峠三吉 年譜
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西暦(年号) |
年齢 |
事 項 |
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1917(大 6 ) |
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2月19日、父嘉一、母ステの第5子として大阪府豊能郡岡町(現・豊中市)に生まれる。命名は伯父、信吉によって三吉(さんきち)とされたが、母ステはこれでは軽いと「みつよし」と呼称。広島県国泰寺村に移る。まもなく広島市大手町に移る。父嘉一は宮島耐火煉瓦創業。日本ホロタイル専務取締役。 |
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1922(大 11) |
5歳 |
百日咳にかかり死に瀕する。 |
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1923(大 12 ) |
6歳 |
広島市大手町尋常高等小学校入学。兄姉は4人とも高等師範付属小学校に進んだが、三吉だけは病弱のため家から近い学校とされた。 |
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1925(大 14 ) |
8歳 |
担任に、のち作家となる若杉慧あり。この頃より文学を好み、小倉百人一首を暗記する。 |
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1927(昭 2 ) |
10歳 |
"母ステ(44歳)、敗血症で病没。父嘉一の煉瓦工場の事業傾く。長兄一夫、第三高等学校(現・京都大学)に進学。長姉嘉子、三戸直(住友銀行勤務)と結婚。 |
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1928(昭 3 ) |
11歳 |
次兄匡、修道中学校に入学。一夫、左翼活動(社会科学研究会)に身を投ずる。 |
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1929(昭 4 ) |
12歳 |
広島市大手町尋常小学校卒業。一夫、三高を放校処分となる。 |
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1930(昭 5 ) |
13歳 |
廣島県立商業学校に入学。 |
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1931(昭 6 ) |
14歳 |
この頃より詩作を始め、島崎藤村、佐藤春夫らを好む。 |
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1935(昭10 ) |
18歳 |
廣島県立商業学校を卒業。廣島ガスに入社(1日出社)するが、発熱喀血し肺結核と診断される。 |
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1936(昭11) |
19歳 |
病床で詩、短歌、俳句を多く書き、新聞、雑誌に投稿する。 |
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1937(昭12) |
20歳 |
「俳句文学」の同人となり、左部赤城子(九州)に師事する。 |
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1938(昭13) |
21歳 |
「事変俳句川柳一万句集」に投稿入選。一夫一家が満州に渡る。 |
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1942(昭17) |
25歳 |
嘉子の影響でキリスト教の洗礼を受ける。朝島雨之輔の指導を受け詩、童話をものする。 |
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1943(昭18) |
26歳 |
病気は一進一退。作品を書いては発熱、喀血する状態を繰り返す。 |
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1944(昭19) |
27歳 |
戦況の悪化する中、父嘉一と共に次姉の今井家(横浜市で城南航器を経営)に身を寄せる。 |
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1945(昭 20) |
28歳 |
東京大空襲。横浜の城南航器の工場全焼。父と共に三戸家(長姉の婚家・広島市翠町)と同居。
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1946(昭 21) |
29歳 |
廣島音楽連盟、廣島青年文化連盟、児童文化研究会などに入会し、文化運動に参画。廣島青年文化連盟委員長に就任。広島市から民生委員に任じられ生活相談に応じる。一夫一家が満州から引揚げ一時同居。 童話「虹」を書き、小説「遠雷」を発表。貸本屋「白楊書房」を開店。この頃、原田和子(のちの妻)と出会う。 |
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1947(昭 22 ) |
30歳 |
廣島県庁に就職、憲法の普及活動にたずさわる。 少年少女雑誌「銀の鈴」に「百足競争」が掲載される。童話「ドッジボール」、小説「鏡占い」などを書く。原田和子と結婚。 |
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1948(昭 23 ) |
31歳 |
「夕刊ひろしま」の「生活の詩」欄の選者となる。県庁を退職したのち、瀬戸内海文庫に 迎えられ、雑誌「ひろしま」の編集長となる。廣島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当。肺結核とされていた病気が気管支拡張症であることが判明。 |
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1949(昭 24) |
32歳 |
廣島県庁施設農協連に就職、.県内農村部をトラックで回るうち大喀血し死に瀕す。文学サークル「われらの詩の会」を結成し代表となる。 |
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1950(昭 25) |
33歳 |
深川宗俊とともに「反戦詩歌人」第1集、2集を発行。父嘉一没。 |
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1951(昭 26) |
34歳 |
孔版印刷「原爆詩集」(四国五郎装丁・500部)を発行。 |
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1952(昭 27) |
35歳 |
新日本文学会全国大会出席のため上京途中、列車内で喀血、静岡日赤病院に入院。「原爆詩集」(青木文庫)出版。青木書店の依頼により原爆の詩編纂委員会を結成し、詩華集「原子雲の下より」を出版。「日本ヒューマニズム詩集」第1集の読者投票で「墓標」が第1位 となる。 |
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1953(昭 28) |
36歳 |
健康を得るために手術を決意、国立廣島療養所に入院、肺葉切除手術途中、3月10日未明、手術台にて死亡。 |
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1963(昭 38)
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詩碑建設委員会(深川宗俊委員長)により「ちちをかえせ、ははをかえせ」の詩碑、平和公園に建立される。 |