『原爆詩集に至る抒情の源流

 

池田正彦(広島に文学館を! 市民の会・事務局長)


 峠三吉といえば、多くの人が『原爆詩集』を思い起こすであろう。確かに戦後詩を代表するこの詩集は、今日まで多くの読者を獲得し、版を重ね、日本の詩史の中でも特異な存在である。

 その峠の未発表詩を遺品のスクラップブックから見つけた。一九四四(昭十九)年の作とみられ、あの原爆詩を書いた峠とは思えないような象徴的な抒情詩である。

 生前の峠に直に接した知人・友人の間では、心穏やかなやさ男で、音楽や絵画を愛し、家族を慈しみ、幼い子どもや花や風月に心を寄せ、女性への追慕をうたう抒情詩人で通っていた。

 この抒情性を抜きに峠三吉を語ることはできない。

 また、峠は二十五歳の時、キリスト教に入信した。キリスト教の信仰は、暗い戦争下にあって誠実に生きようとする人間形成に大きな意味を持った。だが、病弱な体質もあり、死とか霊魂とか、彼なりの宗教観からといった側面が色濃い。

 

 新資料となる四編の詩は、日本の敗戦が誰の目にも明らかになってきた時期のもので、当時の平均的な軍国青年でありながら、こうした世俗とは遮断し、あくまで純粋に優しいもの美しいものにひかれていく趣がある。こうした抒情の質は戦後も引き継がれ、四五年八月、原爆を扱った「絵本」という詩において原爆の悲惨と悲しみをメルヘン的にうたい、未来を絵本に託した抒情詩に昇華させている。

 しかし、『原爆詩集』に到達するには、五一年まで待たなければならなかった。峠は、あの原爆の惨禍を体験し、日記などにその惨状を細かく記していた。実際これらの記録が『原爆詩集』の素材となっている。原爆作家と呼ばれた原民喜や大田洋子はいち早く作品化し、成功しているが、なぜ峠には六年の時間が必要だったのだろうか。

 

 おそらく、彼本来の優しい抒情の「質」では的確に原爆の惨劇をとらえることができなかったのであろう。しなやかな抒情性とリアリズムの手法を獲得するための自己変革の苦闘がそこにはあり、病弱な身体で、広島青年文化連盟、広島詩人協会、われらの詩の会、・反戦詩歌人集団、被爆者組織の結成、レコードコンサート、詩画展など、実に多彩な社会活動に積極的に参加している。

 特に、広島で戦後最大の労働争議とされる日鋼争議では、自身の詩「怒りのうた」が労働者の前で朗読された。その時の反応を次のようにしるしている。「嬉しい、そして激しい成長を感じる。やれそうだ! 何かやれそうだ! 生きていてよかったといえそうなことがなにか……」

 

 これらひたむきな社会活動が、詩と詩想の変革を後押しし、従来の抒情の質を大きく花開かせることになった。あのおどろおどろしい情景を描いても、見つめる対象は女学生や少年少女であり、峠らしい人間尊厳と透明感が詩としての品性を保つ。叙情的人間の優しさは、それを卑しめるものに対して激しい怒りに転化させ、成功した。

 今回見つかった四編は『原爆詩集』をかたどる抒情の源流を示す。今まで『原爆詩集』におけるたけだけしさの側面が強調されてきたが、「峠三吉研究」はこうした抒情性の解明にこそもっと力を注ぎ、峠三吉再評価への道をきりひらくべきである。


「中国新聞」200864日。