峠三吉没後50年、文学資料展からみえてくるもの

池田正彦

 (「峠三吉没後50年の会」事務局)


 原爆詩集で有名な峠三吉が亡くなって50年がたつ。

 市民の有志で構成する「峠三吉没後50年の会」が主催(共催・広島市まちづくり市民交流プラザ)して、4月16日〜28日文学資料展が行なわれた。(会場・広島市市民交流プラザ)

 これは、峠三吉の詩と詩想を継承し、彼の文学的足跡をたどり、21世紀に果たすべき広島の責任を共に考えるとともに、こうした文学資料の有効活用を求めて企画されたもので、期間中約1000人の入場者をかぞえた。

 展示は、『原爆詩集』の草稿、自筆原稿・書簡・遺品類・写真パネルを中心にしながら、戦後の激動期はもとより、若き時代をどのように生きたかに焦点をあて、叙情性豊かな人間像が浮かびあがるよう心がけた。

 特に、好村冨士彦氏の「『原爆詩集』の「ちちをかえせ ははをかえせ・・・」の序詩の成立するまで」は、原型と目される草稿「生」(A)や「メモ書き」(B)とを比較した論考で、入場者の目をひいた。(A・Bともに展示) 好村氏は「<序>に較べると、Bにおいても、Aにおいても状況的なものが具体的にリアルに描きこまれている。<序>ではこれら個々のリアルなディテールを思い切って切り捨てている。・・・そのことによって名詞は抽象的になり、メルヘン的な性格をさえおびるにいたった。その結果<序>の詩はいちだんと普遍性をまし、『原爆詩集』の冒頭におかれるにふさわしい、簡潔で力強いものとなった」と結論づけている。

 さらに、峠と親交のあった深川宗俊氏からは「カチューシャ楽団に捧ぐる詩」と題した未発表草稿が提供、公開され話題となった。この詩は朝鮮戦争下、カチューシャ楽団への激励に加え朝鮮戦争反対の抵抗精神を示したもので、『反戦詩歌集・3号』(2号まで発行)に収録を目的としていたことが推測され、あの時代のエネルギーを彷彿させる貴重な資料だ。

 同じように市民から、手術前の近況を知らせるなどの「ハガキ」5点、未発表草稿「ALBUMに寄せて」の寄贈の申し出があり、展示。

 他に、デスマスクや表札・ネクタイなどの遺品類、平和公園内の詩碑のレプリカ、妻・和子にあてた日記風スケッチブック、被爆直後の日記の写し、中野重治や大田洋子・野間宏・壷井繁治ら交友のあった作家からの書簡、推敲の跡がなまなましい原爆詩集収録自筆原稿など約100点を公開、改めて市民共有の財産としての意味を考える場となった。

 入場した市民は、次のように感想ノートに記した。(一部を紹介します)

 「訪れた市民のみなさんが、原稿や葉書の前で足を止め、一字一字を熱心に見ておられるのが印象的でした。峠三吉の肖像画は四国五郎さんが描かれたそうですが、展示物の中にこういうものがあると感動の質が変わるように思われます。そばにつつじと麦が生けてあり、主催者側の心遣いを感じとりました。」(I)

 「貴重な資料を拝見できて、勉強になりました。イラク戦争の最中にタイムリーな企画、感銘を受けました。平和への願いを先人の方からくみとり、これからの生き方の参考にしたいと思います。」(Y)

 「来てよかったです。峠さんの情熱・行動力・エネルギーを感じて、なまけものの私もなにか役に立つことができるようになるとよいのですが・・・」(O)

 「丁寧によく整理されたお仕事に敬意を表します。ほんとうにこのような一室を常設できる場所が必要ですね。ありがとうございました。」(S)

 「広島に生まれ、戦争・原爆ということを身近に感じながら、今回のイラク戦争で何もできなかった自分の無力感を正々堂々と向き合うために足を運びました。来て良かったです。ノーモア・ヒロシマ。当たり前のことが当たり前でなくなっている昨今。当たり前を守っていくのは私たちなんですね。」(H)

 こうした会場展示とは別に期間中、児童文学者・那須正幹さんをメイン講師に迎えてのシンポジウム、詩友でともに活動した御庄博実氏をゲストにギャラリートークなど、多面的な取り組みで文学資料展を盛り上げた。

 さて、無差別テロを口実としたアメリカのアフガンやイラク攻撃で、多くの一般市民が戦火に巻き込まれ、劣化ウラン弾さえ使用されている現実のなかで、峠三吉をはじめとするいわゆる原爆文学に表された言葉が今でも普遍性をもちつづけている。

 残念ながら、こうした今日的課題を背負う文学を系統だて、日常的に公開する施設・文学館は広島にはない。広島において、市民グループが十数年来原爆文学を中心とした資料の収集・整理と保全にあたり、収集した資料は二万点にのぼり、その都度文学館の必要性を歴代の市長に要請してきた。それらの資料は広島市中央図書館に寄贈され、保管されてきたが、行政側の財政措置はゼロに等しく、中央図書館内に「広島文学資料室」をアリバイ的に設け、糊塗しているにすぎない。

 これは文学という範疇だけの問題ではない。被爆の証言者の高齢化が言われて久しい今日、原爆文学の果たす役割ははかりしれない重要性を帯びてきている。

 行政の怠慢を糾弾するだけでなく、市民運動の側からもこの文学展を照射する必要性がある。先に約1000人の入場者と述べたが、(その数が多いか少ないかは別にして)その多くは、一般市民であり、マスコミ各社がとりあげたにもかかわらず平和運動やその活動を担っている人はほとんど見かけることができなかった。おおよそ、それらの人々は「よくわかっている」との認識であろうが、本当にそうであろうか。草稿をはじめ多くの展示物はヒロシマを証言する一級の資料であり、広島の戦後民衆史(平和運動史)を語るにふさわしい品々である。

 先日、大学の平和講義で峠三吉の名前すら知らない学生が多いことを嘆いた人がいた。別に不思議な現象ではない。広島においても、「8・6」は行事化された一大イベントであり、「平和」はファツション化した感すらある。

 その証左に、八月六日をさかいにみるべき行事はパッタリと姿を消し、街はあの喧騒が嘘だったように静かになる。

 広島は何をもって原爆を「継承」しょうとしているのであろうか。

 虚構化し形骸化した広島に、平和の発信の責務は重過ぎる。


『原爆文学研究』第2号(投稿中)