追悼 峠三吉

好村冨士彦


 私が峠さんを知ったのは、国立広島療養所に入って療養生活をはじめてまだ三ヶ月しかたたなかった、一九五○年十一月二十四日でたしか峠さんは二度目の入所をして一週間も経たなかった頃だったろう。風邪を引いたとかでひどい咳をしながら、あのいつもやるように痰コップの上にのしかかるようにしては痰を吐いて居られた。軽症だった私はこれを見て、これはひどいなと思った。(それ以後原爆詩集出版、原子雲の下よりの編さんその他の峠さんの活躍のエネルギーはその時想像も出来なかった。)ともかく同じ詩のグループ(後の高原詩の会)の島さんにすすめられて、詩の話を聞いたり、自分の詩を見ていただきたくて来たことをいうと、峠さんは喜こんで早速私の詩(実につまらないものだが)を見て、丁寧な批評をし象徴派のヴァレリーに至る自我沈潜はもはやゆきづまって、次には現実と自我の抵抗に移らねばならぬといういようなことを優しい小さな声で話した。ともかくその一度の出合いで、私は峠さんの人格に一ぺんに魅せられてしまい、これがその後の私の方向を決定する機縁となった。

 その間峠さんは肺葉切除手術を受ける予定で入られたので、万一の事を覚悟されて、最初の(そして最後となった)詩集「原爆詩集」の完成に努力して居られた。だだっ広い病室、――八人入れるそこに一人で入られるように山田先生がはかられたのはこの詩集のためには大きな幸だった――の真中に一つの粗末なテーブルをすえて、その上にガラスの板を置き、その上で詩集の草稿は大きな西洋紙にキチンと定規をあてて書かれていった。山奥の寒さのきびしい療養所の一室で、火の気といってはコンロに炭を少しばかり、峠さんはその椅子に端座して書き続けた。私は幾度それを邪魔したかわからなかったが、笑顔で迎えられ、書き上げた詩篇を見せては、私のような者の意見でも注意深くきいては又筆を加えるのであった。私だけではなく、訪ずれる殆どすべての人に峠さんは作品を見せて意見をきいては推敲してゆかれた。一通り出来上がるとそれをとじて、私に読んでくれと云って渡された。私はそれまで峠さんに魅せられていたとはいえ、まだ本当の詩人としての価値は分からなかった。むしろ失礼だが地方の二流三流詩人といったところ位だろうと思っていた。ところが詩集の草稿を見て、私は心の底からゆすぶられ驚いた。ともかくこの詩集は本当にすばらしい、日本中の人だけでなく世界にも広く読まれなければならないし、又読まれるだろうという意味のことを紙切れに書いて峠さんに渡した。おそらく直接云うのが照れくさかったのだろう。(峠さんが没くなられた後、この私の紙切れまで大切にとって居られたのを見て、私は、大衆のささいな意見をも大切にする峠さんの態度に深く感動した。)しかしその紙切れは私の思ったよりも、峠さんを喜こばしたらしく、その後、詩集が青木書店から出されて広く読まれるようになってからも、この詩集の価値の最初の発見者は君なのだからね、と笑っていって居られた。

 一つ峠さんが自分の詩の叙情性について云って居られた興味深い言葉がある。私が峠さんの詩の叙情はじめじめしていて案外古いのじゃないかと問うと、「今迄の日本の詩人の詩はじめじめしているのが徹底していないのだ。僕はこれを徹底させて粘着力のつよい、敵にむかってからみついて離れぬような詩を書きたいのだ。」と云って居られた。その外、リアリズムの問題、サークルの指導者育成の問題など、多く話しあったのだが、今ではどれが峠さんの意見で、どれが私の意見だったか分からぬようにゴッチャになって私の中にある。

 峠さんが詩集出版後、多くの人の批評を聞いて、一番腐心して居られたのは、やはり叙情の問題であった。先にあげた峠さんの言葉は必ずしも作品の上に実現されなかった。峠さんの叙情の克服は、インテリとしての峠さんの自己改造の問題であった。それは奥さんが例会で云われたように、病身の峠さんのあれだけの活躍を裏で生計の道を切り開きながら支えていった奥さんについて書かれた詩が一篇もなかったことに集約的に表れている。(「河のある風景」の中に少し出て来ているが、それとても主題となっているのではない。)あれ程の傷つきやすい柔らかな魂と限りない愛情の持主、又それ故に原爆という世紀の悲劇に対して、それによって奪われ傷ついた多くの生命に共感し振動し、はげしい怒りとなって、その犯罪者を鋭く糾弾した詩人が、自己の生活の中になお断絶した部分をもち、それを歌いきれなかったことが、又インテリとしての枠を越え多くの働く大衆の中へ結びついて、自己を鍛え高めるのを妨げたことに通じていたのではなかろうか。

 長くなったので性急に結論のみを出したが、このような観点から峠さんがやり残した仕事を知り、峠さんの限界というものをつくった具体的な原因をほり下げることが、峠さんの死を悼み、峠さんの業績を讃えると共に、後の残された私達のなすべき事ではなかろうか。(高原詩の会、われらの詩の会)

(峠三吉は1953年3月10日没。著者はこの文章を同年3月23日療養所退所後書いている。――好村玲子氏による注)


『峠三吉追悼文集 風のように炎のように』1954年2月発行。