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原爆文学展 -五人のヒロシマ-
(原民喜 大田洋子 峠三吉 正田篠枝 栗原貞子)

皆様のおかげをもちまして、原爆文学展は8月7日閉幕 致しました。
文学展への入場者数は3332人でした。多くの方にご来場頂き誠にありがとうございました!

  原爆文学展新着情報!
 1)「青空文庫」のサブ・サイト「ちへいせん」
「文学館あちらこちら」番外編「5人のヒロシマ展」
 2)「水牛」の「水牛のように-読む水牛-」
「文学館をつくろう」
 3)
原爆文学展感想ノート
 4)
中国新聞地域ニュース


 

 原爆文学展 賛同人カンパ募集!(原爆文学展終了後も受け付けます)
  原爆文学展と記念講演会開催費用として一口2000円にて 賛同人カンパを募集しております 。
  文学展開催にご賛同いただける方の御寄付をお待ちしております。



 

原爆文学展「世界のヒバクシャ 写真展」と同時開催)


■開催日時・場所

 日時:2001年07月21日(土)〜2001年07月26日(木)
    2001年08月02日(木)〜2001年08月07日(火)
 場所:旧日銀広島支店

原爆文学展と記念講演会・ヴァイオリン演奏会ポスター(PDF file)
Acrobat Readerをダウンロードしてご覧下さい)

 
■原爆文学展開催にあたって

 

 

ごあいさつ

 21世紀の最初の夏を迎えました。
  広島が1945年8月6日に人類最初の原爆投下を受けてから、すでに半世紀以上がたちました。この間、人々の嘆きと怒りと悲しみのなかから広島は数多くの「原爆作家」を誕生させました。
 今回取り上げた原民喜、大田洋子、峠三吉、正田篠枝、栗原貞子の5人の作家たちは、広島で被爆した体験や、被爆後の広島で見聞したことをもとにして、小説、詩、短歌など、さまざまなジャンルで戦争の悲劇を描き、原爆の悲惨さを歌い、その非人道性を告発しています。
 被爆体験者の高齢化が進む現在、広島の使命は平和の確立を目指すために世界の若い世代に原爆や戦争の悲惨さや非人道性を訴え、ヒロシマの惨禍を伝えていくことでありましょう。そのために私たちは「広島文学館(仮称)」の設立を要望してまいりました。
 旧日本銀行広島支店の本格的活用が決定される前に広島市からその利用が許可されたこの機会に、広島の生んだ優れた文学の一部ではありますが、5人の作家の命を削って作り上げた作品ならびに資料、写 真などを展示いたします。彼らのメッセージを受け止め、ヒロシマの継承という重要な課題をともに考えていただければ幸いです。

2001年7月21日           
広島に文学館を!市民の会代表 水島裕雅

 

 

The Memory of August 6th through Literature
A-bomb Literature Exhibition 〜 Five Writers of Hiroshima

Foreword


 Today we enter the first summer of the 21st century. More than half a century has already passed since the A-bomb was dropped in Hiroshima on August 6th, 1945, for the first time in history. During this time, sorrow, anger and grief have produced many “A-bomb writers.”
 This exhibition features five writers, Hara Tamiki, Ota Yoko, Toge Sankichi, Shoda Shinoe, and Kurihara Sadako who portrayed the tragedy of war, the misery of the A-bomb, and its inhumanity in novels, poems, tanka and other genres based on their own A-bomb experiences and observations.
  A-bomb survivors grow older day by day. It is Hiroshima's mission to convey the tragedy, misery and inhumanity of war and the A-bomb to the young generations of the world for the establishment of world peace. For that purpose we are requesting the establishment of “The Hiroshima Archives of Literature.”
 Prior to the decision about permanent use of the A-bombed building of the Japan Bank Hiroshima Branch, we got permission from Hiroshima City to have an exhibition. Though they are only a part of a vast body of Hiroshima's artistic works, here we exhibit five writers: their literature, their photographs, and other materials. These Hiroshima artists produced these creations at the cost of shortening their lives.
 We shall be happy if you receive a message from them and have a chance to think about the “ Hiroshima inheritance.”

The Citizens' group for the Hiroshima Archives of Literature
Mizushima Hiromasa, Representative                  
July 21, 2001

 


■原爆文学展展示品リスト




【峠三吉】
 年譜

No.

展示品

説明

1

詩「怒りのうた」

日本製鋼広島工場の首切り反対闘争の中で読み上げられ、労働者の歓声の中でむかえられた。

2

チラシ・市民にむけた原爆詩アンソロジーの「原稿のおねがい」

原爆詩華集『原子雲の下より』の原稿依頼のチラシ。自筆のメモ書きも見える。

3

はがき「壺井繁治から峠三吉へ」

1. 8月6日までにガリ版ででも至急『原爆詩集』を出すことを--1951年(昭和26)7月24日。

2. 原爆詩集(青木文庫)刊行時の礼状。

4

手紙「妻和子へ」

結婚時、和子に宛てた手紙--1947年(昭和22)12月。

5

修学旅行(広島商業学校)時の絵入り日記

1934年(昭和9)。峠三吉は絵入り手紙・葉書をたくさん残している。文中の小姉ちゃんとは次姉・千栄子のこと。

6

療養所内で和子宛に記録した絵日記

   

7

構想メモ「原爆詩抄」

『原爆詩集』発行にむけて書かれたメモ。

8

詩「生」

『原爆詩集』の序「ちちをかえせ ははを---」のモトとなったと思われる作品。(詩・原爆詩集--自筆メモ)

9

詩「絵本」

『原爆詩集』以前に書かれた作品。『原爆詩集』に収録の予定だったことが〈原爆詩抄〉メモによってわかる。

10

詩草稿「8月6日」

共産党中国地方委員会の機関誌として発行された「平和戦線」(1950年8月6日)に掲載された。『原爆詩集』に収録。

11

詩草稿「1950年の8月6日」

すべての集会が禁止されたなかで、平和集会が福屋デパート前で敢然と決行され、反戦・平和のビラがまかれた。『原爆詩集』に収録。

12

詩草稿A「構図」

『原爆詩集』では「炎の季節」の題で収録。

13

詩草稿B「死」

『原爆詩集』においても「死」の題で収録されているが表現はかなり違っている。

14

詩草稿C「負傷者収容所」

『原爆詩集』では「倉庫の記録」の題で収録。

15

詩草稿D「墓標」

『原爆詩集』でも「墓標」の題で収録。推敲を重ねている様子がわかる。

16

原爆詩集表紙絵(丸木俊画)

『原爆詩集』のために描かれた表紙。

17

峠三吉像(丸木俊画)

1950年(昭和25)、丸木位里・俊作『原爆の図』展が広島ではじめて開催された。その時描かれたもの。

27

ベットに掲げられたロシアの作家・オストロフスキー「鋼鉄はいかに鍛えられたか」の一節

   

18

デスマスク

1953年(昭28)3月10日、肺葉切除手術途中手術台にて死亡(36歳)。三吉の遺品のメモには、ルイ・アラゴンの詩の一節「紙にそよぐ風のように生きて燃えつくした炎のように死ぬ」が記されていた。

19

デスマスク画

丸木位里・俊の画

20

訃報電報

姉・千栄子に宛てられたもの。

21

峠三吉の棺をくるんだ赤旗(レプリカ)

   

22

写真・生後6ヶ月の三吉

1917年(大正6)

23

写真・家族全員

母親に抱かれているのが三吉

24

写真・子どもたち全員で(三吉2歳)

左から三吉・匡・千栄子・一夫・嘉子

25

写真・県立商業学校4年(三吉16歳)

   

26

写真・国立広島療養所「高原詩の会」の仲間と

   

28

「写真・原爆の図」展後の懇談会にて(1950年)

丸木位里・俊、壺井繁治と一緒に。1950年(昭和25)。

29

写真・手術を受けるための入所の日(広島駅にて)

正田篠枝、山代巴、且原純夫などの顔も。1953年(昭和28)2月15日。

 


 

【正田篠枝】年譜

No.

展示品

説明

1

作品「ああ!原子爆弾」(1946年8月)

原爆投下の翌年(昭和21年)5月ころ、弟正田誠一とともに、短歌の師にあたる杉浦翠子を軽井沢に訪ねた。被爆の体験を短歌にした39首を見せるためだった。杉浦翠子は絶賛し、当時謄写 版で発行していた『不死鳥(ふしどり)』7号(昭和21年8月刊)に載せた。120部だった。「さんげ」の原歌である。

2

作品「さんげ」(1947年12月)

原歌39首を推敲、新しい歌を加えて100首とし、自家版で100部出版。親戚、友人、知人に配った。『耳鳴り』(平凡社刊)で死刑を覚悟して秘密出版したと篠枝は言っている。実際はまぬ がれていたようだ。

3

原稿「得度のこと」(1954年2月)

篠枝の父も信心深い人だった。長い時間をかけて得度を決意した。法名は涙珠。

4

原稿「或る日のお客様」(1952年〜1956年頃か)

らしのため平野町の自宅で割烹旅館、河畔荘を開業、広島の文化人たちもお客だった。

5

原稿「赤いトマト」

篠枝の幼な友達は、その日の朝、息子がトマトを食べたいと言ったが、「帰って食べよ」と言って与えなかった。息子はついに戻らなかった。母親は仏壇にトマトを供えて狂わんばかりに嘆き悲しんでいる。童話として『ピカッ子ちゃん』に収録されている。

6

原稿「死にたくないばかりに」(1964年)

篠枝は小説も戯曲も書いてみたいと思っていた。身近なところから書き始め長編を願っていたようだ。

7

手紙  正田篠枝から栗原貞子へ(1964年年9月)

死の前年である。乳ガンは相当すすんでいた。入院の予定だと告げている。篠枝も栗原貞子も「原水爆禁止母の会」の会員だった。この二人の友情は熱い。

8

はがき 正田篠枝から栗原貞子へ(3通)

1. 1962年8月25日付 『死の内の生命』を著したアメリカの精神医学者ロバート・ジェイ・リフトン博士が来訪したことを知らせている。

1963年2月1日付 栗原貞子の病状を案じる内容。この頃、篠枝は自分は元気なはずだと思っている。

1963年9月13日付 逢えなかったこと、日本人一億人の中の一人にはがきを書くことを貴重に思うと言っている。この月、九大病院で乳ガンだと宣告を受けた。

9

『青史』への寄稿(1960年8月)

『青史』は短歌文学を研究する会による短歌雑誌である。編集代表者は深川宗俊。向かって右、白い表紙の『青史』はNo.8, 1960年8月。向かって左、緑の表紙の『青史』はNo.133, 1971年8月。

10

「焼いて欲しい日記」(1963年)

九大病院で乳ガンの手術をすすめられ、翌春までの生命だと宣告を受けた篠枝は友人の月尾菅子にそのことを訴えた。東京の蓮見でワクチン治療を受けるようにと月尾は篠枝に上京をすすめ、飛行機の切符、東京での宿の手配もした。10月1日から12月18日の帰広の日までの歌日記である。

歴史学者中村孝也を月尾菅子が訪ね、徳川家康の日課念佛について聞いてきた。篠枝はその話に感銘し、ヒロシマ、ナガサキの30万人の被爆者追悼のため日課念佛を書く決心をしたのがこの宿でのことだった。月尾は高野切の紙、筆、墨すべてを篠枝のために用意した。

11

「死の年の日記」(1965年)

1月から2月、この頃は、NHKが取材していた。テレビ「ある人生」シリーズ「耳鳴りーある被爆者」に出演。一方、日課念佛を書く日々でもあった。三十万名号は1月26日達成。その後も書き続けている。

12

「婦人新聞」(1965年7月1日)

篠枝6月15日死去。54歳だった。追悼を栗原貞子が書き、詩「レクイエム」は大原三八雄が書いている。

20

「大き骨は先生ならむ」

広島平和記念公園の南西、平和大通り緑地帯に「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれている。昭和46年8月6日建立。碑には「太き」と刻まれている。

14

月尾菅子と三十万名号

物質的にも精神的にも三十万名号の達成を支援した月尾菅子は「三十万名号記念碑」を建て、『正田篠枝さんの三十万名号』の本を出版した。

15

正田篠枝の肖像(四国五郎画)

1991年7月25日〜8月8日。広島市立中央図書館にて。「正田篠枝文学資料展」開催に向けて描く。

16

写真 本人肖像

17

写真 安芸高等女学校時代(昭和3年〜4年頃)

本人2列目右から3人目。

18

写真 家族写真

本人の右は長男高本槇一郎 左は従姉妹の息子小久保満。

19

写真 牛田早稲田神社にて(昭和18年)

篠枝が師事した短歌会『晩鐘』の主宰者山隅衛の息子山隅観の学徒出陣の前に撮った写 真。

20

写真 三十万名号

15巻は広島平和記念資料館に寄贈され、所蔵されている。ちなみに2巻はナガサキへ、10巻は熊本のヒノミヤへ、1巻づつ、月尾菅子、中村孝也が所蔵、あと1巻は篠枝の生前に紛失している。


 



 

【栗原貞子】年譜

No.

展示品

説明

1

原稿「思い出そう八月を」

ベトナム戦争と広島をつないだ作品のひとつ。

2

原稿「川」

長編構成詩「川」の導入部氓フ一部。

3

創作ノート(1935-1940)

戦中編。戦後、自家出版し、GHQの検閲を受けた。『黒い卵』の作品の母体を含む。

3

創作ノート(1945〜1951)

雑誌『リベルテ』の発行所でもあった自宅の印がある。

4

『私は広島を証言する』(原爆詩集初版本)

原爆詩抄初版本。1955年(昭和30)第5回原水禁大会で配布した。

5

『中國文化』

1946年(昭21)焦土の中からいち早く発刊された総合文芸誌。栗原唯一・貞子夫妻の熱意に広島の文化人たちが集まった。1948年7月号まで18号が発行された。主な執筆者:細田民喜、畑耕一、若杉慧、山本康夫等々。表紙、カットは浜本武一、四国五郎などが担当した。

6

『中國文化』改題『リベルテ』創刊号(1948年11月)

  

7

『ひろしまの河』

1960年(昭35)、森滝しげ子、山口勇子、正田篠枝らと共に「原水禁母の会」を発足させた。その機関誌として1961年6月より1974年7月まで18号が発行された。

8

『広島生活新聞』

1951年(昭和26)より旬刊で、夫唯一と共に発行した。

9

最新の詩(2000/7/29)

9

最新の短歌(2000/12月)

  

10

『黒い卵』(初版本)

  

11

写真 執筆風景(1977年頃)

  

12

写真 書斎にて(1980年頃)

  

13

写真 アジア文学者広島会議(1983年7月)

  

16

写真 アジア文学者広島会議後の反省会(1983年8月)

広島実行委員会のメンバーと

14

写真 森滝市郎さん、スウェーデンのモニコーヴァさんと(1983年7月)

  

15

写真 丸木俊、土井たか子、関屋綾子さんたちと(1985年10月1日)

於東京。女性による反核、軍縮、非核地帯のための国際シンポジウム

17

写真 書物・仲間たちの本と

  

18

写真 栗原唯一・貞子夫妻(1967年)

  

19

ポスター 1982年ドイツ・ケルンでの国際反核文学者会議の

広島から栗原貞子、古浦千穂子、好村冨士彦の各氏が参加。

 


 

【原民喜】 年譜

No.

展示品

説明

1

手紙 民喜から永井善次郎へ

《8月6日の被爆状況を詳述》

1945年10月12日付。「原爆被災時のノート」を補完する内容。永井は民喜の義弟でペンネーム佐々木基一。

2

はがき 荒正人から民喜へ

《「内なる権威」といったテェマでピカソのことなどかいてゐます》

1946年12月22日付。「三田文学」への寄稿依頼に対する返信。

3

はがき 遠藤周作から民喜へ

《突然お便り差し上げましてお許し下さい》

1948年1月6日。二人の交わりを告げるはがき。

4

はがき 熊平武二から民喜へ

《いつか君の兄さんに会って健在を知りよろこんだ》

1945年11月5日。被爆後の近況報告への返事。友人達の近況なども。熊平は旧制中学時代からの親友。

5

はがき 末田信夫から民喜へ

《葉書デ失敬、手紙ワ見タ》

1946年2月21日。末田はペンネーム長光太、旧制広島一中在学中から民喜の詩の仲間。終戦直後、民喜に早期の上京を促している。

6

はがき 丸岡明から民喜へ

《「夏の花」拝見、少々危険のようです》

1946年7月29日。丸岡は「夏の花」初版本を刊行した能楽書林店主。戦後、民喜を支えた一人。宛名の中央にプレスコードの検印がある。

7

手紙 遠藤周作から民喜へ

《飲み過ぎての醜態を詫びる手紙と始末書》

毛筆の始末書と手紙は日付が違っている。故意に「始未書」と書いたのかもしれない。

8

エッセー「死と愛と孤独」

400字詰め原稿用紙2枚。「原子爆弾の惨劇のなかに生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく弾き出された」。

9

翻訳「ガリバー旅行記」

「小人国」と「馬の国・フウイヌム」。民喜は「フウイヌム」を書きたいためにガリバーの翻訳をしたと思える。

10

小説「永遠のみどり」

原稿用紙37枚。カタカナの構成詩「原爆小景」の最後に同名の詩が1編だけひらがなで据えてある。

11

詩「朝の闇」

  

12

遠藤周作の原稿「原民喜の作品について」

鎌倉文庫の原稿用紙6枚。執筆年月日不詳。「孤独者がとぼす、わびしい、然し消える事のない……」。

13

草稿10枚の一部

作品としては完成しなかったらしい。青土社版の全集にも類似の作品は見当たらない(「火の子供」に一部使われてはいる)が、民喜の推敲の跡を留めた原稿は珍しい。

14

遺書2通

亡妻・貞恵の母・永井すみ子あて。義弟佐々木基一あて。

 

15

遺書の下書き

おそらく丸岡明あての下書き。民喜は17通の遺書を残しているが、字の乱れは全くない。

 

16

写真 日本ペンクラブ広島大会で講演する原民喜 (1950年4月15日、紙屋町のガスビル)

  

17

新婚旅行の民喜・貞恵夫妻(1933年頃)

  

18

写真 親友・熊平武二と

昭和初期、慶応大学入学のころ

19

写真 亡母3回忌に集まった原家(1939年夏)

民喜は左端

20

写真 「碑銘」の碑の除幕(1951年11月15日)

951年11月15日、広島城の石垣。佐藤春夫=中央=も駆けつけた。

21

写真 広島で初めて営まれた花幻忌33回忌(1983年3月13日)

1983年3月13日、遠藤周作、佐々木基一、藤島宇内、大久保房男らも参列した。

 


 

【大田洋子】年譜

No.

展示品

説明

1

原稿「屍の街」

第一章の冒頭部分。初出は昭和23年11月、中央公論社刊。この時は米軍のプレスコードを避けるため一部削除している。

2

原稿「病葉」

102枚の冒頭。初出は『群像』昭和33年10月号。残存放射脳を浴びて死に至る男の話。

3

原稿「冬」

39枚のうち。初出は『新日本文学』昭和53年10月号。原爆投下後の廃墟となった街の姿。

5

書籍 『暁は美しく』(随筆集)1943(昭和18)年、赤塚書房

 

6

書籍 『屍の街』1948(昭和23)年、中央公論社

 

7

書籍 『屍の街』1950(昭和25)年、冬芽書房

 

8

書籍 『屍の街』1953(昭和28)年、河出書房(「市民文庫」)「解説」佐々木基一

 

9

書籍 『人間襤褸』1951(昭和26)年、河出書房

 

10

書籍 『夕凪の街と人と』1955(昭和30)年

 

11

書籍 『大田洋子集』全四巻 1982(昭和57)年、三一書房

 

12

研究書籍 江刺昭子『草饐―評伝大田洋子』1971(昭和46)年 涛書房

 

13

写真 40歳代後半

 

14

写真 原民喜詩碑建立場所を探して日本ペンクラブのメンバーと(写真中央)(昭和26年3月)

 

15

写真 切串補習学校(現・江田島町切串小学校)裁縫教師時代

油絵を描いていた。

16

写 真 広島県庁でタイピストをしていた20歳のころ

前列右。