近代文学の歴史を振り返ってみても、近代演劇の創始者としての小山内薫や、『赤い鳥』を創刊して児童文学史上に不滅の名前を残した鈴木三重吉はともに広島市の出身である。そうした広島が生んだ優れた文学や文学者をなぜ広島の人々は郷里の誇りとして高く評価しようとしないのであろうか。
そればかりでなく、人類最初の被爆地としての広島はその地獄絵巻のなかから数多くの被爆作家を生み出した。こうした原爆がもたらした痛みを後世に伝える資料が多く残されている広島に、いまだに文学館のひとつもないのはなぜであろうか。
広島平和記念資料館を訪れる人は、まずその被害のひどさと恐ろしさを実物と映像によって知らされ圧倒されるが、心有る人々は次にその悲劇のなかで人々が何を考え、何を伝えようとしたかを知ろうと思うであろう。その時に手がかりとなるのはやはり人々が命がけで残した言葉であり、文学であろう。そうした言葉を集め、整理し、公開する文学館がなぜ広島のような大都市に作られないのか。これは大きな謎であろう。
これまでの広島における文学館設立運動を顧みながら、現代における広島の文学館の必要性ならびに現代的意義について考えてみたい。
1 これまでの歩み
広島に文学館を!という運動はこれまでなかったわけではない。私が知っているかぎりでは、すでに15年前の1987年にひとつの大きな運動があった。それは、はじめ「広島の文学資料保全をすすめる会」と呼ばれていて、当時の新聞を見てみると、2月13日にこの会が署名運動を始めたことがわかる。
この会は沖原豊(広島大学学長)を代表とし、発起人に磯貝英夫(広島大学名誉教授)、今堀誠二(広島女子大学学長)、大原三八雄(広島女子大学名誉教授)、北西充(広島大学教授)、栗原貞子(詩人)、好村冨士彦(広島大学教授)、四国五郎(画家)、立川昭二郎(広島修道大学学長)、深川宗俊(歌人)、松元寛(広島大学教授)という10人の大学関係者ならびに文学関係者を並べ、さらに各界の著名人64人の賛同呼びかけ人に支えられた組織であった。
こうした呼びかけはマスコミにも大きく取り上げられ、中央の作家や著名人も署名やカンパに協力し、集められた6,000人の署名を背景に「広島の文学資料保全をすすめる会」は7月14日に「ヒロシマの文学作品にかかわる資料等の調査、収集・保存、及びその施設建設に関する要請」という要請文を荒木市長に手渡した。
ところが、それから平岡市長、秋葉市長と三代の市長にこの会(のちに「広島文学資料保全の会」と略称されるようになった)は文学館建設の要請を続けたが、主として財政的理由で実現しなかったのである。
この時(1987年)の要請文には「現在、有名・無名を問わず、広島の文学作品、作家の資料、遺品は遺族や友人たちの手にまかされ、保存状態は十分とはいえない状況にあります」とあり、資料の保存の不完全さを指摘し、つぎに「このままでは散逸のおそれがでてきています」と述べている。当時は戦後42年たった時期であったが、すでに資料の劣化や散逸の恐れが指摘されていた。そして要請文はつぎのように締め括っている。「私たちは、こうした状況をかんがみ、ヒロシマの文学作品など(手記・日記・遺品等をふくめた)にかかわる資料の調査及び収集・保存を行政の責任によって早急に着手すべきだと考えます。また、これらを後世に残し継承、広く国民に公開していくことは私たちに課せられた責任でもあると考えています。これまでのヒロシマを再認識させ、平和意識を高めるためのご努力に敬意を表するとともに、市民的財産として、ヒロシマの文学作品にかかわる資料等の調査、収集・保存、及びその公開のための施設の建設を心から要請するものです。」
残念ながら、広島市はこの要請文に応えて資料の収集・保存を市の責任において行おうとはせず、文学館の建設は実現しなかった。当時の広島市の責任者の認識は「広島の文学資料としていったい何があるのか」といった程度の認識しかなかったのである。
実際、広島ではこれまでそうした郷土の文学作品を評価し、文学資料を収集する努力をしてこなかったので(戦後の焼け野原から立ち上がるために広島は他の都市より多くの努力を必要としたということを感じざるをえないのであるが)、戦後40年以上たっても、郷土の文学を正当に評価することもできないでいたのである。そこで、この会の人々はこの機会に主として散逸の恐れが多い原爆文学や被爆記録の収集を始め、多くの賛同者の協力により、1万数千点の資料を集め、文学館ができるまでの保管場所として広島市立中央図書館を選び、それらを寄贈したのである。しかし、こうした資料の調査、収集・保存、研究・公開という仕事は図書館の本務ではないので、残念ながら貴重な資料は空しく図書館の一室に積まれたままになってしまった。
2 なぜ文学館がこれまで作られなかったのか
たしかに、文学館運動が始まった時期が少し遅く、世の中の流れに乗り遅れたということがあったかもしれない。今思えばバブル景気に乗り遅れ、メセナと呼ばれる企業の社会貢献時代にも間に合わなかった。美術館や音楽ホールはいくつかできたが、広島では博物館構想も実現できないままになっている。
だが、文学館というものは本来景気に左右されるものであってはならない。また、広島市に財源がなかったというわけではないことはシャレオと呼ばれる紙屋町地下街建築のために広島市が430億円を費やしたことからも明らかである。文学館自体はその十分の一ぐらいの予算で作ることは可能であるからだ。要は広島市が何を優先するかにかかっている。
しかしながら、現在の世の中の不景気とそれによる広島市の財源難が問題であることも事実であろう。「無い袖は振れぬ」というのがお定まりの言葉である。現在の状態では知恵を絞るしか方法はないようである。
3 旧日本銀行広島支店の有効活用案について
2000年の秋のことであるが、広島市はその広報紙である「市民と市政」において旧日本銀行広島支店の有効活用案を市民に求めた。「広島文学資料保全の会」の人々はここに光を見いだすとともにあせりも感じた。それはこの会の人々はかねてこの旧日銀広島支店を広島市が買取り文学館とすることを提唱していたからである。
たとえば、この会の代表幹事で実質上の運営者であった好村教授は1987年3月27日の『中国新聞』紙上に「広島に文学資料館を」という文章を寄せ、つぎのように述べている。「私たちは東京の日本近代文学館のようなものを建ててほしい、とまで贅沢を言うつもりはない。たとえば、いま保存への要望が出ている日本銀行広島支店(広島市)の建物などを市が買い上げて、内部に少し手を入れれば、立派な文学館として生きるのではないかと、素人考えかもしれぬが、私は考えている。そうなれば、すぐ裏の頼山陽の旧居跡も、この文学館の付属の施設として、ともに生かすことができるだろう。そういう文学館が造られれば、平和都市広島にふさわしい文化の中心が、またひとつつけ加わることになる。」旧日本銀行広島支店を文学館にしてほしいという希望はすでに17年余前から提出されていたのである。
この建物は被爆建物であり、また原爆にもびくともしなかった堅固な建物である。その建物が広島に残された数少ない被爆建物として、また昭和初期を代表する建物として広島市の特別史跡に指定されたので、日本銀行がこの建物を広島市に無償で貸与することになり、広島市は市民に有効活用案を求めた。「市民と市政」に2回にわたって掲載されたその文章を読んだ「文学資料保全の会」の人々があせりを感じたのは無理のないことであろう。つまり、広島市が文学館建設の要請を断り続けてきた大きな理由は財政難であったが、この旧日銀広島支店の市への無償貸与による有効活用案として文学館が採用されなければ当分の間文学館建設は不可能になる。しかしながら、原爆文学ひとつを取ってみても、被爆後59年以上たち、被爆者はさらに高齢化し、すでに多くの方が物故している。それにつれて被爆記録は散逸しつつある。また、すでに「文学資料保全の会」の努力で収集された1万数千点の資料も中央図書館の一室に積まれて空しく劣化しつつある。この旧日銀広島支店の有効活用案の募集という機会を逃しては、貴重な文学資料は存在価値すら考慮されずに無と化してしまう恐れがある。「広島文学資料保全の会」の人々はどうしたらよいのか悩んだ。
4 「広島に文学館を!市民の会」の結成
「広島文学資料保全の会」の人々は会の結成後15年もたち、すっかり高齢化していたばかりでなく、実質的に事務局を引き受けてくださった尾津訓三氏が亡くなり、会の運営も難しくなっていた。このままでは「文学資料保全の会」のこれまでの努力も実らぬまま、文学館運動もたち消えてしまうであろう。そこで「広島に文学館を!市民の会」の準備会を立ち上げ、会員を募るとともに、ともかく旧日銀広島支店の見学から始めようということになり、2001年の1月にはじめて市民に公開されたこの建物の見学会をおこなった。その時集まった20余人に声をかけ、隣の頼山陽史跡資料館で正式に「広島に文学館を!市民の会」を結成し、私がその会の代表に選ばれた。
市民の会のまずなさなければならないことは広島市が呼びかけた旧日銀広島支店の有効活用アイデア募集に応募することである。そこで会員の意見を聞き、会員にも独自に市にアイデアを出すことを求めながら、市民の会としても秋葉市長と広島市役所企画調整課にあてて次のような要請文を出すことにした。
広島市長秋葉忠利 様
広島市役所企画調整課 様
旧日本銀行広島支店の「文学館」としての活用を
私たち「広島に文学館を!市民の会」は、平和文化都市・広島に「文学館を!」という素朴な願いから発足した市民団体です。広島市ほどの大きな都市に、また原爆がもたらした痛みを後世に伝える資料の多くが遺されている場所でもあるこの地に、いまだ「文学館」のひとつもないのは市民として残念なことです。
これまで「広島文学資料保全の会」など市民の努力によって、峠三吉・原民喜・正田篠枝などの貴重な資 料が中央図書館に寄贈されてきましたが、これを生かし、保存・公開・研究する場はありません。これまで市が「文学館」は不要であるとの口実にしてきた中央図書館の「広島文学資料室」は手狭であるばかりでなく、せっかくの貴重な資料の有効活用にはほど遠く、関係者は心を痛めているのが現状です。
このたび旧日本銀行広島支店の建物が広島市に無償貸与され、その有効活用策が今夏までにまとめられると聞きました。旧日銀広島支店の建物は、広島市内に現存する数少ない被爆建物であり、昭和初期を代表する希少な歴史的建造物です。また、隣接する頼山陽史跡資料館や近隣の平和記念公園と平和記念資料館とリンクすることで、この一帯は広島の歴史・文学・文化ゾーンとなる可能性があります。この文化財としての建物を「文学館」として活用することで、私たち広島市民は広島の歴史と思想を継承するのにもっともふさわしい空間を得られることになるでしょう。
現在、多くの市民から旧日銀広島支店の活用のためのアイデア・意見 が寄せられていると聞きますが、原爆文学を中心としながら、さらに近代の郷土作家ならびに郷土に縁のあった作家の作品を文学の諸ジャンル (小説、詩、短歌、俳句、川柳、評論、随筆、被爆者手記、児童文学、戯曲、映画シナリオ、漫画、アニメーションなど)にわたって集められ、その保存、公開、研究がなされる「文学館」としてこの建物が活用されることを私たちは強く要請いたします。
原爆の証人たちは次第に減り、人々の記憶はうすれてゆきますが、そうした記憶の消滅を防ぎ、時代と人を照らし出すものは文学であります。政治では汲み尽くせぬ可能性が文学にあるならば、そうした文学から時代を越えて一つ一つの貴重な記録を蘇えらせることのできるのは、今を生き、将来を生きる一人一人の市民です。広島の過去と現在をつなぎ、これまで の広島を築き上げた先人とこれからの広島をもり立てていく若い世代とをつなげる場、歴史的に貴重な文学を忘却から守る一方で、文学を通じて市民が交流できる場、これから生まれてくる広島の文学を育て、人類の未来にメッセージを発信する場―の創造めざして、旧日本銀行広島支店を「文学館」として活用することを重ねてここに要請いたします。
2001年1月26日 広島に文学館を!市民の会 代表 水島裕雅
そして、その要請文を1月26日に企画調整課に提出することを市役所内の記者クラブに予告しておいたところ、予想以上にテレビ局や新聞社が集まってくれて、当日ならびに翌日にはさまざまな形で報道されたのである。私たちの広島に文学館がほしいという希望に少し光明を見出し、とりあえず第一歩を踏み出したのであった。
5 市民の会のその後の歩み
「広島に文学館を!市民の会」はこのように2001年1月に立ち上がり、広島市に要請文を提出したが、つぎに市民の会としてはなにをするべきかいうことになった。ひとつはこの会の趣旨をなるべく多くの人に知ってもらい、会員を増やさなければならない。そして私たち自身が広島の文学についてより深く広く知る必要がある。そのために、朗読会をしたらどうかというアイデアが出され、実行に移された。ともかく、広島の場合は「原爆文学」を抜くわけにはいかないであろうというので、「原爆文学」に焦点をしぼり、月に1回「朗読会/広島の文学を語る」というシリーズを続けようということになった。
3月に峠三吉、4月に原民喜、5月に栗原貞子、6月に正田篠枝、7月に大田洋子という5人はすぐに決まった。幸いこの朗読会のこともマスコミが取り上げてくれたので、毎回会場は満席となった。そして、会員も150人を越えるにいたった。
つぎに何をなすべきか、これは朗読会をしているうちに自然と決まっていった。旧日銀広島支店の本格的活用案が確定するまで、広島市はこの建物を市民に無料で貸し出すことになり、その申し出を3ケ月前から受け付けるという広報がなされたので、8月6日前後に2週間ほど朗読会で取り上げる5人の作家に絞った「原爆文学展」をしたらどうかという案が皆の支持を得て、ともかく誰でもがはいれる実行委員会方式で行おうということになり、10余人が名乗り出てくれた。予定の7月までには数ケ月しかなかったのであるが、実行委員会の方々は精力的に活動してくれた。その結果、広島市の企画を優先するという企画調整課の方針のため多少変則的な日程になったが、2001年の7月21日から26日、8月2日から7日の、計12日間「原爆文学展〜5人のヒロシマ」が開催され、連日最高気温が35度を越すという酷暑にもかかわらず3,300人以上の人々が来館され、冷房施設もない建物のなかで熱心に見て、多くの方が広島に文学館を作ってほしいと書き残してくださったのである。私たちはこの成果を見て広島に文学館が欲しいという市民の要求は強くあると感じた。
しかしながら、その後再三にわたる広島市への要請にもかかわらず広島に文学館ができるには至っていない。
6 広島の文学館の現代的意義
「原爆文学展〜5人のヒロシマ」の開催後1月ほどした9月11日にアメリカで同時多発テロが行われ、世界は報復に報復を重ねる暴力の時代へと逆戻りしていった。言葉と理性とによる相互理解から問答無用の暴力優先の時代になってしまったことを悲しむ人は多かろうが、何よりも広島・長崎の被爆者たちの悲しみとあせりを私は感じるのである。
原爆による無差別大量殺戮のあとで広島・長崎の被爆者たちが命がけで伝えようとしたのは、アメリカへの報復ではなく、戦争の愚かさであり、死者たちと生存者たちの嘆きと悲しみであった。
たとえば、原民喜は広島で被爆し、その実相を人類最初の原爆小説「夏の花」で描いたあと、「廃墟から」と「壊滅の序曲」を書き足して、「夏の花」三部作とした。なぜ彼は被爆の実相を描くだけではなく、その前後を書き足したのか。また、「夏の花」の最後に突線出てくるNの挿話や、同じく一人称体の「廃墟から」の最後に出てくる三人称体の槇氏の話はなぜ必要なのかなど、この三部作は多くの謎を含んでいる。
私の解釈では、一人称体の小説に三人称体の挿話が流れ込む構造は後の原の「鎮魂歌」のような何人もの声が次々と語り出す小説とつながり、原爆以後「私」という語り手の個人的な物語は不可能になったという彼の認識を明らかにしていると思うのだが、いかがであろうか。
また、「壊滅の序曲」で原家そのものと思われる森製作所のゴタゴタを書き加えたのは、戦争は各人のエゴイズムの積み重ねによるという原の戦争観を描きたかったからではないかと思う。そこには「戦争によって栄耀栄華をほしいままにして来たものの姿」として嫂が描かれることで、戦争の問題は他人の問題ではないという彼の透徹した認識が明示されているのである。このようにして原は原爆の問題を人類の問題として捉え直したのではないだろうか。
広島・長崎に原爆が投下されて以来60年近く経ったが、核拡散の傾向やアメリカの核政策の見直し等によって、核の脅威はますます高まっているように思われる。いや、すでに湾岸戦争以来、今度のイラク戦争にいたるまで、劣化ウラン弾という核兵器は大量に使用され、イラクばかりでなく、アメリカや英国などの従軍兵士にいたるまで放射能による死者や被害者が大勢出ているという。また、放射性ウランの半減期は45億年というとてつもない長さなので、ある意味では人類総被爆の時代になったといえるのである。
そうした核時代における人類の問題を解明し、先人たちの苦しみと努力を知るために、現代でもっとも重要な原爆文学作品を収集し、研究し、公開する文学館が広島には是非必要だと思う。
来年は被爆60年になるのだが、私たちは旧日本銀行広島支店ならびに現レストハウス(旧大正屋呉服店)などを視野に入れた文学館の設立運動と、ホームページによるヴァーチャル「広島文学館」構築に力をいれている。
「広島に文学館を!市民の会」の活動や提案などを詳しくお知りになりたい方は次のホームページをご覧下さい。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn
(みずしま ひろまさ/広島大学大学院教授、「広島に文学館を!市民の会」代表)