峠三吉『原爆詩集』


 一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人に捧ぐ。


目次

 /八月六日///盲目/仮繃帯所にて//倉庫の記録/としとったお母さん/炎の季節/ちいさい子/墓標///河のある風景//微笑/一九五○年の八月六日//巷にて/ある婦人へ/景観/呼びかけ/その日はいつか/希い――「原爆の図」によせて/あとがき

(HP管理者より:詩の表題をクリックするとその詩を読むことができます。目次に戻るときはブラウザの「戻る」を使ってください。詩集の最後に、「峠三吉年譜」の他、関連ページをリンクしています。ご参照下さい。) 


 

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわをへいわをかえせ

 


八月六日

 

あの閃光が忘れえようか

瞬時に街頭の三万は消え

押しつぶされた暗闇の底で

五万の悲鳴は絶え

 

渦巻くきいろい煙がうすれると

ビルディングは裂け、橋は崩れ

満員電車はそのまま焦げ

涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島

やがてボロ切れのような皮膚を垂れた

両手を胸に

くずれた脳漿を踏み

焼け焦げた布を腰にまとって

泣きながら群れ歩いた裸体の行列

 

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体

つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群れも

灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり

夕空をつく火光の中に

下敷きのまま生きていた母や弟や町のあたりも

焼けうつり

 

兵器廠の糞尿のうえに

のがれ横たわった女学生らの

太鼓腹の、片目つぶれの、半身あかむけの、

誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば

すでに動くものもなく

異臭のよどんだなかで

金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

 

三十万の全市をしめた

あの静寂が忘れえようか

そのしずけさの中で

帰らなかった妻や子のしろい眼窩が

俺たちの心魂をたち割って

込めたねがいを

忘れえようか!

 


 

泣き叫ぶ耳の奥の声

音もなく膨れあがり

とびかかってきた

烈しい異状さの空間

たち罩めた塵煙の

きなくさいはためきの間を

走り狂う影

<あ

にげら

れる>

はね起きる腰から

崩れ散る煉瓦屑の

からだが

燃えている

背中から突き倒した

熱風が

袖で肩で

火になって

煙のなかにつかむ

水槽のコンクリー角

水の中に

もう頭

水をかける衣服が

焦げ散って

ない

電線材木釘硝子片

波打つ瓦の壁

爪が燃え

踵がとれ

せなかに貼りついた鉛の溶鈑

<う・う・う・う>

すでに火

くろく

電柱も壁土も

われた頭に噴きこむ

火と煙

の渦

<ヒロちゃん ヒロちゃん>

抑える乳が

あ 血綿の穴

倒れたまま

――おまえおまえおまえはどこ

腹這いいざる煙の中に

どこから現れたか

手と手をつなぎ

盆踊りのぐるぐる廻りをつづける

裸のむすめたち

つまずき仆れる環の

瓦の下から

またも肩

髪のない老婆の

熱気にあぶり出され

のたうつ癇高いさけび

もうゆれる炎の道ばた

タイコの腹をふくらせ

唇までめくれた

あかい肉塊たち

足首をつかむ

ずるりと剥けた手

ころがった眼で叫ぶ

白く煮えた首

手で踏んだ毛髪、脳漿

むしこめる煙、ぶっつかる火の風

はじける火の粉の闇で

金いろの子供の瞳

燃える体

灼ける咽喉

どっと崩折れて

めりこんで

おお もう

すすめぬ

暗いひとりの底

こめかみの轟音が急に遠のき

ああ

どうしたこと

どうしてわたしは

道ばたのこんなところで

おまえからもはなれ

し、死な

ねば

らぬ

 


 

衝き当った天蓋の

まくれ拡がった死被の

垂れこめた雲の

薄闇の地上から

煙をはねのけ

歯がみし

おどりあがり

合体して

黒い あかい 蒼い炎は

煌く火の粉を吹き散らしながら

いまや全市のうえに

立ちあがった。

 

藻のように ゆれゆれ

つきすすむ炎の群列。

屠殺場へ曳かれていた牛の群れは

河岸をなだれ墜ち

灰いろの鶏が一羽

羽根をちぢめて橋のうえにころがる。

ぴょこ ぴょこ

噴煙のしたから這い出て

火にのまれゆくのは

四足の

無数の人間。

噴き崩れた余燼のかさなりに

髪をかきむしったまま

硬直した

呪いが燻る

 

濃縮され

爆発した時間のあと

灼熱の憎悪だけが

ばくばくと拡がって。

空間に堆積する

無韻の沈黙

 

太陽をおしのけた

ウラニューム熱線は

処女の背肉に

羅衣の花模様を焼きつけ

司祭の黒衣を

瞬間 燃えあがらせ

1945、Aug、6

まひるの中の真夜

人間が神に加えた

たしかな火刑。

この一夜

ひろしまの火光は

人類の寝床に映り

歴史はやがて

すべての神に似るものを

待ち伏せる。


盲目

 

河岸におしつぶされた

産院の堆積の底から

妻に付き添っていた男ら

手脚おひきずり

石崖の伝馬にあつまる

 

胸から顔を硝子片に襲われたくら闇のなか

干潟の伝馬は火の粉にぬりこめられ

熱に追われた盲い

河原に降りてよろめき

よろめく脚を

泥土に奪われ

 

仆(たお)れた群れに

寂寞とひろしまは燃え

燃えくずれ

はや くれ方のみち汐(しお)

 

河原に汐はよせ

汐は満ち

手が浸り脚が浸り

むすうの傷穴から海水がしみ入りつつ

動かぬものら

顫える意識の暗黒で

喪われたものをまさぐる神経が

閃光の爆幕に突きあたり

もう一度

燃尽する

 

巨大な崩壊を潜りこえた本能が

手脚の浮動にちぎれ

河中に転落する黒焦の梁木に

ゆらめく生の残像

 

 (嬰児と共の 春のほほえみ

   透明な産室の 窓際の朝餉)

 

そして

硝子にえぐられた双眼が

血膿と泥と

雲煙の裂け間

山上の

暮映を溜め


仮繃帯所にて

 

あなたたち

泣いても涙のでどころのない

わめいても言葉になる唇のない

もがこうにもつかむ手指の皮膚のない

あなたたち

 

血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ

糸のように塞いだ眼をしろく光らせ

あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ

恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが

ああみんなさきほどまでは愛らしい

女学生だったことを

たれがほんとうと思えよう

 

焼け爛れたヒロシマの

うす暗くゆらめく焔のなかから

あなたでなくなったあなたたちが

つぎつぎととび出し這い出し

この草地にたどりついて

ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

 

何故こんな目に遭わねばならぬのか

何の為に

なんのために

そしてあなたたちは

すでに自分がどんなすがたで

にんげんから遠いものにされはてて

しまっているかを知らない

 

ただ思っている

あなたたちはおもっている

今朝がたまでの父を母を弟を妹を

(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)

そして眠り起きごはんをたべた家のことを

(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

 

おもっているおもっている

つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって

おもっている

かつて娘だった

にんげんのむすめだった日を


 

みしらぬ貌がこっちを視ている

いつの世の

いつの時かわからぬ暗い倉庫のなか

歪んだ格子窓から、夜でもない昼でもないひかりが落ち

るいるいと重ったかつて顔だった貌。あたまの前側だった貌。

にんげんの頂部にあって生活のよろこびやかなしみを

ゆらめく水のように映していたかお。

ああ、今は眼だけで炎えるじゅくじゅくと腐った肉塊

もげ落ちたにんげんの印形

コンクリートの床にガックリ転がったまま

なにかの力で圧しつけられてこゆるぎもしないその

蒼ぶくれてぶよつく重いまるみの物体は

亀裂した肉のあいだからしろい光りだけを移動させ

おれのゆく一歩一歩をみつめている。

俺の背中を肩を腕をべったりとひっついて離れぬ眼。

なぜそんなに視るのだ

あとからあとから追っかけまわりからかこんで、ほそくしろい視線を射かける

眼、め、メ

あんなにとおい正面から、あの暗い陰から、この足もとからも

あ、あ、あ

ともかく額が皮膚をつけ鼻がまっすぐ隆起し

服を着けて立った俺という人間があるいてゆくのを

じいっと、さしつらぬいてはなれぬ眼。

熱気のつたわる床から

息づまる壁から、がらんどうの天井を支える頑丈な柱の角から

現れ、あらわれ、消えることのない眼。

ああ、けさはまだ俺の妹だった人間のひとりをさがして

この闇に踏みこんだおれの背中から胸へ、腋から肩へ

べたべた貼りついて永劫きえぬ

眼!

コンクリートの上の、筵の藁の、どこからか尿のしみ出す編目に埋めた

崩れそうな頬の

塗薬と、分泌物と、血と、焼け灰のぬらつく死に貌のかげで

や、や、

うごいた眼が、ほろりと透明な液をこぼし

めくれた唇で

血泡の歯が

おれの名を、噛むように呼んでいる。


倉庫の記録

 

その日

いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが

向きむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。

 足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の跡片付けに出ていた女学校の下級生だが、顔から全身にかけての火傷や、赤チン、凝血、油薬、繃帯などのために汚穢な変貌をしてもの乞の老婆の群のよう。

 壁ぎわや太い柱の陰に桶や馬穴が汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便をながし、骨を刺す異臭のなか

「助けて おとうちゃん たすけて

「みず 水だわ! ああうれしいうれしいわ

「五十銭! これが五十銭よ!

「のけて 足のとこの 死んだの のけて

 声はたかくほそくとめどもなく、すでに頭を犯されたものもあって半ばはもう動かぬ屍体だがとりのける人手もない。ときおり娘をさがす親が厳重な防空服装で入って来て、似た顔だちやもんぺの縞目をのろのろとのぞいて廻る。それを知ると少女たちの声はひとしきり必死に水と助けを求める。

「おじさんミズ! ミズをくんできて!」

 髪のない、片目がひきつり全身むくみかけてきたむすめが柱のかげから半身を起し、へしゃげた水筒を差し上げ振ってみせ、いつまでもあきらめずにくり返していたが、やけどに水はいけないときかされているおとなは決してそれにとりあわなかったので、多くの少女は叫びつかれうらめしげに声をおとし、その子もやがて柱のかげに崩折れる。

 灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声をこめて夜の闇にのまれてゆく。

 

 二日め

 あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。床の群はなかばに減ってきのうの叫び声はない。のこった者たちの体はいちように青銅いろに膨れ、腕が太股なのか太ももが腹なのか、焼けちぢれたひとにぎりの毛髪と、腋毛と、幼い恥毛との隈が、入り乱れた四肢とからだの歪んだ線のくぼみに動かぬ陰影をよどませ、鈍くしろい眼だけがそのよどみに細くとろけ残る。

 ところどころに娘をみつけた父母が跼んでなにかを飲ませてい、枕もとの金ダライに梅干をうかべたうすい粥が、蠅のたまり場となっている。

 飛行機に似た爆音がするとギョッと身をよじるみなの気配のなかに動かぬ影となってゆくものがまたもふえ、その影のそばでみつけるK夫人の眼。

 

 三日め

 K夫人の容態、呼吸30、脈搏100、火傷部位、顔面半ば、背面全面、腰少し、両踵、発熱あり、食慾皆無、みんなの狂声を黙って視ていた午前中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手の慄え。水のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱してゆくことば。

 硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼児の姿は眼の中からくずれ落ちて、爛れた肉体からはずれてゆく本能の悶え。

 

 四日め

 しろく烈しい水様下痢。まつげの焦げた眼がつりあがり、もう微笑の影も走ることなく、火傷部のすべての化膿。火傷には油を、下痢にはげんのしょうこをだけ。そしてやがて下痢に血がまじりはじめ、紫の、紅の、こまかい斑点がのこった皮膚に現れはじめ、つのる嘔吐の呻きのあいまに、この夕べひそひそとアッシ島奪還の噂がつたえられる。

 

 五日め

 手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。

 足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔で蠢き、傷にたかる蝿を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがった面のような表情が見おくっている。

 

 六日め

 むこうの柱のかげで前進の繃帯から眼だけ出している若い工員が、ほそぼそと「君が代」をうたう。

 「敵のB29が何だ、われに零戦、はやてがある――敵はつけあがっている、もうすこし、みんなもうすこしの辛棒だ――」

 と絶えだえの熱い息。

 しっかりしなさい、眠んなさい、小母さんと呼んでくれたらすぐ来てあげるから、と隣の頭を布で巻いた片眼の女がいざりよって声をかける。

「小母さん?おばさんじゃない、お母さん、おかあさんだ!」

 腕は動かず、脂汗のにじむ赧黒い頬骨をじりじりかたむけ、ぎらつく双眼から涙が二筋、繃帯のしたにながれこむ。

 

 七日め

 空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすり泣く人影と、この柱のかげに石のように黙って、ときどき胸を弓なりに喘がせる最後の負傷者と。

 

 八日め

 がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空き地に積みあげた死屍からの煙があがる。

柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、

無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。

K夫人も死んだ。

――収容者なし、死亡者誰々――

門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き

むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。


としとったお母さん

 

逝ってはいけない

としとったお母さん

このままいってはいけない

 

風にぎいぎいゆれる母子寮のかたすみ

四畳半のがらんどうの部屋

みかん箱の仏壇のまえ

たるんだ皮と筋だけの体をよこたえ

おもすぎるせんべい布団のなかで

終日なにか

呟いているお母さん

 

うそ寒い日が

西の方、己斐の山からやって来て

窓硝子にたまったくれがたの埃をうかし

あなたのこめかみの

しろい髪毛をかすかに光らせる

 

この冬近いあかるみのなか

あなたはまた

かわいい息子と嫁と

孫との乾いた面輪をこちらに向かせ

話しつづけているのではないだろうか

仏壇のいろあせた写真が

かすかにひわって

ほほえんで

 

きのう会社のひとが

ちょうどあなたの

息子の席のあったあたりから

金冠のついた前歯を掘り出したと

もって来た

お嫁さんと坊やとは

なんでも土橋のあたりで

隣組の人たちとみんな全身やけどして

ちかくの天満川へ這い降り

つぎつぎ水に流されてしまったそうな

あの照りつけるまいにちを

杖ついたあなたの手をひき

さがし歩いた影のないひろしま

瓦の山をこえ崩れた橋をつたい

西から東、南から北

死人を集めていたという噂の四つ角から

町はずれの寺や学校

ちいさな島の収容所まで

半ばやぶれた負傷者名簿をめくり

呻きつづけるひとたちのあいだを

のぞいてたずね廻り

ほんに七日め

ふときいた山奥の村の病院へむけて

また焼跡をよこぎっていたとき

いままで

頑固なほど気丈だったあなたが

根もとだけになった電柱が

ぶすぶすくすぶっているそばで

急にしゃがみこんだまま

「ああもうええ

もうたくさんじゃ

どうしてわしらあこのような

つらいめにあわにゃぁならんのか」

おいおい声をあげて

泣きだし

灰のなかに傘が倒れて

ちいさな埃がたって

ばかみたいな青い空に

なんにも

なんにもなく

ひと筋しろい煙だけが

ながながとあがっていたが……

 

若いとき亭主に死なれ

さいほう、洗いはり

よなきうどん屋までして育てたひとり息子

大学を出て胸の病気の五、六年

やっとなおって嫁をもらい

孫をつくって半年め

八月六日のあの朝に

いつものように笑って出かけ

嫁は孫をおんぶして

疎開作業につれ出され

そのまんま

かえってこない

あなたひとりを家にのこして

かえってこなかった三人

 

ああお母さん

としとったお母さん

このまま逝ってはいけない

焼跡をさがし歩いた疲れからか

のこった毒気にあてられたのか

だるがって

やがて寝ついて

いまはじぶんの呟くことばも

はっきり分らぬお母さん

 

かなしみならぬあなたの悲しみ

うらみともないあなたの恨みは

あの戦争でみよりをなくした

みんなの人の思いとつながり

二度とこんな目を

人の世におこさせぬちからとなるんだ

 

その呟き

その涙のあとを

ひからびた肋にだけつづりながら

このまま逝ってしまってはいけない

いってしまっては

いけない


炎の季節

 

FLASH!

全市が

焚きこまれた

マグネシュームのなかで

影絵のように崩れる。

 

音ではない

それは

フワリと

投げ出された意識。

埋められる瞬間の

とおい

おのれ、

 

千万の硝子の飛散。

鉛より重い古びた梁木

どたりと壁土が

とどめをさし、

外は

奇妙な灰色の

ぶざまにへしゃげた屋根の

電線の網の

人くさくて

人の絶えた

何里四方かの

死寂。

 

急に立ち上がった焦茶の山脈の

すり鉢の底に

つぶれた広島から

なんという奔騰!

もりあがり逆巻きゆれかえしおし上がり

雲・

雲・

雲・

赤・橙・紫・

はるか天頂で真紅の噴火。

博ちあい、

爆発し、

渦巻きあがる煙の地殻の裂目から

気圏へ沸騰する

大気!

はじめて地をつたう

ひびき、うめき、轟炸音!

 

ウラニュームU二三五号は

予定されたヒロシマの

上空五〇〇米に

人工の太陽を出現させ、

午前八時十五分は

たしかに

市民を

中心街の路上に密集せしめ。

 

ひろしまは

もう見えない。

陰毛のような煙の底、

二重にも三重にもふくれたりしぼんだり

明滅する太陽のもと、

焔の舌が這い廻り、

にんげんの

めくられた皮膚をなめ

旋風にはためく

黒い驟雨が

同属をよぶ唇を塞ぐ

列、

列、

不思議な虹をくぐって続く

幽霊の行列、

巣をこわされた蟻のように

市外へのがれる

道を埋め

両手を前に垂れ

のろのろと

ひとしきり

ひとしきり

かつて人間だった

生きものの行列。

空も地も失われた

熱風と異臭の空間を

七つに潜り流れる

ゆるい水の移動。

ごつごつと

ぶよぶよと

無限につづくものが

湾口の

島島につきあたる。

 

(ああ おれたちは

 魚ではないから

 黙って腹をかえすわけにはゆかぬ、

 ビキニ環礁が噴きあげた

 何万トンかの海水を映したのは

 豚・

 羊・

 猿・

 実験動物たちの

 きょとんとした目・目・目・だ)

 

日が焼けつく、

雨がしみ入る、

ひろいひろい瓦礫の三里四方

白骨と煉瓦屑をならして

たしかに

三尺ばかり

高くなったヒロシマ。

 

死者 二四七、〇〇〇。

行方不明 一四、〇〇〇。

負傷 三八、〇〇〇。

原爆遺跡ちんれつ所にころがる

灼けた石、

溶けた瓦、

へしゃげたガラスビン、

そして埃をかぶった

観光ホテルの都市計画パンフ。

 

しかし

一九五一年

きょうも燃えあがる雲。

それをかすめ

ふわりと浮上する

たしかあれは 白点二つ、

あ・あれだ!

地球の裏から無線でひもをつけた

原爆効果測定器の落下傘。

おれたち

ヒロシマ族の網膜から

消えることのない

あのあさの

らっかさんが

ふうわりと

雲のかげで

あそんでいる。


ちいさい子

 

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどこにいるのか

ふと躓いた石のように

あの晴れた朝わかれたまま

みひらいた眼のまえに

母さんがいない

くっきりと空を映すおまえの瞳のうしろで

いきなり

あの黒い雲が立ちのぼり

天頂でまくれひろがる

あの音のない光の異変

無限につづく幼い問のまえに

たれがあの日を語ってくれよう

 

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどこにいったか

近所に預けて作業に出かけた

おまえのことを

その執念だけにひかされ

焔の街をつっ走って来た両足うらの腐肉

湧きはじめた蛆を

きみ悪がる気力もないまま

仮収容所のくら闇で

だまって死んだ母さん

そのお腹におまえをおいたまま

南の島で砲弾に八つ裂かれた父さんが

別れの涙をぬりこめたやさしいからだが

火傷と膿と斑点にふくれあがり

おなじような多くの屍とかさなって悶え

非常袋のそれだけは汚れも焼けもせぬ

おまえのための新しい絵本

枕もとにおいたまま

動かなくなった

あの夜のことを

たれがおまえに話してくれよう

 

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどうしているのか

裸の太陽の雲のむこうでふるえ

燃える埃の、つんぼになった一本道を

降り注ぐ火弾、ひかり飛ぶ硝子のきららに

追われ走るおもいのなかで

心の肌をひきつらせ

口ごもりながら

母さんがおまえを叫び

おまえだけ

おまえだけにつたえたかった

父さんのこと

母さんのこと

そしていま

おまえをひとりにさせてゆく切なさを

たれがつたえて

つたえてくれよう

 

そうだわたしは

きっとおまえをさがしだし

その柔らかい耳に口をつけ

いってやるぞ

日本中の父さん母さんいとしい坊やを

ひとりびとりひきはなし

くらい力でしめあげ

やがて蠅のように

うち殺し

突きころし

狂い死なせたあの戦争が

どのようにして

海を焼き鳥を焼き

ひろしまの町を焼き

おまえの澄んだ瞳から、すがる手から

父さんを奪ったか

母さんを奪ったか

ほんとうにそのことをいってやる

いってやるぞ!


墓標

 

君たちはかたまって立っている

さむい日のおしくらまんじゅうのように

だんだん小さくなって片隅におしこめられ

いまはもう

気づくひともない

一本のちいさな墓標

 

「斉美小学校戦災児童の霊」

 

焼煉瓦で根本をかこみ

三尺たらずの木切れを立て

割れた竹筒が花もなくよりかかっている

 

AB広告社

CDスクーター商会

それにすごい看板の

広島平和都市建設株式会社

たちならんだてんぷら建築の裏が

みどりに塗った

マ杯テニスコートに通じる道の角

 

積み捨てられた瓦とセメント屑

学校の倒れた門柱が半ばうずもれ

雨が降れば泥沼となるそのあたり

もう使えそうもない市営バッラク住宅から

赤ン坊のなきごえが絶えぬその角に

 

君たちは立っている

だんだん朽ちる木になって

手もなく

足もなく

なにを甘え

なにをねだることもなく

だまって だまって

立っている

 

いくら呼んでも

いくら泣いても

お父ちゃんもお母ちゃんも

来てはくれなかっただろう

とりすがる手をふりもぎって

よその小父ちゃんは逃げていっただろう

重いおもい下敷きの

くらいくらい 息のできぬところで

(ああいったいどんなわるいいたずらをしたというのだ)

やわらかい手が

ちいさな頚が

石や鉄や古い材木の下で血を噴き

どんなにたやすくつぶされたことか

 

比治山のかげで

眼をお饅頭のように焼かれた友だちの列が

おろおろしゃがみ

走ってゆく帯剣のひびきに

へいたいさん助けて!と呼んだときにも

君たちにこたえるものはなく

暮れてゆく水槽のそばで

つれてって!と

西の方をゆびさしたときも

だれも手をひいてはくれなかった

 

そして見まねで水槽につかり

いちじくの葉っぱを顔にのせ

なんにもわからぬそのままに

死んでいった

きみたちよ

 

リンゴも匂わない

アメダマもしゃぶれない

とおいところへいってしまった君たち

<ほしがりません…

かつまでは>といわせたのは

いったいだれだったのだ!

 

「斉美小学校戦災児童の霊」

 

だまって立っている君たちの

その不思議そうな瞳に

にいさんや父さんがしがみつかされていた野砲が

赤錆びてころがり

クローバの窪みで

外国の兵隊と女のひとが

ねそべっているのが見えるこの道の角

向うの原っぱに

高くあたらしい塀をめぐらした拘置所の方へ

戦争をすまい、といったからだという人たちが

きょうもつながれてゆくこの道の角

 

ほんとうに なんと不思議なこと

君たちの兎のような耳に

そぎ屋根の軒から

雑音まじりのラジオが

どこに何百トンの爆弾を落したとか

原爆製造の予算が何億ドルにふやされたとか

増援軍が朝鮮に上陸するとか

とくとくとニュースをながすのがきこえ

青くさい鉄道草の根から

錆びた釘さえ

ひろわれ買われ

ああ 君たちは 片づけられ

忘れられる

かろうじてのこされた一本の標柱も

やがて土木会社の拡張工事の土砂に埋まり

その小さな手や

頚の骨を埋めた場所は

何かの下になって

永久にわからなくなる

 

「斉美小学校戦災児童の霊」

 

花筒に花はなくとも

蝶が二羽おっかけっこをし

くろい木目に

風は海から吹き

あの日の朝のように

空はまだ 輝くあおさ

 

君たちよ出てこないか

やわらかい腕を交み

起き上ってこないか

 

お婆ちゃんは

おまつりみたいな平和祭になんかゆくものかと

いまもおまえのことを待ち

おじいさまは

むくげの木陰に

こっそりおまえの古靴をかくしている

 

仆れた母親の乳房にしゃぶりついて

生き残ったあの日の子供も

もう六つ

どろぼうをして

こじきをして

雨の道路をうろついた

君たちの友達も

もうくろぐろと陽に焼けて

おとなに負けぬ腕っぷしをもった

 

負けるものか

まけるものかと

朝鮮のお友だちは

炎天の広島駅で

戦争にさせないための署名をあつめ

負けるものか

まけるものかと

日本の子供たちは

靴磨きの道具をすて

ほんとうのことを書いた新聞を売る

 

君たちよ

もういい だまっているのはいい

戦争をおこそうとするおとなたちと

世界中でたたかうために

そのつぶらな瞳を輝かせ

その澄みとおる声で

ワッ!と叫んでとび出してこい

そして その

誰の胸への抱きつかれる腕をひろげ

たれの心へも正しい涙を呼び返す頬をおしつけ

ぼくたちはひろしまの

ひろしまの子だ と

みんなのからだへ

とびついて来い!

★斉美小学校――軍人の子弟のみを集めていた学校


 

映画館、待合、青空市場

焼けては建ち、たっては壊れ皮癬のように拡がる

あんちゃんのヒロシマの

てらてら頭に油が溶ける

ノンストッキングの復興に

あちこちで見つけ添えられ

いち早く横文字の看板をかけられた

「原爆遺跡」のこれも一つ

 

ペンキ塗りの柵に囲まれた

銀行の石段の片隅

あかぐろい石の肌理にしみついた

ひそやかな紋様

 

あの朝

何万度かの閃光で

みかげ石の厚板にサッと焼きつけられた

誰かの腰

 

うすあかくひび割れた段の上に

どろどろと臓腑ごと溶けて流れた血の痕の

焦げついた影

 

ああ、あの朝

えたいの知れぬ閃光と高熱と爆煙の中で

焔の光と雲のかげの渦に揉まれ

剥げた皮膚を曳きずって這い廻り

妻でさえ子でさえ

ゆきあっても判らぬからだとなった

ひろしまの人ならば

此の影も

記憶の傷に這いずって

消えぬものであろうに

 

憐れに善良で

てんと無関心な市民のゆききのかたわらで

陽にさらされ雨に打たれ砂埃にうもれて

年ごとにうすれてゆくその影

入口の裾に「遺跡」を置く銀行は

ざらざらと焼けた石屑ガラス屑を往来に吐き出し

大仕掛な復旧工事を完成して

巨大な全身を西日に輝かせ

すじ向いの広場では

人を集める山伏姿の香具師

 

「ガラスの蔽いでもしなければ消えてしまうが」と

当局はうそぶいて

きょうも

ぶらぶらやって来たあちらの水平たちが

白靴を鳴らして立ち止り

てんでにシャッターを切ってゆくと

あとから近寄ってきたクツミガキの子が

(なァんだ!)という顔で

柵の中をのぞいてゆく


 

黒眼鏡をとると瞼がめくれこんで癒着した傷痕のあいだから

にじみ出る涙があった

あの収容所で、凝りついた血をしめらせ

顔いっぱいに巻いた白布を一枚宛ほどき最後のガーゼをめくると

ひとつの臓腑であった両眼が、そのままのかたちで癒えてうすいしずくをしみ出し

失った妻子のことをいう指先が手巾をさぐって顫(ふる)えていた

 

<ここはどこ、どんなところです?>死体置場から運ばれて来て

最初に意識をとり戻したときと同じ言葉を

また口にしながら

太い青竹をとりなおし、ゲートルの脚先でしきいをさぐり

そろそろと出ていった

 

――こうされたことも共に神に免されねばならぬ――

――ひとり揉めば五十円になる、いまに銀めしをごちそうします――

カトリックに通い、あんまを習い、すべての遍歴は年月の底に埋れて

ある冬近い日暮れ

束ね髪の新しい妻に手をひかれた兵隊服の姿を電車の中から見た

 

<ここはどこ、どんなところです?>それは街の騒音の中で

自分の均衡をたしかめるように立止り

中折帽の顔だけを空の光りへ向け

たえず妻に何かを訊ねかけているように見えた

さらに数年、ふたたび北風の街角で向うからやってくる

その姿があった

それは背中を折りまげ予備隊の群をさけながら

おどろくほどやつれた妻の胸にしっかりと片腕を支えられ

真直に風に向って

何かに追いつこうとするように足早に通っていった

 

黒眼鏡の奥、皮膚のしわからにじみ出るものは、とおく渇れつくして

そのまま心の中を歩いてゆく

苦痛の痕跡であった


河のある風景

 

すでに落日は都市に冷い

都市は入江の奥に 橋を爪立たせてひそませる

夕昏れる住宅の稀薄のなかに

時を喪った秋天のかけらを崩して

河流は 背中をそそけだてる

 

失われた山脈は みなかみに雪をかずいて眠る

雪の刃は遠くから生活の眉間に光をあてる

妻よ 今宵もまた冬物のしたくを嘆くか

枯れた菊は 花瓶のプロムナードにまつわり

生れる子供を夢みたおれたちの祭りもすぎた

 

眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に

白骨を地ならした此の都市の上に

おれたちも

生きた 墓標

 

燃えあがる焔は波の面に

くだけ落ちるひびきは解放御料の山襞に

そして

落日はすでに動かず

河流は そうそうと風に波立つ


 

ゆめみる、

閃光の擦痕に汗をためてツルハシの手をやすめる労働者はゆめみる

皮膚のずりおちた腋臭をふと揮発させてミシンの上にうつぶせる妻はゆめみる

蟹の脚のようなひきつりを両腕にかくして切符を切る娘もゆめみる

ガラスの破片を頚に埋めたままの燐寸売りの子もゆめみる

 

瀝青ウラン、カルノ鉱からぬき出された白光の原素が

無限に裂けてゆくちからのなかで

飢えた砂漠がなみうつ沃野にかえられ

くだかれた山裾を輝く運河が通い

人工の太陽のもと 極北の不毛の地にも

きららかな黄金の都市がつくられるのをゆめみる、

働くものの憩いの葉かげに祝祭の旗がゆれ

ひろしまの伝説がやさしい唇に語られるのをゆめみる、

 

噴火する地脈 震動する地殻のちからを殺戮にしか使いえぬ

にんげんの皮をかぶった豚どもが

子供たちの絵物語りにだけのこって

火薬の一千万倍 一グラム一〇、〇〇〇、〇〇〇のエネルギーが

原子のなかから人民の腕に解き放たれ

じんみんのへいわのなかで

豊饒な科学のみのりが

たわわな葡萄の房のように

露にぬれて

抱きとられる

朝を

ゆめみる


微笑

 

あのとき あなたは 微笑した

あの朝以来 敵も味方も 空襲も火も

かかわりを失い

あれほど欲した 砂糖も米も

もう用がなく

人々の ひしめく群の 戦争の囲みの中から爆じけ出された あなた

終戦のしらせを

のこされた唯一の薬のように かけつけて囁いた

わたしにむかい

あなたは 確かに 微笑した

呻くこともやめた 蛆まみれの体の

睫毛もない 瞼のすきに

人間のわたしを 遠く置き

いとしむように湛えた

ほほえみの かげ

 

むせぶようにたちこめた膿のにおいのなかで

憎むこと 怒ることをも奪われはてた あなたの

にんげんにおくった 最後の微笑

 

そのしずかな微笑は

わたしの内部に切なく装填され

三年 五年 圧力を増し

再びおし返してきた戦争への力と

抵抗を失ってゆく人々にむかい

いま 爆発しそうだ

 

あなたのくれた

その微笑をまで憎悪しそうな 烈しさで

おお いま

爆発しそうだ!


一九五〇年の八月六日

 

走りよってくる

走りよってくる

あちらからも こちらからも

腰の拳銃を押えた

警官が 馳けよってくる

 

一九五〇年の八月六日

平和式典が禁止され

夜の町角 暁の橋畔に

立哨の警官がうごめいて

今日を迎えた広島の

街の真中 八丁堀交差点

Fデパートのそのかげ

 

供養塔に焼跡に

花を供えて来た市民たちの流れが

忽ち渦巻き

汗にひきつった顎紐が

群衆の中になだれこむ、

黒い陣列に割られながら

よろめいて

一斉に見上るデパートの

五階の窓 六階の窓から

ひらひら

ひらひら

夏雲をバックに

蔭になり 陽に光り

無数のビラが舞い

あお向けた顔の上

のばした手のなか

飢えた心の底に

ゆっくりと散りこむ

 

誰かがひろった、

腕が叩き落した、

手が空中でつかんだ、

眼が読んだ、

労働者、商人、学生、娘

近郷近在の老人、子供

八月六日を命日にもつ全ヒロシマの

市民群衆そして警官、

押し合い 怒号

とろうとする平和のビラ

奪われまいとする反戦ビラ

鋭いアピール!

 

電車が止る

ゴーストップが崩れる

ジープがころがりこむ

消防自動車のサイレンがはためき

二台 三台 武装警官隊のトラックがのりつける

私服警官の堵列するなかを

外国の高級車が侵入し

デパートの出入口はけわしい検問所とかわる

 

だがやっぱりビラがおちる

ゆっくりと ゆっくりと

庇にかかったビラは箒をもった手が現れて

丁寧にはき落し

一枚一枚 生きもののように

声のない叫びのように

ひらり ひらりと

まいおちる

 

鳩を放ち鐘を鳴らして

市長が平和メッセージを風に流した平和祭は

線香花火のように踏み消され

講演会、

音楽会、

ユネスコ集会、

すべての集りが禁止され

武装と私服の警官に占領されたヒロシマ、

 

ロケット砲の爆煙が

映画のスクリーンから立ちのぼり

裏町から 子供もまじえた原爆反対署名の

呼び声が反射する

一九五〇年の八月六日の広島の空を

市民の不安に光りを撒き

墓地の沈黙に影を映しながら、

平和を愛するあなたの方へ

平和をねがうわたしの方へ

警官をかけよらせながら、

ビラは降る

ビラはふる


 

視野を包囲し

視神経を疼かせ

粟粒するひろしまの灯

盛りあがった傷痕の

ケロイドのつるつるの皮膚にひきつって

濡れた軌条がぬたくり

臓物の臭う泥道に

焼け焦げた並木の樹幹からぶよぶよの芽が吹き

霖雨の底で

女の瞳は莨の火よりもあかく

太股に崩れる痣をかくさぬ

 

ひろしまよ

原爆が不毛の隆起を遺すおまえの夜

女は孕むことを忘れ

おれの精虫は尻尾を喪い

ひろしまの中を煌く租借地

比治山公園の樹影にみごもる

原爆傷害調査委員会のアーチの灯が

離胎する高級車のテールライトに

ニューメキシコ沙漠の土民音楽がにじむ

夜霧よ

 

(彼方河岸の窓の額縁に

 のびあがって 花片を脱ぎ

 しべをむしり

 猫族のおんなは

 ここでも夜のなりわいに入る)

 

眼帯をかけた列車を憩わせる駅の屋上で

移り気な電光ニュースは

今宵も盲目文字を綴り

第二、第三、第百番めの原爆実験をしらせる

どこからかぽたぽたと血をしたたらせながら

酔っぱらいがよろめき降る

河岸の暗がり

揺れきしむボート

その中から

つと身を起すひょろ長い兵士

屑鉄漁りの足跡をかくし

夜汐は海からしのび寄せる

 

蛾のように黝(うすぐろ)く

羽ばたきだけで空をよぎるものもあって

夜より明け方へ

あけがたより夜の闇へ

遠く吊るされた灯

墜ちようとしてひっかかった灯

おびえつつ忘れようとしている灯

ぶちまけられた泡沫の灯

慄える灯 瀕死の灯

一刻ずつ一刻ずつ

血漿を曳き這いずり

いまもあの日から遠ざかりながら

何処ともなくいざり寄るひろしまの灯

歴史の闇に

しずかに低く

ひろしまの灯は溢れ


巷にて

 

おお そのもの

遠ざかる駅の巡査を

車窓に罵りあうブローカー女たちの怒り

 

くらがりにかたまって

ことさらに嬌声をあげるしろい女らの笑い

傷口をあさえもせず血をしたたらせ

よろめいていった酔っぱらいのかなしみ

それらの奥に

それらのおくに

 

ひとつき刺したら

どっと噴き出そうなそのもの!


ある婦人へ

 

裂けた腹をそらざまに

虚空を踏む挽馬の幻影が

水飼い場の石畳をうろつく

輜重隊あとのバラック街

 

溝露路の奥にあなたはかくれ住み

あの夏以来一年ばかり

雨の日の傘にかくれる

病院通い

透明なB29の影が

いきなり顔に墜ちかかった

閃光の傷痕は

瞼から鼻へ塊りついて

あなたは

死ぬまで人にあわぬという

 

崩れる家にもぎとられた

片腕で編む

生活の毛糸は

どのような血のりを

その掌に曳くのか

 

風車がゆるやかに廻り

菜園に子供があそぶこの静かな町

いく度か引返し

今日こそあなたを尋ねゆく

この焼跡の道

 

爬虫のような隆起と

柔毛一本生えぬてらてらの皮膚が

うすあかい夕日の中で

わたくしの唇に肉親の骨の味を呼びかえし

暑さ寒さに疼きやまぬその傷跡から

臭わしい膿汁をしたたらせる

固いかさぶたのかげで

焼きつくされた娘心を凝らせるあなたに対い

わたしは語ろう

その底から滲染み出る狂おしい希いが

すべての人に灼きつけられる炎の力を

その千の似姿が

世界の闇を喰いつくす闘いを

 

あたらしくかぶさる爆音のもと

わたしは語ろう

わたしの怒り

あなたの呪いが

もっとも美しい表情となる時を!


景観

 

ぼくらはいつも燃える景観をもつ

 

火環列島の砂洲の上の都市

 

ビルディングの窓は色のない炎を噴き

ゴーストップが火に飾られた流亡の民を堰止めては放出する

煙突の火の中に崩れ 火焔に隠れる駅の大時計

突端の防波堤の環に 火を積んで出入りする船 急に吐く音のない 炎の汽笛

列車が一散に曳きすってゆくのも カバーをかけた火の包茎

女はまたぐらに火の膿を溜め 異人が立止まってライターの火をふり撒くと

われがちにひろう黒服の乞食ども

ああ あそこでモクひろいのつかんだ煙草はまだ火をつけている

 

ぼくらはいつも炎の景観に棲む

この炎は消えることがない

この炎は止むことがない

そしてぼくらも もう炎でないと誰がいえよう

 

夜の満都の灯 明滅するネオンの熾きのうえ トンネルのような闇空に

かたまってゆらめく炎の気配 犇く異形の兄弟

ああ足だけの足 手だけの手 それぞれに炎がなめずる傷口をあけ 

最後に脳が亀裂し 銀河は燃え

崩れる

炎の薔薇 あおい火の粉

疾風の渦巻き

一せいに声をあげる闇

怨恨 悔 憤怒 呪詛 憎悪 哀願 号泣

すべてのうめきが地を博ってゆらめきあがる空

ぼくらのなかのぼくら もう一人のぼく 焼け爛れたぼくの体臭

きみのめくれた皮膚 妻の禿頭 子の斑点 おお生きている原子族

人間ならぬ人間

 

ぼくらは大洋の涯 環礁での実験にも飛び上がる

造られる爆弾はひとつ宛 黒い落下傘でぼくらの坩堝に吊りさげられる

舌をもたぬ炎の踊り

肺のない舌のよじれ

歯が唇に突き刺さり 唇が火の液体を噴き

声のない炎がつぎつぎと世界に拡がる

ロンドンの中に燃えさかるヒロシマ

ニューヨークの中に爆発するヒロシマ

世界に瀰漫する声のない踊り 姿態の憤怒

ぼくらはもうぼくら自体 景観を焼きつくす炎

森林のように 火泥のように

地球を蔽いつくす炎だ 熱だ

 

そして更に練られる原子爆弾のたくらみを

圧殺する火塊だ 狂気だ


呼びかけ

 

いまでもおそくはない

あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない

あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の傷手から

したたりやまぬ涙をあなたがもつなら

いまもその裂目から どくどくと戦争を呪う血膿をしたたらせる

ひろしまの体臭をあなたがもつなら

 

焔の追ったおも屋の下から

両手を出してもがく妹を捨て

焦げた衣服のきれはしで恥部をおおくこともなく

赤むけの両腕をむねにたらし

火をふくんだ裸足でよろよろと

照り返す瓦礫の沙漠を

なぐさめられることのない旅にさまよい出た

ほんとうのあなたが

 

その異形の腕をたかくさしのべ

おなじ多くの腕とともに

また墜ちかかろうとする

呪いの太陽を支えるのは

いまからでもおそくはない

 

戦争を厭いながらただずむ

すべての優しい人々の涙腺を

死の烙印をせおうあなたの背中で塞ぎ

おずおずとたれたその手を

あなたの赤むけの両掌で

しっかりと握りあわせるのは

さあ

いまでもおそくはない


その日はいつか

 

 

熱い瓦礫と、崩れたビルに

埋められた道が三方から集り

銅線のもつれる黒焦の電車をころがして交叉する

広島の中心、ここ紙屋町広場の一隅に

かたづけ残されころがった 君よ、

 

音といっては一かけらの瓦にまでひび入るような暑さの気配

動くものといっては眼のくらむ八月空に

かすれてあがる煙

あとは脳裏を灼いてすべて死滅したような虚しさのなか

君は 少女らしく腰をくの字にまげ

小鳥のように両手で大地にしがみつき

半ば伏さって死んでいる、

 

裸になった赤むけの屍体ばかりだったのに

どうしたわけか君だけは衣服をつけ

靴も片方はいている、

少し煤けた肩頬に髪もふさふさして

爛れたあとも血のいろも見えぬが

スカート風のもんぺのうしろだけが

すっぽり焼けぬけ

尻がまるく現れ

死のくるしみが押し出した少しの便が

ひからびてついていて

影一つないまひるの日ざしが照し出している、

 

 

君のうちは宇品町

日清、日露の戦争以来

いつも日本の青年が、銃をもたされ

引き裂かれた愛の涙を酒と一緒に涙にこぼし

船倉に積みこまれ死ににいった広島の港町、

 

どぶのにおいのたちこめる

ごみごみ露路の奥の方で

母のないあと鋳物職人の父さんと、幼い弟妹たちの母がわり

ひねこびた植物のようにほっそり育ち

やっと娘になってきたが

戦争が負けに近づいて

まい晩日本の町々が藁束のように焼き払われるそのなかで

なぜか広島だけ焼かれない、

不安と噂の日々の生活、

 

住みなれた家は強制疎開の綱でひき倒され

東の町に小屋借りをして一家四人、

穴に埋めた大豆を噛り、

鉄道草を粥に炊き、

水攻めの噂におびえる大人に混って

竹筒の救命具を家族の数だけ争ったり

空襲の夜に手をつないで逃げ出し

橋をかためる自警団に突き倒されたり

右往左往のくらしの日々、

狂いまわる戦争の力から

必死になって神経痛もちの父を助け、幼い弟妹を守ろうとした

少女のその手、そのからだ、

 

 

そして近づく八月六日、

君は知ってはいなかった、

日本の軍隊は武器もなく南の島や密林に

飢えと病気でちりぢりとなり

石油を失った艦船は島蔭にかくれて動けず

国民の全部は炎の雨を浴びほうだい

ファシストたちは戦争をやめる術さえ知らぬ、

君は知ってはいなかった

ナチを破ったソヴェートの力が

不可侵条約不延期のしらせをもって

帝国日本の前に立ち塞がったとき

もう日本の降伏は時間の問題にすぎないと

世界のまなこに映っていたのを

 

君は知ってはいなかった、

ハーケンクロイツの旗が折れ

ベルリンに赤旗が早くもあがったため

三ヶ月後ときめられたソヴェートの参戦日が

歴史の空に大きくはためきかけたのを

 

<原爆投下は急がれる

 その日までに自分の手で日本を叩きつぶす必要を感じる

 暗くみにくい意志のもと

 その投下は急がれる

 七月十六日、ニューメキシコでの実験より

 ソヴェートの参戦日までに

 時間はあまりに僅かしかない!>

 

 

あのまえの晩 五日の深夜、広島を焼き払うと

空より撒かれた確かな噂で

周囲の山や西瓜畑にのがれ夜明しをした市民は

吠えつづけるサイレンに脅かされながらも

無事な明け方にほっとして家に引返し

のぞみのない今日の仕事へ出かけようと町に道路に溢れはじめた

その朝 八月六日、その時間

 

君は工場へ父を送り出し

中学に入ったばかりの弟に弁当をつめてやり

それから小さい妹を

いつものように離れた町の親戚へ遊びにやって

がたつく家の戸に鍵をかけ

動員の自分の職場へ

今日も慣れぬ仕事に叱られに出た、

 

君は黙って途中まで足早に来た、

何かの気配でうつ伏せたとき

閃光は真うしろから君を搏ち

埃煙がおさまり意識が返ると

それでも工場へ辿りつこうと

逃げてくる人々の波を潜り此処まで来て仆れた

この出来事の判断も自分の中に畳みこみ

そのまま素直に眼を閉じた、

 

少女の思いのそのなかで

そのとき何がたしかめられよう

その懸命な頭の中で、どうして原子爆弾が計られよう

その手は未来にあこがれながら地に落ちた小鳥のように

手首をまげて地上にひろげられ

その膝は

こんなところにころがるのが、さも恥しいというように

きちんと合わせてちぢめられ

おさげに編んだ髪だけが

アスファルトの上に乱れて、

 

もの心ついてから戦争の間で育ち

つつましくおさえられて来たのぞみの虹も焼けはて

生き、働いていることが殊さら人に気づかれぬほどの

やさしい存在が

地上いちばんむごたらしい方法で

いまここに 殺される、

 

<ああそれは偶然ではない、天災ではない

 世界最初の原子爆弾は正確無比な計画と

 あくない野望の意志によって

 日本列島の上、広島、長崎をえらんで投下され

 のたうち消えた四十万きょうだいの一人として

 君は死ぬる、>

 

きみはそのとき思ったろうか

幼いころのどぶぞいのひまわりの花を

母さんの年に一度の半襟の香を

戦争がひどくなってからの妹のおねだりを

倉庫のかげで友達とつけては拭いた口紅を

はきたかった花模様のスカートを、

そして思いもしたろうか

此のなつかしい広島の、広場につづく道がやがてひろげられ

マッカーサー道路と名づけられ

並木の柳に外国兵に体を売る日本女のネッカチーフが

ひらひらからんで通るときがくるのを、

そしてまた思い嘆きもしたろうか

原子爆弾を落さずとも

戦争はどうせ終わっただろうにと、

 

いいえどうしてそのように考えることが出来よう

生き残っている人々でさえ

まだまだ知らぬ意味がある、

原爆二号が長崎に落されたのは

ソヴェート軍が満州の国境を南にむけて

越えつつあった朝だったこと

数年あとで原爆三号が使われようとした時も

ねらわれたのはやはり

顔の黄色い人種の上だったということも、

 

 

ああそれは偶然ではない、天災ではない

人類最初の原爆は

緻密な計画とあくない野望の意志によって

東洋の列島、日本民族の上に

閃光一閃投下され

のたうち消えた四十万の犠牲者の一人として

君は殺された、

 

殺された君のからだを

抱き起そうとするものはない

焼けぬけたもんぺの羞恥を蔽ってやるものもない

そこについた苦悶のしるしを拭ってやるものは勿論ない

つつましい生活の中の闘いに

せい一ぱい努めながら

つねに気弱な微笑ばかりに生きて来て

次第にふくれる優しい思いを胸におさえた

いちばん恥じらいやすい年頃の君の

やわらかい尻が天日にさらされ

ひからびた便のよごれを

ときおり通る屍体さがしの人影が

呆けた表情で見てゆくだけ、

 

それは残酷

それは苦悩

それは悲痛

いいえそれより

この屈辱をどうしよう!

すでに君は羞恥を感ずることもないが

見たものの眼に灼きついて時と共に鮮やかに

心に沁みる屈辱、

それはもう君をはなれて

日本人ぜんたいに刻みこまれた屈辱だ!

 

 

われわれはこの屈辱に耐えねばならぬ、

いついつまでも耐えねばならぬ、

ジープに轢かれた子供の上に吹雪がかかる夕べも耐え

外国製の鉄甲とピストルに

日本の青春の血潮が噴きあがる五月にも耐え

自由が鎖につながれ

この国が無期限にれい属の縄目をうける日にも耐え

 

しかし君よ、耐えきれなくなる日が来たらどうしよう

たとえ君が小鳥のようにひろげた手で

死のかなたからなだめようとしても

恥じらいやすいその胸でいかに優しくおさえようとしても

われわれの心に灼きついた君の屍体の屈辱が

地熱のように積み重なり

野望にみちたみにくい意志の威嚇により

また戦争へ追いこまれようとする民衆の

その母その子その妹のもう耐えきれぬ力が

平和をのぞむ民族の怒りとなって

爆発する日が来る。

 

その日こそ

君の体は恥なく蔽われ

この屈辱は国民の涙で洗われ

地上に溜った原爆の呪いは

はじめてうすれてゆくだろうに

ああその日

その日はいつか。


希い――「原爆の図」によせて

 

この異形のまえに自分を立たせ

この酷烈のまえに自分の歩みを曝させよう

 

夏を追って迫る声は闇よりも深く

絵より絵へみちた涙はかわくことなく重く

まざまざと私はこの書中に見る

逃れていった親しい人々 死んでいった愛する人たちの顔を

 

むらがる裸像の無数の悶えが

心にまといつくおののきのなかで

焔の向うによこたわったままじっと私を凝視するのは

たしかわたし自身の眼!

 

ああ歪んだ脚をのべさせ

裸の腰を覆ってやり

にぎられた血指の一本々々を解きほぐそうとするこの心を

誰がはばみえよう

 

滅びゆく日本の上に新しい戦争への威嚇として

原爆の光りが放たれ

国民二十数万の命を瞬時に奪った事実に対し

底深くめざめゆく憤怒を誰が圧ええよう

 

この図のまえに自分の歩みを誓わせ

この歴史のまえに未来を悔あらしめぬよう


あとがき

 

 私は一九四五年の八月六日の朝、爆心地より三千米あまり離れた町の自宅から、市の中心部に向って外出する直前原爆を受け、硝子の破片創と数ヶ月の原爆症だけで生き残ったのであるが、その時広島市の中心より約二千米半径以内にいた者は、屋内では衝撃死又は生埋めにされたまま焼死し、街路では消滅、焦死あるいは火傷して逃れたまま一週間ぐらいの間に死に、その周辺にいた者は火傷及び原爆症によって数ヶ月以内に死亡、更にそれより遠距離にいた者が辛うじて生き残り、市をとり巻く町村の各家庭では家族の誰かを家屋疎開の後片づけに隣組から出向かせていたため骨も帰らぬこととなった。またその数日前ある都市の空襲の際撒かれたビラによるという、五日の夜広島が焼き払われるという噂や、中学校、女学校下級生たちの疎開作業への動員がこの惨事を更に悲痛なものとさせたのである。

 今はすべての人が広島で二十万ほどの人間が一発の原子爆弾によって殺されたことを知っている。長崎でもそうだ。然しそれは概括的な事実のみであってその出来事が大きければ大きいだけに、直面すれば何人でも慟哭してもしきれぬであろうこの実感を受けとることは出来ない。当時その渦中にあった私でさえこの惨事の全貌を体で知ることは出来なかったし、今ではともすれば回想のかたちでしか思いえぬ時間の距りと社会的環境の変転をもった。

 だがこの回想は嘆きと諦めの色彩を帯びながらも、浮動してゆく生活のあけくれ、残された者たちの肩につみ重ねられてゆく重荷の中で常に新しい涙を加え、血のしたたりを増してゆく性質をもち、また原爆の極度に残虐な経験による恐怖と、それによって全く改変された戦争の意味するものに対する不安と洞察によって、涸れた涙が、凝りついた血が、ごつごつと肌の裏側につき当るような特殊な底深さをもつものとなっている。

 今年もやがてなくなった人たちの八周忌が近づく。広島では多くの家庭が、一度に応じきれぬ寺院の都合を思い、繰り上げたり繰り延したりしていとなむ法事をそろそろひらきはじめる頃であるが、その座に坐った人たちの閉された心の底にどのような疼きが鬱積しつつあるかということを果して誰が知り得るであろうか。それはすでに決して語られることのないことば、決して流されることのない涙となっているゆえに一層深く心の底に埋没しながら、展開する歴史の中で、意識すると否とに拘らずいまや新しいかたちをとりつつあり、この出来事の意味は人類の善意の上に理性的な激しい拡大性をもって徐々に深大な力を加えつつあるのである。

 私はこの稿をまとめてみながら、この事に対する詩をつくる者としての六年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく、この出来事の実感を伝えこの事実の実体をすべての人の胸に打ちひろげて歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の、過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに役立つべくあまりに力よわいことを恥じた。

 然しこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中にどんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱいの贈り物である。どうかこの心を受け取って頂きたい。

 尚つけ加えておきたいことは、私が唯このように平和へのねがいを詩にうたっているというだけの事で、いかに人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬ如く時代が逆行しつつあるかということである。私はこのような文学活動によって生活の機会を殆んど無くされている事は勿論、有形無形の圧迫を絶えず加えられており、それはますます増大しつつある状態である。この事は日本の政治的現状が、いかに人民の意志を無視して再び戦争へと曳きずられつつあるかということの何よりの証明にほかならない。

 又私はいっておきたい。こうした私に対する圧迫を推進しつつある人々は全く人間そのものに敵対する行動をとっているものだということを。

 この詩集はすべての人間を愛する人たちへの贈り物であると共に、そうした人々への警告の書でもある。

  一九五二年五月一〇日

                                  峠 三吉


HP管理者より:テキストは『新編 峠三吉原爆詩集(解説 中野重治・鶴見俊輔)』(青木書店、1995年)を底本としました。なお、入力にあたっては、福田真紀子さんの協力を得ました。

 以下のページもご参照下さい。

「峠三吉年譜」

峠三吉没後50年記念文学資料展

池田正彦・松尾雅嗣「峠三吉東京資料:峠資料電子化の文脈で」

好村冨士彦「解説 峠三吉の遺稿「生」について--「ちちをかえせ」が成立するまで」

好村冨士彦「『原爆詩集』の成立に立ち会う」

好村冨士彦「追悼 峠三吉」

好村冨士彦「反核の詩人峠三吉 没後30年に思う 」

好村冨士彦「死者はいつまでも若い 」

御庄博実「峠三吉とその時代」

池田正彦「峠三吉没後50年、文学資料展から見えてくるもの」

池田正彦「苦難の『原爆詩集』--再評価したい峠三吉」

寺島洋一「峠三吉の人と作品」

朝倉勇「峠三吉『原爆詩集』をめぐって」

 また、2003年、「中国新聞」に掲載された峠三吉関連の記事は以下の通りです。

「原爆詩に「継承」誓う」(「中国新聞」2003年7月21日)

「終えんの地、東広島で峠三吉展 8月3日から」(「中国新聞」2003年7月14日)

「峠三吉の願い継承 没後50年展開幕/広島」(「中国新聞」2003年4月17日)

「峠三吉の未発表詩 広島で発見」(「中国新聞」2003年4月12日)