『過ぐる夏に』心情とメッセージ

――そのはざまに在るもの――

岩崎清一郎


(要旨)昭和20年前後の三年間、松山郊外の村にいた。松山市駅で猛烈な炸裂音、地下道へ逃げ込んだ。電車の窓越しに北の上空、晴天にひとつだけの丸い雲塊が見え、人々が指呼しあっていた。8月6日の朝だった。

 7月26日夜、松山空襲があり、父親の勤務先・逓信局が一部類焼、法規書類の補填のため、4日、広島逓信局へ業務出張がでたが体調整わず父はこれを同僚に委ねた。松山から捜査隊がでたが数人の出張者は行方不明。

 もしこのとき、と考える。妻は被爆、息子ふたりは“二世”。

 自作について斎木寿夫氏が「中国新聞」で好意的な評をしめしたが、作の背景は原水禁大会分裂前年の時点。その後、組合関係の動員で度々大会の分科会へでた。他郷からの参加者が地元の不熱心、他都市と変わりないことを心外なこととして発言していたのを記憶する。期待と予断に広島が応えないという。そのギャップに今日に続く難問・偏見・断絶の根があった。

 『原爆文学通史』(長岡弘芳)は戦後20年間を4期に区切っている。

第1期=昭和25、6年まで。プレスコードの時期と解除の頃。

第2期=昭和30年まで。朝鮮戦争。原爆症の表面化。”原爆乙女”

第3期=昭和35、6年まで。原水禁運動の高揚。太田洋子の離反。

第4期=昭和42年まで。記録・体験主義を超える方向の模索。『黒い雨』の世評。

 それから30年余がある。仮にこの30年を3期にわけると、

1=昭和40(1965)年前後〜50年。広島発信の原爆文学群。主題上の一般的認知。

2=昭和55(1980)年〜63年にわたる反核文学運動の高揚と背反。『日本の原爆文学』全15巻による集成。

3=平成2(1990)年〜林京子、井上ひさしの戯曲。「原爆文学展」(神奈川近代文学館および広島における原民喜展等の具体的な活動。「昭和文学史」に「原爆文学」定着。

 『日本の原爆文学』編纂の際、二冊の短編集に主として関わったが、採り入れるべき多くの作品群が残った。換言すれば、最もパセチックな主題としての”原爆”が文学表現のうえで、なおかつ継続、展開される余地があり、関心の一層の高まりは、昨今の世界情勢の緊迫と不安から必然性を帯びつつある。


講師・作家紹介1931(昭和6)年広島市生まれ。昭和20年前後は父親の転勤で松山郊外に移住。1958(昭和33)年『安芸文学』創刊、69号発刊。『梶葉』通巻8号刊。広島文化叢書『広島の文芸―その知的風土と軌跡』。作品集『日ぐれの街』のほか、『全逓広島労働運動史』、『山陽(学園)九十年史』など。小説〜「ふゆなぎ」「晴れた日々」「冬の夜の詩」「街はあやに翳りて」「暦日抄」など。『梶葉』に連載の「広島の文学―ゆかりある人々」(1700枚)は、明治以後の広島に関わりある作家群像の評伝。その8号には“戦後篇”を一括発表した。『梶葉』『安芸文学』の編集・発行人。