帰ってきた「原爆詩集」

命削った三吉の格闘

推敲重ねた言葉現代照射

海老根勲


 

 勤めえと 食物あさりえと/出たきり帰らぬ父をかえせ 母をかえせ

 広島市中央図書館に収蔵されている峠三吉の「生」と題された自筆草稿の一つである。他にも数点、「原爆詩集」の原形と思われるそれらの草稿は、質の悪いざら紙にペン書きされ、赤ペンや鉛筆でおびただしいまでに推敲されてもいる。

 今回、三吉の甥・鷹志氏(六八)宅=東京都足立区=で確認された「原爆詩集」自筆原稿は、改めて清書し、さらに推敲を加えたものである。「一九五一・五・一〇」という「あとがき」の日付がある。同詩集の「あとがき」は六月一日となっているから、印刷に回すもう一つ前の草稿だと分る。ぎりぎりまで推敲を加え、言葉と格闘していた姿がうかがえて、「原爆詩集」の成立過程をたどることのできる貴重な資料である。

 例えば「序」と題された冒頭の一編。最初の原稿から散文的な言葉をすべて削除しながらも、傍らに赤ペンでこんな詩を書き込み、斜線で消去している。「これらのことばは/予言のうただろうか?/これらのうたは/前兆のことばだろうか?」。全部で三章。自分の内に潜む甘い叙情性と必死で戦っている姿、であろうか。「序」の文字も×印に並べるように赤ペンで書かれており、後から付けられたようだ。他にも「倉庫の記録」は、原形では単に「収容所」、この草稿では「死のはこ匣〈負傷者収容所〉」とされていた。

 峠も、原民喜や大田洋子らと同じように、一九四五年八月六日以後の日々を、詳細に日記に記録している。それが「原爆詩集」に結実するまでに五年以上もの歳月を要した。なぜか。

 生来、病弱だった彼は叙情的な文学青年であり、軍国少年でもあった。リアリズムに目覚めたのは、戦後民主主義の中で台頭してきた文化運動、労働運動に参加してからである。詩人の壺井繁治らの誘いを受けて新日本文学会に参加するなどして、言葉との格闘を重ねていく。「原爆詩集」の草稿には、被爆後の彼の、劇的な「自己変革」の姿が読み取れるのである。

 壺井繁治から峠に当てた一枚のはがきがある(市中央図書館蔵)。「東京の出版社に幾つか当たったがだめだった。ガリ版でもいいから、広島で急ぎ出してはどうか」といった内容である。日本はまだ占領下、連合国軍総司令部(GHQ)による言論統制が敷かれ、朝鮮戦争のさなか、米国大統領トルーマンが、さらなる原爆使用を模索していた時代である。五〇年十二月には原民喜が詩「家なき子のクリスマス」を親友の長光太に書き送り、翌年三月、自殺を遂げている。峠らが「原爆詩集」の発行を急いだ背景には、そうした時代への危機感が大きく関わっていたと思えるのである。

 峠鷹志氏の自宅で「原爆詩集」草稿に込められたT筆圧Uに触れた時、私は激しく心を揺さぶられた。泥沼化の一方であるイラク情勢や自衛隊法の改正、内閣から噴出した「核容認論」などを考えれば、峠が、自分の命を削りながら紡いだであろう言葉の勢いが、五十余年の歳月を貫いて、この時代の在りようまでも照射していると思えたのである。この夏を目標に周辺資料も含めて展示し、峠の、時代を超えるメッセージを多くの人々ともにかみしめたいと思う。(「広島に文学館を!市民の会」幹事)

参考

「冷戦下、磨かれた「原爆詩集」 峠三吉の詩友・丸屋さんが読む」(『毎日新聞』、2007年3月2日)

「峠三吉「原爆詩集」 推敲原稿、展示も 広島の資料館」(『しんぶん 赤旗』、2007年2月15日)

「支局長からの手紙:峠三吉の幻の詩」(『毎日新聞』、2007年2月12日)

「峠三吉の原爆詩集 推敲原稿見つかる 資料館、展示前向き」(『毎日新聞』、2007年2月7日)(インターネット版はありません)

「峠三吉入魂の赤ペン 草稿発見 多数の推敲跡」(『中国新聞』、2007年1月23日)


「中国新聞」2007年2月6日(文化欄)の原稿を著者の了解を得て掲載しています。