花田俊典先生の急逝を悼んで

水島裕雅


 「第11回原爆文学研究会」の案内をもらったのは6月初めであった。前回と前々回はやむを得ない事情で出席できなかったので、今回は出席するつもりであった。花田先生とは昨年9月に第8回研究会を広島で私たちの「広島に文学館を!市民の会」と共催で開いていただき、またその際に「福岡市文学館のとりくみについて」という講演をしていただいた時にお会いして以来のことなので、久しぶりにお会いできるものと楽しみにしていた。

 翌日大学で台湾の川口隆行君から花田先生逝去のメールを受け取り、目を疑った。その後間もなく、事務局の中野和典君からもメールで6月2日の早朝に心筋梗塞で亡くなられたことと葬儀の日程が知らされ、もはや疑う余地もなくなった。かけがえのない人を失ったという思いに打たれ、しばし茫然としていた。

 花田先生(私自身の直接の先生ではないが、文学館運動を始めいろいろな意味の先達でもあったので、あえて花田先生と呼ばせていただいた)とはじめてお会いしたのは2002年3月末の「第2回原爆文学研究会」の会場であったから、わずか2年3ヶ月ばかり前のことである。川口君の紹介で、前年12月に第1回研究会が九州大学で開かれ、第2回は長崎で開かれると聞いて、久しぶりに長崎を訪ねてみたいと思ったのがきっかけであった。

 私は原爆文学の研究者というわけでもないが、たまたま広島にいて、原民喜の文学を愛好していたこともあり、2001年には「広島に文学館を!市民の会」の代表に選ばれてもいた。広島大学で学んだ川口君が大江健三郎の研究をしつつ原爆文学研究を始め、彼の書いた論文が花田先生の目に留まったのがひとつのきっかけとなり、原爆文学研究会が発足したと聞く。私が花田先生に出会うのもなにかの縁のような気が今はする。

 広島から長崎に出かけ、長崎の原爆文学のこともよく知らない私が活発な議論のなかに入り込み、またそのあとの懇親会まで楽しくつきあえたのも花田先生の自由闊達なお人柄によるものが大きかった。自由になんでも言い合える場を提供する、それが花田先生の信念であった。偏見を廃し、素直に物事を見、古い言葉に新しい命を吹き込もうとされる姿勢に共鳴する人が多かったのではなかろうか。

 丹念に言葉を拾い、証言を見出し、それを位置づけ、公開するというのは花田先生の国文学者としての基本姿勢であり、それが九州の文学者たちの掘り出しにもなった。私はこうした学者が九州にいるのを羨ましく思った。

 実は私と花田先生とはある同人雑誌の仲間でもあった。その雑誌の第3号と別巻の発刊を記念して有志が山口県秋穂に一泊する会があった。2002年の9月のことである。そこでは花田先生といろいろ話し合える時間を持てた。5月にできたばかりの福岡市文学館の話(その立ち上げから、運営の苦労話など)、大学の研究室の話、学会の話など、楽しい話もつらい話もあった。大学の独立行政法人化の話などは楽しくない方の話であった。

 翌日は「中原中也記念館」、ザビエル記念聖堂、瑠璃光寺、洞春寺、常栄寺、八坂神社、築山神社などを回り、最後に花田先生のご希望で嘉村礒多の生家にも足を伸ばした。田舎の農家とこれといった見るべきものもない夕陽のなかの坂道の光景が思い出されるが、花田先生は生き生きと見て回り、ひとり納得しておられた。言葉と場の証言と説得力に関心を持たれた近代文学研究者の本領を発揮されておられるときのお姿はひたむきで、また楽しそうであった。

 花田先生の49日を前にして私は思う。花田先生はたしかに仕事に忙殺されていたが、楽しい仕事の場合は子供の遊ぶような生き生きとしたお姿であった。

 花田先生を死にいたらしめたのは、大学の苛酷な現状ではないだろうか。楽しいはずの研究と教育ばかりでなく、増大するばかりの事務量、少子化のために先細りする一方の大学や中・高等学校と、そのための学生や大学院生の就職の難しさ、等々、花田先生の心臓は喘いでいたのであろう。

 もはやあの優しく人なつっこい笑顔にお会いすることはできないが、幸い原爆文学研究会は続けられることとなった。誰でもが参加でき、自由に発言することができる場を提供するという花田先生の遺志は継がれることになるであろう。また、そうすることで花田先生の笑顔に再会できるのではないかと思う。

 思い出の一端を記し、心からご冥福をお祈りする。

2004年7月15日


『原爆文学研究3』