『原爆詩集』の成立に立ち会う

「広島文学資料保全の会」代表幹事・「広島に文学館を!市民の会」幹事

好村冨士彦


 戦後の学制改革の影響で変則的に1949年の7月に広島大学の理学部に入学した私は、その翌年春から肺結核のため療養生活に入り、その年8月に西条にある国立広島療養所(現在の国立療養所広島病院)に入院した。理科生ではあったが、広大に入るまえの旧制広島高等学校(後の広島大学教養部--総合科学部)でドイツ語を習い、ゲーテの詩に親しんで以来下手な詩を書いていて、療養生活のつれづれに療養所の詩のグループに入っていた。

 ちょうどその頃峠三吉は肺結核ではなかったが(現在でいう肺嚢胞症)、大きな空洞をもちよく喀血していたので、手術の可能性を検討するため同じ年の11月に療養所に入ってきた。

 その前年創刊されたサークル詩誌『われらの詩』の主宰者という地位にあって、広島では若い詩人たちのリーダー的存在として峠は知られていた。私は療養所の詩のグループの一人に紹介されて、9療棟の個室に寝ている峠を訪ねた。

 峠は風邪を引いていたとかで、ひどい咳をし、具合悪そうだった。しかし優しい小声で話をする気取りのない峠の人柄に、私はすぐ魅了されていた。

 その後峠は山田二郎医師のはからいで、12療棟の8人用の大部屋に一人で入って、創作に集中できるようになった。部屋はベッドと床頭台のほかは何もなくガランとしていたが、中央に机がわりに木製のみかん箱を左右に二つ重ねて、間にガラス板を置き、その上に手製の原稿用紙をひろげ、後に『原爆詩集』となる詩稿を峠はきれいな字で書き続けていた。

 私は峠の移った12療棟のすぐ隣の11療棟で寝起きしていた。当時安静度が4級Bという比較的軽症だった私は、安静時間を除いてかなり自由に動きまわることができた。それで遠慮することを知らぬ若者の特権を発揮して、しょっ中峠の部屋を訪問した。それが創作の邪魔をしていることに気づいたのは、ずっと後になってのことだった。

 この無作法な闖入者を、峠はいつも優しい笑顔で迎えて、話し相手となってくれ、出来上がった作品があったときは、もったいぶらずにそれを私に見せ、感想を求めるのだった。

 峠が手造りの原稿用紙に詩を清書していたのは、わけがあった。それは市販の原稿用紙だとたて1行に20字しか書き込めないからだ。しかし実際に印刷するときは、1行に30字は書き込める。峠は刷り上がったときと同じように詩の各行の配列を文字化し、詩句の効果を正確にたしかめることができるようにとこのような手間をかけていたのである。

 峠は私に詩語としての言葉のひとつひとつは、それぞれ使われる場所によって固有の重さや軽さ、匂い、肌ざわり、響き、色彩を持っていて、それらが全体で響き合い、交感し合って、ひとつの詩の全体を形作っているのだ、と私に語っていた。また同じ語でも漢字かひらがなかかたかなかで受ける感じが変わってくることを、「平和」という語を例に教えてくれた。詩の行かえにも神経質なほど気を配っていて、各行の配列が音楽的にも、絵画的にも自分の意図する効果をあげるように計算するため、このような手造りの原稿を必要としたのである。それとは言わなかったが、西洋の詩でいうアンジャンブマン(句や語の次行へのまたがり--パウル・ツェランは語のアンジャンブマンをよく用いている)も意識的にとり入れている。たとえば詩「死」の第10、11行と、終わりの5行がそのよい例である。

 峠は自己の創作の過程をあけすけに見せてくれて、それによって私に文学への目を開かせてくれたといえる。峠はこのような形で私を教育しながらも、私が彼の作品を読んで述べる感想や意見にも注意深く耳を傾け、よいと思った点はためらはず取り入れた。

 例えば詩「炎の季節」の第1行は、当初は「シューッ!」と書かれていた。これではあまりにも素朴な擬音で迫力が足りないと感じた私が、「FLASH!」としたらどうですかと言うと、峠はそれはいいね、と認めて現行の通りになった。

 そうかと思うと序の「ちちをかえせ ははをかえせ・・・」の詩について当時ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』の叙事詩風の序詩に魅せられていた私が、序の詩はこれでは軽いのではないかと感想を述べたが、峠は、いやこれでいいのだ、ときっぱり私の言葉を退けた。後にこの序の前身である「生」という草稿が見つかり、この序にいたるまでの峠の意向が抽象化、メールヘン化にあることがわかって、峠のこの言動が納得できた。いまやこの序は女優の吉永小百合の朗読でCDに収められ、日本中の人に聞かれている。

 こうして推敲を重ねてねり上げ、清書した手書きの詩集が仕上がると、峠はそれをとじて読んでみてくれ、と私に渡してくれた。10編前後の詩は彼から感想を求められて読んでいたが、このようにまとまった詩集を通読するのは初めてだった。

 私はそれまで峠の人間的魅力にひかれていたとはいえ、彼の詩人としての本当の価値は分かっていなかった。ところがこの詩集を通読して驚いた。ここにはあの筆舌につくせないといわれる原爆投下時の広島の人間の極限的体験が、峠の詩人的な鋭敏な感覚で受けとめられ、見事に言葉となって定着し、形象化されていた。この詩集を読むことで、これまで私に聞こえてこなかった被爆した人びとの呻き、叫び、泣き声が生ま生ましく伝わってくる思いがした。

 私はこの詩集を読んだ感想をいつものように彼の部屋に行って口頭で伝えることをしないで、メモ用紙のようなものに書きつけて、峠に渡した。その中で、この詩集はすばらしい詩集だと思います。日本中の人だけでなく世界中にも広く読まれなければならないし、また読まれるだろう、という意味のことを書いておいた。この紙切れは私の思ったよりも峠を喜ばしたらしく、彼の死後、これがとってあるのを見た。そして2年後にこの詩集が青木書店から活版刷り(初版は謄写版印刷だった)で出されて広く読まれるようになってからも、この詩集の価値の最初の発見者は君なのだからね、と笑って言っていた。

 詩集の「価値の最初の発見者」が、かりに峠の言うとおり私だったとしても、それはたまたま同じ療養所のすぐ隣の療棟で寝起きしていて、比較的自由だったというところに拠るところが大であったにすぎない。しかし私にとっては、このようにひとつの詩集が形成される過程をそのすぐそばで観察でき、その詩人と話を交わせたことの意味は大きかった。後にドイツ文学を専門に研究するようになったとき、詩人の内部を想像するのに、このときの経験がどれだけ役立ったか知れない。

 1982年ドイツのケルンで催された国際文学者平和会議インターリット82に栗原貞子らと参加して、ケルン市庁舎前広場の集会で峠の「ちちをかえせ・・・」の詩の独訳がドイツの作家によって読みあげられるのを聞いたとき、私はこの詩集の生原稿を初めて読んで書いた自分の言葉を想い出して、感慨にふけらざるをえなかった。

 私は自分の予言が文字通り実現したことを峠と共に喜びながらも、しかしと考えざるをえなかった。峠だって自分の詩のドイツ語訳が世界の文学者の前で朗読されて嬉しくないはずはないだろう。だがそれよりも、核ミサイルの配備をめぐって東西の緊張が強まり、核戦争の暗雲がヨーロッパ上にたれこめていた当時、峠はこのような世界情勢の方を憂えて自分の詩が読まれないですむようになることのほうを望むだろうと。

 21世紀に入った今、東西冷戦はなくなったが、ニューヨークのテロ事件の後アメリカのアフガニスタンへの「報復」戦争が始まって、日本は自衛隊を海外へ派遣し、世界はかつてない新しい核戦争の危機に入りつつある。峠の『原爆詩集』は今こそ世界の人びとに読まれる必要が出てきた。朝鮮戦争のまっただ中で書かれた峠の『原爆詩集』は峠の本意に反しながらも、なおこれからも読みつがれることだろう。


「私にとって、一冊の本」、『新日本文学』2002年3月号、66頁-68頁。