一
日韓併合後、朝鮮半島から日本列島へ、任意の移住者が生活の糧を求めて海峡を渡った。さらに植民地帝国日本の膨張、戦線の拡大、総力戦体制の整備に伴い、一九三八年には国家総動員法、国民徴用令が朝鮮半島にも適応され、労働力増強のために多くの朝鮮人が強制徴用される。一九四五年の終戦当時、約二三七万人の朝鮮人が日本列島=「内地」に居住していた。原爆投下時、広島市には約五万人、長崎市には約二万人の朝鮮人がいたと推定されている。前者の被爆者総数が約四二万人、後者が約二七万人と言われるのだから、被爆者の一〇人に一人は朝鮮人であったことになり、いわゆる外国人被爆者の中でもその数は群を抜いている。
戦後すぐの証言集・体験記には朝鮮人被爆者の姿を散見しうるものがある。
こうして三日目の夕方、といってもまだ陽はかんかんと高く、恨めしいほどの暑さの頃、通りすがりらしい十四、五の少年がひょいと駆け寄って来て私をのぞき、「権現サンとこキュウゴショ(救護所?)ができとるよ。行くか?」
言葉の訛りのたどたどしさからすぐ半島の子供と知れた。邪気のない民族の偏見を越えた真心に、縋りつくような想いでうなずくと、少年はほとんど私を負うようにして、権現下の救護所へ連れて行ってくれ、名も告げず、所もいわず、いつの間にか風のように飄然と人ごみに紛れてしまった。礼をいう暇もなかった。(橋本くに恵の体験記。広島市民生局社会教育課が一九五〇年に編纂し、未配布となった『原爆体験記』に収録。引用は朝日新聞社から一九六五年七月に刊行された復刻版による。)
土手はもう呻吟する声で埋まっていた。「アイゴー、アイゴー」という朝鮮人のかん高い泣き声。道ばたには、女と思われるが、髪の毛は一本もなく、顔も手足もからだも一倍半くらいにははれ上がり、赤褐色にやけただれた人が、低いかすかな声を出してもがいており、その周囲は、汚物でよごれていた。(池田歳子の作文。長田新編『原爆の子』一九五一年一〇月、岩波書店、収録)
しかしこれらは数少ない例外であって、しかもこの後、メディアからほぼその姿を消す。ちなみにここに挙げたものが日本国憲法施行からサンフランシスコ講和条約発効までの期間に書かれたものであるということは興味深い。日本国憲法施行前日(一九四七年五月二日)大日本帝国下の最後の「勅令」、外国人登録法が出される。この勅令によって、旧植民地出身者は〈当分ノ間、コレヲ外国人トミナス〉と定められ、サンフランシスコ講和条約発効(一九五二年四月二八日)を機に、彼らの日本国籍は完全かつ一方的に剥奪される。そもそも、日本国憲法成立過程において、朝鮮人・台湾人の法的権利を剥脱する作業が行われ、彼らをたくみに切り離すことでナショナリティ=国体が護持されたことについては、すでに幾人かの論者の明らかにするところである(1)。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を標榜する日本国憲法から除外された、それまでの「第二級日本人」としての朝鮮・台湾人、強制連行された中国人、南方からの留学生、さらには連合国側の捕虜などといった被爆者が、原爆に関する言説に登場してくるのは、一九六〇年代後半を待たねばならない。かれらは戦後長い間、日本国憲法=「平和憲法」の外部におかれていたといっても過言ではない。
一九六五年、日韓基本条約締結。韓国側が過去の植民地支配に対する賠償請求権を放棄する代わりに無償三億ドル、有償二億ドルの経済援助を日本から受けることで、「戦後処理」の「完全かつ最終的解決」が目指され、日韓の国交が回復される。だが、そのことは在韓被爆者が直接日本国政府に対して補償請求する権利を喪失したと解釈される情況を生む。ようやくこの時期、朝鮮人被爆者・在韓被爆者が「問題化」されるようになるのだが、それは日韓の国家の論理の狭間に追い立てられた存在として発見されたのである。ちなみにアメリカは日韓基本条約の早期締結を積極的に促すのだが、その背景にはベトナム北爆に向けての東アジアにおける協力体制作りがあった。そして、実は、日韓基本条約の請求権放棄問題は、サンフランシスコ講和条約に規定された賠償請求権の放棄によって、日本人被爆者がアメリカ政府に補償を求める権利を喪失したと説明される論理と全く同じものであったのだ。被爆者(ひいては原爆を巡る言説)は、二重三重に冷戦体制のもと分断、抑圧、管理されたのである。
まずこうした情況に声を上げたのは韓国側であった。一九六四年に韓国原子力院放射線医科学研究所、一九六五年には大韓赤十字社、在日韓国居留民団が、それぞれ在韓被爆者実態調査に乗り出す。一九六七年七月には「韓国原爆被爆者援護協会」が設立され、一一月には在韓被爆者がソウルの日本大使館に補償を要求する。こうした韓国側の動きに応答するように、日本のメディアも朝鮮人被爆者・在韓被爆者について報道するようになり、一九六八年核兵器禁止平和国民会議広島全国集会において在韓被爆者の存在と現状が報告され、「韓国被爆者救援日韓協議会」が結成される。そして朝鮮人被爆者問題を公的な記憶に登録する決定打になったのが、有名な「孫振斗原爆訴訟」である。孫は一九七〇年一二月、佐賀に密入国し逮捕される。戦後外国人登録をしてなかったため、韓国に強制送還されたのだが、帰国後の生活苦と原爆症の不安に駆られて密入国を行ったのである。裁判の結果、出入国管理法違反で懲役一〇ヶ月を言い渡され服役。服役中の一九七一年一〇月、福岡県に原爆手帳交付の申請をするが却下。却下処分取り消しを求めて訴訟をおこし、一九七八年四月三日、最高裁で孫の勝訴が確定する。
さて、朝鮮人被爆者が問題化されるまでの歴史的概観を辿ってきたが、問題化の出発点である六〇年代後半は、ちょうど「原爆文学」というジャンルが領域化し、その認知を巡って、様々な葛藤を生み出しはじめた時期でもある。「原爆文学」の領域化に重要な役割を果たした長岡弘芳『原爆文学史』(一九七三年)の中にも朝鮮人被爆者を巡る問題が散見される。長岡と丸木位里、俊夫妻との対談もその一つである。
長岡 朝鮮人被爆者の問題だってここ数年ジャーナリズムにとりあげられるようになったけれども、前からわかっていたことがやっとみんなの問題になりかけている。
位里 朝鮮人被爆者のことは誰もが知っていたことなんだ。知ってはいたが、これも当たり前だったような気がしていた。それが今度改めて話を聞いて驚いたんだが、韓国にいる被爆者は非常に差別されておった。お前たちは政治的な背景を持っているとか、純粋じゃないとかいうんですね。そういうような状態が今日まで韓国の中で続いていたんですね。だから終戦後二七年たってようやく南と北が話し合いに入ろうという気運が出てきた。といっても、そう簡単にはいかんだろうが、いまベトナムやドイツがかかえているのと同じ問題を抱えている韓国が、口火をきって話し合いに入ったということは、とてもいいことだ。これはほかの国々に今後影響を及ぼすだろうと思いますね。(2)
丸木位里―俊は、すでにこの時、「原爆の図」第一三部「米兵捕虜の死」(一九七一年)、朝鮮人被爆者を描いた第一四部「からす」(一九七二年)を完成させていた。長岡も『原爆文学』の別の個所で、待望する未来の「原爆文学」に、この朝鮮人被爆者の問題が必須になるだろうと述べる。丸木位里の言う、〈前からわかって〉、〈誰もが知って〉、〈当たり前だったような気がしていた〉ことが〈やっとみんなの問題になりかけている〉ということ、それはすなわち、これまで何の気なしにぼんやりと眺めていた戦後という現前のうちに、「朝鮮人被爆者」「在韓被爆者」という新たな光景を発見していく営みであった。
いま現在の〈みんな〉=「われわれ」の問題として共有され、問題化された、朝鮮人被爆者。だが、しかし、問題化された領域は、それ自体をどこかで再問題化しないと、やはりまた陳腐で平凡な光景のなかに取り込まれてしまうだろう。戦後の光景の中で隠蔽、抑圧されてきたと思われる朝鮮人被爆者に関する言説が、公的空間に登場するにあたって、それがどのような新たな光景を立ち上げる可能性を持ったものなのか、そしてまた、それがどのような別の問題を派生させるものであったのか。「原爆文学」と朝鮮人被爆者という、二つの新たに問題化された領域の出会いの中に、切実でしかもいかがわしい忘却と想起の営みを見据えたい。
二
以前論者は長岡の『原爆文学史』における朝鮮人被爆者について次のように指摘した。
長岡は、戦後社会から置き去りにされた朝鮮人被爆者に同情し、朝鮮人被爆者を描いた「原爆文学」の不在を慨嘆する。ただ、どうしてもひっかかるのは、こうした口調が、戦後の日本/韓国・朝鮮というネーションを所与とすることで、戦前の植民地体制の記憶を忘却するように見えることにある。―中略―戦前/戦後を切断した上での朝鮮人被爆者への言及は、戦後日本の同一性を維持する良心的アリバイとして機能しかねず、それとともに植民地・戦争の経験を再定義する契機は見失われよう。ジェンダーの問題も重なりつつ、「文学」のマイノリティである「原爆文学」と、被爆者のうちのマイノリティである「朝鮮人被爆者」が交錯する地点に発露するのは、戦後日本という空間の同一性を希求する欲望なのだ。いさかか強い言い方ではあるが、彼女の声を奪ったのは、「朝鮮人原爆乙女」を表象=代弁しようとする長岡の語りそれ自体ではなかったのか。(3)
長岡の構想する「原爆文学(史)」とは、「行き過ぎた」ナショナリズムと「健全な」それとを区別しえるという、いわば「インターナショナルなナショナリズム」を前提とする。長岡にとって朝鮮人被爆者を「原爆文学」に登録することは、「インターナショナルなナショナリズム」の実践に他ならないのだが、そうした試みが戦後日本の同一性を保持し、戦前の植民地体制の記憶を忘却する働きをも担ってしまったことは否めない。
そしてこうした問題は長岡だけのことではない。長岡が一九八九年に自ら命を絶つまで、彼と「原爆文学」の認知・普及という実践において盟友関係にあったのが、大江健三郎である。特に共同作業が顕著になるのは、八〇年代初頭「核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名(一九八二年)に両者が中心的存在として加わった時期である。「文学者の反核声明」の署名者を母体とした、日本最初の大規模な「原爆文学全集」、『日本の原爆文学』全十五集(一九八三年)の編集にあたって、大江と長岡は委員として尽力する。同時期には、全国各地を回った連続講演の企画、運営も携わっている。また、大江が選者となった「原爆小説」のアンソロジー集『何とも知れない未来に』(一九八三年)巻末には、大江と長岡の対談解説(「人間の条件の根底にあるもの」)が掲載され、作品選定の際に、大江が長岡に協力を仰いだことも明らかにされている。ここではこうした強い絆で結ばれる、それ以前の段階における大江の評論的言説を取り上げて、先ほど述べた長岡が抱えたのと同様の問題がそこに存在することを確認したい。
まず、大江とプロ野球選手張本勲との対談「朝鮮の母は誇り高き若者を育てた」(一九六一年)に、当時の大江の評論的言説にみられる基本的な在日朝鮮人像を見ておこう。この対談、張本が広島の被爆体験者であったため、一応原爆の話題から始まるが、すぐに以後の張本の少年時代のことや野球選手としての活躍についてのよもやま話へと展開される。〈張本さんみたいに、韓国人としての誇りをもっているかただと、一番すくすくと、日本のなかで精神的にも肉体的にものびることができる、という意見があります〉などと(4)、民族的矜持を持ち続けながら日本で活躍するヒーローとして張本勲を持ちあげようとする大江と、そうした大江の言葉にいささか困惑気味にも律儀にあいづちする張本との、妙なコントラスが強調された対談となっている。大江がかなりおおげさに張本を英雄視する背景には、日本社会の同化主義的風潮への厳しい批判が存在する。
朝鮮のひとにたいして、日本のひとが、ちょっと―失礼なことばをつかえば、あわれみみたいなものを持って、できるだけやさしくしてあげると、それが朝鮮人問題の解決になるんだ、という思想はまちがってて、外国人として朝鮮人を認めるというのがほんとうだ、ということですね(5)
(映画「あれが港の灯りだ」にふれて)あの映画は、在日朝鮮人をよくしらべてなくて、朝鮮のひとが、あたかも日本人化されたがっているように、そうとらえている。ほんとうは、りっぱな国を持った外国人として尊敬し、外国人としての相手を認める態度を、日本人がもつことが、日本人の朝鮮問題にたいする、いちばんいい姿勢だ、朝鮮人も外国人として誇りをもっている、それが今日の現実だ(6)。
日韓基本条約締結問題を契機に、韓国(そして北朝鮮)との関係が改めて問われようとしていた時期である。大江の言説は、戦前の同化主義そして在日朝鮮人問題を隠蔽しようとしてきた戦後の状況への批判的介入であることは間違いない。そうした姿勢はそれとして評価すべきかもしれないが、ある種の疑念も存在する。大江が、「外国人」として朝鮮人を尊敬し、対等に接するべきだといった同化主義批判の熱弁を振るう際、「外国人」である朝鮮人が、いまなぜここに住んでいるのか、住まねばならなくなったのか、といった歴史的経緯への想像力を、哀しくも決定的に欠如させているのではないか、ということである。
大江は別の箇所で、〈日本にいる朝鮮の知識人〉の言葉として、〈在日朝鮮人には、北朝鮮にしろ、韓国にしろ、りっぱな祖国があるわけですね。だから、日本人は、ちゃんと外国人としてあつかうべきで、同化主義的なあつかいはよくない、という意見のようですね。〉とそれを紹介し、〈アメリカ人をどうどうたる外国人としてあつかうように、朝鮮のひとにたいしてもそうするのが正当だということでしょう〉(7)と語る。〈日本にいる朝鮮の知識人〉とは誰のことか、いかなる文脈でなされた発言なのか確認できていないが、少なくともアメリカ人と朝鮮人を全くの留保なしに、「外国人」という枠組みにおいて同一平面に位置づけようとする解釈は、「日本にいる日本の知識人」大江のものである。
しかし、である。在日朝鮮人とは、大日本国帝国という近代植民地帝国の形成過程において、それに併呑された朝鮮半島から、個別事情は多様だったとしても、労働と生活の場としての日本列島に移り住むことを余儀なくされた人々とその子孫である。そして、第二次世界大戦終結後の冷戦体制成立、朝鮮半島南北分断といった状況下、政治的・経済的制約によって、積極的、消極的に関わらず、戦後日本という空間をみずからの生活基盤としてあえて選択をした、せざるをえなかった人々なのだ。そうした歴史的背景を背負った人々と、少なくともこのような経緯とは無縁に日本に滞在する大多数のアメリカ人とを同一視することは、近代東アジア世界の歴史的形成を甚だ無視している。ここから垣間見られるのは、戦後日本という空間の自明性を問うことなく、そこに自身の言説の足場を置こうとする無邪気な姿勢であろう。大江の言説は、「戦後民主主義的」立場から「外国人」との「共生」をまったくの善意から説こうとするものではあるが、アメリカ人と同様に在日朝鮮人を「外国人」として扱うべきというこうした主張は、歴史的経緯への配慮と想像力を欠いた場合、アメリカ人同様に在日朝鮮人は「外国人」だからその権利を無条件に制限してもよいのだという差別的・排他的言説へと容易に転化してしまう論理構造を内包している。
三
大江の『ヒロシマ・ノート』(一九六五年)には、二人の朝鮮人被爆者のエピソードが語られている。文学者による言説のなかでは極めて早い時期における朝鮮人被爆者への言及である。最初に登場するのは、中国新聞連載記事中の〈韓国人の老婦人〉のエピソードである(後に中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録1』一九六六年、未来社、収録)。
おなじく『ヒロシマの証言』で、原爆で五人の子供を失い、自分自身も、胸から首、両腕にひどいケロイドをのこしている韓国人の老婦人が、古ぼけたバラック建ての住居に、日本聖潔教団広島韓国人基督会という表札をかかげて住んでいるという記事を読んでいた。彼女のことを街の子供たちは《朝鮮の気違いばあさん》と呼び、かつては絶望した彼女自身、《原爆をおとしたアメリカをのろい、戦争をした日本をにくん》でいた。《あのころ神さまの恵みを受けなかったら、私は自殺するか気違いになっていたでしょう。》信仰を得た彼女は、貧しく小さな教会を主催して正常に生きつづけているのだ。〈いまとなってはアメリカも日本も恨んではいません。むしろ戦争でかたわになったとはいえ、韓国人の私が日本で生活保護を受けていることを、日本の人におわびしたい。私は、日本人とか韓国人とかいうことは別にして、五人の子供を失った母親として原水爆禁止だけは訴えたい〉(8)
さらに被爆直後の広島で、負傷した「日本人女性」を救助した〈言葉のなまりのたどたどし〉い〈半島の子供〉の人道的な話が紹介されている。本稿冒頭近くで紹介した『原爆体験記』に収められた橋本くに恵の体験記に登場する〈半島の子供〉の話である。
『ヒロシマ・ノート』に一貫するのは、原爆や被爆者をいわゆる狭義の政治目的に従属させようとする平和運動に対する失望と、そうした華やかな舞台の周縁に追いやられている被爆者や原爆医療従事者の声や姿を記述しようとする姿勢であり、そこでなされた多くの人々や記録・証言集などとの真摯な対話こそが、読者に与えた衝撃力であろう。朝鮮人被爆者の表象についても、戦後日本社会において忘却された記憶を、新聞記事の連載や体験記のなかに残る僅かな痕跡を手がかりに、何とかして掘り起こし甦らせようとする強靭な意志の現われと言えよう。そもそも大江が参照した『原爆体験記』が、『ヒロシマ・ノート』刊行の翌月、朝日新聞社から復刊されたのは、大江が『ヒロシマ・ノート』や新聞紙上で、この体験記を激賞したのがきっかけである。
だが、やっかいなのは、こうした周縁化された者への配慮に満ちた、過去への反省的な行為としての反忘却の営みのうちにさえ、自己防衛のナルシティズムが滑り込んでしまうことにある。大江が参照した宋年順という女性について書かれたもともとの新聞記事において、彼女の半生の説明は原爆投下以前の出来事から叙述されている。つまり彼女が一八歳で日本に来た昭和二年のことから彼女の個人史は語られているのだ。〈日本は景気がよいから、まじめに働けば朝鮮より生活が楽だと奨められ〉たこと、〈幸福になりたいと思って〉広島に住んでいた同胞と結婚したこと、夫は〈腕のよい鋳物工で、韓国人としては給料もよかったこと〉、夫婦の協力によって広島市内に自宅も購入し、〈故郷の韓国にも一・三ヘクタールの田畑を買うほどになった〉こと、など。
〈この夫婦が十数年間、力を合わせて築きあげたT異郷での幸福Uを無惨に吹き飛ばした〉原爆が、彼女の人生に決定的な打撃を与えた出来事であったのであればなおさらのこと、それはこうした「原爆以前」の彼女の人生から説き起こされることによって重要な意味を持つものであったはずだ。そして読者にとっては、「原爆以前」から始まり、「原爆以後」を辿り、現在の彼女の生の営み=物語を読むことで、彼女と「私」の問題、ひいては近代日本と朝鮮半島の歴史的関係性を再考する手がかりがつかめたかもしれない。しかし、『ヒロシマ・ノート』は、そうした「原爆以前」のことについて触れた内容には一切言及せず、〈韓国の老婦人〉の物語を「原爆以後」の地点から語りだすことによって再構成し、読者に届けようとするのである。平岡敬は一九八三年の段階で、被爆朝鮮人の手記・体験記と日本人の手記・日記との大きな違いについて〈日本人の手記はたいてい「あの朝、目の前がピカッと光って……」というふうに、八月六日の朝から書き出すのだが、朝鮮人・韓国人の場合は「なぜ自分が日本へ来たのか」というところから語りだし、日本人から受けた差別や生活の苦労話に重点がおかれている〉と指摘している(9)。現在日本人被爆者の証言も多様化されていると思われるが、平岡が指摘した時点では、おおよそそのとおりであろう。だとすれば、大江は、朝鮮人被爆者についての話を、多数の日本人読者に向かって、それもきわめて戦後の日本人的な語り口で語っていたということになろう。
とはいえ、大江が新聞記事との対話を通して、〈異様なほどにも寛大な韓国の老婦人〉と書きつけていることにも注意しなければならない。〈韓国の老婦人〉の寛大さを〈異様なほど〉だと語る箇所には、大江自身の所有する認識枠組みをはるかに凌駕した、他者との遭遇、安易な了解・理解を拒むものとしての異文化接触の痕跡が残されている。心の襞に澱のように滞留する、この言い難き感覚の所在を突き詰めていくことでしか、戦後日本社会で〈韓国人の私が日本で生活保護を受けていることを、日本の人におわびしたい〉といった、はなはだ倒錯的な内容を、日本人新聞記者と多数の日本人読者に向かって語らざるを得なかった、彼女の複雑な生の現場に迫ることはできない。
しかし、いったんは感受したはずの可能性としての違和感は、大江の認識において、神に対する信仰によって狂気や恩讐を超えた〈基督者の魂〉をもった女性という、至極穏当な理解のうちに片付けられてしまう。さらに〈韓国の老婦人〉の逸話は〈半島の子供〉の英雄的行動の紹介へと接続されることで、普遍的なヒューマニズムの地平になんなく解消されてしまう。〈日本人とか韓国人とかいうことは別にして〉〈原水爆禁止だけ訴えたい〉、〈罪のない民族の偏見を超えた真心〉といった、民族を超えた「和解」「友愛」の表象として位置づけられることで、加害者性、被害者性の複雑に入り組んだ問題が完全に消去されてしまうのは言うまでもない(10)。
大江は、新聞記事を読んだ後、〈韓国の老婦人〉の住んでいたバラックの教会を探したが、すでに取り壊されていて、結局、消息もつかめなかったという。もしもこの時、大江が彼女に実際会うことが出来たなら、何かまた別の新しい「出会い」が可能になっていたのだろうか。
四
原爆のおっちゃけたあと一番最後まで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。日本人は沢山生残ったが朝鮮人はちっとしか生残らんじゃったけん、どがんもこがんもできん。死体の寄っとる場所で朝鮮人はわかるとさ。生きとるときに寄せられとったけん。牢屋に入れたごとして。仕事だけ這いも立ちもならんしこさせて。
三菱兵器にも長崎製鋼にも三菱電気にも朝鮮人は来とったとよ。中国人も連れられて来とったとよ。原爆がおっちゃけたあと地の上を歩くもんは足で歩くけんなかなか長崎に来っけんじゃたが、カラスは一番さきに長崎にきて、カラスは空から飛んでくるけん、うんと来たばい。それからハエも。それで一番最後まで残った朝鮮人たちの死骸のあたまの目ン玉ばカラスがきて食うとよ。(11)
石牟礼道子のルポルタージュ「菊とナガサキ―被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま―」(一九六八年)に採録されている朝鮮人被爆者の証言の一部である。朝鮮人被爆者問題を全国メディアで真正面から扱った初期のもののひとつであり、〈一番最後まで残った朝鮮人たちの死骸のあたまの目ン玉〉を〈カラスがきて食う〉光景は、後に丸木位理―俊に決定的な着想を与え、『原爆の図』第一四部「からす」の鮮烈な絵画表現に繋がっていく。さらに、死後も放置され差別されつづける朝鮮人被爆者という表象は、例えば、中沢啓二の原爆マンガ『はだしのゲン』(単行本一九七五年〜八七年)にも固着されていく。国際的名声も得ているこのマンガには、戦中戦争反対を唱えるゲンの父親の意見に共鳴し、戦後は闇市で一財産築きゲン一家の経済的庇護者となる「朴」という朝鮮人被爆者が、物語の重要個所にたびたび登場している。被爆直後のシーンでは、「朴」の父親が、医者にたらい回しにされて死んでいく姿や、同じ朝鮮人の死体が原爆野に放置されたというエピソードがしっかりと描かれている。
石牟礼のルポルタージュは、朝鮮人に対する過酷な民族差別を示す証言を集めており、民族差別の告発といった次元でそれを位置づけることは可能であろう。ただし、ここで注目したいのは、そうした内容以上に、被爆朝鮮人の証言に向き合い、それを書きつけようとする際の、次のような意識である。
わたしはここに朝鮮民族によってみごとに意訳された長崎弁を書く。その長崎弁とむきあう私はひとことだって朝鮮の言葉を語ることができないのだ。そのことがまずわたしを打ちのめす。民衆が素手で持ちうる唯一最大の言語文化。
被圧迫、被支配の歴史が深い民族になればなるほど母国語以外の何ヶ国語を話し、書く、ということはAA諸国に顕著にみられる。ましてわれわれの思想のもっとも欠落した歴史に深く散在している朝鮮民族が、標準的日本語ならびになんと多彩なこの国の地方語を使いわけていることか。
それにくらべてわれわれは思想的無能児ないし小頭症児に生れ堕ちているにちがいないのだ。ついぞ朝鮮の言葉をおぼえなかったというこの能力は、われわれの祖たちの朝鮮支配の歴史によって劣勢遺伝を受けているに違いないのだ。はずかしくもぽろぽろと涙がおちる。そのような存在として彼らにかかわることの無が。ひょっとして、朝鮮の人びとが日本の言葉を、しかも方言をさえ駆使できる、ということは朝鮮民族が日本人に対してもっている何かいらだたしい、日本人が体験したこともない非常に次元の高い優位的なT民族愛Uなのではないか、というおもいがわたしの胸をかすめる。かくも一方的に隠忍自重して日本人に対して日本の言語をもって語りかけるということは。わたしの目を見入って語りかける彼らのひとみの奥にいつも非常に遠くからだが、かすかなあわれみとともにそれを感じ、今日も身内のふるえにたえながらわたしは、ナガサキにいる。(12)
〈非常に次元の高い優位的なT民族愛U〉をもつ朝鮮人、〈劣勢遺伝を受けているに違いない〉日本人、という図式的対比だけを取り上げれば、優劣関係を単純に逆転させただけの、結果的にはより確固とした民族の境界を再確認する記述と考えることもできよう。しかし、むしろここで見るべきは、埋もれてきた朝鮮人被爆者の声と出会うというが、自分はその声を本当に聴く事ができるのか、それを日本語で書き写す(でしか書き写せない)自分こそが、決定的に他者との言語コミュニケーション能力を欠如させているのではないかという、石牟礼の不安の感覚であろう。その不安の感覚こそが「可哀想な彼ら」を表象=代弁しえるという傲慢な甘えを拒絶させていく。朝鮮人被爆者の語る〈みごとに意訳された長崎弁〉に、ドゥールーズの言う「脱領土化」の運動を孕んだ「マイナー文学」的な可能性を探りあてようする石牟礼の記述自体が、マイノリティとしての彼ら/マジョリティとしての我々、という硬直した図式を突き崩していく、境界地帯となっている。
五
長崎在住の山田かんの詩に「朝鮮が見える」(一九六七年)という詩がある(13)。
鉄柱に鳴りつづける風のなかで
わたしは朝鮮を遠望しながら
このひと筋にすぎない海を
わたりたがっていた金を想っている
長崎の岸壁で爆死し果てた金は
わたしの目になだれこんでいるこの海を
一途にわたって帰りたかったのだ
もう一人の幼い金は
この海をわたって
日朝一如
風呂番しながらあかぎれの手に本を読んでいた
いくどでも密航してくるぞとほえたてていた
眼鏡の李は
椿丸で海峡を強制送還された
わたしの身内は二昼夜を汽船船艙に
苦しんで内地に引揚げてきた
ひと筋の海にすぎないのになんと遠い海なのだ
この岸も彼の岸壁も波は寄せているのに
流れているのは涙の河だ(一部)
この詩の冒頭には、〈古代にはじまる彼我往来の海峡〉が〈重い息をつめたようにいまは/底光る意思を秘めて動かぬ〉様子を、現前の光景に見出そうとする視線が描かれている。さらにこの視線は、現在に至るまでの日本列島と朝鮮半島との人の往来、物の移動、それらによって編成されてきた東アジア世界の暴力や差別の記憶を想起させることで、そうした歴史や記憶を遥か彼方の出来事として追いやろうとする戦後日本という言説空間に鋭い亀裂を入れる。〈ひと筋の海にすぎないのになんと遠い海〉にしてきたのは、他の誰のせいでもない、「われわれ」戦後日本の問題なのだ。詩表現の中で原爆と朝鮮人被爆者が交差するのは、山田の試みがはじめてだと推定されるが、なによりも山田の詩が評価されるべきなのは、植民地支配と原爆の問題を重ね合わせながら、それがすでに通り過ぎた過去の出来事としてだけではなく、現在進行中の冷戦体制下における帝国主義、コロニアリズムの問題として提起されている点にある。
同じく山田の「消えた」(一九七一年、)でも(14)、〈金/もうひとりの金そして李/おれの想う 僅かな人たち/だが何の思いがたくせるか/徒らに時は過ぎみんな消えた/いまは噴きあげる怒りの国に/押し渡り妓生ころがす莫迦笑いが/スーブニールのように持ちかえられる/倭人/好色の無頼の資本主義者/黄色いコロンの末裔〉といったように、かつての戦時性暴力を繰り返すかのようなアジア諸国への売春ツアーが横行した高度経済成長期において、かつて語り手が出会った一人一人の朝鮮人の思い、その彼らの存在に関する「おれ」の記憶といったものが、またもや抑圧される暴力的情況を鋭く批判している。ポストコロニアルというのが、時系列的な意味でのコロニアルの「その後」を意味するのではなく、現在進行中のコロニアル的問題を可視化する実践だとすれば、山田の詩はまさにそのようなものとして理解されるべきであろう。〈金さん/名前も知らぬ/誠孝院に永代預けのままの汚染れた布に/包まれて箱の中/灯明もない暗み棚に積みこまれ/どれが岸壁に爆死した金なのか/金天満か 金佑隆か 金邦欝か 金光造か/金鳳祚か 金東吉か 金仁平か 金在久か/金城永か 金鐘根か 金仲根か 金五峰か/金泰順か 金喜徳か 金明哲か 金有行か/金卜式か 金載植か 金信愛か 金達次か/金徳保か 無数の金本 金山 金光か/みんなこの倭国への強制連行/爆死した金なのだ/朝鮮へ帰る話だけを/うわごとのように ボール盤の切削油の/青い煙の向うからいいつづけた/痛いキリコの鉄屑を皮膚に光らせながら/朝鮮の土の赫さ/最後に見た垣根のレンギョウを/引き裂かれた者らへの愛しい苦しみ/いいつづけて或る日還ってこなかった/どれもが金だ/消えた(「消えた」一部)
だが、こうした山田かんの詩にも語りえないものがあったことも、指摘すべきだろう。そしてそのことを誰よりも自覚していると思われるのは、後の詩人その人ではないだろうか。山田は一九九九年、雑誌のインタビューに答えて、次のように述べている。
あれは、実際対馬の佐須奈の港に資料調査に出かけて行ってるんですね。三週間ほど滞在して、直接、朝鮮海峡を見かけているですね。そのときに発想しています。
また、私自身の動員の体験にも重なるんですね。この前亡くなられた金順吉さん。訴訟を起こされていた。私らのマルナ工場に指導員としてきていたと思うんです。キムさんが。裁判で話題になった時、名前は憶えていませんでしたが、キムさんだと思いました。私は親しくされていた。何となくかわいがられて、アルマイトの弁当箱をくれたりして、しょっちゅう「帰りたか、帰りたか。」って言ってました。「朝鮮はよかったぞ。レンギョウやユキヤナギがあって。そんな故郷に別れてやってきた。」って、いつも言ってました。詩の中でも〈金〉が出てきます。マルナ工場のことには触れていませんが。三菱の岸壁の近くで、爆死したという噂が、当時流れたんですが、その後、原爆が落ちましたから、あうことはなかったんですが、金順吉さんに間違いないと思います。顔もよく憶えていますから。当時はまだ、二〇代で若かったですよ。私は十三四でした。
指導工員で来るということは、技術的にも、優れたものを持っていますし、雇用者側にとっては、都合よく働いてくれる人じゃないといけないわけでしょ、一応エリートですよね。だから、その点では、ちょっとあわないなあ、とも思うんですが。
指導工員として残るというのは日本側に立っていたということにもなりかねませんから、今までこのことは誰にも言っていません。「証言の会」の人たちにも言っていないことです。キムさんに迷惑がかかるといけませんから。今日初めてですね。でも、直感として間違いありません。実際に接していましたし、私を気に入ってくれて、私も「おじさん」という感じでした。頬骨の出た平たい顔で、にこやかで、穏やかで、大柄で包容力があって。(15)
詩のモデルとなった金順吉について、彼の経歴を死後まで誰にも明かさなかったという現実生活における判断、それ自体は何ら批判すべき筋合いのものではない。指摘したいのは、「朝鮮が見える」「消えた」という詩を書いたその当時、おそらく山田の認識には朝鮮人被爆者内部の階級の問題、複数性といった問題は存在しなかったのではないかということである。むろん、たとえ〈指導工員〉という〈雇用者側にとっては、都合よく働いてくれる〉〈エリート〉であったとしても、それは日本の植民地支配という大きな構造に組み込まれた上でのことには相違ない。だが〈みんなこの倭国への強制連行/爆死した金なのだ〉と言い切る詩においては、人種、性差、階層といった要素を巧妙に操作し、かなりの側面においては個々人をその「自発性」において動員してきた総力戦体制の実相を十分に捉えることはできないことも、また事実であろう。
六
「原爆文学」と朝鮮人被爆者。本稿は、極めて狭い時期のそのほんの一握りを対象にした限定された考察になった。先に引用した平岡敬をはじめとする朝鮮人被爆者を問題化したルポルタージュや評論、証言集は六十年代後半から現在まで多数出版されており、質量ともに充実した領域を形成してきた(16)。小説、詩といったジャンルでも、小田実『HIROSHIMA』(一九八一年)、石川逸子『ヒロシマ連祷』(一九八二年)などが挙げられるだろうし、朝鮮人が原爆を投下するという架空の設定を施した、つかこうへいの戯曲『広島に原爆を落とす日』(一九八六年)や、未完に終わったが朝鮮、移民、原爆を結びつけた長編『積乱雲』を構想した梶山季之の仕事をつけ加えることもできるかもしれない。また、山下夕美子『二年2組はヒヨコのクラス』(一九六八年)をはじめとする児童文学には朝鮮人被爆者が扱われるものが多い。前に触れた中沢啓治『はだしのゲン』も重要な作品である。
これらを含めた総体的な考察は今後の課題としたいが、ただし、そこでもおそらく課題となるのは、「戦後日本」というナショナリティが、植民地支配、そして戦争という極限の異文化衝突・接触における、他者との壮絶な交渉の記憶を抑圧することで保障されてきたということ、そして問題が一層複雑で困難なのは、それが一過性のものではなく、他者との関係を取り結び他者の記憶を甦らせようとする、そのつどそのつどの地点においてその試みをナショナリティ=共同性の語り口に回収しようとする巧妙な罠が仕掛けられていることにあろう。
これは直接、加害者性と被害者性を語りだす言説の場合、より一層顕著である。例えば栗原貞子「ヒロシマというとき」(一九七二年)は、「被爆者」が「被害者」でもあると同時に「加害者」でもあるという視点を提出することによって、「被爆者」=「被害者」という図式の打破を試みる。だが、この詩においてさえも、大江が『ヒロシマ・ノート』において朝鮮人被爆者を登場させることで演出した「和解」のイメージと通底する問題、つまり他者からのナルシスティックな自己承認の欲望が存在している(17)。中尾知代は、二〇〇〇年に開催された日蘭戦争原爆展の展示に、批判・反対した声に触れながら、次のような課題を提起しているが、それは「原爆」を語ること一般の困難さも言い当てている。
総じて、これらの批判を支えるのは、日本の加害の認証や強調が、西洋列強のアジア・アフリカ侵略や植民地主義を免罪している、という感覚である。また、日本のみが一方的な「悪」「加害者」と表象され裁かれることへの苛立ちであろう。アジアと日本が、「被害者」対「加害者」の構図におかれる中で、西洋の責任や関わりが盲点になる点に、一番の苛立ちがある。今回の展示を巡る攻防が残した課題は、実はこの苛立ちを、過激なナショナリズムや、シンプルすぎる日本無罪説、または国内の叩き合いに閉じこめないということであろう。(18)
九〇年代以降繰り広げられてきたアジアからの戦後補償要求、朝鮮人や台湾人の旧軍人、軍属、従軍慰安婦、被爆者の補償問題、不戦決議、スミソニアン博物館の原爆展示をめぐる論争、広島の朝鮮人慰霊碑を巡る議論など、加害者性と被害者性の問題が語られる場において、常に顕在化してきたのは、冷戦終結後のグローバリゼーションの中で繰り広げられる国民国家の幾重にも入り組んだ共犯関係の構図である。そのような構図から原爆を語る言葉をどのように救い出したらよいのか、そもそも救い出すことができるのか。今すぐ答えを見つけることは難しいが、「原爆文学」と朝鮮人被爆者という領域の再問題化は、そのことを考えぬく重要な契機となるのは間違いない。
注
(1)田中宏(『在日外国人 法の壁・心の壁』一九九五年一月、岩波新書)、鄭暎恵(「〈戦後〉つくられた植民地支配―〈在日韓国朝鮮人〉からの日本国籍剥脱」、『ナショナリズムを読む』一九九八年六月、情況出版)など。
(2)長岡弘芳『原爆文学史』(一九七三年六月、風媒社、二四一頁)
(3)拙稿「「原爆文学」というプロブレマティーク問題領域―「夏の花」「黒い雨」の正典化、あるいは『原爆文学史』―」(『probl士at智ue 文学/教育2』二〇〇一年七月)
(4)『日本の中の朝鮮』(一九六六年五月、太平出版、二二二頁)
(5)同書二一八頁
(6)同右
(7)同右
(8) 大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(一九六五年六月、岩波書店、八〇頁)
(9)平岡敬『無縁の海峡―ヒロシマの声 被爆朝鮮人の声』(一九八三年一二月、影書房、二八〇頁)。宋年順についての記事は、原爆以前の経歴が語られている点では、確かに平岡の言うとおりであるが、平岡の言う「差別や苦労話」というより、苦労もあったが、そこそこうまくやって、人並みの幸せを掴んだといった内容である。これも日本人記者が日本人読者に向かって書いた記事ということを配慮する必要があるだろうが、単に「差別や苦労話」には収斂しえない個別の人生をこの新聞記事には伺えるように思う。
(10)團野光晴は朝鮮人被爆者のエピソードに触れて〈「ヒロシマ以前」への配慮に見えるが、反核の志が「純粋戦後的」に「日本」化されている以上、却って日本の特権的地位を前提として反核の名の下に民族間の恩讐を曖昧にしたまま他民族を日本人化するという、自民族中心主義に繋がりかねない意味合いを持ってくることになる〉と指摘している。(「『ヒロシマ・ノート』とナショナリズム」『昭和文学研究』第三九号、一九九九・九)
(11)石牟礼道子「菊とナガサキ 被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま」(『朝日ジャーナル』一九六八年八月一一日号)
(12) 注(11)と同じ。
(13) 山田かん『ナガサキ・腐食する暦日の底で』(一九七一年七月、長崎の証言刊行委員会)。引用は、山田かん編『日本の原爆記録20 原爆詩集・長崎編』(一九九一年、国書刊行会)による。
(14) 山田かん『アスファルトに仔猫の耳』(一九七五年一月、炮氓社)。引用は右に同じ。
(15) 「インタビュー・記憶の固執……山田かん氏に聞く」(『敍説ィ氤ィ 特集原爆の表象』一九九九年七月)
(16) 注(9)や『偏見と差別―ヒロシマそして被爆朝鮮人』(一九七二年八月、未来社)などの平岡敬の業績をはじめ、論者が入手したものだけでも、西村豊行『ナガサキの被爆者―部落・朝鮮・中国』(一九七〇年八月、社会新報)、朴寿南『朝鮮・ヒロシマ・半日本人 わたしの旅の記録』(一九七三年八月、三省堂)、深川宗俊『鎮魂の海峡 消えた被爆朝鮮人徴用工246名』(一九七四年九月、現代史研究会)、朴秀馥、郭貴勲、辛泳洙『被爆韓国人』(一九七五年、朝日新聞社)、孫振斗さんに〈治療と在留を!〉全国市民の会編集委員会『被爆朝鮮人孫振斗の告発』(一九七八年七月、たいまつ社)、広島県朝鮮人被爆者協議会編『白いチョゴリの被爆者』(一九七九年七月、労働旬報社)、富村順一『韓国の被爆者』(一九八〇年一〇月、JCA出版)、鎌田定夫編『被爆朝鮮・韓国人の証言』(一九八二年一二月、朝日新聞社)、創価学会青年部反戦出版委員会『もうひとつの被爆碑 在日韓国人被爆体験の記録』(一九八五年五月、第三文明社)、在韓被爆者問題市民会議編『在韓被爆者問題を考える』(一九八八年九月、凱風社)、朱碩『被爆朝鮮人教師の戦後誌 歳月よ!アリランよ!』(一九九〇年七月、明石書店)、市場淳子『ヒロシマを持ちかえった人々「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』(二〇〇〇年一一月、凱風社)といった具合である。
(17) 注(3)の拙稿参照。
(18) 中尾知代「長崎で考える戦争・原爆展」(『長崎平和研究』第一一号、二〇〇一年四月)