絵はがき「ひろしま文学散歩」

制作・著作「広島に文学館を! 市民の会」

頒価500円(12枚セット)

(お問い合わせ・注文先)

広島市中区本川2丁目1−29−301

 電話082−291−7615


1 平和アパート(中区昭和町平野橋河畔) 絵・西田勝彦

 広島の戦後初の鉄筋コンクリート造市営住宅で、モダンな住まいとして市民の注目をあびた。詩人・峠三吉(1917〜53)も入居し、活動の拠点とし、反戦・平和運動、文化運動に携わる。1953年3月の葬儀はこの平和第三アパートから出された。前を流れる川を眺めて詩った「河のある風景」が河岸景観改善事業を記念し銅板に刻まれた。中区・平和公園内には『原爆詩集』の序「ちちをかえせ ははをかえせ……」の詩碑もある。


2 みなと歌碑(南区宇品港中央公園) 絵・西田勝彦

 中国への全面戦争が激しくなると、広島は軍隊・軍需物資の重要な補給基地として軍事一色につつまれていった。それに伴い国民を鼓舞するため凱旋施設が建てられた(宇品凱旋館など)。この公園の一角に「空も港も夜は晴れて‥‥」の唱歌で知られる「みなと歌碑」が建っており、この歌は日清・日露戦争当時の宇品港の活況をうたったものといわれている。(昭和50年、全日本海員組合をはじめ海運関係者の手により除幕)


3 三滝寺参道(西区三滝本町) 絵・西田勝彦

 三滝寺は周辺住民の避難先に指定されていたので、8月6日市街地から逃れてくる罹災者が殺到し参道にあふれ、黒い雨は谷川を黒くした。参道には、原爆死没者供養慰霊碑・句碑、アウシュビッツ犠牲者供養塔などがある。鐘楼付近には、詩人・大木惇夫(1895〜1977)詩碑(ひなた/素直に日向を掘っている そのうちいいこともある 山蘭の匂ひがする)がある。中区・平和公園内には「鎮魂歌」の詩碑もある。


4 陸軍桟橋跡記念歌碑(南区宇品波止場公園) 絵・西田勝彦

 陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ 芳美

 歌人・近藤芳美(1913〜)は旧朝鮮馬山浦に生まれ、中学高校時代を広島で過ごした。兵たちは桟橋の突堤から沖の輸送船に乗り、遠く大陸などへ送り出された。船舶工兵として中国へ送られた経験を持つ近藤は、この歌碑の裏面に「わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がねばならない」と趣意を刻んでいる。


5 教師と子どもの碑(中区平和公園国際会議場南) 絵・西田勝彦

 原爆は多くの幼い子どもたちをも無惨な犠牲に巻き込んだ。その人数は、今も定かでないが、児童数約2000名、教師は約200名といわれている。

 県内各学校の児童・生徒会をはじめ、教育関係者の募金により、1971年8月に除幕した碑には、広島の歌人・正田篠枝(1910〜1965)の短歌(太き骨は先生ならむ そのそばに小さきあたまの骨あつまれり)が刻まれた。正田篠枝は、米占領軍下の検閲を逃れて歌集『さんげ』を出版。


6 大田洋子文学碑(中区基町中央公園南西)       

 少女たちは 天に焼かれる 天に焼かれる と歌のやうに 叫びながら 歩いて行った 『屍の街』より

 妹宅(中区白島九軒町)で被爆。縁故をたより玖島村(現・廿日市市佐伯町)に避難し、死の恐怖に怯えながら書きついだ『屍の街』は、占領下のプレスコードでかなりの部分の削除がほどこされた。母・妹の住むいわゆる原爆スラムを取材し、『夕凪の街と人と』などいくつかの作品を残している。碑はそのゆかりの地に建てられている。


7 東照宮(東区二葉の里) 絵・西田勝彦

 原民喜(1905〜51)は長兄宅(中区幟町)で被爆。京橋川河畔、東照宮で二夜野宿し、八幡村(現・佐伯区八幡)に避難した。手帳(いわゆる「原爆被災時のノート」)に見聞きした被爆の惨状を書き綴り、小説『夏の花』を書く。「水ヲノム 石段下ノ涼シキトコロニ 一人イコフ 我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ コハ今後生キノビテコノ有様ヲ伝ヘヨト天ノ命ナランカ」、と東照宮の境内で記していた。原爆ドーム東側に詩碑がある。


8 原爆犠牲ヒロシマの碑(中区元安橋南側) 絵・西田勝彦

 爆心地の元安川は、「あの日」無数の死体や瓦礫で埋まった。この川床で、原爆に焼かれた瓦を掘り出し、追体験し平和への決意を込め「原爆瓦で平和のモニュメントをつくろう」と考えた高校生たちがこの碑を1982年8月に建立。ブロンズ像と台座にはめ込まれた原爆瓦は「天がまっかに燃えたとき わたしのからだはとかされた ヒロシマの叫びを ともに 世界の人よ」と、反戦・平和のねがいを永遠に訴えている。


9 子規の句碑(南区比治山富士見台展望台) 絵・西田勝彦

 鶯の口のさきなり三萬戸  子規

 俳人であり歌人でもあった正岡子規(1867〜1902)は松山出身である。日清戦争の時に従軍記者として中国に派遣された。明治28年(1895)3月から4月にかけて出港までの20日ほどを広島で過ごした。そのときに詠まれた句である。他に南区宇品御幸の千田廟公園にある句碑「行かば我筆の花ちる処まで」が同じ時期に詠まれた句とされている。


10 栗原貞子色紙

 栗原貞子(1913〜2005)は、1945年原爆被災。敗戦後最も早い時期に、戦時中発表できなかった作品を含む詩歌集『黒い卵』を刊行。GHQの検閲で削除・変更させられる。有名な詩「生ましめんかな」は、爆心から1.6Hの広島貯金局の地下室をモデルに書かれた。残念ながら老朽化のため解体され、ビルの屋上の被爆タイルを敷きつめ、1989年中国郵政局前庭(中区東白島)に詩碑が建てられた。


11 赤い鳥の像(中区相生橋東) 絵・西田勝彦

 鈴木三重吉(1882〜1936)は、大正から昭和にかけ活躍。児童雑誌『赤い鳥』を創刊、教育界に大きな反響を起こした。童話・童謡の近代化の気運をつくりだし、坪田譲治、新美南吉ら児童文学者を多く輩出。文学以外の作文指導論は、昭和初期の生活綴方運動に多大な影響を与え、『綴方読本』(昭10)は今日の国語教育界でも注目されている。生家跡(中区紙屋町「デオデオ」本社)には、肖像の銅版がはめこまれている。


12 頼山陽史蹟資料館(中区袋町・旧日銀東) 絵・西田勝彦

 頼山陽(1780〜1832)は、広島藩の学者・頼春水の長男として大阪で生まれ、この袋町の邸宅で育った。幼少の頃から漢学を学び、21歳のとき脱藩したが、連れ戻され、幽閉された。名著『日本外史』22巻は、邸内の幽室生活から生まれたといわれ、幕末維新の転換期に大きな思想的な影響を与えた。一方、文人画も巧みで自由自在の書風があった。中区・鶴見橋河畔北西には、漢詩を刻んだ碑が建てられている。


今後の制作予定 ご期待下さい!!

旧陸軍被服支廠(南区出汐町)

旧大正屋呉服店(レストハウス)

旧原爆スラム(基町河畔)

おさん狐像(江波・おさん狐伝説)

猿猴橋(えんこう伝説)

旧被服廠(峠三吉・倉庫の記録)

被爆木・ユーカリ(広島城)

縮景園(原民喜・夏の花)

湯川秀樹歌碑

YMCA(済美小学校門柱)

福屋デパート

鈴木三重吉記念碑(子ども図書館前)

世界記念聖堂

江波気象館

さくら隊の碑

ABCC