(毎日新聞社、高尾氏撮影)
広島に文学館を!市民の会
代表 水島 裕雅
栗原貞子さんは本年(2005年)3月6日92歳でお亡くなりになりました。栗原さんの死を悼み、75年にも渡る詩業を振り返る栗原貞子文学展を企画いたしました。
栗原さんの立場は戦前から反戦・平和主義に貫かれており、戦後はそれに反核・護憲が加わったものになりましたが、つねに旗幟鮮明で、「愛と怒り」に満ちたものでありました。その視野は、日本を中心としながら、国際的な動向にまで及び、つねに具体的かつ同時代的でありました。戦後の日本の繁栄を「いつわりの繁栄」とみなし、「理想なきものは退廃し、滅亡する」として現実と妥協することを拒み、「人類が滅びぬ前」に立ち上がらねばならないという使命感をもって詩作を続けられました。
爆心地から4キロメートルの地点で原爆を見、その後隣家の女学生の遺体を引き取りに行き、自ら入市被爆するとともに、広島の惨状をつぶさに見たことで原爆詩人となりましたが、栗原さんのテーマは原爆ばかりではありませんでした。栗原さんは生涯をかけて、「世界中の人間が人間の尊厳を持って生を終える」ことができるように、「言葉に命を賭ける」詩人として、いつわりの政治や「虚妄の言葉」と戦い続けたのです。
そうした栗原さんの詩篇が集められ、本年7月初め土曜美術社より『栗原貞子全詩篇』が刊行されました。青春時代の短歌・詩・散文には女性としての純粋な情熱や深い愛情が見られ、また今回初めて公開されたノートの詩篇や短歌などを読みますと、満州事変以来の日本の戦争や世界の動向を直視し、批判していたことが明らかに見て取れます。
その一方で栗原さんは子供を育て、夫を支える家庭の主婦としての生活を送り、その生活のなかから人間のあり方を考える人であり、子供たちや人類の未来を真剣に考える人でありました。
そうした日本の一女性が時代とどのように係わり、どのように戦ったかが明らかになるように、作品を時代順に並べてみました。私達の生きてきた時代を振り返りつつ、栗原貞子さんのメッセージをどのように受け取り、引き継いでゆくかを考えていただければ幸いです。
広島市長 秋葉 忠利
「人類が滅びぬ前に・栗原貞子文学展」が開催されることをお喜び申し上げますとともに、3月にお亡くなりになった栗原貞子さんの御冥福を心からお祈り申し上げます。
栗原さんは、ヒロシマを文学作品に刻み、反戦・反核運動に取り組まれてきた原爆詩人として生涯を全うされ、核兵器の悲惨さを全世界に訴えた五百編を超す作品を残されております。中でも原爆詩「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」は代表作として、世界数ヵ国に翻訳され、世界に知られる原爆詩人の一人となられました。
その栗原さんの功績をたどる文学展が被爆60年を前に開催されますことは、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けている広島市にとりましても誠に異議深いことであり、開催にあたり御尽力された方々に深く敬意を表します。今年を核兵器廃絶の芽が萌え出る希望の年にするためにも、文学展開催中、多くの方が来場され、栗原文学に触れていただくことを願っております。
終わりに、栗原貞子文学展の御盛会を祈念してお祝いの言葉といたします。
原稿・自筆ノート
「死者たちの証言」
「愛と怒りの季節・光州事件七周年」
「原爆半世紀 ヒロシマの女たちは」(エッセイ)など
写真類
可部高等女学校の頃(姉と)
一九歳の秋
夫・唯一氏と
作家・細田民樹氏と
広島地方貯金局の前にて
私の出会った百人・写真集より
詩集・著作物
『黒い卵』(初版本)
『黒い卵』(完全版)
『私は広島を証言する』
『ヒロシマの原風景を抱いて』など
書簡
峠三吉氏に宛てた書簡
栗原さんに宛てられた書簡(吉永小百合さんなど)
新聞資料
「広島生活新聞」
「広島平民新聞」
各種新聞掲載記事など
家族へ
長女・眞理子さんへ遺された言葉(原稿)
1913年(大正2)3月4日、広島市可部町に農家の次女として生まれる。
1926年(大正15年)広島県立可部高等女学校入学。文学書を読み、詩、短歌を書き始める。
1930年(昭和5)県立可部高等女学校卒。歌誌「処女林」(後に解題「真樹」)同人となる。中国新聞に詩、雑文を投稿。
1931年(昭和6)18歳。栗原唯一と結婚。夫がアナキストで準禁治産者であったことから両親に反対され家を出て結婚。
1932年(昭和7)松山市、高松市などを転々とした後、貧困と圧迫の中で長男・哲也を生むが、1934年、哲也、消化不良のため死亡。
1935年(昭和12)長女・眞理子、1939年、次女・純子を生む。
1940年(昭和15)唯一徴用で病院船吉野丸に乗船、上海方面に出航。送還後、目撃した日本軍の残虐行為をバスの中で知人に話し、密告され、起訴される。
1942年(昭和17)「黒い卵」「戦争に寄せる」「木の葉の小判」「戦争とは何か」。
1945年(昭和20)32歳。祇園町長束の現在地に転居。作家・細田民樹氏と出会い、文通始まる。8月6日(爆心四粁)、家屋の壁、戸、障子、窓が爆風で飛び天井下がる。9日、隣家の女学生の遺体を引きとりに行く。短歌「原爆投下の日」19首、「悪夢」24首を書く。爆風で壊れた部屋の灯火管制の下、細田氏と語りあい「もう戦争も時間の問題だ。戦争が終ったら文化運動を始めよう」と約束する。12月、細田民樹氏を顧問に「中国文化連盟」結成。
1946年(昭和21)『中国文化』原子爆弾特集号を刊行。事後検閲で呉市吉浦の民間情報部に発行人の栗原唯一呼び出される。8月、詩歌集『黒い卵』中国文化連盟叢書刊行。検閲で詩三編、短歌十一首が削除される。
1948年(昭和23)『中国文化』終刊。11月『リベルテ』に改題、創刊(6号まで発行の後、廃刊)
1951年(昭和26)旬刊「広島生活新聞」を夫とともに発行、文芸欄に力を入れる。広島大学「エスポワール」、「われらのうた」など、広島の戦後文学の第二次ピークをつくる。
1952年(昭和27)世界連邦アジア会議(峠三吉らと)にメッセージをまとめ、原爆に関する映画、文学などの弾圧、海外移出禁止の実状を訴え自由への支持を求める。
1953年(昭和28)40歳。中国新聞紙上で、第一次原爆文学論争起こる。
1960年(昭和35)正田篠枝、森滝しげ子、山口勇子さんらと「原水禁広島母の会」を発足。広島詩集「日本を流れる炎の河」を刊行。中国新聞紙上で第二次原爆文学論争起こる。その発火点「広島の文学をめぐって」を発表。
1961年(昭和36)「ひろしまの河」(原水禁広島母の会)創刊。
1962年(昭和37)〜76年 大原三八雄、米田栄作、深川宗俊氏らと和英対訳詩集『The Songs of Hiroshima』を刊行(62年)。詩集『私は広島を証言する』刊行(67年)。詩集『ヒロシマ』(大原、米田、深川氏と刊行委員会)一万部発行(69年)。『どきゅめんと ヒロシマ24年 現代の救済』(新報社刊)を出版(70年)。詩集『ヒロシマ・未来風景』(詩集刊行の会)(74年)。『ヒロシマの原風景を抱いて』(未来社)(75年)。詩集『ヒロシマというとき』(三一書房)(76年)。
1978年(昭和53年)〜88年 エッセイ集『核、天皇、被爆者』(三一書房)、大田洋子文学碑除幕(78年)。詩集『未来はここから始まる』(詩集刊行の会)(79年)。英訳栗原貞子詩集『The Songs of Hiroshima』夫・唯一、膵臓癌で死去(80年)。『中国文化』原子爆弾特集号復刻(81年)。「ヒロシマ、ナガサキの証言」創刊(編集委員)。詩集『核時代の童話』(詩集刊行の会)。ドイツ「インターリッツ国際文学者会議」に出席、「核時代の体験作家の苦悩」を講演。エッセイ集『核時代に生きる』(三一書房)(82年)。日本現代詩文庫17『栗原貞子詩集』を土曜美術社より出版(84年)。『反核詩画集ヒロシマ』(詩集刊行の会)(85年)。詩集『青い光が閃くその前に』(詩集刊行の会)(86年)。「DAS ENDE」の日本語版が好村冨士彦氏の訳『戦争は終った』と題して出版(88年)。
1989年(平成元年)76歳。中国郵政局の庭に、広島貯金局の被爆モニュメントとつかった「生ましめんかな」の詩碑が建立される。
1990年 詩集『核なき明日への祈りを込めて』(詩集刊行の会)。第三回「谷本清平和賞」受賞。
1991年(平成3)「護憲の碑」建立。エッセイ集『問われるヒロシマ』(三一書房)。呉港でのPKO反対デモ参加後、脅迫電話・状続く。
1994年(平成6)81歳。『黒い卵』マイニア教授により英訳出版(検閲で削除された文章が表紙になる)。三次市・三良坂町の「わたすの像」その側の自然石に母親が子供に平和を渡す讃歌を刻んだ詩碑完成。
1997年(平成9)詩集『忘れじのヒロシマわが悼みうた』(詩集刊行の会)。吉永小百合さんの原爆詩「第二楽章」を聞きに行く。
1999年(平成11) 右脳梗塞のために半身不随となる。
2003年(平成15) 峠三吉没後50年碑前祭に参列。
2005年(平成17) 3月6日、自宅にて死去。(92歳)
☆「栗原貞子さんの軌跡たどる」(『中国新聞』、2005年7月30日)
☆「もう一人の栗原貞子さん」(『中国新聞』天風録、2005年7月4日)
☆「栗原貞子さん 広島でしのぶ会」(『中国新聞』、2005年7月3日)
☆「栗原貞子全詩編が完成」(『中国新聞』、2005年6月15日)
☆「栗原貞子さん死去 原爆詩「生ましめんかな」」(『中国新聞』、2005年3月7日)