〈林立する文学館〉
全国各地に大小の文学館が林立している。大半は郷土ゆかりの文学者を顕彰するのが目的で、初版本や文具をガラスケースに陳列し、壁掛けパネルで写真や略歴を紹介し、また書斎を復元してみせる。これはこれで楽しいが、これだけだと、どこか温泉街の秘宝館・珍宝館みたいだ。それでも開館当初はもの珍しく、来館者数も多いが、そのうち下火になって予算削減、これをふせごうと手をかえ品をかえ企画展の連続、ひたすら学芸員は奔走するが、そう目立った効果が上がるわけじゃない。
作家の原稿や初版本はモノ(物体)なのだから、何度見ても同じモノ。よほどの関心がないかぎり、リピート訪問なんかしないだろう。これは風吹いて桶屋がもうかる式の理屈よりも自明の理。全国各地の文学館がこれで苦戦しているのが実情だとすれば、後発の文学館は、ここが思案のしどころだ。
克服策は二つあろう。第一は既存の美術館・博物館の運営方式にならって国内や世界各地の有名な文学(者)展を次々と開催する方法。第二は、従来の文学館方式を思い切ってやめてしまうことだ。
〈「文学」というジャンル〉
わたしたちは日々、さまざまな〈物語〉のなかを生きている。異性を愛する物語、家族や自然や国家を愛する物語。いわば〈物語〉は人生そのもの。そこで、〈物語=文学〉と定義すると、このジャンルには神話・伝説・昔話・芸能・歴史・思想・自伝・噂話なども組み込まれてこよう。こうして「文学館」は「物語館」へと変容する。
〈モノ主義からヒト主義へ〉
モノはたかだかモノでしかない。モノをおもしろく立ち上げるのはヒトである。各地の文学館では拝物主義が横行している。モノは大切だが、モノはヒトの手にふれられて価値を生じる。近現代作家の初版本など、しょせん大量出版の印刷物。犬公方の愚は笑止であろう。肝要なのはモノを輝かせるヒトの力。なまじ豪勢なハコ(建物)はヒトを腐らせる。
〈アジアの視点〉
福岡市は「アジアの拠点都市」を自任し、今回の構想にも「アジアを視野に入れた文学館」を掲げている。大賛成だ。ここは大アジア主義を掲げた玄洋社の拠点であり、また「オッペケペ節」で有名な川上音二郎の出身地でもある。
ところで博多港は戦後、全国有数の引き揚げ港だった。阿川弘之や富島健夫ら多くの文学者たちもこの地に上陸し、その傷痕を文学作品化している。にもかかわらず、戦後半世紀、引き揚げ資料は意外に少ない。ならば、「ふくおか文学館」が全国にさきがけて、この未踏のテーマを日本・アジア・南洋の全域を対象に手がけたら大いに注目を浴びるのではないか。いずれ「引き揚げ文学証言全集」の刊行も目ざしたい。
〈サテライト文学館〉
目下の構想では既存の文化財「赤煉瓦文化館」の利用が予定されている。あまりに狭いが、これを当面はサテライト(衛星)と位置づけ、福岡市総合図書館を母艦として活用すればスタートできるだろう。狭い場所で戦うには物量戦よりも情報戦によるのが得策。いっそ全館開放し、喫茶店を存続し、市民のたまり場として、学芸員が徹底的に雑談の相手をする。貴重な談話はテープに保存し、市民研究グループの相談にものる。なにしろ〈話〉が集う館なのだから、ヒト(学芸員)の贅沢な配置が生命線であろう。学芸員の使命は既存の「財産」を守ることではなく、市民と一緒に歓談し、風をくらって街へ出て史資料を漁り、市民と共同して新しい文化財を創ること。先日の会議では、〈人と人、人と情報の出会う館〉というコンセプトも提出された。嬉しいことに市当局もクリエイティヴな見識を示してくれている。ここはひとつ、熊本近代文学館や松本清張記念館の例にならって館長以下のスタッフに民間の人材を積極起用し、いわゆる民活型の文学館をめざしてほしい。(『朝日新聞』(西部本社版)2001年10月6日)
いまどき文学館なんて! バブル経済の勢いで全国各地にふるさと創生の文学館が林立し、いまや戦いすんで日が暮れて、閑古鳥が鳴きはじめた施設もあるとか。
文学というジャンルが隆盛したのは西欧十九世紀のことである。なにしろ文字が唯一の広域媒体であったから、これで人びとは世界と人生を認識し考察した。人生は文学であり、文学は生きることであった。二十世紀の前半まで、この隆盛は続いたが、しかし複製技術の多様な進歩によって映画やパソコンが脚光を浴びている。西欧十九世紀型の文学、かの偉大なる天才芸術家が神の啓示に感応して作品世界を創造し人生の真理を発見する、「文学」の栄光の時代は、かくて終焉した。これを見すかすように、「文学館」という名前の博物館ブームが起きたのは皮肉なことである。そこでは偉大な天才作家の初版本・自筆原稿・書簡・ペン・机などが、まるで古墳発掘の埋葬品みたいにガラスケースのなかに陳列されている。もちろん博物館は国民国家の共同記憶(歴史)の捏造に必須である(B・アンダーソン『想像の共同体』)。博物館の効用はあなどれないが、文学館が博物館もどきの施設でしかないなら、わざわざをつくる必要はない。天下国家に反逆するのが文学じゃとドンキホーテみたいにうそぶいていたほうが健全である。
一年前に「福岡市文学館構想検討委員会」が発足し、わたしも末席につらなった。市内の重要文化財「赤煉瓦文化館」を利用して「福岡市文学館」をつくる、ここからスタートした。けっして御用委員会ではなかった。市当局とは何度も激論し、各委員のプランも一様ではなかったので、ときには険悪な雰囲気にもなった。時流に乗ったイケイケの施設なら、こうはならなかったろう。要するに、ことは沈む夕日(=文学)をどう遇するかということなのだ。果てしない議論のすえ、さしあたり以下の結論に落ち着いた。
福岡市ゆかりの文学を集大成する文学館。
アジアを視野に入れた文学館。
総合図書館の複合機能を活用した文学館。
文学資料・文学情報へのアクセスが容易な文学館。
市民参加型の文学館。
要するに「福岡市文学館」とは称するものの、独立の施設(建物)をさしていうのではなく、福岡市総合図書館に文学部門を新設し、資料の収集・整備・保管はここで行なって、赤煉瓦文化館はサテライト(衛星)施設として活用する。キャッチ・フレーズは〈人と人、人とモノ、人と情報が出会う場所〉。ポイントの第一は「人」を主役にしたことである。あたりまえだといわれそうだが、既存の文学館では必ずしもそうはなっていない。そこでは主役は初版本や自筆原稿などのモノであり、これが偉そうに鎮座している。モノはモノにすぎないじゃないか、さわってナンボ、見てナンボで、モノを生かすもコロすも人しだい。さわっちゃダメよで永久保存したって仕方なかろう。
第二は「文学」を既存のイメージに狭く限定していないことである。わたし個人はこれを〈物語館〉とよびたいくらいなのだが、文学は人が生きることの全体を対象とするのだから、人が生きることに関係していれば、これをすべて対象とする。ホークス球団は対象外でも、ホークス物語なら、これは対象内とする。物語のジャンルは、文字にかぎらず、声も含んでいる。第三はアジアとの関連で、これの具体策はまだ決まっていない。第四は電子情報の整備である。ヴァーチャル文学館も話題になった。
目下、赤煉瓦文化館を会場に「福岡市文学館」開設記念「カフェと文学」展が開催されている。昭和十年代の福岡市内の喫茶店を舞台回しとして、当時の文学青年少女の交歓のきらめきを再現している。もちろん貴重な初版本も自筆原稿もあるが、主役は人と人との出逢う〈場所〉である。偉大な文学者はいても、偉大な人は存在しない。人はみな、それぞれに偉大である。力作の図録も廉価で販売している。初公開の写真やデータが満載されている。館内の喫茶店では当時のカフェ「ブラジレイロ」の再現コーヒーも飲める。会期は六月十六日(日)まで。
新型文学館としてデビューした「福岡市文学館」には欠陥が一つある。目下のところ、これに関わる学芸担当の専門職員(嘱託)が一人しかいない(ただし二年目に一人増員された)。人が主役の文学館に肝心の人が配置されていないのは致命的である。いまさら文学館なんてと言われないためにも、既存の「文学」を清新に拡張更新するフットワークのいい文学館であるしかないのだが、人がいなければフット(足)もワーク(仕事)もなかろう。さて、沈む夕日がぐるっと廻って新時代に輝く朝日になれるかどうか。期待のエールをおくりたい。(『西日本新聞』2002年6月13日)