二〇〇五年三月六日に逝去した栗原貞子は、二〇世紀に大きな足跡を残した。一年経った今、改めて栗原貞子の一生を辿るとき、生前にはつい見過ごしてきた貞子の熱い情熱に心を打たれてしまう。そのひとつに、夫・栗原唯一との出会いとともに貫いた思想、信念、そしてそれを核にした表現、活動の数々だった。
初出は『ぴいぷる』、八〇・八、再録は、『問われるヒロシマ』、九二・六の中の「戦争と革命的ロマンチシズムのはざまで」によるのだが、一九三一年の春に非合法な結婚をしたとある。その前の年、貞子は県立可部高等女学校を卒業し、歌誌『処女林』(後に改題『眞樹』)の同人になっている。この頃、彼女の創作慾は旺盛で、中国新聞紙上の文芸欄には、毎週のように、詩、短歌を投稿していた。
一九三一年と云えば、その年の九月には満洲事変が始まっている。春と云えば、まだ戦争開始の前、貞子によれば、街には労働争議のポスターが貼られていて、左派の人たちは活動していたという。そんな時代、貞子は黙って家を出る。約束した彼・栗原唯一と逃げるためであった。行き先は松山、そこには唯一の友人たちがいた。二人はバスで宇品港へ向かった。そのバスの窓から見た風景は、広島の第五師団の部隊が、宇品に向かって行進している姿だった。沿道には、白い割烹着の婦人会の面々が、日の丸の小旗を振り、「万歳」「万歳」と熱狂しているのだった。宇品には一八八九年に港が築かれ、日清戦争の時から兵站基地となっていた。三二年に宇品港は広島港と改められている。
そもそも、貞子が唯一を格好良い青年だと思った理由のひとつに、彼が関東大震災のとき、朝鮮人や社会主義者たちが、虐殺されたと知って怒り、直ちに上京し、平民社の運動に参加したことだった。当時の情勢として、唯一は直ぐ特高から、甲号特別要視察人として尾行される身となった。唯一はその尾行人まいたり、いたづらしたりと困らせたという。そんな彼の振る舞いをヒロイックで素敵だと貞子は思ったのだ。
当然、唯一は要注意人物である。二人の仲を貞子の親が許す訳もなく、二人が選んだのが駆け落ちだった。出征兵士を見送る日の丸の小旗の波、時代は暗い方向へ音を立て、動いていたのだ。「われわれの前途は茨の道だ。それが承知できるなら、ついてこい」。十八歳の貞子はこの殺し文句に惹かれ、三十六歳の唯一に同行したのである。
松山には童話作家で、「文明批評」という新聞を発行していた宮本武吉と、若いアナキストの中野徹がいた。唯一と貞子は松山の旅館に投宿する。宮本武吉は宿に内緒で度々泊まったようだ。それは若い彼らが夜を徹して論争したからだった。
その結果、宿代に困り、唯一は貞子を置いて金策のため郷里に帰った。貞子は送られてきたお金で宿代を清算し、彼を追って広島に帰ってきた。しかし、宇品港上がると、警察につかまってしまった。家から保護願いが出ていたのだ。社会主義者である唯一は、当時は国賊であり、非難の対象でしかなかったのだ。
貞子は親の愛情で軟禁、監視されることになった。愛する唯一との前途は閉ざされ絶望しかなかった。そこで貞子が決心したのは、ブラジル行きだった。とにかく、この屏息状態から脱したかったのである。
親は同意した。早速、手続きもしてくれた。仮約束で知らない男性と書類の上で結婚、入籍し、神戸の移民収容所に入り船を待っていた。その時、一本の電報が届いた。<サンノミヤエキニ六ジデムカエタノム リンコ>だった。それは歌誌「処女林」の同人で貞子の文学友達で、後に『広島通信』を出した、英文学者で詩人の大原三八雄の妹からだった。三八雄はずっと後に貞子の詩を英訳している。
お金を持たされていない貞子は、同室の人に電報を見せて電車賃を借りた。三宮の駅で待っていたのは、林子ではなく、唯一だった。ブラジル行きの船から海に飛び込むかも知れないと書かれた貞子の手紙に驚いた林子のはからいだったのだ。三宮駅から逃げた二人は、大阪から徳島へ、そして後には広島に帰って来る。唯一の故郷、可部町で長男・哲也を産むが、この子は貧困の中で二歳で亡くなった。広島市の金屋町で金物・日用雑貨の店を開くなど、生活苦からの脱出に努力している。当時は国賊扱いだった唯一だが、二人は熱い同志として結ばれて一生添いとげた。
一九三一年の満州事変に続いて、一九三七年には支那事変(日中戦争)が始まり、一九四一年には太平洋戦争が始まった。アナキストで準禁治産者であった唯一との結婚生活は貧困と思想への圧迫の中で厳しいものだった。一九四〇年、唯一は徴用され、病院船に乗って上海に向かったが脚気で送還された。しかしこの時、上海で見聞きした日本兵の残虐行為に衝撃を受け、バスの中で知人に話したところ、密告された。警察に出頭を命じられ起訴された。
長い戦争の間、貞子はどのように過ごしていたのだろうか。貞子は夫の唯一が、隠し持っていたロシアの無政府主義者・クロポトキン(一八四二 一九二一)の幾冊かの著書を読んでいる。「パンの略取」「田園、工場、仕事場」「青年に訴う」などだった。 貞子は夫と論争し、また禁断の書を読みながら夢見ていた。「自由発想と自由合意にもとづく無権力社会の平和な世界」をである。
一般に貞子は被爆体験があったから戦後の創作、活動の出発があったように思われているが、それは唯、発表の場を戦後に得たということに過ぎない。貞子は戦争中、ひそかに獲得した強い思想をもって、短歌・詩・エッセイなどをノートに書き綴っていた。その作品は、戦後一九四六年八月に、詩歌集『黒い卵』として出版されている。その中で、詩「黒い卵」「季節はずれ」「手紙」「日向ぼっこをしながら」は、貞子の戦争中の反戦思想を切々と表現している。
貞子・唯一夫婦はそれぞれ被爆している。被爆の前年一九四四年、唯一は徴用され、三菱精機祇園工場に勤務することになった。だから、その勤務先に引越しということで、栗原一家は、祇園町長束に転居した。この地で貞子はその生涯を閉じたのである。貞子は八月九日、被爆して亡くなった隣家の女学生の遺体を引き取りに入市した。このいたましい体験は、「原爆で死んだ幸子さん」の詩となった。一方唯一は、三菱精機の従業員が広島市内で家屋解体の作業に出ていて被爆したのを救出するため入市、そして黒い雨にもあった。そのため彼は十一月頃まで原爆症で苦しんだ。
このように夫々被爆した二人は、唯一の同僚の葬式で出会った、故郷に疎開していた作家の細田民樹と会談した。細田民樹は市内の牛田町にいた弟夫婦の安否を確かめたその足で、栗原夫妻を見舞ったのだ。三人は爆風で壊れた部屋で、灯火管制の暗い灯の下で話し合った。「もう戦争も時間の問題だ。戦争が終わったら文化活動を始めよう」と、約束した。
その年の十二月、細田民樹を顧問に「中国文化連盟」を結成し、夫婦は満を持して本格的な文化活動を開始するのである。翌一九四六年三月、機関誌『中国文化』(原子爆弾特集号)を創刊した。貞子の代表作として知られる詩「生ましめんかな」が、この雑誌で初めて発表された。反戦・反核の思想をこめて貞子は詩を書き、語り、活動を続けるのである。
しかし、戦後直ぐに占領軍・アメリカは、プレス・コード(日本に与える新聞遵則)で検閲を始め、表現の自由を禁圧したのだ。広島にとって、そして人類にとっての悲劇は、特に原爆の残虐さ悲惨さを世界に向かって伝えられなくなったことだ。
貞子もこのプレス・コードにより、一九四六年八月に出版した詩集『黒い卵』も検閲を受け、詩三篇、短歌十一首が削除されたのだ。この削除された作品は、一九八三年に『黒い卵』の完全版が発行されるまで人の眼にふれることはなかった。
このプレス・コードは五三年に失効するまで、新聞・雑誌はもとより文学、美術、音楽、映画、学術すべてのジャンヌでの禁圧だった。特に原爆症に関する研究論文も禁止されたので、日本国内はもとより世界の国の人々にも原爆の怖しさを伝えられなかった。
貞子は、ユダヤ人を圧殺したアウシュビッツの残虐さはドイツが行ったので、直ちに世界に発信されたが、原爆を落としたのはアメリカなので、そのすべてを封殺したのだと云っている。手にした新兵器を独占したいためだったとも云っている。
そして、何よりも貞子が嘆き怒るのは、世界が原爆から眼かくしされている間、原爆は核抑止力という名目で作られ続け、広島・長崎から始まった核時代の終焉が全然見えなくなっていることである。暗雲の中に閉じこめられている人類、貞子はその間、ビキニの水爆実験、スリーマイル、チェルノブイリの原発事故など、すべての核にまつわる事件に眼をくばり、その影で犠牲になってゆく人々へ優しい眼を向け、悼み、共に涙を流している。
貞子は熱い怒りを胸に持って亡くなっていった。体は無くなるが、私の愛は作品の中に残したから、受け取って欲しいと云って。