく寂しき事甚し。いづれ臨時休業をまぬがれぬ模様なり。花を皆売りて早めに帰る。

手紙で指示せる如く藤田の小母さん来る。高須行きを承諾せるも十八日迄所用ある由。早速明日島へ残せる着物をとりにゆく為家に一泊せしめる。

 

十一月十四日 雨

藤田の小母さんと朝別る。

店、花無く店も追はれかけ、中野君、花商売にみきりをつけむとし「みどり洋花店」の危期はやくも来る。余のみ牙城を死守せむとす。

花の売れざるレコードを作る。売上十円なにかし。

火をたきて時間をつぶし手紙を一本書き、三時頃店をしまひて帰る。

寄る父と共にコーモリ傘の修繕。こんなことをしてゐては実際つまらない。

 

十一月十五日 晴時雨あり

やゝ膓悪し、弁当の代わりに小鍋を持参、店にて代用おもゆをつくりて食す。花、よき花無き為一層売れず。仕方なく本を読んだりつくろひものをしたりする。

夕方帰りて少し畑を耕す。

姉、糸崎より帰宅。

 

十一月十六日 晴時雨あり

店に出づ、夕方久々に菊など多く入り店賑かとなりたり、広陵中学の葬儀に供花を出す。中野君、余大衆的な安い花を仕入よといふにで仕方なくごぜん花などを畑にて切る時は「みどり高級洋花店」はこんな計画ではなかったがと泪ぽろぽろ出る、といふ。気の毒に思ふ。

夜闇のスゞキ一尾入り、さしみにして食す、愉し。

 

十一月十七日

田頭先生の葬儀、山口市信愛教会にて挙行さるゝの日なり、惜しみ余りある先生を思ふ。

眞に尊敬し得る指導者先輩を求めて求め得ざりし余にありて正にそれに近き唯一の人は同師なりき、誠に稀有なる典型的クルスチャン、同師を失へる哀傷は深し。

菊入荷、店にて暖くなる迄火を入れ焚きて水上げに働く。然して三人昇りそめた月光の中を帰る。

働きて友と家路につく気持は又かくべつなり。

三枡さんの家よりギターを取り来る。電車の中にて或少年ギターを四百円にて譲りくれとたのむ。

 

十一月十八日 曇

午後より店を閉めて天野君と中国配電の歌謡コンクールへ優勝者への花束寄贈旁ら赴く。満場立すいの余地無く流行歌をいやといふ程聞かさる。花束の贈らる場面まで見届けむと我慢して聴きしに会場混乱。花束行方不明となる。

司会者の顔に見覚えあり、終会後島本の弟なる事認め、すっかり疲れて帰る。

姉、高須へ行きしか藤田さん来らざりし由、何かの都合なるらむ。

 

十一月十九日

小兄の命日。風邪気味、店を休む。入浴、庭にて藁屑を焚きなど。

咽喉痛、発熱もあり、天野君には気の毒なるも体力無理を僻くるやう考へねばならぬ。

十日市の武三氏の遺産、戸主の当家を除外して娘の方へ呉へくれてしまひさうな模様、義兄や姉達の考慮を要する問題なり。


トヨタ財団2003年度市民活動助成プロジェクト「ヒロシマ文学館(仮称)の開設を目指した、原爆文学資料の電子化と英訳事業の実施」の一環として、池田正彦・松尾雅嗣(編)『峠三吉被爆日記(写真版)』(広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会、2004年12月)から池田正彦氏が書き起こしたものです。