核状況に抗する文学

--原爆文学の存在意義--

黒古一夫

図書館情報大学教授・文芸評論家


1 現在の核状況とは

 20世紀最大の「負の遺産」が「核」存在に関わる諸々であることは、誰もが認めざるを得ないのではないかと思う。もちろん、特に医学分野や科学技術分野において「核=放射線」の発明が、その進歩に大きく貢献したことも認めた上で、である。それは1945年8月の「ヒロシマ・ナガサキ」が人類絶滅の可能性を明らかにし、かつ「核=原子力の平和利用」という美名の下に建設が推進させられてきた原発もまた、スリーマイル島やチェルノブイリの大事故によって、それが原水爆と変わらない「非人間」的存在であることを白日の下にさらけ出したからである。さらに「核」存在が私たちの未来を閉ざすであろうと思われるのは、核兵器や原発から大量に排出される「核廃棄物」の最終処分技術が確立していない(公害問題に詳しい宇井純によれば、永い期間にわたって人体に有害な「毒」を出し続ける「核」を処理する技術の開発は、人間の能力では不可能なのではないか、ということである)。

 確か「原爆年号」を提唱したのは、かつて関東学院大学の学長を務めたこともある岡本正氏であったが、この「原爆年号」という年号の意味を今まさに21世紀を迎えた私たちは深く考えねばならないのではないか。長崎での被爆体験を持つ周知の作家林京子は、近作「トリニティからトリニティへ」(2000年9月、『長い時間をかけた人間の経験』所収)の中で、被爆者である主人公が世界で最初の原爆実験を成功させたニューメキシコ州アラモゴード近くの砂漠地帯(トリニティ・サイト)を訪れた際に、世界で最初の被爆者は「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆者ではなく、この砂漠地帯に生息するガラガラヘビなどの生き物ではなかったか、というようなことに覚醒する場面を書き込んでいるが、このことと「原爆元年」とをリンクさせて考えれば、「ヒロシマ・ナガサキ」は紛れもなく地球の破壊、人類及び地球上の全生物絶滅のプログラムを人間が手にしたことを意味し、その状況は21世紀を迎えた今日でも変わらない、ということを明らかにしている。

 しかし、このような「核状況」に対して、世界的な規模で明らかになっているかと言えば、1998年のインド、パキスタン両国による新たな核実験およびアメリカ大統領ブッシュによる「ミサイル防衛計画」とそれに伴うABM条約からの撤退宣言が如実に物語るように、決してそれは普遍の原理にはなっていない。民衆規模では長い間の反核運動(原水禁運動)の成果によってそれなりの反核意識は育ってきているにもかかわらず、相変わらず国レベルでは「軍事」優先の論理が国際関係を支配している。「無知」とかいうような問題ではなく、近代社会のシステムに乗った国家指導者の在り方を見ていると、オーストラリアに生息するレミングの「死の行進」を想起せざるを得ない。

 なぜ私たちはそのようなシステムに引きずられて「死の行進」に付き合わなければならないのか。たぶん、それにはそれなりの理由がある。というのも、「核」をめぐる世界情勢を「大状況」とし、それに対する個人内部の存在形態および「核意識」を「小状況」とするならば、「小状況」において「ヒロシマ・ナガサキ」はかなりの程度で風化しており、「核」に侵犯されていると思われるからに他ならない。例えば、ここに昨年から今年にかけて刊行された高嶋哲夫という作家の2冊のエンターテインメント(ミステリー)作品がある。1冊は『スピカ』というタイトルの、かつての仮想敵国兵士が日本海側の原発を武装占拠して日本国政府を恐喝するが、結局その計画は原発を設計した科学者や警備陣の奮闘で失敗するという粗筋を持つ長編である。物語は良くできたミステリーで、原発を占拠した一味が最後に追いつめられ、当初の計画通り原発を爆発させようと炉心の制御棒を引き抜くという緊張した状態まで、一気に読ませる。

 もう一つは『トルーマン・レター』で、これは広島・長崎に原爆が落とされた真の理由が、時のアメリカ大統領トルーマンの「人種差別=アジア人蔑視」にあったとする「極秘の手紙」を巡って展開される一種のスパイ小説である。実はこの手紙、東西冷戦構造の中で偽造された物であったという結末なのであるが、この長編は、仮に広島、長崎に投下された原爆がドイツ降伏前に完成されていたとしても、果たしてベルリンの上空で爆発させたかという原爆投下に関わる「人種差別」問題の虚を衝いた作品、ということが出来る。

 この二つのエンターテインメント小説から私たちが読み取ることができるのは、原発や原爆といった「核」が「ヒロシマ・ナガサキ」に象徴される特別なものではなく、ミステリーを構成する主要な要素に成り得るほどに私たちの「日常=生活」に深く食い込んでいる、ということである。もちろん、これまでにも「原爆SF」とも言うべき近未来小説、例えば『レベル・セブン』(モルデカイ・ロシュワルト 59年)や『マレヴィル』(ロベール・メルル 72年)、あるいは『最後の子どもたち』(グードルン・パウゼンヴァング 84年)等で、核兵器や原発が人間の未来を閉ざす危険な存在であることが描かれてこなかったわけではない。しかし、知見の範囲では、これまでの「原爆SF」で扱われてきた原爆や原発は、やはり「特別な」私たちの手の届かない存在という印象が強かった。特に原発の場合、70年代の初めまで「原子力の平和利用」ということで小学校の教科書に登場していたということもあって、これが人類の未来を閉ざす確かな存在であるとの認識は、なかなか得にくかったと言わねばならない。原爆も原発も、ふだんの生活とかけ離れた「非日常」的存在であったといえばよいか。

 それに対して、高嶋哲夫の二つの小説は、私たちの日常に当たり前のように存在する原発や原爆を、それこそ「恋愛」や「殺人」などと同じレベルで作品中に取り込んでいるのである。このことについてさらに別な言い方をするならば、「未来のエネルギー」として電力会社やマスコミ・ジャーナリズムが日々喧伝している原発の危険性、それはテロリストによって占拠されるということだけではなく、「技術」というものが本質的に持つ「不完全性」が重大事故の要因となるところにある。そして、その技術の不完全性を象徴しているのが放射能に汚染された「核廃棄物」の処理問題である。処理場と方法が見つからないまま原発敷地内に山積みされている「放射能汚染物質」。原発推進・容認派は、この未来への「ツケ」をどうしようというのだろうか。それに、日本の場合、原発が建設されるようになってから現在では30年近くなる。政府と原子力委員会は、技術の進歩を理由に原発の耐用年数を30年から50年に延長しようとしているが、その是非は今措くとして、いずれにせよ高濃度に放射能汚染された原発はいつか解体処分されなければならない。それらはこの狭い日本、あるいは緑の星地球の何処に処分されるのだろう。

 というような重大な問題を抱えているにもかかわらず、「現在の快適さ」のために「核」を何となく容認してしまう、それが今日の「核状況」に関わる問題の本質に他ならない。私たちは「矛盾・二律背反」のただ中を生きているのである。この矛盾した私たちの在り方は、比喩的に言えば、保守勢力中の保守(タカ派)であり、かつ核武装論者でもある東京都知事石原慎太郎が、差別的な「第三国人」発言や「南京大虐殺はなかった」発言を繰り返していても、高支持率を確保していることと似ている。亡くなった弟が有名な俳優であったということや知事自身が芥川賞作家であるというようなことが高支持率の背景にあるのだろうが、「反核」の意思を持つ人が「核」容認派の石原慎太郎を支持する、ここに現代の逆立ちした人々の有り様の典型がある、と言っていいだろう。

 人々のこのような在り方を背景に見事な「核ミステリー」を仕上げたのが、高嶋哲夫だったのである。因みに、高嶋哲夫は、大学院を終了後、日本原子力研究所の研究員を経て、カリフォルニア大学への留学経験もあり、原子力学会技術賞を受賞するなどの経歴を持つ作家である。94年に『メルト・ダウン』で第1回小説現代推理新人賞を受賞し、99年には『イントルゥーダー』でサントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞している。「核」に関して確固たる信念を持って創作しているのも、経歴のなせる技か。

 『スピカ』の終わりの方に、主人公の研究者仲間であると同時に原発占拠に加わった原子力科学者からの手紙が挿入されており、そこには次のような言葉が書かれていた。

 

 科学は万能ではありません。それは万人の知るところです。両刃の剣。そうです。有史以来、科学は人類を繁栄に導き、多くの命を救い、地球の生物の長とならしめました。しかし反面、多くの命を奪い、たぐいまれなる人類の危機も生み出してきました。そして現在、その危機は頂点に達していると言わざるをえません。二酸化炭素による地球温暖化、フロンによるオゾンホール、酸性雨の広がり、地球規模の破壊は進んでいます。さらに、スリーマイル島、チェルノブイリ原発事故と、危機は現実の形となって現れました。あなたの国、東海村の臨界事故もその一つでしょう。(中略)

 原子力は本来危険なもの。それを扱う者には、科学に対する誇りと、謙虚な精神こそ大切なものです。私は原子力の恐ろしさを世界に認識させたい。政治家も含め、世界中の人々にも知ってもらいたい。核の扱いは、決して急いではいけない。十分な技術の確立と、人類の良心の確立がなされてから、初めて許されるものなのです。私は生涯を科学に捧げてきました。それについては悔いはありません。これから私がなそうとしていることは、正しいことか、また人類を破滅に導くものなのかは分かりません。

 

 このロシア科学者の言葉こそ作者の最も言いたかったことであるとするならば、現在、現代文学の優れて良質な部分がエンターテインメントにおいて存在する、と言ってもいいのではないだろうか。高嶋哲夫の作品を読んでいると、そのように思えてならない。

 なお、原発の危険性について正面から小説のテーマとした最初の作家は、知見の限りでは78年に『プルトニウムの秋』を書いた井上光晴であるが、彼はその後も『西海原子力発電所』(86年)、『輸送』(89年)と立て続けに重要な作品を書いた。また、核状況下を本当に人間は生き延びることができるのかを問い続けてきた大江健三郎も、90年代に入って「近未来小説」という形で『治療塔』(90年)、『治療塔惑星』(91年)の二つの長編を発表している。

 

2 「風化」の現実

 林京子の芥川賞受賞作(群像新人賞受賞作)『祭の場』(75年)に、次のような部分がある。

 

 1970年10月10日の朝日新聞に“被爆者の怪獣マンガ小学館の「小学二年生」に掲載、「残酷」と中学生が指摘”の記事がのっている。「原爆の被爆者を怪獣にみたてるなんて、被爆者がかわいそう」女子中学生が指摘して問題になった。怪獣特集45怪獣の中の、人間の格好をした「スペル星人」が「ひばくせい人」で全身にケロイド状の模様が描いてある。真意をただされた雑誌側は調べてからでないと何もいえません、と答え、原爆文献を読む会の会員は絶対に許せない、と抗議の姿勢をとった。事件が印象深く残ったのは確かである。「忘却」という時の残酷さを味わったが、原爆には感傷はいらない。

 これはこれでいい。漫画であれピエロであれ誰かが何かを感じてくれる。30年経ったいま原爆をありのままつたえるのはむずかしくなっている。

 

 この時代から四半世紀以上、原爆や被爆者に関わる言説状況はさらに悪化していると考えなくてはならないだろう。

 例えば、私は大学の授業で私なりの思いを込めて毎年1冊は「原爆小説」を取り上げているが、その授業で学生たちに必ず「現在ヒロシマ・ナガサキの被爆者は全国に何人いるだろうか」と質問することにしている。大学(図書館情報大学)の特殊性故、学生たちは北は北海道から南は沖縄まで全国各地から集まっているのであるが(当然、広島・長崎出身の学生もいる)、その答えを聞いて、毎年苦い思いを味わっている。学生たちの認識において「全国の被爆者数」は、平均して数千人、今年の場合、最低は5000人、最高は5万人(それも教師が「そんなに少ないの」と水を向けての結果である)であった。この国の「平和教育」はどうなっているのだろう、と思わざるを得ない。

 もちろん、1945年8月6日・9日に広島・長崎の両市に原爆が落とされ甚大な被害を被ったことについて、知らない学生はいない。中学や高校の修学旅行で広島・長崎の原爆資料館を訪れた学生も少なくない。しかし、である。彼らの記憶(知識)の中で、「ヒロシマ・ナガサキ」が「未曾有の被害・惨劇」という形でしか残っていないというのは、この核状況が一向に改善されない世界にあって問題ではないかと思わざるを得ない。もちろん、林京子ではないが、どんな形であれ、「ヒロシマ・ナガサキ」が若者の記憶に蓄積されているということは、それはそれでいいのだが、核兵器の登場する「ウォー・ゲーム」やアニメが何の「注釈」もなく横行している現状を考えると、「ヒロシマ・ナガサキ」が現代を生きる人々の間で「思想化」されずに感情レベルで曖昧なまま放置されているのは、やはり問題と言わねばならない。

 原発を含めた「核」の問題は、往々にして「国際政治」や「科学」、あるいは「軍事」「エネルギー」の問題ということで、あたかも私たちの現実と無関係であるかのごとく捉えられがちである。しかし、「核」がその爆発によって(あるいは、その爆発に至る様々な過程において)大量の人間及びこの地球上の生物を殺傷し、かつそれと同時に死と隣り合わせの生を強いられる「ヒバクシャ」を大量に生み出す非人間的な存在の極致であるということを本当に認識すれば、「核」こそ私たちの生活=日常に突き刺さった生命に関わるトゲということになる。そして、そのような認識(思想化)は、「ヒロシマ・ナガサキ」を初めとする「核」に対する正確な事実の把握からしか生まれてこないのである。「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆者が現在数千人しかいないという「誤った」認識と、実際の被爆者数30万人弱(2001年7月まで)とでは、「人間の尊厳=生命」という観点を設定した場合、「核」に対する考え方に相当な違いが出てくるのではないだろうか。

 また、「歴史は捏造される」という「真理」めいた箴言を持ち出すまでもなく、昨今の「歴史教科書」問題、「従軍慰安婦」問題、あるいは根強く繰り返される「南京大虐殺」幻説、等々を考えれば、そんなことはよもやあり得ないだろうと思うが、正確な「事実」認識が保持されなければ「ヒロシマ・ナガサキ」も矮小化されて後生に伝わらないとも限らない。被爆後56年、21世紀の私たちはそのようなアモルファスな時代を生きているのである。例えば、イギリスのSF作家ブライアン・W・オールデイスの『リトル・ボーイ再び』(邦訳70年)という作品は、1945年8月から100年後の「平和」で「豊か」な統一された世界国家において、人々の娯楽のためにショー・ビジネスを企画する会社が「原始的」な広島型原爆を罪のない人々の頭上で爆発させ、人々が必死に逃げ惑う様を見物するショーを決行するというもので、作中には人間の傲岸さを皮肉る部分もないわけではないが、全体は「核」さえ自在に扱うようになる未来社会に対する楽天的な観測で覆われており、「ヒロシマ・ナガサキ」がこのような扱いを受けることの不快感だけが残る。

 人間の「生命」が、ここでは羽毛よりも軽く扱われていることから生じる不快な感情、このような感情が存在するのも、戦争を知らない世代とは言え、先のアジア太平洋戦争において2000万人以上という信じられない数の無辜の民が理不尽な死(小田実流に言うならば、無念の思いしか残らない「難死」ということになる)を強いられ、その結果として「ヒロシマ・ナガサキ」の惨劇が生起したことに対する国民全体の反省が、まだ有効であることの証明と言えるだろう。言葉を換えれば、あの戦後の日々、戦場から帰還した父親や銃後で苦しい生活を強いられてきた母親から、あるいは民主主義教育の火が燃えさかる教室で、「汝、殺すなかれ」と説かれた経験--それは「日本国憲法=平和憲法」に象徴される--が、相当危ういものになっているとは言え、まだまだ国民全体のコンセンサスになっていることを意味する。

 「核」に対する国民の意識と言えば、私は昨年(2000年)の3月から8月まで「在外研究」のためにアメリカで過ごしたが、その折りに経験した今でも忘れられない一つのことがある。私は、「アメリカにおける日本文学研究の研究」というテーマ(名目)を持って約半年間アメリカで研究に従事することになっていたのであるが、「在外研究」の場所としてアメリカを選んだ最大の理由は、滞在中にニューメキシコ州アラモゴード市(トリニティー・サイト)を訪れることが可能だからであった。残念ながら私は、林京子が『トリニティー・サイトからトリニティー・サイトへ』(2000年)で明らかにしている、トリニティー・サイトの開放日(4月と10月の第1土曜日)にアラモゴード市を訪れるということはできなかったのだが、5月中旬に念願かなって、マンハッタン計画の拠点ロスアラモスからニューメキシコ州の州都アルバカーキー、そしてホワイトサンズのミサイル実験場、アラモゴード市と、車で1000キロ余りの旅をした際に訪れた州都の広大な空軍基地に併設されている「National Atomic Museum(国立原子力博物館)」で、その出来事に遭遇した。

 何処へ行っても立派な博物館や美術館があり、そこへ少なくない人々が訪れているのがアメリカの特徴とも言えるのであるが、キュリー夫人からアインシュタインを経て、ドイツのV2ロケットの開発、自国の原爆開発計画(マンハッタン計画)、広島・長崎への原爆投下、更には水爆開発とそれに伴うロケットやミサイルの実物展示が続く件の博物館において、広島上空に出現した巨大なキノコ雲のパネルに書かれた説明文を読んでいた私の前に、小学生とおぼしき少年を連れた短パン姿の30歳代の男性が現れ(たぶん、親子なのだろう)、第二次世界大戦と「ヒロシマ・ナガサキ」との関係を話し始めたのである。内容は、第二次世界大戦をできるだけ早く終わらせるために広島・長崎の原爆は使われたのであって、その意味では「平和」に貢献した、また原爆を使うことによって米軍兵士数十万人の命を救うことができた、というものであった。

 たぶん、この父親の認識はアメリカ人の平均的「ヒロシマ・ナガサキ」理解を超えるものではないと言っていいだろう。その意味では、この父親の言動はアメリカの「常識」を語ったものに過ぎない。つまり、「ヒロシマ・ナガサキ」から55年、この間反核運動は被爆国日本を初め世界各地でそれなりの盛り上がりを見せ、反核意識も根付いていると思われるのに、アメリカの庶民のレベルでは相変わらず「核抑止論=核は平和のために必要とする意識」が主流を占めていることを、この父親は象徴していたのである。私が出会った多くのアメリカ人は、この父親と同じような「核抑止論」者であった。だから、その点で特に驚いたわけではない。

 私がショックを受けたのは、父親の子供への説明の中に一言も「survival」ないし「survivor」の言葉がなかったことである。つまり、「ヒロシマ・ナガサキ」が生み出した被爆者の存在が、このアルバカーキーの国立原子力博物館を訪れたアメリカ人男性の頭の中には影も形もなかったことに、私は改めて「核」存在の恐ろしさを認識させられたのである。その「力」だけが前面に押し出され、その「力」によってかけがえのない生命が危機にさらされる事実が軽視される「核抑止論」の神話、私はニューメキシコ州への小さな旅で国情の違いをまざまざと見せつけられたのである。

 だが、翻って考えてみると、表層的な「反核」意識と被爆者数500人という認識が同居する日本の学生(若者)と、先のアルバカーキーの博物館における親子とではどこに違いがあるのか。「核」に対する誤った認識という点では同じなのではないか。このことは、核実験は数多く行われていても、1945年8月以来原水爆が実際に兵器として使われることがなかった--それは世界の反核勢力が精力的に活動してきた結果とも言えるのだが--故に、「核」に対する人々の認識と感覚が全世界的に鈍くなっていることを意味しているのではないか。「ヒロシマ・ナガサキ」の「風化」と言い換えてもいい。何しろ、この国では先ので少し触れた核武装論者の小説家が首都の知事に選ばれるご時世なのだから、「ヒロシマ・ナガサキ」の体験が「風化」せざるをえないのも無理からぬことなのかも知れない。

 それはともかく、どのような方法を持ってすれば「ヒロシマ・ナガサキ」の「風化」を食い止めることが可能なのであろうか。実際に被爆体験を持つ人が高齢化し少なくなりつつある状況を考えると、「風化」に抗する方法と思想を構築することは緊急の課題と思われるのだが、不況とはいえ経済優先思想=金権主義が相変わらず大手をふるっている現状では、その実現は困難を極める道のりなのではないかと痛感せざるを得ない。

 

3 原爆文学の存在意義

 またまた大学の原爆文学に関わる授業のことになるが、例えば小田実の『HIROSHIMA』(81年)を取り上げて、試験の際に「この小説の世界文学性について論じよ」というような課題を出した場合、しっかりした論理で答案を書くのは、決まってそれまでの生活の中で原民喜の『夏の花』や井伏鱒二の『黒い雨』、あるいは中沢啓治のマンガ『はだしのゲン』等の原爆文学(表現)を経験している学生である。もちろん、最近は大学の授業で初めて原爆文学に接するという学生が増えてきているので、必ずしも事前経験の有無だけで答案の善し悪しが決まるわけではないが、一度でも「言葉」によって原爆・被爆体験を表現した作品に接したことのある学生は、自分なりの確固たる「核」意識を持っている傾向にあるのではないか、と思われる。

 そんな経験をここ何年かしてきて、私たちの「核」意識を深めるために大きな役割を果たすのは、情緒(感覚)と論理(思想)の両方を「言葉」という器に乗せて「もう一つの世界」を創り出し、そのことで現実=日常世界の問題を照らし出す文学(原爆文学)に他ならない、という思いを強く持つようになった。もし「百番目のサル」--宮崎県幸島のサルに餌付けしていたある時、一匹の若いサルが泥のついたイモを海岸の浅瀬で洗って食べることを覚え、それを母親に、そして仲間のサルたちに教え、そのようなイモの食べ方をするサルがある一定数になった時、あっという間に群全体にその習慣は伝わり、それは海を越えてサル族に伝わったという話--の論理が、私たち人間の在り方にも通用するとするならば、原爆文学は「核」存在の非人間性を深く認識し、「核廃絶」を実現するための大きな手がかりになるのではないか、と思わざるを得ない。

 例えば何年か前、履修学生の6割以上が女子学生のクラスで、次のような部分が書き込まれている林京子の『雨名月』(84年 『三界の家』所収)について考えた時の、試験の答案から透けて見えた学生たちの真摯な気持ちを、今でも忘れない。

 

 十四歳の夏から被爆者であった私は、「生存と種の保存」という闘争のためのスローガンじみた生き方を今日までしてきた。娘時代は、今日明日にでも友人たちのように、原爆症で死んでしまうのではないかと毎日が不安だった。結婚して子供が生まれると、今度は子供の死を恐れるようになった。心豊かな結婚生活の時期に、私の関心はほぼ全面的に、子供と自分の生命を保ち続ける「生存」に費やされた。生活を楽しむ心の余裕はなく、そのあげくいつの間にか精神的な男女の愛から出発したはずの性は、精神から剥奪してしまった。(中略)残念だが、私の過去の人生を裏打ちしているのは、八月九日である。この一日があるために、親と子が今日を生きるのにこの日に立ち戻り、そこから改めて一歩を踏み出す、一歩を進めるのに何年もの歳月を戻る。結婚生活は反芻の年月だった。子供は成人し、私は夫であった男と別れた。別れるとき夫だった男は、君との結婚生活は被爆者との二十年に他ならなかった、といった。

 

 学生たちは、この部分から窺えるそのようにしか生きられない被爆者のエゴイズムを冷静に受け止め、なおかつ被爆者にそのような生を強いる原因となった原爆=核存在に対して、その非人間性を許し難いものとする思想性を身につけていたのである。24時間、いつ発症するかもしれない「死に至る病」の原爆病と隣り合わせの生活を強いられた被爆者の存在、たった二発の原爆が爆発しただけで、その被爆者が56年たった現在でも30万人近く存在するという現実、この消しようのない現実を「八月九日の語り部」林京子は、その作品において繰り返し描いてきたのである。

 しかし、「核」ないしは「ヒロシマ・ナガサキ」について、それを後世の人間が思想化する試みは、そう簡単なことではない。被爆者の体験やそこから生じた心情については理解できても、それだけで反核(反戦)の思想を手に入れることはできにくいからである。その証拠に、あれほど新聞やテレビで毎年「原水爆禁止世界大会=反核平和運動」が喧伝され続けているにも拘らず、この国の人々は政権党の唱える「非核三原則」などという幻想に惑わされ、「核抑止論」の信奉者=核武装論者に一票を投じ続けている。「ヒロシマ・ナガサキ」と現実の政治とが本質的に地続きであることに、人々が思い至らないと言えばいいのだろうか。

 たぶん、このようなアンビバレンツな状況が戦後ずっと続いてきたのも、敗戦に至る過程に被った「被害」、たとえば沖縄戦、東京大空襲をはじめとする全国各地の空襲、そして「ヒロシマ・ナガサキ」におけるそれを強調する余り、この国がその近代の黎明期(明治期)から一貫して、アジア・太平洋地域における覇権を求め侵略していった「加害」の側面を軽視する傾向にあったから、としか考えられない。確かに、「自由主義史観」派と称する人たちのように、歴史的にはっきりしているこの国の朝鮮半島や台湾、あるいは中国大陸への侵略を認めない考え方、つまり偏狭なナショナリズム(国粋主義)を鼓吹する勢力も存在しないわけではない。しかし、どんな理由をつけようが、言葉を奪ったり名前を変えさせるような、その民族の「伝統」や「文化」を破壊し、物資を収奪する行為(朝鮮や台湾)や、他人の国に勝手に傀儡政権をつくる(満州)等の行為は正当化できないし、許されることではない。この点を曖昧にして、真のナショナリズム(民族主義)は成立しないはずである。真のナショナリズムは、インターナショナリズムを視野に入れた民族間の「共生」を目指すものだからである。

 「加害」の自覚とその責任の遂行、このことに対する深い洞察がないと、あるいは明確な認識がないと、2で触れた「原子力博物館」の親子連れのように、国際法廷も認めた先のアジア太平洋戦争におけるアメリカの残虐行為に思い至らず(原爆による大量の死傷者の存在に気づくことなく)、核兵器の威力だけを強調するようになってしまい、「反核・反戦」の意識など毛ほども感じられない考え方の持ち主になってしまう可能性がある。

 初期の、つまり原民喜の『夏の花』や大田洋子の『屍の街』、あるいは正田篠枝の『さんげ』、峠三吉の『原爆詩集』、栗原貞子の『黒い卵』等の、「体験」を貴重とする原爆文学の存在は、確かに「被害者」としての原爆の非人間性を告発し、かつ人類を初めて襲った原爆被害の実態を「表現」することで普遍的なものにしたという意味において、後世に残すべき貴重な財産と言うことが出来るだろう。しかし、歴史的な観点からそれらの作品を見た場合、「被害」の側面だけが強調され、戦争が必然化する「加害-被害」の複雑な関係は視野に入っていなかったのではないか、と言わざるを得ない。言葉を変えれば、「反戦・反核」を現実的なものとするための弁証法的思考が、それらの原爆文学からは見ることができないということである。

 「辛い・苦しい・悲しい・悔しい」と言った「被害」体験から発せられる感情は、極端な言い方になるが、当事者でなければ、いくら他人が想像力を駆使しても、その本当のところは分からない。当事者に対して他人のできることは、せいぜいが同情か無関係を装うぐらいである。そんな「被害」体験の本質を考えるならば、「ヒロシマ・ナガサキ」の体験は、戦前-戦後(現在まで)といった歴史的パーステクテイブを考慮せずに対象化することはできず、そうであるならば当然、「ヒロシマ・ナガサキ」は「加害-被害」の関係において捉えられなければならない。先に少し触れた小田実の『HIROSHIMA』は、最後にガン病棟に入院しているウラン鉱山で働いていたインディアンと、その鉱山の下流に住むインディアンの少年、それにアトミック・ソルジャーの三人が、「夢か現か不分明な時」において、ホワイトハウスを訪れていた日本国天皇とアメリカ大統領の頭上に、ヘリコプターから「グランド・ゼロ」から運んできた「死の灰」を撒くというものであるが、ここから判明する作家の意図は、「殺シタ奴ガ殺サレル」という復讐の論理を逆手にとった、「ヒロシマ・ナガサキ」に対して全く責任をとろうとしない最高指導者への痛烈な皮肉(批判)である。当然、ここには「ヒロシマ・ナガサキ」がアジア・太平洋地域へのこの国の侵略の結果であり、そのことを含めて「ヒロシマ・ナガサキ」は「戦争」の全体から考えるべきである、とする作者の明確な思想がある。

 『HIROSHIMA』の物語を構成する主な登場人物にアメリカ人のカウボーイ(B29のパイロット)、父親の故郷広島で勉学にいそしむ日系二世の中学生、故郷を食い詰めて渡日した朝鮮人一家が存在することもまた、この原爆文学に画期をなした作品──私は、80年代初めに発表されたこの小田実の作品と井上光晴の『明日--一九四五年八月八日・長崎』(80年)や『西海原子力発電所』などの作品、および林京子の『祭りの場』以降すべての作品によって、従来の「原爆文学」は「核文学」というのに相応しい質的な変化を遂げた、と考えている--の一大特徴と言わねばならない。小田実はこの小説で、原爆が人種や民族、国境の壁を無化し、その爆発の下にいるすべての人間に「被害」をもたらすことを改めて明示したのである。そして同時に、それは「ヒロシマ・ナガサキ」が突然出現したのではなく、この国の近代における対外膨張史の必然の結果であること、つまり朝鮮半島の植民地支配などに象徴される「加害」と地続きの結果であることも示唆していたのである。

 もちろん、林京子が語るように(神奈川近代文学館が2000年10月に開催した「原爆文学展」でのビデオ放映用の私のインタビューに答えて)、被爆体験を持つ作家が『HIROSHIMA』のような大きな構えの「虚構」作品を書くことは、確かに難しいことかも知れない。しかし、林京子にしても、被爆体験を原点とする作品に自らが少女期を送った上海時代のことや、1985年から3年間を過ごしたアメリカ生活を明確な意思を持って挿入させていることを考えると、やはり「ヒロシマ・ナガサキ」は「加害-被害」の相関において捉える必要がある、と思わずにはいられない。

 となると、どうしても栗原貞子の『ヒロシマというとき』(72年)の重要性を思わないわけにはいかない。

 

 <ヒロシマ>というとき

 <ああ ヒロシマ>と

 やさしくこたえてくれるだろうか

 <ヒロシマ>といえば<南京虐殺>

 <ヒロシマ>といえば 女や子供を

 壕のなかにとじこめ

 ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

 <ヒロシマ>といえば

 血と炎のこだまが 返って来るのだ

 

 「反核・反戦」の意識は、それが強く保持されなければ「未来」を構想することができなくなるという意味で、現代を生きる人間の最低限の条件といっていいかも知れない。「自分自身の感覚とモラルと思想とを、すべて単一に広島のヤスリにかけ、広島のレンズをとおして再検討することを望んだ」と書いたのは、『ヒロシマ・ノート』(「プロローグ 広島へ」65年)の大江健三郎であるが、今最も有効な「ヒロシマのヤスリ」は、特に広島や長崎に直接行くことの出来ない人間にとって、「原爆文学」なのではないだろうか。

 映画やアニメ、あるいは写真や絵画もその直接性という意味では、それなりに「広島のヤスリ」として有効に機能するだろう。しかし、戦後に群馬県で生まれた私が「原爆文学」と深い関係を持つようになったのも、高校生のときに大田洋子の『人間襤褸』に出会ったからというわけではないが、思考の原点であり、何度でも繰り返し簡単に立ち戻ることの出来る「活字=言葉」の世界は、インターネットの利便性とグローバリズムが喧伝されている今日にあっても、なお私たちの本質的な「ヤスリ」として有効なのではないだろうか。

 その意味では、原民喜や大田洋子を初めとする多くの原爆文学作家を生み出した広島で、「広島に文学館を! 市民の会」の人たちが、原爆文学を中心にして「反核・反戦」の意識を涵養せんと考えているのは、被爆地だからという理由を超えて、正鵠を得た運動だと言っていいだろう。

 かつて80年代の初めに文学者の反核運動が盛り上がり、その結果として初めての原爆文学アンソロジー『日本の原爆文学』(全15巻 ほるぷ出版)が刊行された時、「これは世界的な文化遺産である」といった趣旨の発言があったが、あれから20年近くが経って、一向に核状況が改善されることなく、むしろソ連崩壊によって世界構造が危うさを増している現在、「原爆文学」の存在意義は更に大きくなっているのではないか、と思う。「政治」や「経済」が時の情勢によって左右されることを考えると、「ヒロシマ・ナガサキ」を原点として、人間の在り方について様々に多くの示唆を内在させている「原爆文学」は、もっともっとたくさんの人に読まれるべきものである。林京子の諸作品を初め、読み応えのある優れた作品が多いのであるから……。


『長崎平和研究』No.12(2001年11月)、pp.80-94.


注:本稿は、2001年7月28日、原爆資料館メモリアルホールで行われた「原爆文学展〜5人のヒロシマ 記念講演会」(「広島に文学館を!市民の会」主催)での講演(原題「核の現状と原爆文学--グランド・ゼロからヒロシマ・ナガサキを考える」)を文章化したものです。本HP掲載については著者の了解を得ております。