歴程「夏の詩のセミナー」2002年8月24日(土)講演概要 草野心平記念文学館

峠 三吉『原爆詩集』をめぐって

朝倉 勇


 峠三吉の『原爆詩集』のことは、ずいぶん前から知ってはいました。しかし、なぜか長い間、読むことができませんでした。なにか、抵抗があって、素直な気持ちで手にすることができませんでした。

 そういう僕に、『原爆詩集』に向かう気をおこさせたきっかけは二つあります。ひとつは、昨年九月十一日のニューヨーク・ワールドセンタービルの崩壊です。この悲劇の映像をテレビで見ながら、ぼくは広島と長崎を襲った原子爆弾のことを連想していました。一般市民の殺害という点では同じですが、その破壊殺戮の度合いでは比べものにならない。原子爆弾は人間が小型の太陽をつくり、二つの都市を一瞬のうちに破壊させたのです。そして放射能被爆という後遺症を、何十年にもわたって残しました。

 もう一つのきっかけは、ドイツ文学者で親しい友人である好村冨士彦が、峠三吉と深く関わっていたことです。好村冨士彦は、広島と呉に生れた両親をもち自分も旧制廣島高等学校を経て廣島大学に入り、結核にかかって廣島療養所に入院。そこで峠三吉と知り合います。そして、好村は、峠三吉の文学活動を支えた重要な一人になっていったのです。

 結核回復後、好村は京都大学、広島大学でドイツ文学を教え、現在広島大学名誉教授です。著書に『ブロッホの生涯』『カフカの解読』などがあり、『リヒャルト・ワグナーの悲劇』『ベンヤミンの肖像』『ルカーチ著作集』などを翻訳し、代表的な仕事として若いベンヤミンやアドルノに影響を与えたといわれる、エルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』の大著を訳しました。

 実は彼もまた若いときに詩を書いており、ぼくたちは東京の日大病院に互いに入院患者として知り合い、以来親しい友達になりました。きっかけはぼくの詩がNHKで放送され、それを彼が聞いて訪ねてきたことでした。一九五五年の夏のことです。

さて、「原爆詩集」ですが、この詩集はご存知の方も多い、次の「序」で始ります。

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

 

 この「序」を書くにあたって峠三吉は推敲を重ねていたようで、完成に至るまでの経過を、一九八七年に発見された遺稿などを調べていた好村冨士彦が、ホームページで報告しています。詳しく述べる時間がありませんが、未発表の「生」と題された草稿の中に、「序」の冒頭にある「ちちをかえせ ははをかえせ」の元になる「父をかえせ 母をかえせ」が見出されたというのです。「ちちをかえせ」が成立するまでのエピソードを、好村は報告しているわけです。

「序」につづく詩は「八月六日」です。それを読みます。

 

八月六日

あの閃光が忘れえようか

瞬時に街頭の三万は消え

おしつぶされた暗闇の底で

五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると

ビルディングは裂け、橋は崩れ

満員電車はそのまま焦げ

涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島

やがてボロ切れのような皮膚を垂れた

両手を胸に

くずれた脳漿を踏み

焼け焦げた布を腰にまとって

泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した錬兵場の肢体

つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群れも

焼けつく火光の中に

下敷きのまま生きていた母や弟や町のあたりも

焼けうつり

兵器廠の糞尿のうえに

のがれ横たわった女学生らの

太鼓腹の、片目つぶれの、半身あかむけの、

誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば

すでに動くものもなく

異臭のよどんだなかで

金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

三十万の全市をしめた

あの静寂が忘れえようか

そのしずけさの中で

帰らなかった妻や子のしろい眼窩が

俺たちの心魂をたち割って

込めたねがいを

忘れえようか!

 

 こういう詩ですが、峠三吉は、どれほど言葉というものの虚しさを、力のなさを感じたことでしょう。「筆舌に尽くせぬ」という表現がありますが、八月六日の広島の現実はあまりにも悲惨で壮絶で、つまり地獄であって、かつてそういうものを見たものはない。それを言い表すように日本語はできていない。言語がないのです。

 恐らく何度も書こうとして書けなかったのに違いありません。そしてついに、このような感情を抑えた、削りに削った詩になったと思われます。

 この作品の後に二十三篇の詩が続きますが、多くを紹介する時間がありません。題名だけを大急ぎで紹介します。「死」「炎」「盲目」「仮包帯所にて」「眼」「倉庫の記録」「としとったお母さん」「炎の季節」「ちいさい子」「墓標」「影」「友」「河のある風景」「朝」「微笑」「一九五〇年の八月六日」「夜」「巷にて」「ある婦人へ」「景観」「呼びかけ」「その日はいつか」「希い─『原爆の図』によせて」。以上ですが、題名を見るだけで「原爆詩集」がもつ記録性は貴重なものがあると感じさせます。

 なお、この青木出版の『原爆詩集』では中野重治が解説を書き(一九五二年五月)、そして「一九九五年の解説」という文章を鶴見祐輔さんが書いています。

「炎の季節」を読みます。

 

炎の季節

FLASH!

全市が

焚きこまれた

マグネシュームのなかで

影絵のように崩れる。

音ではない

それは

フワリと

投げ出された意識。

埋められる瞬間の

とおい

おのれ、

千万の硝子の飛散。

鉛より重い古びた梁木

どたりと壁土が

とどめをさし、

外は

奇妙な灰色の

ぶざまにへしゃげた屋根の

電線の網の

人くさくて

人の絶えた

何里四方かの

死寂。

急に立ち上がった焦茶の山脈の

すり鉢の底に

つぶれた広島から

なんという奔騰!

もりあがり逆巻きゆれかえしおし上がり

雲・

雲・

雲・

赤・橙・紫・

はるか天頂で真紅の噴火。

博ちあい、

爆発し、

渦巻きあがる煙の地殻の裂目から

気圏へ沸騰する

大気!

はじめて地をつたう

ひびき、うめき、轟炸音!

ウラニュームU二三五号は

予定されたヒロシマの

上空五〇〇米に

人工の太陽を出現させ、

午前八時十五分は

たしかに

市民を

中心街の路上に密集せしめ。

ひろしまは

もう見えない。

陰毛のような煙の底、

二重にも三重にもふくれたりしぼんだり

明滅する太陽のもと、

焔の舌が這い廻り、

にんげんの

めくられた皮膚をなめ

旋風にはためく

黒い驟雨が

同属をよぶ唇を塞ぐ

列、

列、

不思議な虹をくぐって続く

幽霊の行列、

巣をこわされた蟻のように

市外へのがれる

道を埋め

両手を前に垂れ

のろのろと

ひとしきり

ひとしきり

かつて人間だった

生きものの行列。

空も地も失われた

熱風と異臭の空間を

七つに潜り流れる

ゆるい水の移動。

ごつごつと

ぶよぶよと

無限につづくものが

湾口の

島島につきあたる。

(ああ おれたちは

魚ではないから

黙って腹をかえすわけにはゆかぬ、

ビキニ環礁が噴きあげた

何万トンかの海水を映したのは

豚・

羊・

猿・

実験動物たちの

きょとんとした目・目・目・だ)

日が焼けつく、

雨がしみ入る、

ひろいひろい瓦礫の三里四方

白骨と煉瓦屑をならして

たしかに

三尺ばかり

高くなったヒロシマ。

死者 二四七、〇〇〇。

行方不明 一四、〇〇〇。

負傷 三八、〇〇〇。

原爆遺跡ちんれつ所にころがる

灼けた石、

溶けた瓦、

へしゃげたガラスビン、

そして埃をかぶった

観光ホテルの都市計画パンフ。

しかし

一九五一年

きょうも燃えあがる雲。

それをかすめ

ふわりと浮上する

たしかあれは 白点二つ、

あ・あれだ!

地球の裏から無線でひもをつけた

原爆効果測定器の落下傘。

おれたち

ヒロシマ族の網膜から

消えることのない

あのあさの

らっかさんが

ふうわりと

雲のかげで

あそんでいる。

 

 原爆効果測定器の落下傘がふうわりと浮かんでいる、いや遊んでいると峠三吉は書いてこの詩を終えています。

 これは記録性において、格段の意味と価値をもっています。これを読むことによって、ぼくたちは初めて五十七年前の八月六日に起こった出来ごとの実相を、ある程度思い浮かべることができます。それが詩のリアリティというものでしょう。そして、これを読みながら、ぼくはふと、草野心平の作風を連想しました。ふしぎなことです。

 例えば、草野心平の「大動乱」。これは詩集『絶景』のなかの一篇ですが。

 

大動乱

口と手が出て。

頭はうしろにぼうつとかすみ。

さうして到頭爆発はきた。

地球のこつちも向う側も。

硝煙くさくぶすぶす燻り。

うしろの尻つぽの振り具合も。

ウインクも何も効き目がなく。

ただもう馬車面に進むだけだ。

地球自体の回転よりも。

もつと大きなどんでん返りが。

二十世紀のまんなか近くで公演される。

兎も角こんな旺んな時代に。

生れて生きてくことのその栄誉ある暗澹さはむしろ慄然たるたのしみである。

政治と大砲が前にのり出し。

思想はうしろにぼうつとかすみ。

地球のぐるりの。

あらゆるものの盛りあがりから。

遂に大きな動乱はきたのだ。

 

 この詩集には、昭和十五年七月に書いた次のような覚書があります。

「十日後には、自分は南京に移転すべく日本を立つ。しばらくのさやうならである」と。

 中国への侵攻は三年目を迎えており、一年半後には日本はアメリカ、イギリス、フランス、オランダなどとの全面戦争に突入していくわけです。草野心平は中国に赴く直前にこの詩集をまとめ、「遂に大きな動乱はきたのだ」と、世界の動向について予感を伝えています。(心平、二十七歳)もうひとつ、次の詩はどうでしょう。これは一九三一年九月一日と後記に書いてある詩集『明日は天気だ』に収められているものです。(心平、二十九歳)

 

十八歳のクロポトキン

脱帽した民衆の黒丘と。

長い櫛の歯のやうな兵列─。

氷の張りつめたネヴァ河の式場からは 蚊柱のやうな讃美歌がきこえてくる。

せきばらひ一つない厳粛の中を。アレキサンダー二世とその一行は歩いてきた。

宮殿はもう近くである。

(大夕陽がドームに燃えてる)

いまだと思った。

幾重もの警官と兵士の垣を押し分けてそいつは現れでた。

「父よ 吾等を守らせ給え!」

アレキサンダー・コンスタンティン・それに続く六七。

みんな一斉にそのけむくじゃらな農奴を見た。

そしてみんなは歩調をかへずにあるいていつた。

道を迷つた一匹の蟻がゐたかのやうに。

地上には蟻程の微動もなかつたかのやうに。─だが。

十八歳のクロポトキンは見た。

木つ瘤のやうな手に握られた嘆願書を。

カタカタふるえてゐる口元を。

ボロボロの服を。

頭の禿を。

そして彼は見た。

泪でいつぱいなそいつの眼に。

レンズのやうに続く何万の農奴の眼を。

声を立てずに動いているそゐつの口に。

叫べずにゐる直情愚昧な何百万の農奴の叫びを。

クロポトキンは列を離れて直訴をとつた。

何がふりかかつてくるかは分りすぎる程分つてゐた

だが彼の得た報酬はアレキサンダーの怒声ではなかつた。

彼自身への侮蔑。

彼自身への反逆。

─蹂躙のトキの声が彼の全身を煮つくりかへした。

ガンとした行動への決意がきた。

実在世界は蟻程の微動もなかった。

捕まへた農奴は終身牢獄にいれておけばいいのであつた。

牢獄で狂つて舌をかんで死ねばそれでいいのであつた。

皇族の一行はでつかいドームに這入るであつた。

 

 先に読んだ峠三吉の「炎の季節」と共通しているのは、これらが情況を述べている、物語の詩であるという基本的な点ですが、それだけではありません。読む人を引きずり込む力、引き込んで共感させる力がある。それは、詩人の想像力、思い描く力が生み出す臨場感でしょう。そして根底に人道的な姿勢があります。

 次に自己投影というか、その場の人物になりきって体験し、その思いを描いているからだと思われます。また、できるだけ感情を抑えています。客観的な言葉を選んでいる。それゆえ、読者はそれぞれの心に情況を描きます。作者に近い心の体験を行っていく。共感や感動はそこから生れます。それが文学や芸術の価値だと思います。

 峠三吉を読んで草野心平を連想させたもの、両者に共通する「精神のリズム感」とでも呼ぶべきものではないかと思います。言葉を用いた彫刻。そういう印象の作品です。

「小さい子」という作品を読んでみましょう。

 

  ちいさい子

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどこにいるのか

ふと躓いた石のように

あの晴れた朝わかれたまま

みひらいた眼のまえに

母さんがいない

くっきりと空を映すおまえの瞳のうしろで

いきなり

あの黒い雲が立ちのぼり

天頂でまくれひろがる

あの音のない光の異変

無限につづく幼い問のまえに

たれがあの日を語ってくれよう

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどこにいったか

近所に預けて作業に出かけた

おまえのことを

その執念だけにひかされ

焔の街をつっ走って来た両足うらの腐肉

湧きはじめた蛆を

きみ悪がる気力もないまま

仮収容所のくら闇で

だまって死んだ母さん

そのお腹におまえをおいたまま

南の島で砲弾に八つ裂かれた父さんが

別れの涙をぬりこめたやさしいからだが

火傷と膿と斑点にふくれあがり

おなじような多くの屍とかさなって悶え

非常袋のそれだけは汚れも焼けもせぬ

おまえのための新しい絵本

枕もとにおいたまま

動かなくなった

あの夜のことを

たれがおまえに話してくれよう

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどうしているのか

裸の太陽の雲のむこうでふるえ

燃える埃の、つんぼになった一本道を

降り注ぐ火弾、ひかり飛ぶ硝子のきららに

追われ走るおもいのなかで

心の肌をひきつらせ

口ごもりながら

母さんがおまえを叫び

おまえだけ

おまえだけにつたえたかった

父さんのこと

母さんのこと

そしていま

おまえをひとりにさせてゆく切なさを

たれがつたえて

つたえてくれよう

そうだわたしは

きっとおまえをさがしだし

その柔らかい耳に口をつけ

いってやるぞ

日本中の父さん母さんいとしい坊やを

ひとりびとりひきはなし

くらい力でしめあげ

やがて蠅のように

うち殺し

突きころし

狂い死なせたあの戦争が

どのようにして

海を焼き鳥を焼き

ひろしまの町を焼き

おまえの澄んだ瞳から、すがる手から

父さんを奪ったか

母さんを奪ったか

ほんとうにそのことをいってやる

いってやるぞ!

 

 これは、かなり調子が違います。より直接的です。父を戦地で、母を八月六日に広島で失ったちいさい子に、一人の人間、いわば普遍的な父となって語りかけています。その愛の眼差しは、やがて告発になっていきます。

「朝」という作品では、その最先端が世界の平和と豊饒な実りをもたらすことのために用いられることを「ゆめみる」といっています。

 あれから五十七年、峠三吉が「ゆめみた」科学技術は途方もなく発展進化し、それをコントロールすべき精神や理性、倫理性が技術の進歩に伴いません。非常に歪んだ情況にあるのが二十一世紀の地球であり、われわれです。二十一世紀は、二十世紀という科学技術とそれを生み出した物質文明、大量生産大量販売、あるいは大量廃業という消耗のアメリカ文明がもたらす、地球環境と人間性の破壊を見直す世紀とならなくては、と考えています。評論家の三浦雅士さんはこの現実を「世界中がアメリカになってしまった」と評論しています。そのとおりです。

 そのためにも、いま峠三吉を読むことは、非常に意味のあることではないでしょうか。日本人が原爆の悲惨さを正しく認識し、伝えなければどうにもなりません。草野心平という人が生きていたら、きっとそういう方向でものごとを見たであろうと思うのです。

 原爆は人工の太陽をつくり、地上に地獄をつくり出しました。一切の思想も、哲学も、宗教も、善意も、ゆめも、愛も憎しみも、人間の属性すべてをボロボロにしてしまったのです。地獄の実現であり、神も仏も殺してしまった。原爆は犯罪なのです。

 「景観」という作品を見ます。

 

景観

ぼくらはいつも燃える景観をもつ

火環列島の砂洲(デルタ)の上の都市

ビルディングの窓は色のない炎を噴き

ゴーストップが火に飾られた流亡の民を堰止めては放出する

煙突の火の中に崩れ 火焔に隠れる駅の大時計

突端の防波堤の環に 火を積んで出入りする船 急に吐く音のない 炎の汽笛

列車が一散に曳きすってゆくのも カバーをかけた火の包茎

女はまたぐらに火の膿を溜め 異人が立止まってライターの火をふり撒くと

われがちにひろう黒服の乞食ども

ああ あそこでモクひろいのつかんだ煙草はまだ火をつけている

ぼくらはいつも炎の景観に棲む

この炎は消えることがない

この炎は止むことがない

そしてぼくらも もう炎でないと誰がいえよう

夜の満都の灯 明滅するネオンの熾きのうえ トンネルのような闇空に

かたまってゆらめく炎の気配 犇く異形の兄弟

ああ足だけの足 手だけの手 それぞれに炎がなめずる傷口をあけ 

最後に脳が亀裂し 銀河は燃え

崩れる

炎の薔薇 あおい火の粉

疾風の渦巻き

一せいに声をあげる闇

怨恨 悔 憤怒 呪詛 憎悪 哀願 号泣

すべてのうめきが地を博ってゆらめきあがる空

ぼくらのなかのぼくら もう一人のぼく 焼け爛れたぼくの体臭

きみのめくれた皮膚 妻の禿頭 子の斑点 おお生きている原子族

人間ならぬ人間

ぼくらは大洋の涯 環礁での実験にも飛び上がる

造られる爆弾はひとつ宛 黒い落下傘でぼくらの坩堝に吊りさげられる

舌をもたぬ炎の踊り

肺のない舌のよじれ

歯が唇に突き刺さり 唇が火の液体を噴き

声のない炎がつぎつぎと世界に拡がる

ロンドンの中に燃えさかるヒロシマ

ニューヨークの中に爆発するヒロシマ

世界に瀰漫(びまん)する声のない踊り 姿態の憤怒

ぼくらはもうぼくら自体 景観を焼きつくす炎

森林のように 火泥のように

地球を蔽いつくす炎だ 熱だ

そして更に練られる原子爆弾のたくらみを

圧殺する火塊(かかい)だ 狂気だ

 

こういう詩です。

 ところで、峠三吉がこのような詩を書いた根源のところには、彼の叙情性があったとぼくには思われるのです。

「青い星」というごく初期の作品を見てみましょう。

 

  青い星

あの子は星になってゐた

天頂に近い、七つの鳩の中にはさまって、

小さく、青く、七つの鳩の中にはさまって、

私が初めてそれを見つけた時は、

それは嬉しがって、一生懸命、

何か身もだえしながら、話してくれたのですが─

悲しい事に、何も聞こえないのです、

唯 遠い、幽かな、海鳴りだけが、

繊い月に、こだましてゐるだけでした。

でも私は、それから毎晩逢ってやりました、

そして 黙ってうなづいて見せたりもしました。

然し私の病気は、此の頃 少し宛悪くなって

ゆくのです、私はなぜだか良く知ってゐます、

だが どうして あの子を放って置けるでせう─

さう… 今夜もこれから、庭へでるのです。─

ああ、柚子がにほひますねぇ─。

 

「抒情詩集・T」より ごく初期の作品です。

 青い一つの星を仰ぎながら、物語を書いています。宮澤賢治を思わせませんか。

 また、「立札」という詩はこのように書かれています。

 

立札

この街角の土に

長い年月慣れて育った

八つ手の樹、

慈愛に満ちた大きな葉に

庇われながら

八つ手の蕾は多い

兄弟のやうに首をならべて

親しい夕靄と 遊んでいる、

半ば亀裂の入った石壁の面を

うす黒く汚しながら

身をのり出した 煙突は

少し宛ゆらめき昇る あたたかい

けむい言葉で

夕ぐれの空に

家の内の夕餉の様子を

語ってゐる、

ああ 夕ぐれ

この街角の僅かな土に

どんな孤児の少年が

悲しみの墓標を刺して行ったことだらう

どんな 兄を失くした少女が

追憶を埋めて行ったことだらう、

そして 私も 小さな立札を

今、八つ手の陰に立てて去らう、

「ココデ 待ッタ」と書きつけて

ひとりで去って ゆくために。

 

 これは「抒情詩集・2」に収められたものです。「抒情詩集・2」には、六冊のノートからの五十二篇が収められています。

(Mituyoshiの署名あり)昭和十一年(1936)〜十八年(1943)十九歳〜二十六歳

 ここでは、物語の対象を身近な生活に見出しています。このような物語性が峠三吉という詩人の特質であって、それゆえに「原爆詩集」で、名状しがたい悲惨な情況を無力な言葉を用いて、あえて描くことができたのではないか。そんなふうに思われるのです。

 その心情の根底にあったのはこれら抒情詩に見られる、優しさ、愛、の眼差しだったと思います。

 実は、もう一つ発見があって、それは峠三吉という人はなかなかいい俳句を作っていたことです。それは昭和十二年から十九年にかけて見られます。そのいくつかを。

 

・生き残る蠅あり我の乏しさや   (昭和十二年 1937/二十歳)

・赤い花咲いて明るい猫の道

・夏空や頭脳のギアの空回り

・ニヒリスト運河沿いゆく銀の月

・家を恋はぬ大朧夜の少女かな   (昭和十三年 1938/二十一歳)

・みみずくなく夜が暗くて起きてゐる

・短夜や伏せて置きある壷一つ

・けしの花異人の窓は開かざる   (昭和十四年 1939/二十二歳)

・蜂あはれただ蜜のみを知るといふ

・打水に樹々がにほえる冷奴

・梅雨の漏り国禁の書の恐れかな

・鹿はけもの少女のにほひ雲となる (昭和十五年 1940/二十三歳)

・弓なりの月にひかるる暗さかな

・糸を歯で切る時海を見てゐた眸  (昭和十六年/1941二十四歳)

・命青し海へと流れやまざりき   (昭和十七年/1942二十五歳)

・咳疲れ雨うつくしき昨日きょう

・雲よりも一点重し冬の鳶     (昭和十八年/1943二十六歳)

・痰壷に松の花粉の積りをり    (昭和十九年/1944二十七歳)

・痰壷と林檎を並べ恙なし

 

 このように俳句にもふかい叙情性、ものをよく見るまなざし、そして美意識が見られます。これがおそらく、峠三吉という詩人の本質であったのではないでしょうか。

 

峠三吉(本名)

一九一七年二月、豊中市に生れる

一九五三年三月、国立広島療養所で肺葉切除の手術中に死去 三十六歳


ホームページ管理者より:著者から好村玲子さんを通じて講演原稿を提供していただきました。なお、コンピュータ入力については福田真紀子さんの協力を得ました。