広島文学館への道

ーー広島文学資料保全の会の活動ーー

「広島文学資料保全の会」代表幹事(現在「『広島に文学館を!』市民の会」幹事)

好村冨士彦


一、出発

 「広島に文学館を!」のスローガンをかかげて「広島の文学資料保全をすすめる会」(現在名称は短縮して「広島文学資料保全の会」となっている--以下「保全の会」と略記する)が発足したのは、今から13年前の1987年2月である。代表者は沖原豊氏(広島大学学長--役職は当時)で、10名の発起人のうち今堀誠二氏(広島女子大学学長)、大原三八雄氏(広島女子大学名誉教授)はすでに故人となられた。詩人の栗原貞子氏、文芸批評の松元寛氏らを含む私ら発起人は、アピール文を作り、この時期に戦後間もなく書かれた原爆文学関係の資料の収集・保全をはかりそれを収め保存・公開する施設、つまり文学館を建設することの緊急の必要性と、それによる「ヒロシマの思想の体系化」を訴えた。

 この要請の文章に応えて下さった賛同呼びかけ人66名の名前を連ねて、私たちは全国規模での署名運動を展開した。4月5月の2ヶ月で小田切秀雄、野間宏、大岡信、早船ちよ、寿岳章子、松下竜一ら文学者をはじめ関心をもつ市民6,264人の署名を集めることができた。地元の新聞である『中国新聞』は3月11日付けの社説で「広島文学館構想に思う」という題のもとに、私たちの運動を強く支持すると共に、当時移転が考えられていた被爆建造物の日本銀行支店が文学館として活用されるのにふさわしいと主張してくれた。

 このように大きな世論の支持を背景に、私たちは7月14日に沖原代表をはじめ発起人、事務局有志らが市役所を訪れ、荒木市長と会見した。しかし荒木市長は私たちの要請に対して、市では中央図書館に作ることを予定している「広島文学資料室」で十分と考えており、新たに文学館を造る必要はない、という冷淡な回答をするにとどまった。その時市長が、「そんなものを作って何を入れるんかいの」と言ったのは、確かに資料の保全を呼びかけながら、まだ調査も収集していない私たちの弱点を突いていた。

 

二、資料調査と最初の発見

 市長との会見では見るべき成果を得られなかったが、私たちは市長の「何を入れるんかいの」といわれた言葉を受け止めて、文学館の内容となる資料収集の活動に着手した。

 翌月の8月、保全の会は峠三吉記念事業委員会と提携して、峠三吉の甥の三戸頼雄さん宅の二階に未整理になっているものを調査した。その成果は予想以上で、行方不明だった三吉のデスマスクや、峠のさまざまな手稿、日記、ノート、メモなどが発見された。峠の手稿の中には「ちちをかえせ ははをかえせ」の詩句で知られる『原爆詩集』の「序」の詩の原型ともいうべき「生」という未発表詩稿があった。

 

    生

 勤めえと 食物あさりえと

 出たきり帰らぬ 父をかえせ 母をかえせ。

 疎開家屋の材木曳きに

 隣組から学校からかり出され

 封筒に入れわけた灰になってかえってきた

 としよりをかえせ 子供をかえせ。

 髪が抜け落ち斑点がでて

 死ぬときめられながら手当とてなく

 ぢりぢり死なねばならなかった

 わしを わしの命をかえせ。

 蛆のように這いいざりより

 うじにまみれ

 救護所の方に頭をむけ腕をのばし

 死んだまま

 そのおびただしい死体の群を

 かたづけるひとでもなかった

 にんげんの にんげんたちの

 町をかえせ 生をかえせ。

 

「序」の詩と較べて一見してわかることだが、こちらの方は状況的なものがリアルに描きこまれている。「序」の詩の方はそういうリアルなディテールを思い切って捨ててしまっているがそれによって「ちち」、「はは」、「としより」や「こども」、さらには「わたし」が抽象的になり、メールヘン的になった。その結果、この詩は普遍性を帯びてきて、『原爆詩集』の序の詩によりいっそうふさわしくなった。この詩稿「生」は峠の詩の創造過程を明らかにするのに大いに役立つものである。

 この調査のさい、もうひとつ大きな収穫があった。それは峠三吉編集による詩のアンソロジー『原子雲の下より』に応募した小、中学生や市民の詩で、選に入らなかったものをふくめて430篇の草稿が行李の中から見つかったことである。

 

三、『行李の中から出てきた原爆の詩』

 私たちは右の調査の成果をジャーナリズムに公表して、文学館の建設の必要をアピールした。

 同時に行李の中から出てきた詩を検討して、この中の没になった詩にも、十分公表に値する迫力があるものが多数あることを確認した。

 保全の会の調査の成果は新聞、テレビ、ラジオなどで報道されたので、伝え聞いたいくつかの出版社がこれらの原爆の詩を公刊したい旨私たちに申し入れてきた。これらの出版社の中で暮らしの手帖社が一番熱心だったので、出版をお願いすることにした。暮らしの手帖社はまず1988年の7月、雑誌『暮らしの手帖』7・8月号に27篇の未発表作品を掲載した。

 さらに同社は翌年の8月に『行李の中から出てきた原爆の詩』のタイトルで、72篇の作品(4篇の作文を含む)に峠の詩「晴れた日に」と「すべての声は訴える」を加えたものを清潔な装丁で公刊した。その中の私が書いた「解説」にある通り、「すべての声は訴える」はこの度の資料にはなかったが未公開のもので、『原子雲の下より』の「序」にするつもりで峠が書いたが、未定のまま散文の「序文」に替えられたものである。

 この本は社会的反響を呼び、8月7日の朝日新聞の「天声人語」でもとりあげられ、その公刊の意義が高く評価された。

 

四、広がる保全の会の活動

 このようなアンソロジーの刊行の努力と平行して、私たちは今回発掘した新資料をもとに、広島市立中央図書館で、1988年7月29日から8月5日まで「愛と平和のバラード・峠三吉文学資料展」を開催した。

 そのさい多数の峠関係の資料と共に「行李の中から出てきた原爆の詩」430篇も一つのショーケースに収めて展示された。これらの詩の一部は保全の会の三浦精子氏と尾津訓三氏の指導する安佐南区祇園公民館の絵本読書会「メルヘンのポケット」の児童らによって、会期中毎日数篇ずつ朗読された。

 峠三吉資料は整理され、『峠三吉文学資料目録』広島市企画調整局文化課の編集(といっても実質は保全の会がやった)、発行は広島都市生活研究会という形で本になり、右の「文学資料展」にギリギリ間にあった。これには峠の手紙やノートなどに峠が遺した絵や、日記・ノートの表紙などの図版が沢山あり、見て楽しいものとなっている。これと別に遺族がこれらの資料を館に寄贈したさい、図書館が作った『峠三吉資料目録』(平成2年3月刊)がある。これによって峠に関心を持つ人が、じかに資料に当たることができるようになった。

 峠資料の調査で経験を積んだ私たちは、保全の会の幹事(会はその後事務局制を廃して、発起人を含めた幹事を選んで幹事会でことを決め、実行するようにした。代表幹事は好村)の一人である古浦千穂子さんが委託されて、保管していた正田篠枝資料の調査、整理にとりかかった。遺稿のほとんどが細長い短冊形の紙に書かれた短歌であるため、その内容に即して分類整理するのが大変だった。

 1991年に会は中央図書館で「女ひとりさんげを生きて」正田篠枝文学展を1月25日から13日間の会期で、中央図書館と共催で開いた。

 また東京の社会思想社に話して、正田篠枝の新歌集を正田氏と個人的親交のあった小説家の古浦さんの伝記的記述を混じえて刊行することを計画し、『さんげ--原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』と題をつけ、教養文庫の一冊として95年7月にやっと出版にこぎつけた。

 この本では新発見の篠枝の遺作の短歌が大部分を占めているが、同時に日本で初めて出版された原爆文学である彼女の第一歌集さんげ』(5百部)を読みたくても読めないという要望に応えて、さんげ』百首をまず冒頭に現代かなづかいで漢字にルビをつけて載せた。さらに巻末に初版そのままと、さらにその原型である歌誌不死鳥(ふしどり)』に1946年、つまりさんげ』の1年前、その第7号に発表した「ああ! 原子爆弾」39首とを資料編として載せておいた。さらに年表と書誌をそえておいたのでそれらを参照いただくことで、篠枝の仕事と人となりを知ることができるように工夫した。

 

五、原民喜資料の里がえり

 1950年代60年代の新日本文学会の理論的支柱の一人であった佐々木基一氏は、保全の会の発足以来積極的に支持を与えてきて下さった。原民喜の義弟になる佐々木氏は所蔵する原民喜関係の資料をいつか保全の会にゆだねることを約束していた。

 私たちの希望する文学館の実現を見ないまま、佐々木基一氏は1993年4月に亡くなられた。その年の8月、私は幹事の尾津訓三氏、広島公文書館の職員と佐々木邸を訪れ、郁夫人のお許しをえて、佐々木氏の書斎を調査させていただいた。一回目には少数の点数しか見つからなかったが、二回目の調査で別の資料の後ろから「広大教授好村富士彦君へ」と佐々木さんの筆跡の紙を表につけた一連の民喜資料が見つかった。佐々木さんは生前万一の事態にそなえて、このように見つかりやすく配慮して下さったのだ。

 これらの資料の中には短編「永遠のみどり」原稿、自殺直前に書かれた佐々木氏宛の遺書、被爆の罹災証明書、民喜宛の佐藤春夫、遠藤周作その他の書簡などが含まれ、合計1,445点にのぼった。この資料は、尾津訓三氏を中心にした保全の会のメンバーによって目録が作られた後、1994年の7月佐々木基一夫人の永井郁さんから市立中央図書館に、三吉の場合と同じ条件をつけて寄贈された。同図書館は同じ月に原民喜文学資料展を単独の主催で開催した。

 

六、文学館実現への努力

 保全の会はこの外にも、広島の文学・演劇活動に関係の深い田邊耕一郎、古井誠三、大月洋、吉田文五、その他の方々の資料をいただいて、その整理と目録づくりをすすめてきた。

 このように私たちは終戦後間のない時期の文学資料の調査、収集、保存、さらにはその展示の努力をかさねつつも、もう一方で行政に働きかけることも忘れてはいなかった。

 1996年2月、四期16年続いた荒木市政の後をうけて平岡敬氏が市長に就任した。この年の9月に保全の会の幹事6名が市長に会って、短い時間ながらもこもごも文学館の実現を訴えた。文学に造詣の深い平岡市長は、確約はしなかったが、文学館の必要性に理解を示して下さった。

 その後95年頃から中央図書館横の映像文化ライブラリーを広島大学跡地に移転新築する計画が立てられ、それが実現すればその空いた建物を文学館にするという可能性が浮かび上がってきて、私たちは希望を抱いた。しかし3年後、広大跡地利用をめぐって県と市の方針がくいちがって、市の利用計画は凍結された。その結果映像文化ライブラリーの移転は実現しないことになり、当然文学館に利用する話は御破算になってしまった。

 昨年平岡市長は二期の任期を終えて引退し、その後をついで元社会民主党の議員だった秋葉忠利氏が新市長となった。秋葉市長は市民との対話を重視し、毎週1時間市民との会話の時間を設定し、開かれた市政をモットーにしていた。

 私たちは早速秋葉市長と会って、文学館建設をじかに訴えたいと思った。ところが昨年は私の体調がすぐれず、4回も入退院を繰り返した。その上中心的な活動をしてきた尾津氏が肝臓ガンで倒れ、9月2日に他界した。

 尾津氏は旧国鉄の職員だったが、民営化を機に退職し、その後ボランティアとして広島の文化活動に積極的に関わってきた。童話の読み語り運動、手話劇の演出などいちいちかぞえあげればきりがないが、なかでも保全の会においては中心的な存在として、発足当初から大変精力的に仕事をしてきた。とりわけ、峠三吉の資料をもとに、戦後間もなく刊行された広島県下の文芸誌120誌を調べ、プランゲ文庫のマイクロフィルムと照合して「占領下における広島県内の文芸活動と検閲」(『広島市公文書館紀要』第16号、1993年)という論文を書き、原爆と検閲の関係について実証的な研究を残しているが、これは保全の会の資料を生かしたよい仕事である。

 昨年4月に会のこれまでの活動と、広島の文学者の文学館要望の声を集めたパンフレットを編集したのが、尾津氏の残した最後の仕事となってしまった。

 尾津氏を失ったことは会にとって大きな痛手だった。しかし尾津氏の仕事を生かすためにも、残った私たちは行政への働きかけを行い、文学館実現への努力を続けねばならない。幸い好村の健康も今年に入り上向いて来たので、保全の会として秋葉市長との面会を申し入れ、4月21日にやっと実現した。会見に参加したのは当初から尾津氏の盟友であった池田正彦氏、詩人の伊藤真理子氏、児童文学の三浦精子氏、作家の文沢隆一氏、松元寛氏と私の6名である。秋葉市長の反応はかなり厳しいものだった。財政事情その他を考えれば、無理からぬところもある。しかし、今後も話し合うことを約束してもらったので、会としてはねばり強く働きかけてゆくつもりである。

 折から、当初話題になった日本銀行広島支店の建物が市に無償供与されることになったと、新聞が報じている。その利用方法は市としてもまだ決めていないらしい。私たちはこの機会を生かして、さらに積極的に「広島に文学館を!」の声を上げてゆこうと思っている


『新日本文学』2000年9月号、pp.62-67.


注 さる2000年12月以来保全の会のメンバーも加わって、より幅広い市民の結集を得て、「広島に文学館を!」市民の会が結成され、水島裕雅広島大学教授を代表として新しい次元の活動を展開している。新しい会の活動は、本ホームページを御覧になればお分かりいただけると思うが、保全の会の成果をふまえた重要なものとなっている。