昨年六月西ドイツの首都ボンの市庁舎前広場で三百人ほどの聴衆を前に、東西南北・世界のあらゆる地域から集まった文学者によって、核戦争の危険を警告し、平和を守る共同の努力を訴える朗読会が開かれた。
ケルンでの国際文学者会議に詩人の栗原貞子さん、作家の古浦千穂子さんとともに出席していた私は、その催しの一貫であるこの朗読会に聞き手として参加していた。栗原さんを含める世界の詩人、作家の自作朗読がすんだ後、司会をつとめていたブロイエル氏は、峠三吉の「ちちをかえせ――」の詩をドイツ語で朗読して結びの言葉とした。
私はこのなじみ深い詩句の独訳を聞きながら、峠三吉が生きていたら、この光景をどう思って見るだろうと考えた。自分の詩がこのように国際的に知られるようになり、何カ国語にも翻訳されることは詩人としてうれしくないはずはないだろう。しかし――と私は考える――それ以上に自分の詩がひきあいに出され、警告が発せられねばならない現在の世界の情勢を、彼は悲しみ、怒るだろう。峠三吉はそういう人である。
三十数年前に東広島市の療養所で彼を知って間もないころ、彼の人間性に魅せられていた二十歳にも満たない私にむかって、ある人は「峠三吉はいまでは原爆詩人だなんて偉そうなことを言っているが、ついこの間まで星だ、すみれだ、とロマンチックなことばかり書いていた星菫派の詩人だったんだ」と冷笑してみせた。
自分の敬愛する人をこのように言われて口惜しさのあまり、峠三吉にむかって私はそのことを憤慨しながら報告した。すると峠は苦笑して、「でも、ほんとうにそうだったんだからしかたないよね」とさらりと受け流した。
峠三吉の生涯に書かれた詩作品をひもといてみると、初期の夢みがちな少年の感傷に満ちたナイーブな叙情詩から、晩年の力強く反原爆を訴える現実志向の詩までの落差の大きさににだれもが驚くだろう。峠三吉は片肺にリンゴ大の空洞をかかえた病弱の身で、このけわしい自己変革の道を、息せききってのぼりつめていったのである。
厳しい現実の中で
私が彼を知ったころ、つまり一九四年から五○年にかけての時期は、峠三吉の自己変革がもっとも急激に進められていたときだった。
そのころ彼の所属する日本共産党の中央委員が公職追放され、レッド・パージの嵐が職場をおそい、その一方で朝鮮戦争が始まって日本は米軍の軍事基地の様相をていしていた。広島でも県下で史上最大と言われる日鋼争議が起こり、峠はその現場にゆき、「共闘のちかい」、「怒りのうた」二編を友人の朗読で発表し、労働者たちの強い共感をえている。
峠の詩はこのように当時の厳しい現実との取り組みの中できたえられ、鋭い批判力と時の権力にむかって一歩もたじろがぬ強さを獲得していったのだ。
峠三吉の作品を読んで強く印象づけられるのは、彼の初期のものから晩年のものまで、一貫して流れている弱者へのいたわりと優しさである。
愛情に満ちた対応
彼が一九四七年に発表した童話「百足競争」は級友からいじめられがちな弱虫の四人のグループが、運動会のむかで競争で片足の悪い一人に他の三人がリズムを合わすことで、ハンデ キャップをのりこえて一等になる話である。ここにみ見られるような通りいっぺんの同情などではない、身障者への愛情に満ちた創造的な対応のしかたにこそ、峠の優しさの本領があると思う。
そして注目すべきなのは、彼が大胆に政治の領域に踏み込み、時の権力と対峙(じ)して一歩もたじろがぬようになったときでも、そこに示された強さは、つねにこの民衆への、その弱い部分への優しさに裏うちされていたことである。
峠三吉が、私も入っていたその療養所で一九五三年三月十日、三十六歳という短い生涯を閉じて以来、ちょうど三十年たった。
いま、世界各地で高まりを見せつつある反核運動は、峠の生きていた時代には想像もできぬような広がりと規模を持つようになっている。しかしまた、他方で核兵器とその運搬手段はおよそ想像を絶するような発達と蓄積を重ねており、それが全世界の人びとの生存をおびやかしているのも冷厳な事実である。