痛感した「財団」への道―北海道の2館を訪ねて

広島花幻忌の会事務局・海老根勲


【三浦綾子記念文学館】(旭川市)

 「雲ひとつない明るいまひる」だった。小説「塩狩峠」の最終行そのままに、晩夏の塩狩峠は、シラカバの林を風が吹き抜けて、一両だけのディーゼル車が窓に光を反射させながら小さな駅に止まり、そして林の向こうに走っていった。

 8月もお盆が過ぎたころ、オホーツク沿岸の猿払村であった「東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」に参加したおり、旭川市在住の友人らに誘われて同市の「三浦綾子記念文学館」を訪ねる機会を得た。札幌市の「北海道立文学館」も訪ねたので、併せて報告する。

 旭川近郊に住む友人の車は、猿払村から牧草地帯を縫うように走っていく。やがて、上川郡和寒町の峠道に差し掛かる。彼女は、ハンドルを握りながら「えびねさん、塩狩峠よ、ちょっと寄ってみましょうか」と、車をシラカバ林の中に入れたのだった。そこには三浦文学の出発点であり、また、代表作のひとつでもある「氷点」が書かれた旧居が復元保存されていた。「塩狩峠記念館」という。すぐ近くに小説のモデルとなった長野政雄氏の顕彰碑が建っていた。そして林の間に、綾子・光世夫妻の相聞歌を刻んだ石碑も点在する。「一粒の麦地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば多くの果を結ぶべし」。彼女が愛した聖書の一節を思い起こさせる風景だった。

 この旧居は、旭川市内で三浦夫妻が雑貨店を営んでいたころの建物である。昭和39年、朝日新聞社主催の「1千万円懸賞小説」に「氷点」が入選した際、新居の建築に合わせて解体されようとした時、涙を流しながら思い出を語る三浦夫妻に心を動かされた市民の間で急きょ、「氷点の家保存会」が結成され、1999年4月、峠に復元・開館されたのだという。現在は周辺のキリスト者たちがボランティアで運営を支えている。

 「三浦綾子記念文学館」は旭川市内の外国樹種見本林の中にある。そこもまた、彼女が愛してやまない場所であり、「氷点」の舞台の一つである。見本林に溶け込むような建物は、キュービズム絵画を立体化したような風情である。館内には時おり、綾子の朗読テープが流れる。文学館のテーマは「ひかりと愛といのち」。作品を読みながらテープの声に耳を傾ける旅行者の姿も多かった。観光シーズンでもある6月〜10月末は無休なのだという。ツアー客は旭山動物園だけ見て駆け抜けるけれど、この文学館を目当てに旭川を訪れる人も少なくないようだ。宿泊したビジネスホテルの窓口でも、「しょっちゅう、お客様にアクセスを尋ねられますよ」と話していた。 

 確かに“売れっ子作家”の一人ではある。実は塩狩峠の記念に、記念館で改めて購入した新潮文庫の「塩狩峠」は、なんと79刷(平成17年5月15日)なのである。原民喜「夏の花」は広島市内の書店でさえほとんど見かけず、大田洋子「屍の街」は絶版という状況との違いを思い、林に吹く風が急に肌寒く感じたのである。

 展示室は5室。所蔵資料は4万点を超えると学芸員が話していた。ほとんどは三浦夫妻はじめ、関係者の寄贈という。いわば周辺資料とでもいうべきか、彼女が歌志内の尋常小学校教員をしていたころの、児童たちの作文まであった。

 圧巻はやはり「氷点」や「」海嶺」の自筆原稿である。とりわけ「氷点」は下書き、朝日新聞への応募原稿、そして新聞連載時と3種類すべてがそろっている。入選した時の原稿と連載原稿が、書き出しから違っていることに興味をひかれた。いわば新人作家の三浦と編集者とのやり取りも想像しながらガラスケースを覗き込んだ。「海嶺」は文庫でも三冊に及ぶ大作である。原稿用紙も三つの束になってとじられ、克明に書き込まれた取材ノートもあった。「共に語り共に世界を巡って書き上げた『海嶺』。その一行一行が二人の祈りの所産であったことを改めて感謝しつつ

 一九八二年四月一四日 光世様」と綾子がトビラにサインした「海嶺」上も併せて展示されていた。晩年にはパーキンソン病に苦しむ綾子の口述筆記を引き受けていた夫・光世氏(現館長)との、二人三脚の旅を髣髴させる一点である。徹底した取材ぶりがうかがえるノートの行間にも、つねに「人はどのように生きるべきか」という問いかける姿が垣間見えて、人間への共感を紡ぎだした物語作家の全容が展開されている。

 同文学館は、「三浦綾子記念文化財団」によって運営されている。市民による文化運動から生まれた「民立民営」の稀有な一例である。同地の友人たちが話してくれた設立にいたる道程が何とも痛快であった。

 旭川市には公立の「井上靖記念館」がある。1993年7月、市が地元財界などの支援を得て開館した。市民の間で以前から要望の高かったのは「三浦文学館」の方だった。「なぜ、生まれて1年しかいなかった井上靖の記念館なのよ、とみんな不思議がったり怒ったりしたの」。疑問が市民の間に広がったのは当然だ。建設運動が急速に高まって98年6月、彼女が亡くなる前年に開館させた。総工費3億円余、その後の運営費のすべてを民間出資、一般の会費と80人を超えるボランティアが支えている。ちなみに財団のホームページを覗いてみると、05年度の収入は会費1100万円など約2618万円、支出が2800万円余で200万円余の赤字を計上している。預貯金など基本財産で補填しているらしい。行政などには頼らずに地域の文化を支える市民の熱い思いが、まさにダイヤモンドダストのようにきらめいている文学館であった。

 

【北海道立文学館】(札幌市)

 北海道マラソンのゴール地点である中島公園の中にある。林間を涼風が縫うように流れ、大勢の市民がジョギングを楽しんでいた。訪ねたのはマラソンの前日(8月26日)だったため、コースの下見を兼ねたランナー達も調整に励んでいた。文学館は企画展「石川啄木〜貧苦と挫折を超えて〜」の最終週とあって、人いきれで暑いほどのにぎわいだった。「故郷の渋民村にも行ってきました。“追っかけ旅行”ですね」という関西なまりのグループにも出会った。

 北海道には、原民喜の少年時代からの親友である長光太(本名・末田信夫)が晩年、息子たちを頼って移り住んだ。99年7月、帯広市の長男宅で亡くなった。享年92歳。彼が所蔵していた資料の全てが先年、遺族から同文学館に寄贈された。トラックで運び込むほどの膨大な資料の中には、広島では原家にもない「少年詩人」全12冊、「春鶯囀」(しゅんのうてん)4冊など、大正時代末期から昭和初期にかけての、民喜ファンにとっては「垂涎の的」ともいえる資料が含まれている。大部分はまだ、段ボール箱に入ったまま未整理の状態というが、文学館の好意で「少年詩人」1〜4号と「春鶯囀」4冊、1948年に「長光太詩集」のために書いた「跋」の自筆原稿(400字詰め原稿用紙2枚・全集未収録)を見ることが出来た。

 ガリ版刷りの「少年詩人」などは保存状態もよく、ページを開くたびに、初々しい「少年詩人」たちの香りがゆらめいてくる。1923(大正12)年5月に発行された「少年詩人」創刊号に、民喜は「ためいきの壷」という1篇を寄せている。「小さな身体(からだ)をことりと草になげて/青い大きな空を仰いで/無限に続く人生を/淋しい自己を/見つめると/ためいきが空に消えていく……/青空はためいきの壷」。(これら作品は、青土社版の「定本原民喜全集」全4巻の1・2巻に収録されている。興味のある方は図書館で探してください)。

 貴重な資料といえば、やはり二枚の「跋」であろう。長光太は生前、一冊の詩集も出さなかったから、この「跋」も日の目を見ていない。同文学館の平原一良副館長の調査によれば、寄贈された資料の中に「青」「登高」というタイトルの二つの詩稿があり、「登高」には末尾に「1948年」とあった。「跋」の「1948年3月」と符合する。文章は二人の友情を語って実に印象的である。エピローグの一節を書き写しておく。

 「……これは長光太が詩を書きはじめてから二十七年目に、はじめて上木(上梓?)される詩集である。思へば一九二三年(大正十二年)光太がはじめて私のところに訪ねて来た夜の顔もまだ私の眼底にはかなりはっきり残ってゐるが、その幼い光太の顔と、今は札幌にゐて私には見えないが想像はできる長光太の顔と、その二つの顔の谷間に、この詩集が置かれる時、わっと泣き崩れたくなるのはひとり私ばかりであらうか」。

  この、わずか二枚の短い文章には、「少年詩人」創刊に始まる二人の長く、そして濃密な友情が余すことなく詰め込まれている。長光太の片仮名ばかりの詩篇や民喜に届いた便りの幾つかは広島市中央図書館にも収蔵されている。いずれは広島にある資料と併せて、二人の交流の足跡をたどる展示会が出来ないかと思う。

 ところで、北海道立文学館も、開設に至るまでには40年に及ぶ長い市民運動の前史がある。1966年に「北海道文学展」が開催されたことが契機となって、任意団体の「北海道文学館」が誕生して資料の収集と保存・後悔、文学散歩の会などを始めた。88年に財団法人「北海道文学館」の設立が認可され、旧北海道庁を拠点に保存・公開を続けてきた。道立文学館がオープンしたのは95年9月。横路知事の時代の公約が結実したのだという。財団はそのまま存続させて現在に至っている。資料はアイヌ民族の口承文芸と、その記録に取り組んだ金田一京助や近代文学の有島武郎、伊藤整、小林多喜二、小熊秀雄ら、既に約12万点がデータベース化あれている。そして、その90%以上が財団の所有というのも驚きである。

 平原副館長は財団の専務理事。「知事が代わって館長は行政職になったが、理事会は文学関係者で構成している。行政側には“カネは出すが口は出さない”約束を徹底させないと、こうした文化施設はうまく機能しない」と言う。例の「指定管理者制度」の導入を巡って、道との間で緊張感が流れたらしい。北海道とのかかわりが深い企業の文化財団が運営に名乗りを上げた。財団側は「民間に運営を委ねるなら、財団所有の資料は全部、他に移す」と主張し、結局「ご破算」になったーと平原さんが話してくれた。

  「広島文学資料保全の会」が活動を始めたのは80年代である。平原副館長の話からすれば「広島文学館」設立運動は、まだ道半ばということなのだろうか。