

好村冨士彦
1987年に発見された峠三吉の遺稿等の中で、一番目を引いたのは「生」と題された未発表の草稿(1)である。これが重要なのは、峠の『原爆詩集』の中でももっともよく知られている冒頭の「序」の詩の原型と目されるからである。次に参考のため「序」(2)をあげておく。

「生」のなかの「父をかえせ 母をかえせ」や「としよりをかえせ 子供をかえせ」が「序」の冒頭の部分の詩句になっていったことは確かである。
ところで、峠の同じ時発見された遺稿に、題名はついていないが「会社へと 食物あさりにと」で始まるほとんど同じような草稿(3)がある。「生」と題のついた「勤めえと 食物あさりえと」で始まるのをA稿とし、無題の「会社へと 食物あさりにと」で始まるのをB稿とする。
Aは『原爆詩集』の清書稿に用いられたのと同じ上質の紙にペン書き(といっても万年筆が使われたようだ--濃淡がない)で清書されている。
これに対してBは粗末なザラ紙の左半分にかなり乱暴に鉛筆で書きなぐられてあり、書き直した部分で重複するところも、抹消されずそのままになっている。
両者を見較べれば、Bが先に、いわば下書き的に書かれ、Aが後に書かれたことは、容易に見てとれる。内容的に見てもAは表現が整理され、より肉付けがなされ、作品としてはるかにBより完成している。
しかしたんにAの下書きのような存在のBも、「序」との関連で見るとき重要性を帯びてくる。というのは「序」の骨格をなしている詩句「ちちをかえせ ははをかえせ」「としよりをかえせ こどもをかえせ」「わたしをかえせ」「にんげんをかえせ」がBのなかにすでにそのまま表出されているからである。(Aでは「わたしをかえせ」「にんげんをかえせ」は別の表現になっている。)
Aが当初は『原爆詩集』に入れる詩のひとつとして書かれていたことは確かである。峠が残している『原爆詩集』の早い段階の目次の手稿には、この「生」は入っていたが、後に削除されたようだ。Aの紙の裏面にあの有名な詩「一九五○年の八月六日」が走り書きされている。その詩稿の左はじに峠の字で「原爆詩集は広島だけで終わらしたい」と書かれてある。この裏面の書きこみによってA稿は1950年8月6日以前に書かれたことが推定される。
このBからAを経て「序」にいたるまでの推移に、私たちは峠の身を削るような推敲を想像することができる。
「序」に較べると、Bにおいても、Aにおいても状況的なものが具体的にリアルに描きこまれている。「序」ではこれら個々のリアルなディテールを思い切って切り捨てている。そのうえ「父」「母」「子供」という漢字表記をやめて、詩全体をひらがな書きにしてしまっている。
そのことによってこれらの名詞は抽象的になり、メールヘン的な性格をさえおびるにいたった。その結果「序」の詩はいちだんと普遍性をまし、『原爆詩集』の冒頭に置かれるにふさわしい、簡潔で力強いものとなった。
またBからAを経て「序」にいたる峠の創作の過程をたどることによって、この「序」についてかつて一部で言われていたような模倣説も、実証的に否定されることになる。
なお「序」は広島市の平和公園内の峠三吉碑の表に刻まれている。そしてこの詩は1978年国連軍縮総会のNGOデーで日本代表田中里子さんの演説の中で引用され、世界の人びとに感銘を与えた。また1997年には女優吉永小百合さんの朗読によるヒロシマの原爆の詩を集めたCD『第二楽章』(4)が発売され、「序」はその冒頭に置かれ、今も日本中の多くの人びとに強い印象を与え続けている。
註:
(1)広島市立中央図書館蔵。『峠三吉資料目録』広島市立中央図書館 平成2年3月31日刊、147ページ、資料番号2280。
(2)峠三吉『原爆詩集』初版(孔版)の復刻版 峠三吉記念事業委員会、1992年(没後40年記念)、ページ記入なし。(次の「八月六日」がノンブル、1となっている。)
(3)広島市立中央図書館蔵。前掲『峠三吉資料目録』、147ページ、資料番号2279。(なお『目録』での資料名は〈詩「生」(草稿)〉となっているが、より正確にはたんに〈詩草稿〉とするか、〈詩草稿、無題、「生」2280の未定稿か〉とすべきだろう。)
(4)『第二楽章』朗読:吉永小百合、ビクターエンタテインメント株式会社、VICL-60050。
(2002年4月23日)
(2002年6月20日改訂)