メモ 覚え書 感想

峠三吉


昭和二十年八月(祖国危機に瀕してより)

                            峠みつぼし

毎日日記を付くる事もあたはず為りぬ、故に最後を此のノート一冊に據る

 

八・六、午前八時十分敵三又は四機わが広島に新型爆弾を投下、広範囲に及ぶ爆風と共に、光線に近き熱波を伴ふ。(原子爆弾)

郊外に近き町を余したる全市家屋倒壊、屋内に居たるものは下敷となり発したる火によって焼死、戸外にありたる者は殆んど火傷を受け多くの者死す。

わが家大破、幸いに四人微傷を負へるのみ、此の日疎開家屋の勤労奉仕に都心部に出動せる隣組多く家族の欠けざる家庭は尠き態状を呈す。就中女学校下級生の同奉仕に依りて仆れたるもの多し、敵機の悪虐此処に極まれり。

          ×

被服本廠負傷者収容所、附近の田畑、熱火にて葉をちりちりに巻く。

建物外観コンクリート巨大な倉庫二階建、小さき窓、鉄格子鉄扉皆歪む。

門前不安な人つめかく、二、三日して収容者氏名(不明のもの――附中二年生等アリ―)

貼り出さる。

          ×

広き構内白日下に散乱する倒壊も木造一棟、人、擔架右往左往。

被服廠神社の前にて敬礼する者、擔送者の顔の上に置く蓮の葉。

          ×

コンクリートの倉庫、陰惨な感じ歪める大鉄扉のある一つを潜る。

(後日新しき赤十字旗を揚く)

階下暗し、鉄甲、被服梱少々見ゆ、かび臭き空気、階上よりの異様な悪臭。

コンクリートの段、響く靴、最重傷者の収容場、振り返る案内の者の横をぬけて昇り切る。

最も近く足もとに顔をこちらに向けて横臥せる女、額、頬、火傷塗薬、その姿勢のまゝ眼球のみを細く動かして凝乎っと見上げて。余ぢっと見下し二、三歩近付く、或は?と思ふ、女唇かすかに動く、余が名の発音通りに。

Kさんですか、如何です。しっかりして下さい。余床に膝をつく、女の毛布の上に半ば乗る。頭僅かに動かす。表情重く鈍。やがて負傷のてんまつを語りつゝ眼尻に泪ゆるくにじむ。

          ×

『階下に降りやうと立った瞬間にわかに下界一面を変貌させて音もない閃光がたち罩め白雲が走るのを認めた。

白昼の焼夷弾攻撃!かうとっさに感じ階下に走降りやうとした時、今度はは猛然と家がゆらぎ北側の窓建具が吹き飛んでくると共に天井が裂けて落ちかかり、一瞬遅れて南側の窓硝子が微塵となって襲ひかゝって来た.

(かうした急迫の中にあっても、私の心は服装を整へずに走り出る無様を思ひ先づ上衣身につけむとし、またボタンをかけながら危険はこれ位で去るだらうといふ、運命への安易な依り頼みを――まだ落下物が落ちかゝってゐるのに――一杯に感じていた)』

          ×

Kさんの話

当日何時に無く気が進まなかったが、隣組の勤労奉仕故と思ひ子供を近所に預けて強ひて出る。

市役所の裏手あたりにて疎開の後片付の仕事を命じられ私は丁度跼んで煉瓦を積んでゐた時あの爆発的な閃光を感じたので、とっさにそのまゝ伏せた。続いて背中を灼けるやうな熱風が搏った暫くは暗黒で何も分からなかった。

やがてあちこちで女達の叫喚が起った。それに意識を取り戻して顔を上げると尚ほ立ち罩める塵煙の中を

「どうしたんかいの!」等と泣き叫びながら狂ったやうに走る人々の姿がちらと見えたので、これは逃げられると思ひ飛び起きて水槽のある所へつっ走り衣服の火を消した。そうしてから瓦越え電線を飛び夢中でもと「黎明」茶房のあった角から富士見橋の通りに出て比治山橋の方へ逃れた。既に火の手が方々から上がってゐた。

衣服はちぎれ裸足は灼けた、背中は爛れ腕は萎え眼は眩んだ。

道なき道につまづき倒れては起き上る、力の無きさま。

「彦ちゃん彦ちゃん」(泰彦の愛称)と子供の名を呼んで泣いた。

家の方角をめざして、子供の方向をめざして被服廠の近し迄逃れて来た時遂に力尽き、今朝別れたのが最後であったのだと観念してそのまゝ被服廠に収容された。

応急手当をしてもらったのは暗くなる頃であった。

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会場の広い倉庫の一室、鉄格子と金網の嵌った高窓よりの暗い光、冷たいコンクリートの床にじ¥ぢかに毛布を敷いてそれぞれ四、五十人の負傷者が向き向きに横たはってゐる。殆んどが火傷、皆裂けたズロース一枚位の半裸体にて顔から全身へかけての火傷、塗薬、繃帯などの為に視るに耐へぬ汚穢なな変貌呈す。女学生なりし者多き模様なるも花の少女の面影無し。枕頭に金だらひに入れた粥など置かれあり。窓ぎわや太き柱の陰に馬穴あり、汚物満る。

「水、水を頂戴!水を頂戴!

「○○の姉ちゃん!姉ちゃん!

「五十銭、これが五十銭

「水、水くれるの?あゝうれしい嬉しいわ!

「助けて!お父ちゃん助けて!

「水、水を下さい頼むから下さい、今のは口に入らなかったんだもの!

「足のとこの死んだののけて!臭いからのけて!

          ×

八・一二、壕、壁、コンクリート、天井、鉄渡しその上厚板、カビわく。高さ上半身と少々、巾、両肘先少々。

両入口に外より蚊帳を垂す、中、線香、ローソク、(折々ジーといふ)

ローソクの近く、柱の根、コンクリーの上に小さき雨蛙一匹。陶製に似る、黒く輝く眼、喉ふくらみ、ピクピク、鼻の尖き光る、濡れて、隅、蜘蛛の巣、スコップ、鉄棒、壁にたてかけて、

チュ‥‥コロ‥‥チッチッ、蛙何時の間にか隅にゆき二匹こちらを向き鳴く。

          ×

爆風にて大破せる部屋の片隅に眼をつむって横はる眠り人形。

道路に散乱する硝子の破片、朝、その上に点々と続く蓮の花片。

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降伏せる翌朝、行方不明の家族を捜しあぐねて、死傷収容者人名の貼出の前に佇む人達―その背後で半壊の家の窓から生気の無い手風琴の音聞ゆ。

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Yさん、――眼下より満月の瀬戸内海が茫洋と展け彼方鷺島をはじめ多くの島山が影を浮かばせ嘗ていつ何時の日か確かそれは日本が剛く盛んだった少年の日に友と眺めたやうなあらわに美しい灯台が瞬くのを凝視めてゐると半月、こゝ半月の間に心の内に積りともった異状な経験が、その重みに耐へかねて死んだ様に重ってゐた感情のむくろ達が幽鬼の様に蘇って一つ一つ私の胸から飛び出し海の上をさまよいます。

月光の波の中に黒々と現れる水脈をさえサイパン、マップ岬の同胞の漂ひ寄るかばねかと欲する心さへ忽ちに虚しく虚脱した頬に冷い泪がつたはります。

全く灯火管制の永久解除や天気予報の何年振りかの再開など、次々と行はれる些細な当然な事象にさへ云ひ知れぬ泪を覚えるのは私のみではありますまい。

これを思い彼れを思ふにつけ歯を食ひしばる私の心はせめてこれからの幼い世代の魂の中

にひそかに獲るべきものを獲り育くまむ意慾に燃えさかります。

          ×

海の上を雨気を含んだ初秋の風が吹ゐていた。昼食後のラヂオが敵占領軍の進入予定をつたへ、又敵警戒機の不時着の場合救護に努めねばならぬ旨を指示し、最後に懐しい郷土のあちこちの今夜から明日の天気予報をちたえへた。さうしてやがて思い掛けなく、彼の降伏の日以来打ち絶えていた放送音楽が、軽楽器に依るモツアルト澄明な曲が拡声機から流れて来た。

こらへ切れぬ涙が、今はもう安らひのやうに深々と頬をつたふ。

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三千年来嘗て戦いに敗れたることなしといふ歴史を遂にこの世代に於て汚したといふ事は何と取返しのつかぬ無念な事であったか。思へば国民は闇買ひに専念し企業家は利己的な利潤を第一に考へる事を最後迄やめず僅かに眞剣であったのは将兵と若き学徒と素質の良い挺身隊位のものであったといふ、実状では勝てぬのが当然であった。

余にしても罪は免れず、上京する時は命ちの危険を犯しても戦列に参加せむとの潔い意慾に燃えてゐたのに、何時の間にか道徳よりも経済が、栄光の観念よりも利得が、思索や信仰よりも要領よき勤勉が、人生の本然に於いてまでものを云ふと思ひこんでゐる人達の雰囲気に引込まれて此の祖国苦難の時日を眞に眞剣にならずして流過せしめたのは誠に愧多き事であった。

余のめざして来た工場が戦争に対する真摯な意慾を欠いでゐる事を知ったならば何故直ちに他の行動をとらなかったか。たとひ体力的に不可能であっても徴用工をでも自ら志願した方が事実の上では何ら役立たなくても、自分の良心に永久のやましさを印さずに済んだといふ点でどれほどよかったことか。

神州不可侵の輝かしい伝統が泥土に委せられ皇国の栄ある歴史に初めての、然して永遠に消えざる汚辱が印せられんとして居た時、余も又徴用のがれの卑俗な思想に毒されうかうかと彼の低俗に賢明なやからの群に堕してゐたといふ事は悔みても餘りある事であった。噫!日本はかうした国民が多かった為に惨敗し降伏した。

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(続、Kさんに付て、)最初見舞ひし朝、――負傷三日目、――まだ最初の混乱状態ぬけず、死屍を取り除く人も無き雰囲気の中に(見舞者も無論なし)白島の葉ちゃんとのみいへる死体と背中合せに独り凝乎と臥ている。苦痛を訴ふることもなく、枕頭の水自制して飲まず、他患者の絶え間なき叫喚を蔑視しつゝ精神状態きわめて堅確なり。(呼吸30、脈100)

その日の夕方、態度変り、水飲ましてお茶飲まして、胡瓜もみが食べたい、この御飯はもう欲しくない、等と、此の人にしてかゝる様あるかと驚かるゝやうな状態を漸く示す。

発熱あり、食欲皆無、呼吸30脈120、火傷部位、顔面少々、両上膊、背部全面、腰少々、両かかと。

次の日の夕方、下痢次第に烈し。

透き徹るやうな鋭く高き声にて小母ちゃんと呼び便をとりもらいおり、細き眼、やゝつり上り既に微笑の影さえ走ることなし。

時々静かなかつての寛濶な精神の片鱗を示し、暗くなる故早く帰れ、などといふも概ね駄々っ子の如くあり。特に女性に友人に対してはさなり。

子供に会ひたくはなきやと問へば、会いたくなしといふ。何故にといへばあと別るゝ時がつらいゆえとこたふ。会わなくてもあれが他人のもとで少しく遠慮した面ざしで遊びゐる様子が眼に見えるといふ。

夜、そのもとを去らんとせる時その寂しさ沈黙の表情に表れたり。人、階の上より蝋火を捧げて送りくるゝ。

次の日の朝から夕へ、多くの衣類など持ちゆく、火傷部位総て化膿腐蝕しはじめあり、下痢発熱去らず。

その便の取り受けに男にわが前をも既に多くはばからず、冗談を口にするとはいへども表情は熱に浮きて苦しく歪めるまゝなり。収容所も相当片付きやゝ手当もゆき届きはじむ。(枕頭に花を置けどもそをみて慰む余裕なし)

(アッツ島奪還の噂もっぱらなり)

女らしい細々とした判断力(兄に対し、サイダーを購買所より受けたるを秘むる事に対し、など)は頭の確かさを示せども病者らしい甘えや我儘は恒常化す。夕方最後にさよならを云えるに又ゲンノショウコをあっためて飲ませて、といふ、蝋火にあっためて口に入れてやる。

(父が呼びに来り辞去を急ぎし為ねんごろを欠ぎしもこの事がわが最後の心づくしとなりぬ)

(此の日より三日め、十三日の早暁遂にみまかりぬ、死体一日そのまゝにしてありしと)

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二十二、三の工員らしき青年、全身的火傷繃帯より目のみ出して横たはれるが、熱に浮かされての症状。

君ヶ代を歌ふ(と絶えと絶えに)。

「敵のB29、P38など何であるか、我に零戦あり月光あり、はやてあり」(熱く息を吐いて)

「我は今敵の為すに任せてひそかに大攻撃の準備を整へあるのだ」

「――敵は知らず増長しているのだ、もう少し、もう少しの辛棒だ!」(かすれた声で)

戦時歌謡の一つを唄ふ。

(気使ってのぞみこむ軽傷患者のN小母さん)

「しっかりしてしっかりして、さあもういゝから少し眠んなさい、私はすぐそこにゐるからね、中村の小母さんと呼んでくれゝばすぐ来てあげるから―」

(熱の為に赧黒い顔をゆるくぢりぢりと廻してその方を見)

「中村の小母さん――小母さんじゃないお母さんだ、――‥‥中村のお母さん!(かすれた声を強めて)お母さんなんですよ!(熱にぎらぎらと浮く双眼から泪が一筋二筋つたふ―体は毛布に包まれ腕も動かぬため泪はそのまゝ繃帯の間に流れこむ―)

(四、五人それを囲んで立つ看護の女廠員、付添の女らすすり泣く、高窓より夕陽コンクリートの床に落つ)

          ×

八・十日、三木氏の兄を見舞う。

同じく被服本廠の構内、広場を横切り倒壊家屋の間をぬけてゆくと赤十字旗を入り口に掲げた半洋風の一棟あり、全体少しく歪み灰色の壁甚しく脱落」す。窓は全部破壊。

内部は木造、天井無くやゝ新しい広い板敷にて奥に長く続き両側に負傷者火傷者を横たはらしむ。

最も奥近き一隅に医員に聞きて尋ね当てたる三木工員は床に敷きたる毛布の上に他患者にはさまりて仰向に寝る。頭部より顔面全部白き繃帯に蔽はれ両眼とおぼしきあたりに黄色き薬剤と鮮血滲染み、僅かに包み残せる唇暗紫色にして白き歯を見す。繃帯に切りあけたる鼻穴より幽かに息の出入りするらしく両腕は胸の上あたりに置かれて繃帯に巻かれ片腕は副木さる。現れある手先も多くの傷口あり凝血と泥こびりつきて指(嘗てビオラの弦を押へし指)の爪色も無し。

胸より腹に毛布を掛け立てたる膝にはKさんの淡紫模様なる浴衣を掛けあり、浴衣風に吹かれあらはなる毛臑も足先も彼の時のまゝに乾きたる泥をつけ力無く細くながし。

そのまゝの姿で昏睡せる如く何時までみてゐても動かず、かたわらの人に問ふと、いつでもあのやうにしてゐるが意識は明瞭なりと。

患者の間に靴を踏み入が枕頭に身を寄せこちらの名を名乗り声を掛ける。直ちに解した様子でやうやく聞き取れる。細い声で思ひ掛けね見舞を謝さる。

生命は大丈夫故元気を出されたしと慰め、Kさんも快方の旨云ひ添へる、氏やゝ黙しがち暫くして、いや昨日迄(こゝに収容されてくるまで)の二、三日はみじめな目に逢ひましたよ、と。か細い声でと絶えがちに当時の模様を話さる。

それに依ると亡妻より伝染せる赤痢の子供を避病院に入院せしめそれに附添ってゐた氏は瞬間に無数の硝子破片創を胸から上にかけて受けたまゝ崩壊の下敷となったが、夢中で這ひ出で、河岸の繋船に逃れた。

然し船は動かず火焔は迫り来る為に他の人々と共に河原に降りて逃れむとした、だが氏は出血多量の為そのまゝ河原の泥の中に倒れて気を失った。

夕方になって汐がさして来たのでふと意識を取り戻した。然し既に体は動かぬ為そのまゝ倒れてゐると誰かゞ来てかつぎあげ岸の収容所に連れて行った。

さうして其処で死体と共に三日間殆んど何の手当も届かぬまゝに放置されてゐた。それを捜索に手を尽くしてゐた被服廠のY属官に発見されやっと本廠につれ帰られたものゝやうである。

「――馬鹿な事をしたもんだなァ、何とか防げなかったものかなァ――」と沁み沁み嘆いてつけ加へる。子供は無論失し。

Kさんより託されたサイダーに砂糖を入れてすゝめる。ストローを_へさせると一気に吸ひて非常によろこぶ。

「有難いナァー済みませんなァー」と繰り返しいふ、二分の一にとって置く。

繃帯交換に来る、腕より始る。血の為に剥がれ難い所は上より湿して剥がす。

血の惨染める所の下には皆蓮根の如く小さく深き穴あき繃帯に着いてぢゃりぢゃりと砂まじりに硝子の破片の出づるもあり、苦痛に耐へぬ時は声に出さぬまゝ立てたる片脚をふるはせてこらふ。

思はず小声に「あっ」と魂切ることあり、看護婦もあまりの無惨さに折々は手も進まず。

胸もとに指の深々と入る程の穴あり、黄色の脂をつけてガーゼを押し込む、総ての創穴につけるだけ薬剤なし。

やゝ離れて立ちゐるに看護婦に何か余の去りしか否を問ふ模様、急ぎ枕頭に跼めばこの痛いのが済んだら御褒美に又おいしい飲物を頼みますよ、と云ふ。

顔面を蔽へる繃帯を次第に解く。さすがに苦しい恐怖を覚ゆ。頬や秀でた前額の大小の創を現して最後に眼部を蔽へる血痕ガーゼを静かにめくる。(皮膚の切れ端などが裏面にこびりついてはがれる)と正に正視するに耐へず、嘗て両眼のありし個所は肉と血と膿と泥とを溜めてぐちゃぐちゃに裂けた大きな穴となりあり、看護婦直ちに新しきガーゼにて蔽ふ。

氏がかすかに脚を顫はせて呻く。

繃帯交換が済みて待ちかねたるサイダーを吸はしむ、残るを全部飲む。

枕頭の葡萄を窓にて洗ひ一粒宛唇に入れ、吐く程を掌に受けてやる。

時々、

「涼しい風が吹きますなぁー」

「此処は明るい所ですか暗い所ですか?」

「――元気になったら一度山に湧く冷い清水を腹一杯飲んでみたい気がする」など、静かに吐息のやうに呟く。

然し、自動車の爆音などが近付くと急に濃い苦痛の影が顔にさして、

「あれは飛行機ぢゃないですか?」と訊ねる。

うその様に明るい南風、假睡する多くの負傷者、隣の重傷者をぢっとみてゐる。軽傷者、やっと捜しあてた母親と火傷女学生の邂逅、尿と薬と血のにほい。

別れを告げて立上れば、氏は来た時と同じ姿勢で睡ってゐるのか覚めてゐるのか黙然と微動だにせぬ。

          ×

原子爆弾に依る広島市の被害、八・末日現在(当日市人口廿五万)死者六万八千、行方不明一万人、健在者六千(三分)

          ×

橋の石欄片側は橋上へ片側は河中へ倒る。河のみ凄く蒼く澄みて流る。木船底を上にして橋脚に掛りゐ。

瓦礫の堆積散乱の中に小さく残れる墓地あり、墓標燻りて或ひは倒れ或ひはねぢる。

路傍の半ばより折れたる電柱の折れ口大きな盞皿となりてなほ燃ゆるあり、危ふく倒壊を免れたる倉庫の曲がりたる鉄扉より煙を吹き、石炭殻の山なほ燃ゆ。

                                (七日―十日目)

橋上に脳漿と一束の頭髪こびりつき残る。赤焦げたる電車、崩れたる石材などに「家族無事○○へ避難」等落書きあまた。弁当がけにて杖をひき行方不明の家族を尋ぬる老若のみ三々五々通行。くすぶれる図書館の壁に大きく「死体収容所」、三番小路の田中邸の跡、焦げた樹木と壕との陰に其場で焼却せる遺骨そのまゝに散乱せり。

空昏く眩しく晴れ、茶臼連峰、二葉山脈など山脈全体にわたり茶褐に変色せり。

          ×

九・八、療養院の夜明け、

星かげが消える。窓の闇が仄かにうすれ庭木の影が現れる。虫の音振る如く続く。

眠れぬ患者が朝を待ちかねて灯りをともすあちこちの部屋から咳く声が遠慮がちに起る。誰かが廊下をひっそり歩く、かすかに便所の扉の開く臭ひ。

静かに枕に通ってゐた波の音去り、梢ごしの灯台の瞬き急に力失ひやがて消える。島山稜線より呆んやりと影をみせ裾は未だ海と別れず、空にやうやく指される雲の寝姿。賑かとなる漁船の発動機の音、崖下で信号待合せの汽車がいらだゝしげに汽笛を鳴らし動き出す。

虫の音繁く続き、洗面所あたり思はぬ元気なす早うの声。

未だ闇の様子、

窓に持ち出して起す七輪の火光、煙のにほい、やがて先づ雲のあからみ、空のはなだいろ、さらして物皆影から色彩の濃淡へと移行。

患者達不機嫌に又睡りを続けむとうつらうつらとしてゐる。梢に雀の啼き声、少し宛爽かな風のめざめ。

          ×

夜明けの灯台の光、桜の梢ごしに、赤く憂鬱さうに染滲んだものとなりやがて白けたひどく遠く小さくなり何時の間にか消える。(掌をひろげたりつぼめたりする様に光るよ)

秋陽の中に葉桜のからだに匂い。

夜更け、時折の患者達の咳が廊下づたひに聞える。すると沁み沁みとした肉親的な親愛の情が心の底に湧く。

眞夜の療院。(九・十五、)

廊下、ひと所、灯、灯の下の羽虫。闇の雨漏るだらひ、ひとり歩く自分の長い影、藁草履の音。

踊り場、明るい灯、階段の影(一段毎の)手欄の手擦れたひかり。

玄関、鉄の網戸ごしに樹影、鈍い月光の海と島、反響する時計(どこかの)のセコンド、指で字が書けるやうに曇ってゐる、ぼんやり二重に写す壁の大きな姿見、壁に並べかけた萎れた白衣、その奥の暗闇、白いもの、腰掛の上に置き忘れた雑誌。

闇、出入口、風、しっとりとした砂のにほい、曲り角、細い上への裏階段、薄青い灯、

片隅のバケツ屑●七輪青物、生きてる、患者、灯を消して死んでる、

一室、明るい部屋、扉、窓開けて、蚊帳たるめだらしなき女二人、蚊が蚤を追ふ、便所の匂ひ、洗面所の湿り、窓細に開けたるはひそくゆらぐカーテン、肩わきの患者名札並びめ立つ、硝子戸の光り、こんな所に戸?、潜り渡り廊、す板踏む音、建物の側面聳え半月の空、鮮緑の星、雲のながれ、ヒマラヤ杉の長さ、炊事場、方々の片隅に集め置ける膳、配電スイッチのある昇り口、廊下で啼いてゐたこーろぎ閉した扉の裾で跳ねる、灯_々、汚れた白壁、

裏階段昇る、眼の高さの小窓(銃眼の様な)朧ろな空、島影、海、樹影、草地―とみせて足もとに、

昇りつめ歪んだ廊下の片隅、さびれた売店の売棚、水半分の薬空瓶、

院内外虫の声、何処かでぼそぼそ人の声したやうな、――。

どぼんどぼんと間陽を置き続ける海で深く何かを投げ込む音(灯近くの漁舟あり)

          ×

「洗濯してあげましやう、襦袢から汚れた肌着を皆出しなさい」

おとなしい娘はもの前さして不安な眼をする。そしてにっと笑ふ。

          ×

「あの子が自分で直すといってそれを直しましたの」肢体の不自由な不安様の母親が身近な者へ云ひ添へる。口の中で呟くやうに、おづおづとしたひとり言の様に。

 

療院、炊事場の裏手(葬儀室死屍室)、石炭ガラの山を過ぎ、二、三段昇る炭下り高み、蛍草の花、白い房花、居を鳴し虫、石の崩れた手欄、その下斜面、芥捨場、線路、

木造一棟、入口電灯、硝子戸、

内部埃積る赤畳六畳、

破れた座布団積んである、かたはら荒眼、灰皿、

火鉢、粗末な茶道具、うちは、壁に箒、●●風窓、経机、さらしをかけた佛具一式、

正面、壇上、如来全像、金箔の壁、其他奨し、両側埃ついた花環、(療院一同としてある)、蜘蛛の巣、寄贈品目の額、

裏手へ廻る(小径、白き鶏の羽雨に打たれて散乱)

続く一室―解、●に建てられしならむ―コンクリート土間、中央コンクリート、流し様の寝台、片隅水道手洗、

使はれた事なき様子、破れ障子たてかけて、石炭用くすも積みあげ、寝台に破れ布団一枚、くすも一つむしろ一枚のつかる、隅でなく虫、硝子障子に写る梢の影。

          ×

暁明の海、寒さうなちりめん皺、水脈のみ平滑に空を映して、潮流眼凝らせば水休みなく移動。

嵐、空、●かん、桃色を含んだ灰黒、

島影僅かに判別出来る程度に姿を隠し水平線は特に深き煙霧、その中より海は冷い灰様に無数の白馬を踊らせて寄せ迫る。その白い波頭のきは立つ白さ。

強く弱く、強く又強くむらをなして衡き過ぐる疾風、水面を両脚の環が暗く白馬を圧へて掃き走ると、それを追って凄しい水煙が馳りなびく。

灯台の光やゝ蒼褪めて頼りなく●迷の空にかゝり不安気に入念にまたゝく。

崖の樹木、倒れむばかりに●み、窓硝子鳴りきしみ電灯消えかゝる。


トヨタ財団2003年度市民活動助成プロジェクト「ヒロシマ文学館(仮称)の開設を目指した、原爆文学資料の電子化と英訳事業の実施」の一環として、池田正彦・松尾雅嗣(編)『峠三吉被爆日記(写真版)』(広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会、2004年12月)から池田正彦氏が書き起こしたものです。