広島のなかのイラク

御庄博実


 広島の鯉城通りは、広島城からまっ直ぐに南下する大通りである。通りの東側に中国地方で最大の、七百床を超す市民病院があり、広島県庁がある。向いの西側には広島美術館や中央図書館、さらに県立体育館や広島球場が緑樹に囲まれて広がっている。現在、シャレオ通りとオシャレな名を冠した地下街を都心にした紙屋町まで、戦前は広大な軍用地であった。勇名を轟かせた広島師団は、広島城を師団司令部に、日清戦争時には大本営が置かれたのだ。

 ちょうど今の「そごう」百貨店あたり、師団長官舎があり、騎馬の将軍が桜並木の練兵場を一周して、巷間「鯉城」と呼ばれていた広島城の師団司令部に出勤するのが毎朝であった。

 当時僕は学生で、八十年前からいまも路面を走っているチンチン電車で、師団長閣下の騎乗姿を、時に桜並木の間にかい間見ながら、旧制高等学校に通っていた。

 紙屋町―本通り―袋町、チンチン電車の南下して行く先には宇品港がある。本通り・袋町は原爆爆心地から半径五百メートルの円内にある。直下で四千度、五百メートルで二千度近くの熱線に灼かれたところだ。宇品港は日清戦争以来、幾十万か、幾百万かの将兵を大陸に送り、軍馬も送った。陸軍最大の検疫所があり、帰還兵も凡てこの道をたどったのだ。

 袋町で路面電車を降りると、日本銀行・広島支店の朴訥・頑強なコンクリート三階建ての石造りが、古風な威儀を正して目の前にある。正面に四本のゴチック風な石柱が、明治の風貌を残して、百歳の老人の剛直さをただよわせている。

 原爆の爆心直下から三百余メートル、一平方センチに十数トンといわれる爆圧に耐え、地下の金庫を守った。被爆時、一階はよろい戸を閉じていたため内部の大破は免かれたが、三階は扉を開けていたために全焼、十七名全員が死亡した。

 一望に焼け崩れ、融けて瓦礫になった都心で、この建物に幾百人かの被爆者が日蔭を求めて逃げ込み、血膿に満ちた収容所となったのだ。

 僕はうつ伏せの一人ひとりをのぞき込み、M子を探し、学友を探しつづけて、焼け残ったいくつかの鉄筋ビルを彷徨したが、遂に誰一人知る人に出会うことなく、絶望という石を抱いてその日の広島を離れた。

 

 すでに指を折って数えるしか残されていない被爆建物のうちで、この旧日本銀行広島支店は五十八年前の八月六日の様相をいまも、飛び散ったガラスが所長室の壁面などにそのままの残像として留めている。突き刺さったガラスの腰板の傷痕から、いまもあの日の苦悩に満ちた呪咀の声が僕には聞こえる

 日銀支店を建て替えるか、また被爆のモニュメントとして残すか、長い論議と経過ののちに、大蔵省から広島市へ無償譲与されたのは、二〇〇〇年五月である。その後、ほぼ年余をかけて整備され、二〇〇一年三月「原民喜没後五十年回顧展」が、(広島花幻忌の会)の手で開かれた。

 

 遠き日の 石に刻み

     砂に影おち

 崩れ墜つ 天地のまなか

     一輪の花の幻

  (原民喜「碑銘」)

 

 広島の文学、芸術にかかわる人、平和を願う人、いや行きずりの誰彼にとっても、都心に残る被爆時のままの姿をとどめている旧日銀・広島支店は、ユネスコによって世界遺産に指定された『原爆ドーム』と同じく、広島の存在理由の一つなのである。

 

イラク写真展開かれる

 原爆の日を中心に、本年(二〇〇三年)七月末の二週間、この旧日銀・広島支店で写真展が開かれていた。

 正面玄関を入るとNPOの受付嬢から、やさしい声をかけられて素朴なパンフレットを渡される。表紙は二人のグアテマラの少女が訪問者に「子供達に笑顔と明るい未来を…」と呼びかけている。『広島から世界への写真展』は、主催が「動きつづける市民ネットワークmove in写真展チーム」で、国連難民高等弁務官(UNHCR)日本・韓国事務所も協力している。写真で目の前に五十八年前の広島、長崎の惨状がひろがる。僕も通い馴れていた御幸橋西袂の、被爆直後の仮救護所に集まっている、焼けただれた被爆者たちの八月六日が展がっている。五十八年間、誰も食べることの出来なかった「黒こげたべんとう」もある。

 さして広くはないが、旧日銀のロビーは、五十八年前のあの日のままだ。死を目の前にして「水を…」と声にもならない口を動かしている被災者、あるいは又、既に死んでいると思われる無惨な被災者の一人ひとりの、胸もとの名札を、確かめながら覗き込んで僕は歩いた。部屋に入ると階段の片隅から、あの日の苦痛にうごめいている声が聞こえてくる。

 それから半世紀、アフリカで、バルカン半島で、中央アジアで、南米で、世界の各地での地域紛争、テロ、政治・宗教の対立と抗争のなかで、命の危険にさらされた人々、祖国を追われた難民キャンプ等の写真が、無言の声をあげている。

 勿論、メインは、戦場下のイラクである。

 昨年十二月、イラクから二人の医師が広島へ来た。一九九一年の湾岸戦争以後、白血病や「がん」の増加が、劣化ウラン弾による放射線被害ではないか?と、広島の医者の意見をききたい、そのために来たという。

 「子供達に、驚くほどのがんの発病があるのです。十二歳の少女の乳がんの発症を診たことがありますか?」と、バスラ大学・腫瘍学のアル・アリ教授が僕に問う。確かに、広島でも被爆後、肺がん、乳がんの増加があった。それは被爆後二十年後からである。劣化ウラン汚染五年後からの肺がん、乳がんの増勢ということに、僕は広島の医師として異様な衝撃をうけた。僕は「劣化ウラン被爆」をヒロシマの被爆に重ねた構成詩劇を作った。

 十二歳で乳がんを発症した少女・ナオラスに登場してもらって、広島の被爆二世で白血病死したフミキ、チエルノブイリのナージャと重なる短篇の詩劇である。

 数日前の夜にフオト・ジャーナリストの豊田直巳さんから電話があった。僕の作った構成詩劇「核と世界の子供たち()」の発表について、豊田さんの写真の使用の了解をFAXで、お願いしていた。その了解の返事と一緒に「僕も、御庄さんの詩を使うよ!」とのことであり、そして「八月六日、旧日本銀行広島支店の写真展会場で会いたい」と。

 会場の右側の豊田直巳氏の「戦乱のバグダット三十日間」の展示が、僕の胸もとに飛び込んでくる。

 

 イラクの展示コーナーは、米軍のミサイルで破壊された天井の穴を仰いで、肉親の死者を嘆く老人からはじまる。青果市場に打ち込まれた砲弾で六十人が犠牲になったという、母親の黒いブルカを震える手指でしっかりと握って顔をかくしながら、その爆撃の現場を凝視している十歳にもならない少女の水晶の瞳が濡れている。

 豊田直巳氏の二十枚。一枚一枚の写真の現場の説明に力がこもる。米軍は三万発のミサイルを撃ち込んだという。ピンポイントとはいいながら、五百哩も離れているペルシャ湾からの照準に、一メートルの誤差があれば建物の壁をかすめてミサイルは数百メートルを飛びこえて、この市場を直撃したのだという。誤爆率一〇%という。三千発のミサイルがこうして非軍事の民間人を直撃した。

 十二人家族の青年の一人が、夜明け前に市場に行き、家に帰ってみると家は無惨な瓦礫となっていたと。片隅から塵に埋った一冊の「コーラン」が出て来た。残された家族十一名はちょうど、モスクへ礼拝に出席していて、奇跡のごとく家族十二名は無事であった。「一冊のコーランが私達を救ってくれたのです」と青年は豊田さんに語ったと。

 バグダッド陥落直前、それまで三ヵ所に分散していた世界各国の報道人は、パレスチナホテルへ全員が集まった。そこには英のBBCも、米のNBCもいた。その十五階が砲撃されて英・ロイター通信とスペイン民放のカメラマンの二人が、ベランダの血だまりに倒れていたという。直後にアメリカは、撃ったのはイラクだと情報を流した。しかし、共同通信がこの砲撃の実際を撮影していて、アルジャジーラがこの映像を公開したために、翌日になってアメリカは砲撃の事実を認めたのだ、という。

 何が起こるかわからない。ぶっつかりあう「嘘と嘘」の情報のうずまくイラクで、アメリカは予じめ膨大な資金で「報道部隊」を戦場に入れた。どれだけ偽りの映像が配信されたか。メデイア戦争といわれた所以である。

 その中で、真実を見きわめなければならない。自らが負傷して運び込まれた病院から、やっと我が家に帰って来た少女は、そこで母親が殺されていることを知った。崩れた煉瓦にすがりついて泣く少女の涙こそが、バグダッドの真実であろう。

 五十八年前のヒロシマの被爆者の声が、展示されているパネルの裏側からエコーになって聞こえるのは、果たして僕だけにであったろうか。

 

 私の胸のふくらみに

 劣化ウラン()    御庄博実

 

わたしのふくらみはじめた心は花のよう

わたしの髪に飾られたサフランの

薄紫の匂いが好き

わたしは小さな橋をわたり

ムハマド先生の学校に行く

 

わたしの胸の

やわらかいふくらみに

いつの頃からか冷たい罅が入り

ひびは日ごとに深くなり

ひびは日ごとに固くなり

やわらかなこころが声をあげ

 

胸の芯に切り込まれた冷たい罅が

わたしの心にとげを刺す

わたしは朝 山羊の乳しぼりをし

小さな橋をわたって学校へ行く

おはよう わたしの友達 わたしの先生

 

日ごとに深くなり

日ごとに冷たくなり

日ごとに固くなる

わたしの胸のいたみ

ある日「がん」だといわれたの

その言葉が何であるかを

わたしは知らない

わたしはいつか死ぬのだと

かあさんが泣く

 

山羊のシロの乳が

こんなにもおいしい朝なのに

(構成詩劇「核と世界の子どもたち・()」より)

 

イラク医師との対話集会

 原爆資料館地階・メモリアルホールで「反核のための国際対話集会の夕」が持たれた。八・六記念日にふさわしく各分野からの発言があった。「北東アジアの非核化への提言」が反核法律家協会からあり、「新アジェンダ連合の核廃絶への国際的運動」が、スエーデン大使から報告された。しかしホールを埋めた参加者の関心は、僕を含めて、イラクの現状についてにしぼられていた。

 森滝春子さんが、昨年十二月についで本年六月、二回にわたってイラクを訪問、「劣化ウラン弾禁止・ヒロシマプロジェクト」として現地調査をした。占領軍米兵とのきわどい交渉も含めて報告がされた。そして、僕が最も知りたいと思っていた人体被害についてであった。

 バスラ大医学部のジワード・アル・アリ教授は昨年十二月に来広され、僕はそのとき、はじめて「劣化ウランの医学情報」を直接、教授の口から聞いていた。

 今回は産科・小児科病院のジョナン・カリブ・ハッサン医師(四十五歳女性)を伴っての二度目の来広である。戦乱のイラクから、ほとんど、地下を這う様にして来日したという。バスラからクエートへ入国出来れば、すぐ隣町といってよい距離だが、入国ビザが米軍占領下でどうしても取れない。止むを得ず五百哩、一昼夜をかけてバグダッドまでバスで北上、米軍のバグダッド攻撃と同じ道程である。さらにバグダッドからヨルダンへの砂漠の道三百哩をバスで越え、途中で米軍の検問をくぐり抜けて、アンマンでやっと飛行機に乗ったという。必死の思いで広島に来られたのだ。医師として、二人、イラクの実情をさらに率直に訴えるためである。

 今回は、八月六日の原爆・平和祈念の各種国際会議と並行しての行事と重なったので、多くの時間はなかったが、教授の報告に合わせて次々とスクリーンに撮し出される劣化ウラン弾による被害の実相は、参加者全員にとってまさに呼吸も止まるほどの惨状である。

 特に産科・小児科のジョナン・ハッサン医師と共同で提供された小児の白血病・がん・各種の奇形の映像は、医師の僕にも想像を超える異常さであった。ヒロシマでの惨禍をくぐり抜けた被爆者は、いまもおびえつづけている放射線の目に見えない妖気が目の前のスクリーンから再び燃え上るのを見たであろう。また被爆をうけていない参加者も、放射線被爆の「いのち」に対する言葉をこえての惨劇の実感を、被爆者と共有したであろう。

 バスラで十万人当りの「がん死亡者数」は湾岸戦争前の一九八八年は年間十一人であったのが、九八年に七十五人に、二〇〇一年には、百十五人に急増している。

 「米国の撃ち込んだ劣化ウラン弾で、なぜイラクの子どもが罰をうけなければならないのか?」と、アル・アリ先生はいう。それでもなおアメリカは、劣化ウランの人体への影響に目を閉じつづけているのだ。

 ヒロシマは今年三月二日、アメリカのイラク攻撃の二週間前、六千人の人文字で、「NO WAR NO DU!」の、劣化ウラン(Depleted U)弾禁止を、ニューヨークタイムスに発信した。全米の関心を呼び、ホワイト・ハウスがホームページで直接反論して来た。

 ヒロシマ・プロジェクトは、さらに劣化ウラン弾禁止を求めるHiroshima Appealのアート紙A4版で反論、六十四頁のカラー冊子を、八月六日に刊行した。近く、英文でも出版の予定という。

 冒頭二頁に僕の詩が載った。

 

 何をしたらよいですか?

 劣化ウラン(。)

 

紺碧の空に光る

 瑠璃色のモスク

 アリババと四十人の盗賊たちの

 不思議な話を夢のなかで聞いた

 

 ----少年時代----

 

バグダッドの市場では

 盗まれたアラジンのランプが

 いまでも灯されているか

 

  病院の廊下にさえあふれる白血病の子供たち

  処方する薬を持たない医者に何ができますか?

  ヒロシマの医者は 五十八年前、患者さんに何をしま

  したか?

 

 大学小児科のジョルマクリ先生は言う

 答えることのできない質問に

 僕の記憶中枢はあの日の閃光に灼かれ

 僕は黙って下を向く

 

 若い母親の腕に抱かれた

 白血病の子供たちの無心な笑顔

 まぶたごと目玉の飛び出した無脳児 水頭症・・

 机上にひろがる異形の写真

 凝視しながら 僕は盲目となる

 

 バスラからやって来たアル・アリ先生は言う

  処方する薬をもたない医者に

  何ができる?

  何をしましたか?

  何をしたらよいと思いますか?

  ヒロシマの医者の答えが聞きたいのです

 

 耳元で囁きつづけるのは

 お母さん あなたですか

 机いっぱいに広がっている子供たち

 やわらかい肌に

 僕はそっと掌をあてる

 冷い! 氷の肌に

 

 僕はヒロシマの医師として、詩人として、黙っているわけにゆかないのだ。ヒロシマの核廃絶への、地を這う願いを、イラクの劣化ウランの被爆の実情に重ねて許すことが出来ないのだ。(おわり)


『新・現代詩』、2003年冬・11号(知加書房・横浜市港南区港南台5−10−1、Tel/Fax (045)832-0834 )


HP管理者から:著者の連作「劣化ウラン」(氈j〜(・)を、このHPの「文学資料データベース」に収録しています(劣化ウラン氤劣化ウラン。「劣化ウラン」、・)。なお、同じ著者による「劣化ウラン弾という核兵器」もぜひご参照下さい。