ふるさと広島
昭和五年十二月月二十八日、私は江波と境になっている広島市舟入町で生まれました。私たちが住んでいた家は、イチジク畑とつながっている建物で、後の方は、レンコンの田んぼになっていて、家の周囲はいつもじめじめとしめっているので、倉庫や台所の隅まで弁慶ガニが群になってうろついていました。雨でも降る日は、かまどまで水があがるので炊事をする母が困っていました。
私の父は、大正時代に故郷の慶尚南道陜川(ハプチョン)を離れて広島にやってきて、鉄くずや古本を集める仕事をしていました。母も韓国の人ですが、広島で知り合い、結婚したとのことです。私の家の周りには、陜川出身の人が大勢いました。日本が韓国を植民地にしてから、山が多く農地が少ない陜川の人々は、仕事を得るために次々に広島に渡ったのです。当時広島は軍都として栄えていたので、仕事が多かったのだと思います。
私は舟入尋常小学校へ入学しましたが、二年生の時に江波へ移り住んだので、江波国民学校に転校しました。その間に、弟と二人の妹ができて六人で暮らしていました。私の当時の名前は「原田正夫」で、日本語だけしか知らずに育ちました(注1)。
江波国民学校四年生の時のことです。韓国から送ってきた漢方薬の紙袋に、「あいうえお」の日本の文字と、それぞれの字の下に当てはまるハングルの文字が印刷してあるのを見つけたことがありました。嬉しかった私は、学校にその紙袋を持って行き、教室の黒板にそれを書き写してみんなに自慢しました。その時ある先生が教室入ってきて、「これは誰が書いたのか」というので「僕が書きました」と言うと、力一杯私を殴りました。悔しかった私は家に帰って、父に「どうして朝鮮人が日本に住まなくてはいけないのか」と聞きましたが何も教えてくれませんでした。
私の子供時代は、日本が戦争へと突き進んでいった時期でした。二年生の時に中国と全面的な戦争が始まり、六年生の時に真珠湾攻撃によってアメリカと戦争になりました。戦争ばかりの暗い時代だったわけですが、いい思い出もたくさんあります。私の家の前は、とてもきれいな川が流れていて、友達と泳いだり魚を捕ったり、無邪気に遊び回っていました。母親は広島で亡くなった(注2)ので、母を思う時は必ず広島を思い出します。私にとって広島は故郷と言って良い土地です。
昭和二十年夏
昭和二十年の春、私は広島第二国民学校を卒業しました。しかし、その当時は戦争中だったので、学校で学ぶ時間よりも吉島の倉敷航空機製作所に通い、そこで飛行機のオイルポンプの中に入れるギヤを削る機械を操っていた時間の方が多かったと思います。
卒業したらすぐに、学校から職業紹介所を通じて、島本照君と二人、広島放送局に就職するように言われました。早速放送局に行って、事務室の受付に紹介状を提出して待っていますと、係りの人がきて、「君達は東京放送学校で放送学を修了してこないと、ここに就職することは出来ません」と言われて、承諾書に保護者の署名捺印をもらってくるように言われました。
夕方古鉄集配の商売から帰ってきた父に、今日放送局に行ったことを話し、「承諾書にはんこをください」と言いました。
父は黙って私の言うことを聞いていましたが、突然大きな声で「それは許さん。今東京はアメリカ軍の空襲で火の海になっている。お前なんかが東京に行ったらどうなるか分からん」と言って、印鑑を押すことを拒否しました。
そのことを学校に伝え、次に紹介されたのが三菱重工業の観音町養成学校でした。父も、今度は自分の手元から通うことになるので喜んでいました。
三菱養成工となって
三菱へは隣組の友人三人と一緒に通うことになり、少年期を脱しかけていた私たちには楽しい時間となりました。その友達の一人は森正治君で、彼は長屋の家主さんの息子で、小さいときからずっと一緒でした。とても気の合う友達で体格も似ており、今でも広島に生残っているただ一人の竹馬の同級生です。
三菱の養成学校で約二ヶ月間、重工業や造船に関する学校教育を短期終了してから、森君は観音町の造船所に、私は江波の造船所に、それぞれ別の部署に配属されました。
しかし、江波の造船所に養成工として勤めるようになってから幾日か過ぎた頃から、会社で毎日毎日を過ごすのが嫌になりました。それは、私たち養成工に工具の使い方や、鉄板とかブリキなどでいろいろなものの「型」を造る事などを教えてくれる教官が、九州地方の独特の訛りを使うので、時々何を言われたのか分からず、私たち養成工との間にトラブルが起こるのです。そこに、工場の騒音で話す人の口と表情を見ないとその人が話すことが良く聞こえないことがあるので、私は大変困っていたのでした。
被爆の三日前頃だったと思います。作業台でブリキの注水器の型物を一生懸命作っている私の背中を、誰かが拳で叩き、大きな声で私を呼ぶのです。振り返ってみると背の高い教官が、興奮して顔色を変えて立っています。「ふざけるな。二度も呼んだのに知らん振りをした」と言うのです。その時、実習場の周りでは、天井の起重機が轟音を出して何かを吊り上げていたので、私には教官の声が聞こえなかったのです。そして教官は「朝鮮人は馬鹿だから仕事が遅い」と罵りました。他の人に言われるならともかく、教官からこんな事を言われるのはとても悲しく、悔しい思いでした。以前からみんなの前で、恥をかかされることがよくあり、自分でも辛い思いをしていたので、この日の言葉はひどくこたえ、会社を辞めることを覚悟しました。
夜遅く家に帰ってきた父親に、今日会社で起こったことを話し、会社を辞めることを決意したと話しました。父は、「会社を辞めてはいかん。もうすぐ見習い工になって他の部署に行ったら、訛り言葉も聞かんし、月給も上がるから辛抱するんだ。この世の中を生きてゆくのは楽ではない。辛いことを我慢して働くのだ。それが出来ないと成功することは出来ない」と、私を説得しました。
翌日の朝、会社に行く支度をして家を出た私は会社に行かずに、町をぶらぶら歩いて舟入に住んでいるお祖母さんの家に行きました。やさしいお祖母さんは喜んで私を迎えてくれました。私を産んでくれた母が前の年に病気で亡くなってからは、お祖母さんはもっと私を可愛がって、何事もかばってくれるので、心細いことがあったらお祖母さんを訪ねて行くことが癖になっていました。
夜になって家から、母が私を探しに来られました。父が何事も許すと言っているので家に戻るように私に話します。お祖母さんも家に帰って父に詫びるように勧めるので、仕方なく重い足を引きずりながら帰りました。
家に着き入り口から入ると、父は蚊帳の外で扇子を使い片手をついて足を伸ばして座っていました。私は父の怒るのが怖くておろおろしながら、父の前に頭を下げました。父は腹を立てて怒るかと思いましたが、静かな言葉で「会社はやめてもいい。お前は体も弱いから静かで小さな職場が見つかるまで休め。父は明日、可部にある疎開先(注3)の家に荷物を運んで行くから、2〜3日家に戻らんので、6日の隣組の勤労奉仕に、父の代わりにお前が行け」と言いました。父の怒るのが恐ろしくて震えていた私はほっとしました。
赤い太陽
八月六日、運命のその日の朝、八月の太陽が熱い光で広島を隅から隅まで赤く彩りながら昇っていました。土手の上で赤いお日様に何かを祈っていた隣のお婆さんの姿が、五十余年過ぎた今でも私の脳裏に残っています。
その日の早朝いつものように、職場や何処かに出て行く人々、隊伍を組んで勤労奉仕に行く町内会の人たち、みんな静かな朝もやのなかで動いていました。その勤労奉仕の隊列の中に父の代わりに行く私も混じっていました。富士見町まできた町内会の人たちは、そこで道路拡張区域内の建物を倒して片付ける作業を行うことになっていました。
勤労奉仕に一緒にきた叔父さんと私は、持って来た弁当を街路樹の枝にぶら下げて、「昼はここで弁当を一緒に食べよう」と約束して、隣組の作業場にそれぞれ別れて行きました。壊す建物の壁に穴をあけて柱にロープを掛けて、隣組の人たちが一斉に「よっしょ、よっしょ」と引っ張っている時、大原という少年が向こうの方で手を振って私を呼ぶのが見えました。何か変わったことがあるのかなと思い、列を外れて行ってみました。
二人はもともと病院だった建物の中に入って行きました。入り口には児玉小児科と書いてある名札がまだ残っていました。空家の中は、疎開するときに綺麗に掃除していったのでしょう、ごみ一つ落ちていませんでした。
二人は風の通る涼しい綺麗な床に寝転んでみました。その時、何か黄色い光がぴかっとした瞬間、私は気を失ったようです。気がついたときは薄暗い壊れた建物の下敷きになっていました。崩れ落ちた壁土や、いっぱいの埃を打ち払い、側にいたはずの大原君を探したがどこに行ったのか見当たりません。私が気を失っていた時間がどのくらいであったのか分かりませんが、死んだと思って先に逃げて行ったようです。
土埃の中で、煙の臭いにおいで息苦しくなりました。早く逃げ出そうともがいてみました。左足の足首の上に建物の梁のような大きな材木が崩れて押さえつけているので、足が抜けません。今朝、履き替えてきた新しい地下たびのゴムが引っかかっているのです。必死の思いで、砕けて絡み重なり合っている材木を取り除き、上半身を起こして、足首を抑えている大木の下に手を入れて、地下たびの紐を解きました。
光が差している穴の方へ向かってようやく這い出して、一息して、後ろを振り向いてみたところ、その建物はもう火に包まれていました。少しでも遅かったら、あの火に焼かれて、熱い熱いともがきながら死んだのかもしれません。
外に出てきた私は、周りの様子を見てびっくりしました。四方は火がついて燃えているし、一緒に勤労奉仕にきた叔父さんの姿も、町内会の皆さんも誰一人見えず、道端にはあちらこちらに、全身が焼けて倒れてうめく人、手を振り「水を、水を」と叫びながら倒れてゆく人、ろくに立って動いている人は誰一人見えません。その有様をどのように言い表す事が出来ましょう。生き地獄のようでした。いつかお寺に行って見たことのある地獄図よりももっと凄惨なありさまでした。
火炎や煙と、変なにおいを出して燃えている市街を、煙の臭いに咽びながら、死骸なども踏み越えて、自分ではどこをどうやって脱出したのか、よく覚えていません。ようやく江波の家にたどり着いた私は、またびっくりしました。江波の方は被爆で焼けた所はないのに、自分たちが住んでいる長屋だけが焼けていて、母も妹も、そこの長屋に住んでいた隣の人も、みんな見えませんでした。私は怖くなって呆然としているとき、後ろのほうから母が私の名を呼んで近寄ってきました。「生きていてよかった」と母は力いっぱい私を抱いてくれました。母の熱い涙が私の肩をぬらし、私の目からも涙があふれました。
長屋の火事の原因は、家主さんが営んでいる精米所の中に、綿を打つ機械があり、そこに積んであった綿に、被爆時に誰かが慌ててタバコの火を落としたからだと、後からそんな噂がありました。
生残った人と
イチジク畑の中に、母と私は拾ってきた、焼けたトタンや木材で、雨だけでも避けれるようにいい加減に作った屋根の下に、家が焼けた時に持ち出した物を持ち込みました。その時母はどこからか爆風で圧死した鶏をもらってきて、おいしい鶏肉のスープを作ってくれました。
おいしくスープを食べているとき、叔母がやってきました。そして泣きながら、「お前と一緒に勤労奉仕に行った叔父はどうなっているのか?どうしてお前一人で帰ってきたのか。叔父を探しに行こう」と、スープを食べていた私の手を引っ張って、案内しろと勤労奉仕隊の行った富士見町の方へ連れて行くのです。私は脱出するとき痛めた左の足首が痛いのを我慢して歩きました。
本川沿いに土手をさかのぼりました。そこに電柱にタールを塗る工場がありましたが、その工場のあたりから市内は一望のもとに焼けていました。まだ燃え残っている火の熱い中を、住吉橋を渡って市内に入りました。家族を探している人、死体の前で泣き崩れている人など悲惨な有様をどう言ったらいいでしょうか。
富士見町の方で、炭や灰が汗とまじり、顔も着物も黒くなるまで、叔母と私は叔父を探しました。誰かが来て、「生きている重傷者は救護所に連れて行かれた」と言ってくれました。その日はもう暮れてきていたので、江波へ帰りました。
その後、叔母は再び出て救護所にも探しに行き、「西本三郎」という叔父の名前を見つけたと言っていました。何日かが過ぎて、叔父は遺骨になって暁部隊の救護所から届けられました。叔母は届いてきたその遺骨を庭のりんご箱の上に乗せて、「この遺骨が叔父の骨か他人の骨かわからん」と泣きわめき、母に向かって、「たくさんの死体を重ねて火葬したのだから、誰の骨かわからん、家の中に祀ることは出来ない」と言うのです。夜になっても庭のりんご箱にそのまま乗せてある遺骨の上に、母が露に濡れぬように瓦を載せてやりました。
その翌日だったと思います。父に連れられて私たちは可部の方へ避難して行きました。被爆して電車も通っていないので、避難して行く人や、家族を探しに市内に入る人など、道路は道が狭いほど、多くの人で混雑していました。
父は自転車に荷物を載せ、その上に妹を乗せて行きました。母は頭の上に重い荷物を載せて、手も添えずに上手に歩いてゆくので、道を往来する人たちが何か珍しいものを見るように見るので、私は恥ずかしい思いでした。
日が暮れる頃、疎開先になっていた可部の借家につきました。家といっても一つの大きな部屋で、倉庫のような台所で食事を作るのです。それに井戸は遠くにあって、母はずいぶんと苦労したようです。
避難してきた夜から、被爆した時、梁が落ちてきて出来た足の傷が痛み始めました。翌日の朝は歩くことも出来ないほどになりました。傷が化膿し始めました。母が膏薬を貼ってくれましたが痛みは取れません。二〜三日過ぎて傷口の痛みが取れて、貼っている膏薬の下から黄色い膿が滲み出てきました。父が化膿している傷口を両手の親指で抑えて、膿を搾り出そうとしているのを見ていた母が、突然私の足の傷口に口をつけて、膿を吸い取っては吐き、また吸い取っては吐き、綺麗な血が出るまで吸い出しました。あの汚い膿を自分の口で吸い出してくれる母に私は感動しました。今まで経験したこともない戦慄が私をおそいました。
私はそれまで、血のつながりのない母と仲良くすることができず、事あるごとに反発していました。しかし、この天使のような行為に、「自分が生んだ子よりももっとこの私を大事にやさしくしてくれたのに、自分はどうしたんだ。母の言いつけに背き、悪戯なことばかりしてきたじゃないか」と自分が恥ずかしくなって、これからは母の言うことをよく聞き、よい子になろうと心の中で固く決心しました。
数日経って痛みも取れ、傷も治ってきました。しかしその傷跡は五十余年過ぎた今でも、薄い桃色になって残っています。見るたびに亡くなった母のことを思い出します。
その後も母は、「新兵器にあたった人は、どくだみを煎じて飲んだらよい」と村の人から聞いて、毎日どくだみを煎じて飲ませてくれました。私は、秋になって隣の人のお世話で、可部の鋳造工場に通うようになりました。
その年の十二月に親戚の人と一緒に私たちは韓国へ帰ることになりました。下関で、雑草の生えている野原のあちらこちらに、あり合わせの木綿布を竿を立ててテントにして、家族・親族単位で数日間野宿しながら順番を待ち、ようやくLS輸送船に乗ることが出来ました。このとき叔母は「誰の骨かわからん」と言っていた叔父・趙_道(チョヨンドン・西本三郎)の骨を、娘の英点(ヨンジョン)と一緒に持って帰りました。今は故郷の慶南、咸陽郡に墓があります。
陜川に帰る
祖国釜山港の朝は、日本から帰ってくる人々で騒々しかった。生まれて初めて来た祖国の風景を、駅まで歩いて行きながら、珍しく見ました。建物や商店、人々の着物から履物まで、皆が始めて見る珍しい風景でした。特にチゲを背負った老人、長いキセルで煙草を吸っているお年寄りが、印象的に見えました。
釜山の駅から晋州に行く列車は、足を踏み込むことも出来ないほど混んでいたので、晋州の駅につくまで立ちどうしでした。晋州からは、貨物自動車に乗って陜川に行きました。土埃の道を木炭を燃して走る自動車は、アデン峠をこえるときは、大人たちがトラックの後ろを押してようやく越えることが出来ました。こうして夜遅く陜川につきました。
電燈もない故郷の村は、暗い闇のなかに沈んでいてよく見えません。その中を村に住んでいる親戚の人たちが、提灯を持って出迎えにきてくれていました。そして家ではオンドルに火をたき食事を作っていてくれました。温かい部屋で食事を済ませた私は、今日一日中列車や貨物自動車で疲れていたので、着物を着たままその場で眠り込んでしまいました。
翌日は早く目覚めました。故郷の景色が見たくなって早く起きました。外はとっても寒いのです。村の家々の屋根には白い霜が厚く降りていて、オンドルから出ている白い煙が穏やかに上っている景色は、日本では見たことのない風景でした。
朝ごはんを食べたあと、父は母と一緒に家の内や外を掃除をしていました。私も母を手伝い部屋の中を綺麗に整頓しました。
昼頃から村の人たちが、久しぶりの父に次々に挨拶にやってくるので、母はその人たちをもてなすのに忙しそうでした。私も遊びにきた同じ年頃くらいの少年たちと、空き缶蹴りをしたりして楽しく遊びました。日本で生まれて日本で育った私は、国の言葉も風習もわからないので、よくからかわれ、人と話すのが嫌になることもありました。
どん底の生活
故郷に帰って約一ヶ月過ぎて、陰暦の正月が数日後に迫っている夕方でした。白い着物の襟が垢で黄色になっている気持ちの悪い人が、父を訪ねてきました。夜遅くなるまで話をして帰ったその男が、翌日父と一緒に何処かに出かけてゆきました。
夜になって家に戻ってきた父は、母が出した食膳を前にしたまま力が抜けたように食事もせず、何かを考え込んでいるようでした。母が心配して、何事か、と、何度聞いても、父は何も言いませんでした。
父は騙されたのです。事業を一緒にしようというその男に、馬車とロバとを買うための資金を騙し取られたのです。日本で儲けてきた資金でした。父はそれがもとで病床につきました。
父がそうなってから、我が家の生活はだんだん困るようになりました。まず食べ物に困り始めました。幼い妹たちは腹が空いて食べるものがないと泣きます。母と私は、山に行って、松の皮をはぎその中のやわらかく白い部分をそぎとって帰り、そこに雑穀を入れて粥を炊いて六人家族で飢えをしのぎ、生き延びてきました。こうして寒かった長い冬も過ぎて、暖かい春が来ました。
父の金を騙し取った男は春になっても村に帰ってはきませんでした。その男はずーと姿を消したままです。祖国が混乱している時期だったので、訴え出ることも父は止めました。
春になってからは父の病気も次第に良くなって、いつか釈迦誕生日が過ぎたある日、病床から起き上がった父が、チゲにいろいろな道具を載せて、祖父の墓の近くにある谷間に私を連れてゆきました。父はチゲを下ろし砂金を掘る仕事をはじめました。
春だといっても小さな流れに溜まっている水は冷たい。その冷たい水の中ら、土砂を掘り出して、水で濯ぎだし、底に残っている砂金を取るのです。冷たい水の中でする仕事なので、手も足も冷たくてなりますし、谷間には暖かい日も差してはくれません。手も足も痛いのか冷たいのかわかりません。焚き火でからだを温めながら続ける仕事はとても辛いものでしたが、時に粟粒のような中に米粒くらいの砂金が出てきたときは嬉しくって、思わず歓声を上げることもありました。砂金を採り始めてから生活も楽になってきました。そして父の健康もだんだんよくなりました。私たち親子は、雨が降る日も休まずに仕事を続けました。
あるとき、市が立った日、父と二人で市場に行った私は、ある金物屋で今入ったばかりというランプが目に付きました。夜遅くまで薄暗い提灯のまえで、縫い物をしている母のことを考えて、そのランプを買いました。そして、化粧石鹸と、鏡も一つ買って帰り、母にあげました。母は石鹸のにおいをかいだり、鏡に顔を映してみたりしながら、とても喜んでくれました。
同族相殺の戦争
一九五十年の春、父は古い家をつぶして、新しい家を建て始めました。その年の六月二十五日、朝鮮戦争が起こりました。破竹の勢いで攻めてきた北朝鮮の人民軍は、八月には洛東江まで一挙に侵攻し、李承晩政府は釜山に遷都しました。陜川でも、連日避難民の群れが通り過ぎました。
家造りで余念のない父が、南に行く避難民の群れを見ていながら、何か深く考えていたようでした。私を呼び「お前も明日から避難して行くんじゃ。北の人民軍が来たら若い者は強制徴発して軍に入隊させる恐れがある」といって、母に私の避難の支度をさせました。父や母と、その時十五歳になっていた弟など、みんな家造りに忙しく働いているのを見ながら、私は家族と別れて避難の道に立ちました。
避難にでてから三日目だと思います。金海郡の進永邑に着き、そこの臨時避難民収容所に収容されました。その翌日、官吏の人が来られて、避難民を慰めてから若い者を集めて「国家が今、緊急な状態になっています。この危機を若い人たちが軍人になって防いでもらいたい」と軍に志願することを勧誘するのです。その時私はまだ十九歳で召集年齢にはなっていませんでしたが、官吏の勧めで志願することを決めました。
入隊が決まって、釜山の訓練所に送られました。訓練所といっても、大きな倉庫を徴発した臨時の訓練所で,志願兵も少なく練兵場も小さいものでした。訓練兵になって約二週間過ぎた頃,M−1小銃の実弾射撃を二日間にわたって行いました。それを最後に訓練生活が終わり、慶州に駐屯していた歩兵首都師団捜索中隊に、数十人の新兵と一緒になって補充されて行きました。
九月十五日、連合軍の海兵隊が仁川上陸作戦に成功、ソウルを奪還してから、戦況はたちまち変わり、腰が折れた北朝鮮軍は全戦線で退却をはじめました。捜索中隊で私たち新兵は、捜索隊の任務、小隊攻撃など、捜索に必要な教育訓練を約一週間受けて、中隊本部から出動準備の命令が下りました。
そうして師団から補給品も届き、私達新兵にもUSのマークが入った多種類の軍需用品を支給してくれました。受け取った支給品を古参兵の指示通り、背嚢の中に詰め込み、毛布と雨合羽は背嚢の上に結んで、持ち上げてみるとずいぶん重い。次は身長よりも大きな軍服に着替えて、靴をはいたところあまりにも大きくて足に合わないので困りました。そこで自動車のゴムチューブを足に合わせて切り取り、靴底に敷き、そのまま履くより仕方がありませんでした。
出動準備が終わって、師団輸送隊からきた何台かのGMC軍用トラックに分乗しました。われら捜索隊は、中隊長の点検が終わり次第、戦場に向かい進撃をはじめました。進撃中ところどころにナパーム弾の空襲にあった敵兵たちの、真っ黒に焼かれた死体があるのを見て、広島の被爆当時の有様が思い浮かびました。
捜索隊が江原道の寧越炭鉱地帯を進んでいる時です。山の両方から不意に敵の奇襲攻撃がありました。出動してから始めて、目の前の敵と交戦したのです。捜索中隊は主力部隊よりも、何百メートルか先に進むので、いつも敵の奇襲攻撃を覚悟していました。われらは慌てず、小隊長の指揮に従い散開して反撃を加えました。私は松の木の下に臥せって飛び散ってくる敵弾を避けていると、目の前の近くで草木で偽装している敵兵が機関小銃を乱射しているのが見えました。M1小銃の引き金を引きました。命中したのか、敵の銃声は止まりました。
敵の戦線は後退し、三八度線を突破。わが首都師団の地域が東海岸に変わり、十月には元山を奪還し、さらに清津市北部まで敵を追撃して行ったとき、全軍後退の命令が上部から下りました。これは中国共産軍が戦争に介入して、鴨緑江から元山までの我が方の戦線を遮断しようとしたためでした。第三次世界大戦になる恐れがあるという噂が流れました。肌の中まで凍りつくような冷たいシベリアから吹く強風にあふられながら、退却するわれらの心は残念でたまりませんでした。ここまで進撃してきたその間の各地の戦闘で、散華して行った戦友の英霊に申し訳がないと思いました。
進撃のときは部隊の最前線で進軍する捜索隊は、後退のときは主力部隊の最後尾で捜索しながら後退します。元山港まで撤退して、港では軍部隊や避難民を乗せる船を護衛している連合軍の軍艦が、近づいてくる敵に向かって艦砲射撃をしているのです。避難民を一人残さずに乗船させた後、われら捜索隊も最後に輸送船に乗りました。少し前まで軍人や避難民の群れで混雑していた船着場は、もう人影一つありません。とても淋しそうでした。
敵中脱出
元山港を出向した輸送船は、翌朝、全羅南道の麗木港に着き、そこで我等は下船しました。戦闘地域ではない後方の港に降りたのを変なことだと思って居る私たちに、小隊長の説明がありました。「この地異山一帯にパルチザンと敗残兵が数千、後方地区民家や官公署を襲撃して、良民を虐殺したり食料を掠奪している。そのパルチザンを討伐するのだ」と言うのです。
一九五一年六月一五日の未明、わが捜索中隊は香爐峰(ヒヤンノボン)から高城(コソン)市まで捜索進撃していた時でした。山岳戦の名手といわれる人民軍69旅団と遭遇、その大兵力に捜索隊は包囲され、熾烈な攻防戦が展開されました。我が方は弾薬も消耗し尽くして危ないところ、包囲網の一角を突破して危機を逃れましたが、最後に残った私たち数名の隊員は、屈辱なことにも捕虜になってしまいました。小隊長以下八名の捕虜はその夜、人民軍政治保衛部からきた軍官に捕虜尋問を受けました。尋問が終わって、その軍官は私に向かって「君は若くて賢く見える。君が希望するなら平壤の金日成大学に推薦入学することも出来る」と言いました。
翌日の朝、軍服に将校の肩章のついている男が、私たちを呼び集めて鋭い目つきで捕虜たちをにらみ、「貴官たちは部隊の後方指揮所に送る。もし後送中に不祥事が起こると困るから、腰のバンドと靴の紐を目的地に到着するまで吾等が保管する」といってバンドと紐を押収してしまいました。
機関短銃で武装した三名の護衛兵に連れられて、私たち捕虜の辛い行進が始まりました。片手でズボンを腰に吊っていながら、紐のない大きな靴が歩く時に脱げて困ります。その私を見た護送兵の一人が、葛の蔓を帯剣で切ってくれました。その蔓を靴に固く結んで、敵兵に「有り難う」と言ったら、彼も肯き、にこにこ笑顔を返してくれました。やはり敵だといっても、私たちは同じ血が通う民族だと思いました。なぜ戦わなければならないのか、戦争を起こした張本人を恨みながら歩きました。
どのくらい歩いたでしょうか。護送兵に連れられた私達捕虜は、雑木林の涼しい陰がある峠に着き、敵の中でも上級者と見える者が行進を止めて、その峠で休んでゆくことになりました。
私と金正守(キムジョンス)は、一人の護送兵といっしょに、こちらの松の木陰で休むことになり、あちらのほうでは大きなどんぐりの木の下に、二人の敵兵と、六人の捕虜が休むことになりました。こちらの松の木陰の兵士が“増産”という煙草を、私と金正守に吸うように勧めて、一本ずつくれました。そうして火をつけようとマッチを摺ったのですが、火がつきません。体の湿気でマッチに火がよくつかない。マッチを摺る度に胸に掛けている機関短銃に指があたって、邪魔になるのです。兵士は、胸に掛けていた機関短銃を外して、腰を支えている松の木の枝に掛けました。その瞬間、金正守と私の目が合い、二人の目がチカッと光りました。一瞬、その敵兵に向かって飛び掛って突き飛ばし、機関短銃を奪い取りました。こちらの様子を見たあちらの捕虜たちも一斉に護送兵に飛び掛って突き倒して、機関短銃を奪って逃げました。その時、峠を通りかかっていた幾人かの民間人が、目を丸くしてこの様子を見ていたのを覚えています。
そこから二キロ先に、内金剛山があり、そこのユジュン寺に彼らの旅団指揮所があるというのを護送兵から聞いていました。この周辺は警戒が厳しいと思った私たちは、人のよく通らない山の中を警戒しながら進み、また進み、日が暮れた頃、東海岸の小さな漁村の裏山に着くことが出来ました。
ここまで逃げてくる途中、葛の蔓で縛っていた私の靴は、蔓が切れて何処かで脱げて、私ははだしで走っていました。足の裏にはとげが数本刺ささっていましたが、緊張している私は痛みは感じませんでした。
日が暮れて、一軒の農家で食事を恵んでもらい、ここいらあたりの様子を聞いたりしました。「早く出て行ってほしい」とそこのおばさんに哀願され、休む間もなく海岸を南のほうへ向かって進みました。危ないと思ったところでは逆に敵の裏をかいて、道路の真ん中を堂々と歩いたり、また最後の前哨戦突破のところでは銃撃戦になったりで、脱出行は薄氷を踏む思いでした。
本隊に帰った我等を、中隊長は死線をこえて脱出してきたと、大変喜んで迎えてくれました。本当に長い二日間でした。後に私はこのことで銀星花郎武功勲章を授与される名誉を受けることになりました。
本隊に戻って休息を取っている時、中隊本部から呼び出しがあり、行って見たところ、中隊の補佐官が、貴官は今日から師団司令部の情報処に勤務するようになった、早く支度をして待つように、と命じられました。
日系アメリカ人と日本語で
師団司令部では、情報状況室で勤務するように先任下士官から説明を受けました。そこは爆弾が落ちてもびくともしないほど堅固に築かれた地下室が、バンカーの中にありました。その中には師団長の執務室もあり、作戦情報の参謀待機室もあったと思います。状況室は情報処とは別室になっていて、状況室に勤務する兵士としては、作戦状況に関する兵士と私の二人だけ、他はみんな将校団ですから寸時も緊張を緩めるわけに行きませんでした。
そこでは前線部隊から報告してくる敵情や、偵察機から入る情報、また陸軍本部からの戦略情報などを、状況図のセロハン紙に五色のオイルペンを使い、符号を記入して、整理がすんだ符号は消すのが私の任務でした。
その状況室の連合軍の情報担当顧問の中に、新しく日系アメリカ人二世の情報官が転勤してきました。状況図に記入している符号を指でさして、英語で何の符号かを尋ねるのです。その時通訳官が席をはずしていませんでした。私はまずい英語で「英語はよく出来ません。日本語なら少し出来ます」と言いました。その人はにこにこしながら「私は日本人二世です。では日本語で説明を頼みます」と言いました。
その人と一緒に勤務するときは、日本語で話が出来るので、本当に楽しかったです。私は毎日その人が来るのを待つようになっていましたが、幾日か後に、その二世の人は状況室に来なくなりました。後から他の顧問官からその人は帰国したと聞きました。その人が本国に帰るとき、お別れの言葉が交わせなかったのが淋しくて、まるで恋人でも失ったような気分でした。
故郷に帰る
一九五三年七月二七日、休戦協定が成立。全戦線に轟く砲声も消えて、平穏が訪れてきました。血にまみれていた戦場であった山野に、いつどこから飛んできたのか、山鳥が美しい声で鳴いていました。翌年二月、満期除隊の命が下り、長い軍隊生活が終わりました。生死苦楽を共にしてきた戦友たちと惜別し、なつかしい故郷に向かいました。
故郷には当時十四歳の少女になっていた末の妹が、一人でなつかしく私を迎えてくれました。父と母は二年前に亡くなっていて、もう一人の妹は行方不明、住んでいた家は弟が売り払って何処かに逐電、これはまた何たる運命の仕業であろうかと思いました。親の残した家財道具は、箸一本も残っていません。妹はその間、どんな苦労をして生きてきたでしょうか。かわいそうに、妹の両手はひび割れて赤く血がにじんでいました。
故郷に帰ってから約一ヶ月、親戚や友人の家にお世話になっていたある日、町の醸造会社で働いている人から、明日からでも会社に来て働かないか、という嬉しい知らせが来ました。給料は安いが、そこで宿食を提供してくれるというので、私のような独身者にはぴったりの職場です。
今の妻との結婚も、その醸造場に勤めているとき、奥様の仲介で縁組が決まって結婚することになりました。当時妻は十八歳の少女で、粉伊(プンイ)と呼ばれていました。可愛い娘でした。彼女の父は瓦工場を経営して、職人も数人働いていて、戦後の復興時にあたって、瓦の事で工場に出入りする人が多く、毎日にごり酒、マッカリを一斗以上も需用していた醸造会社のお得意さんだったのです。
私が醸造場に勤めて、ある日初めてその瓦工場に酒の配達に行ったとき、酒を移す甕がどこにあるのかわからないで、そこにいた粉伊さんに「甕がどこにありますか」と尋ねました。彼女は恥ずかしそうな顔で私を見ていましたが、両手で口をふさぎ顔をそむけて声を漏らして笑い、井戸のほうを指差しました。その時までも私は韓国語の子音の発音がよく出来なくて、時々人に笑われることがありましたが・・・。
そのことがあってからは、粉伊さんと私は親しくなり、醸造場の奥様の仲介で結婚にゴールインしました。一九五七年の冬でした。その時粉伊さんの両親は、私を婿として迎えるのを反対したといいます。その理由は、いくら血筋のよい両班出身でも無一物で何も持っていないから駄目だというのです。それが当時の常識だったのでしょう。
結婚して三年過ぎた陰暦の八月十六日、韓国の二大名節、秋月(チュウソッ)の翌日でした。妻は可愛い女の子を生んでくれました。そうしてそれまでに蓄えていた金で小さな家を買いました。初めての我が家でした。それから妹も連れてきて貧しいながらも幸せな日々が過ぎました。
朴老人と温突(オンドル)のこと
しかし、幸せも長くは続きませんでした。一九六一年五月十六日、韓国に軍事革命が起こって、朴正煕革命政府は食料政策の一環で、米飯以外の嗜好品などを米で作ることを禁止したのです。先祖代々白米を原料として仕込んで作った濁酒・マッカリを、麦や小麦粉で作ると変なにおいがします。その酒を愛酒家たちが飲むはずがない。それでマッカリを愛用していたほとんどの愛酒家たちは、焼酎やビールを飲み始めました。
マッカリの売上が少なくなってからは、醸造場の経営が難しくなってきました。それに社長さんが第二代国会議員選挙に出馬したときの負債金が、利息に利息を重ねて、結局会社は倒産しました。
会社が倒れて解雇されたその年の二月に、次女・京姫(キョンヒ)が大きな産声をあげて生まれました。解雇されて生計が難しい最中に赤子まで生まれたので、大変なことでした。それでも妹が産婦の介護をしてくれるので大いに助かりました。
丁度その折、近所に住んでいる朴老人と出会い、連れられて近くの居酒屋に行きました。顔なじみのおかみさんがついでくれるマッカリをぐっと飲み干して、キムチを一口うまそうに食べながら朴老人は「李君どうだ、この頃暇なようだから俺の仕事を手伝ってくれぬか、君なら辛抱できると思う」というのです。その老人の別名は、朴クドルといって、温突(オンドル)の施工や修理をする職人で、そのことでは名の知れた職人でした。何をしてでも稼がなければ困ると、働き場所を探していた私には、朴老人の話は夢ではないかと思うほど、嬉しいことでした。
翌日、朴老人と一緒にお寺の温突房修理に出かけました。そのお寺は、新羅聖徳女王十一年に創建した烟湖寺という寺で、入り口のほうに浩然亭と名づけられている楼閣もある、景色の良いところでした。修理する部屋は、祭祀を行う信徒たちがお寺に来て宿る場所で、とても広い部屋でした。私は朴老人の指示に従い部屋一面に敷いてある、構突張(クドルチャン)を一枚一枚はがして、煤が綿菓子のようにくっついているのを、篩い落として、温突の火が通る溝や、クドルチャンを支える石にたまっている煤や灰をきれいに掃き出して、次々にきれいにしていきます。そして職人の朴老人がそのクドルチャンを元のように支え石の上に敷きなおすのです。
仕事がきついので、韓国の三月はまだ寒いのに、汗がでてきます。夕方仕事が終わったときは、朴老人も私も真っ黒な顔になって、鼻汁が出るたびに手が行くので、鼻先がピカピカに黒く光っていました。風呂がすみ朴老人と飲んだ酒の味はとても忘れられません。
温突修理工といえば、世間の人はすぐ賎しい職業だ、汚い仕事だと思うかもしれませんが、それには、それなりの技術と科学的な眼力がないと、出来る仕事ではないのです。その理由は、まず、四角や長方形の部屋の隅々まで火が通って、部屋を同じように温かく出来ること、その次は、焚き口と煙が集まって出てくる溝の深さが、部屋の大小に合わせて算出されなければ、少しの風でも逆風になって、火が通らなくなるのです。それから、焚き口です。ここが一番やりにくいところです。鉄砲の銃口とおなじ原理で、狭い支石の間を通ってきた火煙が、四方に力強く広がるように仕掛けるのは、ベテランの職人でなければ難しいのです。
朴老人の手伝いをしてから二年目の春になったある日、老人は私を呼んで「この間よく辛抱した。俺はもう歳なのでこの仕事をやめる。君はまだ若いから俺の後を継ぎこの仕事を続けてくれ。人には賎しく汚いように見えるが、大工や左官よりも儲けがいい、注文が来たら君に任す」と言ってこの仕事から離れました。その時既に三女の景珠が生まれて半年が過ぎていました。
長女の敬愛が小学校に入学する頃、私は一人前の温突職人になっていた。朴老人に鍛えられた腕で、精一杯働いた結果が出たのです。時には遠く釜山や大邱のほうまで遠征し、修理に行くこともありました。
仕事の折り、連れて行った妹武子に縁談の話があって、農家にお嫁に行くことになりました。妹が嫁に行く前の夜、昔から娘の髪を名残として少し切り取る習慣があります。両親がいませんので親の代わりに私が妹の髪に鋏を入れてやりました。髪を切るとき、親がいなくてわがままの一言も言わず、嫁に行く妹のことを思い我知らず涙がこぼれました。嫁に行ってから幸福に生きてゆくことを、心の中で祈ってやりました。
一九七〇年代になってから、経済復興の余波が伝わってきて、生活様式も西洋風に次々と変わってゆきました。世の中の変遷にしたがって、煙臭い温突の施工も、クルドチャンを敷かぬオイルボイラーに変わり、炊事場のかまども、みな西洋式の綺麗なステンレスのシングル台に変わってゆきました。世の中がこのようになったので、困ったのは旧式の暖房施工業者です。徐々にこれらの業者は廃業に追い込まれました。全国の家々で薪を焚いて暖房する温突が無くなってから、禿で見苦しかったこの国の山野に森林が繁り、何処かに隠れて見えなかった鹿や猪のようなけだものが、その姿を見せ始めました。
病院を脱走
一九八二年三月頃から下腹が変に少し痛みを感ずるようになりました。たいしたことではないと思っていましたが、数日過ぎても治りません。病院に行き診察を受けました。医師は神経性の大腸炎だと言い、注射と何日分かの飲み薬をくれましたが、痛みはますますひどくなるので、大邱の東仁外科病院に入院しました。そこで大腸の切除術を受けました。妻の話によると、大腸がもつれて、約二十センチ切り、取り除いたと言うのです。八日間の入院が自分の気持ちではじりじりして何ヶ月もたったと思うほどでした。
退院前日、院務室から計算書を受け取った妻が、がっかりして悲しそうな表情で、私を見ました。妻が渡す計算書を見て私も驚きました。内容の数字は目を疑うほどの大金です。私が一年中働いて蓄えても出来ないほどの金額です。妻が準備してきたお金ではとても足らない。病院の人は全額支払わないと退院は出来ませんと、こちらに事情も聞かずに、院務室へ帰ってしまいました。
困ったことになったとあれこれ頭を絞っても、金をつくりだすあてが無い。病院で一日遅れれば、一般旅館の宿泊費よりもうんと高い入院費が加算されるので、それも困る。仕方なく住んでいる家を急売するか担保にして、残金を支度してくるように話して妻を家に戻しました。その頃、私には既に二人の息子と四人の娘がいました。上から三人の娘は、都会の会社に勤めていて、末の娘まだ小学校に通っていました。息子二人は中学校に通っていました。
さて貸金業者から、家を担保にしてお金を借りてくる妻を待っている時、陜川から電話が来ました。妻からです。家の横と後ろに、都市計画の赤い線が役所の台帳に引かれていて、担保も急売も難しいと、妻は力無く言って電話が切れました。困ったことになったがどうすることも出来ません。仕方なくその夜ひそかに院長先生様宛てに、一枚の借用証書を書き残して病院の外に出ました。三月だといっても、大邱の夜風はとても冷たく、精神的にも肉体的にもみじめな状態でした。
前年の一九八一年三月に第十二代大統領に全斗煥大統領が就任されて、陜川ダムの建設が確実になっていました。数年前からダムの適地だと行政府からは選ばれていたその計画が実現する日が、間近に迫って来たのです。この日が来るのを待っていた郡民たちは大喜びで、まるで祝祭ムードになっていました。その年の末、長女敬愛が結婚しました。婿になった人は戦闘警察官で、二人は恋愛結婚でした。
私が大邱の病院を、夜逃げするように脱出してきて、一九八三年からはいよいよ陜川ダムの建設ブームが起こりました。その頃病弱で仕事が出来ない私にも、暖房施設の注文がやってきましたが、病後の体で仕事が出来ないので、惜しくもみな断りました。生活は妻が、資金のいらないマッカリの飲み屋を始めてようやく生き延びてきました。
原爆被害者協会に入会
仕事ができずにいた時、村で農業を生計としている友だちから嬉しい知らせがやってきました。「部落の会館に付属している購販場が空いている。賃貸料はなく、陳列台なども揃っている。部落の人は農業が忙しくて商売をする人が今いない。そこで君の事を思い出してやって来た」と言うのです。早速その友人と二人で部落の里長を訪ねました。
チゲに山盛りの秣を刈り、積んできた荷をおろして顔の汗を拭いていた里長は、笑顔で迎えてくれた。奥様が出した酒膳の前に腰を下ろした私たちに、里長はマッカリを注ぎながら、部落の会館についての話で、会館の管理を綺麗にすること、やめるときは元どおりにして返すこと、使用については無料でいいということを口頭で約束してくれました。そして明日からでもと、早く来て商売をすることを勧めました。
私は七転び八起きという言葉を思い出していました。人が生きて行く中でいろいろなことが起こると昔の人が言ったが、本当にそのとおりだと思った。家に帰ってすぐ夫婦で相談して、住んでいる家の一部屋に家財道具を集めて、残りの三つの部屋を賃貸して、その金を仕入れの資金にすることにしました。その会館のある部落は、陜川郡大陽面大目(デモン)里だった。ほぼ五年位、ここの購販場で日常品その他の雑貨を扱いました。その間に次女も三女も結婚して嫁に行きました。
そんなある日のこと、韓国原爆被害者協会陜川支部(注4)からはがきが来ました。協会に申請もしたことは無いのに、どうして私のことを知っているのか、不審に思いながら内容を読みました。それは住民証と印鑑、それに戸籍謄本一枚を持参して、被爆者登録をしに来るようにという通知でした。自分はこれまで何の連絡したことも無いのに、これは妻の仕業に違いないと、妻をにらみそのはがきを妻の前に出しました。しばらく黙って、やっと口を開いた妻は、昨年12月頃、支部長さんに被爆者申請に関する問い合わせをして、住所と氏名を知らせたのだと言い、興奮した口調で、病気になっても病院に行かれない貴方のためにそうしたのだ、と、泣きながら言いました。
被爆者という言葉
一九六〇年代になって上流階層からはじまったテレビジョンの普及は、七十年、八十年代と全国の農村にもテレビのアンテナが立ち並ぶほど広がりました。人々の知識も思考方法も急速に変わりつつありました。被爆に関係の無い一般の人々も、原子爆弾の恐怖とその後遺症、放射能などの核兵器の関することを気にかける人が多くなってきました。その当時既に嫁に行っていた三人の娘の方からも、婿たちが次々と被爆者とその二世三世に放射線の影響の有無を問いあわせてくる時は、額から汗が出るようで答えるのが難しく困りました。
日々の生活を支えるのでさえ辛い今の世を、被爆者という負い目を持っている本人も、まだ知ってもいない、また知りたくもない、原子爆弾の後遺症とか、後世への遺伝ということなど、良く知らないままに生きてきたのです。答えるのに戸惑うのも当然なことでしょう。
一九八〇年代のマスコミは世界のあちこちで起こった核実験や、大気圏に浮遊する放射塵が、雪や雨の中で検出されている場面など、原子核問題に関するいろいろな情報を知らせてくるので、一般大衆も原子核といえば、分からない人はないほど広く伝えられている時代でした。
被爆者だという証明を原爆被害者協会でするという事実を前にして、私はあらためて自分の健康や、病気にかかっている長男のことが気になってきました。長男は生まれつき脊椎の一番端の尾骨が突出していて、あぐらをかいて座るとそこが痛いので、床など固いところでは座るのに困るようでした。それに気管も弱く結核病院で治療を受けていることが、間違いなく放射線による遺伝の影響だと思うようになりました。また家内もそう思っているようでした。だからこそ私に黙って協会の方へ登録したのでしょう。
一九九〇年五月一八日、まだ結婚式もあげていない長男に子どもが出来て、嫁になってくれる人が可愛い女の子を生んでくれました。児松(アソン)と名をつけてやりました。そのアソンが五歳になったとき二人は結婚式をあげました。一定の職業を持っていない長男は、陜川で「三・一チキン」という看板をかけて鶏料理屋を開いて商売をはじめましたが、蔚山郵便局に就職が出来て、店と借金を親に残して蔚山に引っ越してゆきました。
五十年目の広島
思うように仕事ができず、普段から健康に不安を抱いていた私は、日本で被爆者健康手帳(注5)をもらえば病院に無料でかかることができるという話を聞き、広島での治療を希望していました。一九九五年の夏、被爆者の手帳申請に必要な日本人の証人を探しに広島に行くことを、隣に住んでいる金日祚(キムイルチョ)姉さんと、鄭寅出(チョンインズル)氏と3人で相談しました。
まず先に旅費とパスポートを準備してから、八月二七日午後六時頃のフェリー船便で釜山港を出航、憧れの下関に向かいました。暗闇の玄界灘を越えて夜が明ける頃、早く港の景色が見たいと船首の甲板に立って向こうを見ている私の目に,明るい灯が見え始めました。「下関だ!」と大きな声を出そうと思ったとき「あそこが間違いない、下関だ」と、金日祚姉さんが叫びながら走ってきました。死ぬ前に一度は見たかった日本、その五十年間の長い夢を、今日果たしたという思いで胸が一杯になりました。船が港についてずいぶん時間が過ぎ、八時すぎになってからようやく下船することになりました。港から駅に行く道を尋ねるのに、日本語と韓国語と混じって困っている私たちに、税関に勤めている人が優しく道を教えてくれました。
下関から広島行きの列車は,空いた席がたくさんありました。窓からの五十年ぶりの日本の景色を眺めるのに、気を奪われていた私達三人は、水も一滴も飲まず、腹がすいているのも気づかずに、窓外の景色ばかりに見入っていました。
新幹線では二時間もかからない鉄路を、旅費節約のために乗った列車は、何時間もかかって広島駅に着きました。お米や炊事道具が入っている重いかばんを肩にかけて、長い通路を歩いて駅の外に出る時は、腹が減ってとても辛かったです。食堂街を探して三人は、ようやくそば、うどん一杯づつでは満足できず、さらにおむすびを二つづつ食べて、やっと一息してから外にでました。
陜川も暑かったのですが、広島も暑かった。昔からある「金剛山も食後景」という韓国の諺が身にしみて感じられました。駅前に出てからタクシー乗り場に来た私たちは、ネクタイをして制服を着た運転手さんが、丁寧にお客さんを迎えているのが強く印象に残りました。
食事をとってからは歩くのも楽になりました。夕方近く長尾町にある、陜川で了解をとっていた、僑胞の空家を探して旅装を解きました。各自自分の部屋を掃除してから荷物を整えて、三人して夕食の支度に取り掛かりました。腹が空いていたので、キムチ一つのおかずで食べるご飯はとてもおいしく思われました。
旧友との再会
次の日から各自、被爆の証人になってもらう知人を探しに出かけました。駅前の乗り場で、江波行きの電車に乗った私は、江波の終点に降りるまで、硬貨の準備がなくて心配しました。両替する機械を初めて見た私は、降り口のそばの座席に腰をかけて、誰かが両替するのを見習うつもりで待っていましたが、運悪く誰も両替しません。仕方なく終点について、車掌さんに紙幣を出して、車掌さんに両替してもらい、「有り難う」と言って電車を降りました。
江波の終点でその辺りを一回りしてみましたが、昔そのままに残っているのは、向こうの方に亀山と呼んでいた低い山が見えるほかに何もありません。その山を見ると、この終点で、昔兵隊さんたちが、鉄砲を撃っていた射撃場であったことがすぐ分かりました。ここから東に向かってゆくと、間違いなく昔住んでいたところにたどり着けると思って、汗を拭き拭き歩いて行きました。私の思ったとおり、昔住んでいた長屋があったところにたどり着きました。建物は昔のものはありませんでしたが、裏どおりの道幅や狭いところ、土手に上がる坂道などは昔のまま残っていました。
尋ねる家がここだと思って、呼び鈴を押しても、声を出して呼んでも、誰も出てきません。その翌日もまた行ってみましたが、その家も隣の家も、人は誰もいません。江波公園近くにいた友達も何処に行ったのか、知った人は誰もいないし射撃場の方に住んでいた筈の岡本君もいません。
仕方なくこの家だと思って探していった森君の家らしいその家をまた訪れて、呼び鈴を押して待っていると奥様が出てこられました「私は韓国から来ました。昔このあたりに住んでいて、用があって森正治氏を探しているのです」と、韓国語で固まっている口で話しました。その奥様は、「そうですか。森正治は主人の兄ですから」と言って、森君の住所と電話番号を丁寧に書いてくれました。嬉しいことです。一週間も探し回って、ようやく一人の友人に会うことが出来ると思い、奥様に厚くお礼をいい、早速タクシーに乗りました。親切なタクシーの運転手さんは、その住所・地番に下ろしてくれました。
「森正治」と書いてある表札がかかっている家の前に着いた私は、少し緊張しながら呼び鈴を押しました。探していた友の一人にやっと合えるかと、どきどきしながら待っていると、玄関から奥さんが出て来られました。「私は韓国から森正治君に会いにやって来ました。ご主人とは昔すぐ隣に住んでいた同級生です」と言って挨拶しました。奥さんは注意深く私を見てから「主人は今留守ですがすぐ帰ると思います、腰でもかけてしばらく待ってください」といって、奥から冷たいお茶を出してくれました。この何日間か、証明人を尋ねて歩き回っていた私の疲れている様子を見て、喉が渇いていると推察されたのでしょう。
しばらくして森正治君が帰ってきました。しかし、半世紀が過ぎて会う友達なのに、なぜか懐かしいというか、嬉しいという気持ちが起きませんでした。彼もそう思っているのか、何も言わず私をじっと見つめて、うろうろしているのです。それもその筈です。五十年の長い年月を別々の場所で生きてきた二人の人生。その歳月を刻む顔のしわが、私たちの昔の面影を隠しているので、少年時代を思い出すことが出来ず、嬉しいとか懐かしいという気持ちになれないのです。
とにかく二人は意味もなく手を握り合い、近所の飲み屋に行きました。枝豆のつまみでビールを飲みながら、私たちは過ぎ去った少年時代の昔話を続けました。酔いが回って別れる時になっても、私は今日訪ねてきた理由を、彼に言い出すことが出来ませんでした。終戦後五十年も経って初めて会い、それも飲み屋で証明人の事を頼むのは、礼儀にかなっていないと思ったのです。
彼と別れて帰る道筋で、運良くまた奥様に会いました。そこで「自分は明日韓国に帰ります。実は今日ご主人さんに会って、原爆被害者の証明人になってもらうつもりで来たのですが、五十年ぶりに会い、飲み屋でそのお願いをするのが出来なくて別れました。ご主人さんにその話をして、証明人になってくださるなら、この用紙に当時のことを書いて韓国に送ってください」と話して、私の住所氏名、生年月日を用紙に書いて渡しました。
翌日下関からフェリーで故郷に帰った私は、彼からの手紙が来るのをとても待ち遠しく思いました。待っていたよりも数日過ぎて、被爆者証明書の書類の入っている手紙が届きました。首を長くして待っていた私は、喜びながら内容を読んで見ますと、被爆当時の場所が全く違うので、早速広島に被爆当日の実際のことを手紙で書き、訂正を頼みました。しかし後日送ってきた書類も前回のものと同じ内容なので、仕方なくそのまま被爆申請書を書いて広島市役所に送りました。十月頃、広島から申請に必要なものをもって来るようにとの通知がありました。
被爆者健康手帳をもらう
再度広島を訪れた私は、土橋にある「ふたば旅館」に宿を取りました。約一週間の審査を受けてからようやく健康手帳を受け取りました。その時、審査に必要な高等小学校の卒業証書をもらいに、観音町の学校を尋ねていってみたところ、昔のままの姿で残っていたのは、柴を背負った二宮金次郎の銅像だけでした。
旅館では電話の知らせで、私が幼い頃乳母でいた,呂小順(ヨソスン)おばあちゃんが尋ねてきました。大人に変わっている私を見て、お前はお母さんとそっくりだ、と言って涙ぐんで昔の話をしてくれました。帰る時、黒革の財布に紙幣を入れてくれました。本革の財布がほしかった私は、本当に嬉しくて、おばあちゃんの前で、子どもになったような気持ちでした。
後日、被爆して韓国で亡くなった母の特別葬祭給付金(注6)の申請のために、市役所に向かいました。その途中、本川橋を渡る手前の道端で、被爆で亡くなった韓国人を慰める慰霊碑(注7)に出会いました。私は足を止めて被爆して亡くなった趙_道(チョヨンド、日本名・西本三郎)叔父さんと、多くの同胞の慰霊に冥福を祈りました。
祈りが終わって起きあがった私は、碑石の周りを一回りしてみながら遠く韓国の方に向かって立っている碑石に、「李_公殿下外弐萬餘霊位」と刻んである慰霊碑が余りにも狭い場所に立っているのでやるせない思いが出て、本川橋を渡る途中、何回もうしろの方を振り向きながら市役所の方に歩きました。
市役所で特別葬祭給付金の申請を済ました私は、一度行ってみたかった原爆ドームに行ってみました。今は世界遺産にも指定されているドームは、よく保存されていて半世紀も過ぎた長い歳月を風雨に耐え忍びながら、核兵器の恐怖を顕しているその威容に深い感銘を受けました。
夕方には江波に住んでいる森正治さんの家に招待されました。そして森君の奥様と妹さんの手作りの料理でご馳走になりました。森君とは先年、被爆者としての証人としての証明書を書いてもらってから、いろいろと交流があり私は幾度か朝鮮人参などを送ってあげたりしていました。私が明日帰るというので惜別の夕べをもってくれたその友と、酒盃を交わしながら少年時代からの話に時間が過ぎました。昔、森君と一緒に参考書を買いに行った帰りに相生橋の上から、川の水が綺麗で泳いでいる魚に小石を投げたり、通り過ぎるポンポン船に石を投げて小父さんに怒られて一緒に逃げ出したことなどなつかしく話しました。
翌日私は旅費節約のために下関まで普通列車で行き、船で国に帰るようにしました。船が出航して港の灯が遠くに浮かぶまでデッキの上に立っていた私は、昨日本川橋のそばで見た「李_公殿下外弐萬餘韓国人霊位」の碑石が、あまりにも狭苦しいところの建っていたことがひどく気になりました。
危ないから船室に戻ることを注意する船員のメガホンの声に、私は急いで暖かい客室に戻りました。船室の中央部に毛布を敷き寝転んで目を閉じましたが、貿易の商品を小分けして再包装する人たちの声が騒々しくて、よく眠れませんでした。
いつの間にか眠ったのでしょう。原子爆弾に焼かれてボロボロになった亡霊たちが三々五々みじめな姿で本川橋のほうに群がっていました。川の両側にはいつから咲いていたのかムクゲの花が綺麗に咲いていて、哀れな亡霊たちを慰めているようでした。李_公殿下が陸軍中佐の軍服で朝鮮王族を顕す儀冠をつけ、白馬にまたがっておられました。そんな夢を見ました。
喉頭がん発症
一九九六年、私は、韓国の被爆者が日本で治療を受ける「渡日治療」に力を尽くしてくれている、在韓被爆者渡日治療広島委員会(注8)の招請を受け、広島共立病院に入院しました。三ヶ月間入院し、癌の検診などを受けましたが異常はないということで安心しました。入院中に、同じ被爆者の井出本護さんと親しくなりました。私の故郷である広島で新しい友人ができたことは、とても嬉しいことでした。
一九九八年二月下旬頃、日本語が良く出来ない従姉妹の趙英点(チョヨンジョン)を助けて広島市役所に健康手帳を受け取りにきました。審査の間、舟入幸町の母子福祉会館に宿を決めて二人で自炊するようになりました。
日本に来るときから、喉の奥が変で、つばを飲み込んだ後小さい魚の骨がかかったような気がしていました。従姉妹の英点も心配して病院で見てもらうことを勧めました。近くの病院に行き二日分のうがい薬と錠剤をもらいました。
翌日、井手本さんが、福祉会館にいる私達を訪ねてきました。そして「退屈でしょうから市内を一回りしましょう」と私達を車に乗せてくれ、ドライブに出かけました。宇品を回って仁保沖町の工業団地を経て、黄金山に登り、最後に平和公園に行きました。
病気のため、携帯用の酸素ボンベを引きながら酸素吸入をしている井手本さんは、名所を通るたびごとに説明をしてくれたり、重そうに見えるカメラで私たちの記念撮影をしてくれたりしました。原爆慰霊碑の前で趙英点は五三年前に原爆で死んだ父・趙_道(チョヨンドン・西本三郎)のことを思っているのか、両手を合わせ跪きながい間礼拝しているのがあまりにも可憐に見えました。
英点のことでこちらにきて五日過ぎた日に、市役所から彼女の健康手帳が出ました。明日国に帰ろうと相談している時、英点が「兄さん(彼女はいつも私のことを兄さんと呼びました)日本にいる時にもう一度病院で薬をもらって帰りましょう」と言います。喉の具合がまだ良くないので、またその病院にいきました。
診察はこの前の医者ではなく、別のお医者さんが反射鏡で喉を覗いて、できるだけ早く耳鼻科の専門医に診てもらうことを勧めました。もう午後五時を過ぎていたので、急いで探したのが津田耳鼻科でした。そこでは内視鏡で診たお医者さんが「うちの病院では施設がないので治療が出来ません。先輩のいる病院に紹介状を書きます」と日赤原爆病院を紹介し、「腫瘍が出来ています。まだ早期ですから放射線で治療が出来ると思います。日赤は混雑するから朝早く行くのがいい」と言ってくれました。「腫瘍です」と医師から言われたその時から、わたしはがっかりして気が抜けたような感じになりました。福祉会館に戻ってきた私を見て英点はとても心配そうな顔をしていました。彼女の表情を見ながら「困ったことになった。兄は明日病院に行って診てもらい、もしかしたら入院することになるかもしれない。英点はお前一人で国に帰るのじゃ」と言いましたが、日本語が出来ない英点のことが心配になって、以前お世話になった在韓被爆者渡日治療委員会の金信煥牧師さんに事情を話して助けを求めました。おかげで英点は無事帰国することが出来ました。
朝早く日赤病院に行った私は広い待合室が、ホテルのロビーのように華麗なのに驚きました。耳鼻科の診察室に呼ばれた私は、担当の田頭先生に津田耳鼻科の紹介状を出しました。喉の診察が終わって先生は「悪性腫瘍が出来ています」と言ってから、「あなたは韓国から来ているので、この病院で治療するのにはパスポートの延期や、保証人のことなどを解決しなければなりません。出来ますか?」と言われました。私は少しうろたえましたが、ここで治して貰いたいと思い、どうにかできると言いました。田頭医師はうなずいて看護婦に検査用の採血と次の日のレントゲンの予約などをしてくれました。
病院から出た私は、帰国が遅くなって心配している家族のことを思って電話をかけました。受話器を取った末の娘に「父は喉の治療でしばらく帰ることが出来ない、大したことではないから安心しろ」と話しました。長い電話になって病気の細かいことの話になったら、私も悲しくて涙が出ると困るなと思っていたら丁度テレホンカードが切れて助かりました。
舟入の福祉会館に戻ってみると、そこに勤めている女の方が私のことを心配して待っていました。私は今日病院であったことを一気に残らず話して二階の自分の部屋に帰りました。夕方になって金信煥牧師さんが来られました。電話で私の難しい立場を知った牧師様が助け舟になろうと来てくれたのです。
三月十日、検査が終わってその結果が出る日です。雨がしとしと降っていました。不吉なことが起こらないように祈りながら病院に行き、耳鼻科の前で待っていると、金牧師夫妻が来られました。他国の病院で一人淋しくたまらないときに来られた金牧師さんを、まるで肉親のように嬉しく思いました。呼ばれて診察室で、先生は「下咽頭腫瘍で手術で良くなる」といって、金牧師と入院手続きの話をされました。
広島での入院治療
入院した翌日に腫瘍の手術がありました。麻酔から覚めた私のベッドの側に、牧師さんの夫人が一人で私を見守っておられました。「手術は内視鏡でやったので簡単に出来た」といって、イエス様に私の回復を祈ってくださいました。
手術を受けた何日か後から、七週間かかるという放射線の治療が始まりました。照射室では頭にカバーをかけての、放射線の治療を受けました。五十年前原爆に被爆した時に嗅いだような匂いがして、当時の悲惨な状況が思い出されて気持ちが悪くなりました。
放射線の治療が始まってからは、喉がひどく痛むので、飲むのも食べるのも辛いので点滴でようやく助かっていました。やわらかいお粥に梅干が出ましたが、焼かれてひび割れている喉にはしみて痛く、一匙一匙飲み込むのに額から汗が出てくるのです。それでも早く元気を取り戻して国に帰りたいと思い、我慢して食べました。
のどの痛いのを耐え忍ぶことも辛かったですが、それよりもっと辛かったのは、同室の患者さんに家族の人が面会に来られるときです。来るたびにやさしく飲食物を進めているときや、むつまじく話し合っているのを見ていると、この自分は家族と遠くはなれた他国の病院で一人でいるのが、胸が詰まってくるほど寂しくなってとても辛かったです。
その頃のある日、井手本さんが広島共立病院の名誉院長の丸屋先生と一緒においしい果物を持って見舞いに来てくれました。とても嬉しかったです。共立病院の被爆者の会で会長もしておられた丸屋先生は、私の手術のことを知って心配してくれたようです。主治医の田頭先生に会って病気のことなどを聞いてくれました。「声枯れなどがしばらく続くだろうが心配ない」と、田頭先生との話を詳しく説明してくれました。有り難いことです。何とお礼を言って良いやら、本当に嬉しい日でした。
辛かった喉も少しずつ慣れて食事の時間がだんだん待ち遠しくなりましたが、声はやはり変な声でした。放射線科の医師は「数年過ぎると元どおりになる」と言ってくれました。しかし、同じ病室に広島県の世羅郡の方から入院していた患者さんがいました。その人も咽頭の腫瘍を手術して放射線治療をし、再発を繰り返して抗がん剤の治療を受けて苦しんでいた人ですが、同じ原爆被害者です。被爆してから放射線の影響など、あまり気にかけた事もなかった私も、日赤病院に入院してからは、原爆の影響のことが気にかかるようになりました。同室の世羅郡の患者さんが、これから来る自分の未来のようにも見えて、気を落ち着けることが出来ませんでした。
五月になると少しずつ元気が回復してきました。私は早く故郷に帰りたくて、医師に退院の日取りを相談しました。医師からようやく許可が出て、数カ月ぶりに陜川に帰れることになりました。
故郷に帰った日、私に抱かれた孫の名前を呼ぶのに、電子オルガンを弾くような変なの声が出て、部屋にいたみんなが目を丸くして自分を見るので、私は慌ててしまいました。放射線治療のことなど言わず、「つばが少ししか出ないので声が変になることがある。時間がたつと治る」と言って安心させました。
数日過ぎた頃、畑に行ってみました。妻が一人で働いて胡麻の間引きをしていました。私はシャツの袖をまくって、側に言って手伝ってやりました。汗と土とで汚れた顔が笑顔になって妻は喜んでいました。
陜川で芽生えた広島のどんぐり
一九九九年の九月、渡日治療委員会の招請で、咽頭癌手術後の定期検査のために広島に行きました。広島市大手町の河村病院に入院した私は一般検査をその病院で済ませ、手術した喉の検査に日赤病院を受診しました。診察が終わったのち、田頭先生は「綺麗になっています。心配ないと思うが、国に帰って喉に異常があればそちらの病院に行きなさい」と言ってくれました。
ひとまず安心をしていたある日、いつものように朝早く近くの平和公園に散歩に行きました。この年の春に平和公園の中に移設された「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の近くを歩いていると、道端に散らばっているどんぐりの実を見つけました。私は「そうだ、これだ」と、一人合点して喜びました。人に踏まれて傷ついているのを除きながら、一つ一つを選んで、近くにあったペットボトルに入れました。
いつか広島に来て帰る時です。広島を象徴する何かを持って帰りたいと思っていた私は、江波に住んでいる友達に頼んで、挿し木に使うイチジクの枝を数本故郷に持って帰ったことがあります。イチジクの木といえば、韓国にいる被爆者のすべてが知らない者はいません。原爆が落ちた当時、江波や舟入のような郊外の湿地に植わっていたイチジクの畑の木陰に、多くの韓国人被爆者は避難していたのです。しかしその木は、陜川では育てることが出来ませんでした。零下十度にも下がる寒冷に耐えることが出来なかったのです。
そこで今度見つかったのが、どんぐりの実です。どんぐりの木なら韓国のどこへ行っても数種類が育っているので、これならば陜川で植えても大丈夫だと思った私は、ペットボトルに七分目くらい実を拾って、塩水で洗って消毒をしてから陜川に持って帰りました。
近くに韓国人被爆者の慰霊碑もある、平和公園のどんぐりには、同胞の平和への願いもこもっているように思いました。平和公園のどんぐりを早く育てて、広島を顕す木として陜川に植えたいというのが私の夢になりました。
家に帰ってから、すぐさま畑に向かいました。私の畑は洛東江の支流の黄河の河川敷で、二千坪くらいの財務部の土地を借りて、妻と二人で耕しています。そこにはカボチャや大豆、ゴマ、そば、いも、各種の雑穀と、これから需要が伸びてくれるだろうと思われる漆の木も二百本近く育てていますし、日本から苗をもらったラッキョウも植えていました。広島のドングリが陜川の寒さでやられないよう、ビニールハウスの中に植え、凍えないように籾殻を厚くかけて、その上に布をかぶせてやりました。
二千年の遅い春頃になって、待ち遠しかったそのどんぐりが、一斉に生き生きと芽を出し始めました。それを見た私は、あまりにも嬉しくて万歳でも叫びたいようでした。
雨がよく降る日本と同じような気候にしてやりたく、週に一回水やりをする、堆肥をやるなど精をこめて育てた甲斐があって苗木は目に見えてぐんぐんと育ちました。そうして秋がきたときは、すでに自分の足のひざを隠すほど大きく育っていました。
その年の十二月二五日、韓国原爆被害者協会陜川支部から電話がありました。急いで支部の理事会に参席してください、という支部長からの知らせです。早速支度をして会議室についてみると、会議にはすでに終わっていて、理事たちが自分の現れるのを待っていました。「よう、よう」と手を振りながら、私を迎えてくれました。そして、支部長の前に席を出してくれ、安永千支部長が「広島共立病院の被爆者の会と陜川支部との姉妹縁組を結びたいので李順基さんがその取り組みに努力してもらいたい」と言うのです。
広島共立病院へは陜川の被爆者が何人も渡日治療で入院していますし、病院の「原爆被害者の会」は、同じ被爆者同士として、渡日治療の私たちをとても温かく慰めてくれました。会のレクリエーションや新年会には招待を受けて、一緒にゲームを楽しんだり、また井手本さんや他の会員の人たちが、宮島を案内してくれたりしました。私が、丸屋会長、井手本さんたちと手紙の交換をしているのを、安支部長は知っていたのです。翌年一月に私は渡日治療のために広島を訪れる予定になっていました。安支部長の話に、私も快く承諾しました。
癌再発
年が明けて二千年一月十三日に私は渡日治療のため、広島共立病院へ二度目の入院をすることになりました。釜山から来た金炳玖(キムピョング)氏と同室に入院しました。早速迎えに来られた丸屋先生や井出本さんたちと久しぶりの挨拶の後、陜川支部の安永千支部長から託された「被爆者の会同士の姉妹結縁」のことを伝えました。丸屋会長もこの話を喜んで居る様でした。
忘れることは出来ません。二月三日は陰暦の十二月二十八日で私の誕生日です。故郷にいたら家族皆が集まって賑やかな御祝いの朝餐(韓国では朝食で祝う)をとっている筈ですが、いつもの病院の寂しい朝食でした。
午前の回診に来られた清水院長さんが今日は人が変わったような緊張した口調で、私が先日受けた胃カメラの結果、「胃癌であることが分かった」と言われました。不意を打たれた私は院長先生の次の言葉は一言も耳に入りませんでした。先生が去った後、病室のベッドに寝て、天井に向かって深く嘆息しました。そして二年前日赤病院に入院していたとき、側の患者さんが「被爆者は一度癌になると、次々と他の部位に癌が出る」と言った言葉を思い出し、悔しくてたまりませんでした。
その夜は時間が過ぎてもちっとも眠れなくて、生まれつきからだが弱くて心配をしていた母が、小学校の時から漢方を煎じて飲ませてくれたこと、朝鮮戦争の時に死んでいった戦友や病気で倒れた友のことなど、次々に思い出されて涙がこぼれました。
昔、唐の詩人、杜甫が五十九歳の死の間際に「人生七十年古来稀なり」と言い、「古稀」という言葉が始まったと聞いていますが、その丁度七十歳の誕生日を迎えた日に胃癌の宣告を受けなければならないとはどういう運命なのでしょうか。
手術日の予定が立てられて、その日に向けての準備が進められました。先年、日赤病院で手術をした喉頭癌の経過を田頭先生に診てもらおうと、二月十日に受診しました。こちらの方は「全て良くなっているから心配ない」と言われました。
手術の四日前、十二日に四階の外科病棟に移されました。個室の北向きの一一五号室で、これまでの南向きの大部屋に較べると寒く、また一人で話し相手もなく淋しい病室となりました。四時頃主治医となられる外科の青木先生から手術について説明があり、胃を全部取り除き小腸とつなげるということを図に書いて説明してくれました。翌日は気持ちも落ち着かないまま一人で、寝巻き、大きめのタオル、木綿の腰巻、寝たままでお湯を飲む「すいのみ」など、売店で整え早めに目を閉じて眠ろうとしましたがよく眠れませんでした。
手術前日の十五日は朝から雪でした。青木先生から、直接動脈から採血した検査の結果などの術前検査の結果と、手術についての再度の説明がありました。夕食前、故郷の妻から手術について心配しているという電話がありましたが、癌のことは言えず「大丈夫だ、心配するな。また、渡日治療委員会の金牧師に電話をしてはいけない」と話しました。金牧師は私の病気のことは清水先生から伝えられてよく知っていますし、妻から電話がかかれば、キリスト教者の牧師は嘘は言わず「胃癌による手術」ということも妻に判ってしまう、と思ったのでした。しかし、電話の向こうで妻は泣いている様でした。そのことが気になって夕食後、こちらからまた電話をかけて、出来るだけ朗らかにやさしく、「心配することはない」ということを言ってやりました。
熱いタオル
手術は二月一六日でした。前夜は寝つけませんでしたが、睡眠剤が投与されていたのでしょうか、いつの間にか眠っていました。朝起きたとき、看護婦さんが十数枚の熱いタオルで顔を拭き、首筋から胸、背、手、足と全身を熱く拭いてくれました。不安だった私の心もタオルと一緒に熱くほぐされ、家族もいない独りぼっちの淋しい私は、とても心安らかになりました。金牧師夫人が手術の日に来てくれました。
手術は大分長い時間がかかった様です。病室に帰って気がついたとき、一緒に渡日して来た金炳玖(キムピョング)氏が私の手を両手で握って涙を流していました。麻酔からなかなか目覚めないので心配だったようです。
手術後も看護婦さんが毎朝熱いタオルで私の顔を丁寧に拭いてくれ、首筋なども熱いタオルでもみほぐしてくれました。家族が誰もいない私には、とても嬉しいことでした。手術後五日間は全くベッドから動けませんでした。二十一日(術後六日目)に青木先生から、「手術は時間がかかったけど成功したから、もう心配ない」と言ってくださいました。
その日、ようやく一週間ぶりに故郷の妻に「もう心配しなくて良い」と電話をしました。二階にある国際電話のところから四階の病室に帰るときはふらふらで倒れそうでした。
その翌日(二十二日)、北側の個室から、金氏のいる南側の六人室に転室しました。陽射しがベッドまで入り、二月の冬でも暖かく早く健康になれると喜びました。被爆者の会から、丸屋会長や井出本さんが見舞いに来られ、その時「陜川支部との姉妹結縁の申し入れについてこちらの被爆者の役員会でも喜んでその話を進めたい」ということでした。陜川支部から私に依頼された一つの仕事が前向きに進むことを喜びました。
流動食から食事が始まりましたが、最初は一口飲み込むのが大変でした。それでも頑張って少しでも食べて早く良くなって帰国しようと思いました。四、五日経っても一週間経っても、頑張って食べると胸が痛み、一時間くらいも胸をたたいたり、背中を壁にぶつけたりしてやっと落ち着くのです。丸屋会長も被爆者で、何年か前に胃癌の手術をしていて、術後食べるのに随分苦労したということを話してくれて、少しずつ時間をかけて食べるように指導してくれました。自分の苦しみを分かってくれる丸屋会長の話は大きな救いでした。
三月になって、やっと食べた後の胸の痛みがなくなりました。同室の金炳玖(キムピョング)氏は、「明日帰れる」と喜びながら帰国の荷造りをしていました。まだ病気回復中の私は、いつ元気になって帰れるのか、不安でした。寂しくなったときは妻に電話をしました。妻には自家製の飴を送ってくれるように頼みました。飴は消化が良く、腸も温かくなると親から聞いたことがあったのです。
こうして、三月も過ぎ、四月桜の咲く頃となりました。四月一日(土曜日)四階病棟の主任看護婦さん、山本美津子さんに誘われて、平和公園に花見に行きました。まだ、三、四分咲きでしたが、あちこちに座席をとって花見客が賑やかでした。山本さんがビールを勧めてくれました。少し飲んで二人で手をつないで花の下を歩きました。
四月六日、やっと帰国できることになりました。体力もまだ充分でないので、出来るだけ少ない荷物で帰ろうと思いましたが、この時に限っていろいろな友達がお土産だと言って、いろいろな物を渡してくれるのです。捨てて帰るわけにもいかず、充分回復していない身体で重い荷物を持って行かなければならず、とても困りました。被爆者の豊永さんと宮崎さんが広島駅まで送ってくれたので、有り難かったのですが、博多駅から空港までは一人で重い荷物を持って行かなければなりません。この時は本当に辛く、体力のないことを痛感しました。
釜山には息子が自動車で迎えに来てくれました。洛東江を渡るとき、いつもきれいな川の水が赤く見えるのです。「おや、色盲になったかな」と思いました。やはり疲れていたためでしょう。自家用車なので比較的早く家に着きました。
広島との絆
帰った時は四月で、まだ旧暦の三月ですから季節もよく、久し振りでの故郷は病気で疲れた私も、とても安心出来ました。しかし、胃袋がなくなってあまり食べられないので「倒れるか」と思うこともありました。
畑に植えていた広島のドングリは、私が留守をしている間に幾らかが枯れていましたが、半分くらいは残っていました。勢いの強いものもあり、大分弱っているものもありました。
五月になって、弟に手伝ってもらってしっかりと育っている数十本のドングリの木を選んで、数十本、外の方へ植えかえたりしました。広島のドングリは私を大いに慰めてくれましたが、体力はなかなか回復せず、特に夏の暑さはこたえました。
九月、秋風が吹き初めて、ようやく食欲が回復し体に力がついてきました。この間、井出本さんや丸屋会長など、いろいろな人から励ましのお手紙をいただき、中には栄養のあるものを食べてください、とカンパを入れて送ってくださった方もあります。本当に有り難く思いました。
一方、私が広島へ行く時に持って行った、被爆者の会同士の姉妹結縁の話も支部同士の間で話が進んでいました。陜川支部では八月の総会で姉妹結縁の決済がされ、広島共立病院の被爆者の会でも結縁をすすめることになったと丸屋会長から知らせがありました。
丸屋会長はこの姉妹結縁の具体的な打ち合わせのために、十一月に陜川に来られることになり、私が案内役をつとめました。韓国原爆被爆者協会陜川支部の安永千支部長、及び役員の方々と、無事打ち合わせの会議を終えられ、結縁のための文案が作られました。翌年四月、桜の時期に広島の被爆者の会の皆さんが「姉妹結縁」のために陜川を訪問するということが予定されました。
その頃、私の体力はほとんど回復をし、丸屋会長を世界遺産になっている海印寺へ案内したりしました。日本から韓国へ帰った二十歳代のまだ独身だった頃、陜川から歩いて二日間の行程で友達と二人で海印寺を訪れた思い出などを話したりしました。妻の粉尹も、娘の京姫(キョンヒ)と景珠(キョンジュ)も一緒で、あの広壮な海印寺と、少し過ぎかけた秋の紅葉に丸屋会長も驚嘆していました。
癌転移の宣告
渡日治療で癌の手術を受けた被爆者は、その予後を診るために一年後にもう一度治療を受けた病院へ入院して、検査をすることになっていて、二〇〇一年一月九日、再々度広島共立病院へ渡日入院することになりました。
一年ぶりの共立病院で、広島の皆様に御会い出来るのは楽しみでした。一年前の退院の時より、随分元気になっている自分に私は自信を持っていましたし、陜川の被爆者の会と病院の被爆者の会の姉妹結縁が進んでいるということもあって、私は共立病院へ行ったときはとても嬉しかったのです。丸屋会長、井出本さん、病院の青木先生、山本看護婦さん、たくさんの友達に会えるのが嬉しくてたまりませんでした。
入院して早速翌日から、胃切除後一年目の検査が行われました。血液検査やその他異常なし、胃カメラも異常なし。私は全く安心していました。念のためにと行われたCT検査で「肝臓に小さな丸い影がある。血液の塊かも知れないが、念のために針を刺してしらべる」と清水院長の言葉でした。「針生検」というのだそうです。肋骨の間から注射針の太くて長いようなのを、エコー検査のもとでやりました。右側の脇腹、といっても前よりの方です。一月の末でした。さぞ痛いかな、と覚悟していましたが、それ程痛かったという記憶はありません。結果は一週間後に判る、と言われました。
二月一日、清水院長が病室に来て、真っ直ぐに私の枕元に来られました。そして、「先日の肝臓の針生検の結果は、胃癌の肝臓転移です。もう手術の方法はありません。抗ガン剤の注射などしか方法がありません」と告げられました。
その時私はひどいショックを受けました。一瞬ののちに、三年前日赤病院の同室の患者さんが、原爆にあった人は一度癌が出来ると次々と出来る、と言った言葉を思い出しました。「あぁ、もう自分は駄目だ」と思いました。めまいがしました。
私はしばらく黙っていました。清水院長も傍らに黙って立ったままでした。私は長い間一緒に苦労した妻のこと、そして陜川の子供たちのことを思いました。「淋しいですね。人恋しくなりますね」と言ったといいます。私は何を言ったか覚えていません。心の中で泣いていました。そのあと、清水院長が何を言われたのかも覚えていません。
その夜は一睡も出来ませんでした。夜中に「もう故郷に帰ろう。妻のところへ帰ろう」と決心しました。翌朝早く、荷物をまとめて私は、看護婦さんには家の事情で急に帰国しなければならなくなった、と言って退院しました。
もともと、末娘・耕實(キョンシル)の結婚する二月十一日には帰る予定でしたが、結婚式ギリギリに帰国してくるはずだった私が、十日も早く突然帰国してきたので、妻は少し疑問を持っていたようです。しかし直接私には何も聞きませんでした。
少し晴れた日に畑に行ってみたら、ドングリが何十本も枯れていました。昨年ビニールハウスから出して越冬させようとした、背丈近くも伸び出ていた木も、もう三分の一も残っていません。この年の一月は、入院していた広島でもそうですが、陜川も例年になく寒く、零下十六度などといつもより五〜六度も低かったようです。夏、青々と茂って育っていたのが枯れてしまったドングリの若木は淋しそうでした。まるで自分のこれからの命を表している様でした。
絶望の中で
病気のことは誰にも言えませんでした。これまで散々苦労をかけた妻に、「また病気になった」とはとても言えませんでした。「死ぬ」という考えが先に立つので、悲しくて悲しくて、何もする気が起きませんでした。そんなある日、広島共立病院の丸屋先生から手紙が届きました。
二月十三日付 丸屋先生より私宛
本日、清水先生と話をして、あなたの病状の全体を知りました。精神的にも肉体的にも、大きな打撃を受けられたことと思います。
僕にとっての李さんは、在韓被爆者としての被爆者同士というよりももっと近い、僕自身の半身のような近親感のある肉親、血縁に近い思いのする李さんです。
昨年秋の娘さんや奥さんとの温かい心づかいもさることながら、その前の日赤病院を御訪ねした時から、あなたは僕にとって特別な人でした。だからとても心が痛みます。
一日も早く精神的に立ち直られて、現実の病魔を克服する戦いをしてください。
丸屋先生とは、前年に先生が陜川に来られ時に私が案内役をつとめたことで、更に親しくなり手紙や電話でのやりとりを続けていました。遠く広島で私の身を案じ、「半身」とまでと言ってくださる先生のやさしさが身にしみました。先生なら自分の気持ちを分かってくれるのではないかと思い、手紙を差し上げました。
二月二六日付 私より丸屋先生宛
丸屋会長さん、自分のことを心配してくれて有り難く思って居ります。
その間に僕は忙しい日程を終えてようやく晋州(チンジュ)の大学病院に行きました。三月五日に肝部位の写真を影り八日に結果を聞くようになっています。
この自分は何の罪があってこんなむごい罰を受けなければならないのでしょう。僕は今の頃ピカに灼かれて今でも焦げ落ちそうなボロボロのマントを被り、病魔に引摺られて灰色の虚空を歩き回っているような気持ちです。
自分史への取り組み
絶望の中でも、私は癌というのは間違いで、肝臓が悪いだけだと思いたいという気持ちがありました。体は痛いところなどどこにもないので、そんな悪い病気があるということは信じたくありませんでした。
二月下旬、私は晋州(チンジュ)大学へ診察に行きました。しかし、検査の結果について、先生は私に何も言ってくれません。「病名は?」と聞くと、「広島共立病院の診断と同じだが、いま抗癌剤を使うほどのことはない。肝臓が悪いだけだ」と言われ、妻が別室に呼ばれて何やら言われました。
私が丸屋先生に手紙を出してから二週間後、返事が届きました。そこには、こんなことが書いてありました。
三月九日付 丸屋先生より私宛
李さんの一生、広島−原爆−帰国−独立後の混乱の生活−朝鮮戦争−その中で娘さん達を育てられたこと。大変な生涯であったと思います。
『自分史』という言葉が最近日本で言われ始めています。自分の生涯の記録をどういう形かでまとめよう、ということです。
「被爆者の自分史」というのは歴史に残されるべき貴重な体験です。李さんも是非、李さんしか知らない「自分史」をまとめてくれませんか。
「自分史」を広島中の人に、そして日本中の人に読んでもらいたい、と願っています。
丸屋会長からの手紙を前にして、私に「自分史」を書くことができると先生が考えてくれていることが、とても嬉しく、有り難いと思いました。一方で、自分の学力で本当に書くことができるのか、もし書き始めたらどんなことまで書くことになるか、書き始めたら自分が「癌」だということも、妻にも子供にも分かってしまうだろうと、いろいろ考えて悩みました。
その頃、韓国原爆被害者協会の陜川支部と広島共立病院の原爆被害者の会との「姉妹結縁」が進み、会の会長である丸屋先生が、四月二十日に来訪するという予定表が支部長だけでなく、私のところにも送られて来ました。
春が近くなり、少しずつ暖かくなっていました。ある日、畑に行ってみると、枯れて死んでしまったと思っていたドングリが新しい芽を出していました。生き返っていたのです。そんな姿を見て私は大変勇気づけられました。死にゆく身ではあるかも知れないが、努力すれば生きていけるかもしれない。今まで苦労をともにしてきた妻のためにも頑張ろうと覚悟を決めました。そして、妻に病気のことを話し「自分史」に取り組むことにしました。
四月に、陜川支部と広島の原爆被害者の会との「姉妹結縁の署名式」が無事盛会のうちにすんだ後で、私は次のような手紙を丸屋先生に出しています。
陜川支部でも誠をこめて姉妹結縁の準備をしたようですが、何やら至らない点があったらお伝えください。
今書いている自分史、少しずつすすんでいます。自分史を書きながら今まで知らなかった文字も言葉も辞典を開き習うので、少年時代につかっていた日本語しか知らなかった僕には大人の社会に使う日本語を勉強する良い機会だと思って丸屋会長さんに有り難く思っています。
「自分史」は書き始めると大変な作業で、毎日午前と午後、数時間ずつ机に向かって日本語の辞書と格闘することになりました。被爆してその年の末韓国へ帰り、冬一家が松の甘皮で飢えをしのいだこと、父が騙され財産を無くして病気になったこと、朝鮮戦争に従軍し除隊後、粉尹と出会って結婚したこと、他のことは考える暇もなく「自分史」に打ち込みました。妻はあまり私が一生懸命なのでかえって身体のことを心配していた様です。
夏が近づき、暑さが増してくると、元気だった私も、だんだん食欲が衰えてきました。一方で肝臓に良いという薬はどんな高価でも、いろいろと試して飲んだり、癌に効くという薬を飲んだりしました。そのような状態で、「自分史」にも必死に取り組んでいました。
丸屋先生とともに
五月に入ると、時々左脇腹が痛むことがあったりして、やはり「癌がいよいよ悪くなったのかな」と心配したりしました。不安になると、広島の丸屋先生に電話をしていたので、先生も心配しておられたようです。
六月になって、丸屋先生から、「夏に陜川までお見舞いに行く」との便りが届きました。私より年長の先生が、わざわざ陜川まで来てくださる、そのお気持ちが身にしみました。私にとって、先生は兄のような存在だったので、病気のことや、自分史のことなど、いろいろ教えてもらいたくて、先生が来る日を、待ちわびました。
七月五日、土砂降りの雨がようやく静かになった夕方、丸屋先生が我が家に来られました。久し振りの再会でした。先生は会うなり「お腹を診せてくれ」と診察を始めました。そして「今の状態はあまり心配することはない」と言って、初めてにっこりされました。
その日はマッカリがおいしいと言って飲まれ、私も久し振りにマッカリを付き合いました。私は書き留めた「自分史」の草稿を見せました。丸屋先生は共立病院の被爆者の会で、会員のみなさんの被爆体験記を長年編集されてきたので、感想を聞きたかったのです。丸屋先生は一気に読まれ「これだけ書くのは大変なことです。驚きました」と言って褒めてくれました。笑われるのではないかと心配していた私は、とても嬉しく思いました。
ただ、書き足りないところや、言葉遣いの間違いがあったので、丸屋先生が陜川にいる間に二人で一緒に加筆したり、訂正したりすることになりました。四日間、毎日毎日、朝から夕方まで膝をつき合わせて作業をしました。先生のお陰で、自分史の半分以上を完成させることができました。
別れの日、丸屋先生は「あなたを奪おうとする原爆を許すことはできない」と、涙を流して話してくれました。私も思わず先生の手を握り、二人で涙を流しました。今、私は先生のことを本当のお兄さんだと思っています。
病気と闘いながら
七月十一日、大邱にある嶺南(ヨンナン)大学病院へ、丸屋先生に渡された広島共立病院の病状紹介を持って行きました。CTの結果、「肝臓の癌は直径五センチくらいのと二センチくらいのと二つある。すぐ入院して手術しよう」と言われました。手術はもうすることは出来ない、と広島で言われていたので、手術しようという言葉に少し疑問を感じました。「家に帰って考えたい」と言って帰りました。その時、内服の抗癌剤を渡されましたが数日間服用をつづけると、ご飯がだんだん食べられなくなってしまいました。
夏が盛んになってくると、私の体力も随分衰えてきたと感じるようになりました。机について自分史を書こうと思うのに、ペンが進まないのです。以前は三時間近くも、下書きを書いて、それを清書する、ということが出来ていたのに、もう三十分も続かなくなりました。
今年の暑さは日本でも異常だったようですが、陜川は内陸部ですからもっと暑かったのです。癌が大きくなり、二つになっていたというショックと、暑さのために食欲もなく、もう抗癌剤の服用は止めていました。
体力がないのだから無理はやめよう、と思い、早く涼しい秋にならないかなと、思っていました。秋風が吹いて元気を回復したら、もう一度広島へ行って病気の診療を受けたい。丸屋先生や井出本さんなどの友人知人にも会いたい。妻も連れて行って宮島を案内しよう。そんなことをしきりに考えていました。
九月、朝夕が少し涼しくなってきました。しかし、身体の疲れは回復しませんし、食欲も戻ってきません。広島を訪ねて私の育った広島を妻にも見せてやりたいと思っていた希望も叶いそうにありません。私は丸屋先生に手紙を書きました。
九月二十三日付
朝夕はとても涼しい秋が来たのにどうしたことでしょうか。気力はもとに戻らず身も心までだるくなってくるので心配です。
しかし、あなたのはげましの書信に感激した私は辛いけれど、今も筆を取って自分史を綴っています。
「あなたは自分史を書く責任があります」いつか丸屋さんが言った言葉です。そうです、被爆者としての重大な責任があります。その責任を果たすが故に、だるい体を奮い起こして自分史を今日も書いています。
再び、丸屋先生とともに
私は十月に、晋州(チンジュ)の慶尚大学病院で診察を受け、十月十九日に入院しました。二十二日から抗癌剤の点滴注射を連続五回受けました。これは私の弱った身体には大分辛かったです。
抗癌剤の投薬を受けて退院しましたが、抗癌剤のせいか、ますます食欲がなく、少ししか食べられません。自分でも一日一日と体力が弱っていくような感じがして、とても辛いのです。座るのも辛く、ほとんど横になって過ごしてばかりになりました。
少しずつ書き進めていった「自分史」は、自分の病気について書かなければいけないところまで来ていました。広島で肝臓癌を宣告された時の気持ちや、帰国してから希望を失っていたことを思い出して書かなければいけないのがとても苦しく、何度もやめようと思いました。体もだるいので、一行か二行書くと、ペンを持つ手に力がなくなってしまいました。
私が広島に来るかも知れないと、丸屋先生や井出本さんは待っておられた様ですが、私は「とても行けない」ということを伝えました。そして、丸屋先生に「自分史を書き進めることができない」と言いました。すると先生は、「二人で自分史を完成させようよ」と言ってくれ、再び陜川へ来てくれることになりました。私も妻も先生に会えるのを、指を折って待っていました。
十一月二日、丸屋先生が陜川に着きました。私は動けないので、バスセンターまでは妻が出迎えに行きました。夕食を一緒にして、その日久し振りにマッカリを少し飲みました。アルコールは肝臓に悪いと聞いていたのですが、丸屋先生は少量のマッカリは食欲が出るから良い、と言うのです。二人で飲む久し振りのマッカリはおいしく、とても気分が晴れました。昔、私が工場でマッカリをつくっていた頃の思い出話−そこで妻の粉尹を知るのですが−をしたりしました。
その晩、夏以降に書きためた自分史の草稿を渡しました。目を通された先生は「苦しい中、ここまで良く書きましたね。驚嘆する。もう一息だね」と言ってくれました。そして、明日から「癌転移・自分史への取り組み」という、私にとって思い出すのも辛いことを「二人で仕上げよう」と約束して、先生は宿に帰られました。
翌日から、私と丸屋先生の手紙のやりとりを読み返したりしながら、作業が始まりました。もうペンを握れない私は、声をテープに録音してもらい、先生に代筆してもらうように頼みました。「癌転移の告知」を受け、絶望の中で故郷へ帰った時のこと、「自分史」に取り組むまでの気持ちの動き、広島のドングリが陜川の厳しい寒さを耐えて生き残ったこと、妻に癌転移を告げたこと、嶺南(ヨンナン)大学で癌が五センチもの大きさになっていた時のこと、夏の暑さが過ぎても食欲がなく、秋に晋州(チンジュ)の慶尚大学病院に入院して抗癌剤の点滴を受けて、更に体力が弱ったこと、など、一時間くらい話をして二時間休む、という作業でこの自分史を綴ってもらっています。
最後に
今、再び抗癌剤を飲み始め、毎食食べていたキムチも口に刺激があって痛くて食べられない状況です。何も口にできなくて、力がないのですぐに疲れて話が長く続けられないのがとても辛いです。頭がボーッとして考えがまとまらないし、ペンを持つことができません。手紙一枚書くことが出来ません。それが辛いのです。気持ちも心も、「もう駄目だ」と思うことが良くあります。今は、何かを考えようとしても、何も考えられないという状態です。
自分史を書くという覚悟を持って書き始めてみて、読み直して、ああ自分にはこういうこともあった、ああいうこともあったと、楽しいことや悲しいことを思い出し、自分の人生を繰り返してまるで映画でも見るように振り返りました。
夏頃から体力が弱って、もう止めよう、と思いましたが、丸屋先生の励ましもあって「ここで止めたらいかん。最後まで倒れるまで書いていこう」と思いました。一行も書けないこともありました。それでも丸屋先生の言う、被爆者としての責任を果たして、命の絶えるまで自分史を書き続けて、日本の人、韓国の人だけでなく、世界の人に知らせたい。韓国にもこんな被爆者がいると。
私たちは、祖国の戦争ではなく日本の戦争に巻きこまれ、被爆という目に遭いました。そして、今、五六年目の原爆症にかかって、下咽頭から胃、今度は肝臓にまで癌になり、死の間際になりました。その私が全世界の人類に言い残したい言葉は、核兵器のない平和な世界になってくれるよう世界の人々が努力しましょうというこの一言だけです。
被爆者である私が、自分自身のことを書いて、「自分史」としてみんなに知らせるのは、韓国では普通なら考えられないことかもしれません。しかし、自分一人で知っているだけではいけない、この様な韓国人がいる、ということを知ってもらいたいと思って書いています。自分史ができあがったら、ハングルに書き直して韓国の少年にも読んでもらいたいと思います。
私が病気ばかりしてきたので、妻には良くしてやれませんでした。すまないと思っています。妻は私に力をつけようと、体に良いものを作ってくれ、あらゆる手を尽くしてくれています。時々私の見えないところで泣いている様です。一番かわいそうな思いです。今さら言い遺す言葉を知りません。自分のような病気になることなく、元気でやっていってもらいたいと思います。子供達、孫達、被爆二世・三世に私の被爆の影響が出ないか、ということがとても心配です。
私の父が広島に行ったことで、自分も原爆を受けたわけですが、これも運命だったのでしょうか。今語り終えて、もう何もかも忘れたい、そんな思いです。(了)
注1 当時の名前は「原田正夫」で
一九四十年、日本政府は朝鮮人に対して、日本式姓名への改名を強制した。また、朝鮮半島においても朝鮮語新聞の発行禁止、行政機関や学校での朝鮮語の使用禁止が行われ、日本語の使用が強制された。そのため日本に住む朝鮮人たちは、朝鮮語を使うことは出来なかった。
注2 母親が亡くなった
実母が亡くなった後、イさんの父は再婚した。以後の文章で出てくる「母」は、義理の母親のことを指している。
注3 疎開
アメリカによる爆撃を避けるため、標的にされやすい都市から地方へ移住すること。
注4 韓国原爆被害者協会
被爆者に対する医療保護、経済保護、日本からの賠償などを求めて、一九六七年に結成された組織。当時の名称は韓国原爆被害者援護協会。現在会員はおよそ二二〇〇名(二〇〇二年現在)。
注5 被爆者健康手帳
原爆を受けた事を示す一種の証明書。手帳を持つ人は、国の負担で医療を受けることが出来る。また、健康状態に応じて健康管理手当(月額三万四千三百三十円)などの各種手当てが支給される。しかし、こうした援護を受けることができるのは日本国内に居る被爆者のみで、韓国など海外で暮らす被爆者たちは日本を出国すると援護を打ち切られる。
注6 特別葬祭給付金
昭和四十四年三月三十一日までに死亡した被爆者の遺族に対して支給された手当。
注7 韓国人原爆犠牲者慰霊碑
一九七〇年、在日本大韓民国民団広島地方本部によって、原爆の犠牲となった韓国の人々を悼み建立された。碑には「李_公殿下外弐萬餘韓国人霊位」と刻まれている。李_公とは、李氏朝鮮王朝の末裔の陸軍中佐で、被爆して亡くなった。
注8 在韓被爆者渡日治療広島委員会
一九八四年、広島で結成された市民団体。韓国原爆被害者協会と協力し、十分な治療を受けられない韓国の被爆者を、日本の病院へ招く活動を行っている。費用は会費や寄付などでまかなわれ、二〇〇二年二月現在、延べ四百人の被爆者を受け入れてきた。