昨年(二○○五年)は第二次世界大戦終了後六○年の年にあたった。ということは、日本の敗戦後六○年であり、広島・長崎にとっては被爆後六○年の節目を迎えたことになる。日本では「還暦」、あるいは「本卦還り」という言葉が使われるように、六○年というのは中国伝来の考え方である干支の一巡に当たり、大きな節目を意味してきた。そのためか、昨年はさまざまな催しが見られた。平和運動が高まる一方では憲法改正論議も高まりを見せ、自由民主党は結党五○年と相まって憲法改正草案を起案した。
こうした年に、広島では二人の作家の文学展示がなされた。一人は今年の三月六日に九二歳で亡くなった栗原貞子の「追悼 栗原貞子文学資料展」(「広島に文学館を!市民の会」主催)であり、もう一人は生きていれば一一月に生誕百年を迎えるはずであった原民喜の「原民喜生誕百周年祭 文学回顧展」(「広島花幻忌の会」主催)である。二人の文学展は二つの市民団体と「広島市まちづくり市民交流プラザ」との共催の形で行われたが、企画、展示、解説などすべての運営は市民団体によってなされた。このことは広島に文学館がないという状況がもたらしたことでもあったが、広島の文学を大切にし、日本ならびに世界に戦争と原爆のもたらした悲惨な事態を伝えるための広島市民の行動でもあった。
栗原貞子の没後四ヶ月経って『栗原貞子全詩篇』が土曜美術社から刊行された。この度ようやく初期作品から晩年の作品まで通して見ることが可能になったので、栗原貞子の作品を初期作品から通して考察してみたい。また、彼女の文学的営為を原民喜の場合と比較して考察してみたいと思う。栗原は原民喜の自殺後間もなく「私たちは原民喜の文学を愛しながら、それ故にもっとつよく生きてほしかった。(中略)「広島の若い世代よ、私の屍をのりこえて行け」死者に声ありとせばそのように言うだろう」(1)と書き、その言葉通りに彼女自身、原の「屍をのりこえて」行った一人であると思うからである。
二 詩人・歌人としての栗原貞子の出発点 抒情詩と叙事詩の結び付き
栗原貞子(旧姓土居)(一九一三〜二○○五)は広島市可部町の農家の出身であるが、広島県立可部高等女学校時代から詩や短歌を書き始めた。先に述べたように『栗原貞子全詩篇』に初期詩編や短歌、散文詩ならびにノートなどが収録されたことで、はじめてその初期作品の全貌が明らかになったので、まず初期詩編、短歌を見ることで、その出発点について考察してみたい。以下、『栗原貞子全詩篇』による場合は、引用の後に引用した頁を括弧内に記すことにする。また、原民喜の場合は『定本原民喜全集』全三巻、別巻一(青土社、一九七八〜七九年)により、やはり引用の後に巻数(ローマ数字)と頁数を記した。
『栗原貞子全詩篇』で「青春時代(1930-1931)」と区分された詩歌を見ると、その多くは「恋の歌」あるいは「恋を夢見る」歌である。たとえば「ゆく五月」(『中國新聞』一九三○年五月一二日の「文藝」欄に掲載)と題された詩の第二詩節を見ると、つぎのように甘味な恋が歌われている。
何もお言ひにならないで
さくらんぼの甘さより
ふたりのこひが
甘味だつたことを
誰が知つてゐるでせう。(二七頁)
それは短歌の場合も同様である。たとえば、『中國新聞』同年六月二三日の「文藝」欄にはつぎのような歌が載っている。
新緑のしづもりてありこの夕べ甘きいたみを胸におぼえつ(二八頁)
このように、日本の伝統的な短歌的抒情、あるいは森鴎外らの『於母影』以来の抒情詩の伝統により恋の詩を栗原は作り始めていたが、アナキストで準禁治産者であった栗原唯一との出会いによって、そうした夢見る恋の詩歌は具体的で切実な恋の詩歌となっていく。
吐く息とすふ息の間のたまゆらも君の面影はなれずなりぬ(『中國新聞』同年一二月一二日)(三八頁)
人戀ひて木枯荒るゝ夜の道もをみなご我はたへて來しかな(『中國新聞』一九三一年一月一九日)(同頁)
ただ、こうした恋の歌の間にすでに労働や労働者の苦しみを歌うものが混じっていることが注目される。
鐵道の修繕工夫のうちあげしつるばしのははみなみな光る(『中國新聞』一九三○年九月二二日)(三二頁)
ほの甘き飯の匂ひの哀しさよこれゆゑあえぐ人等いくたり(『中國新聞』同年一○月一三日)(三三頁)
こうした人を愛する心と社会の弱者への関心は、一九三一年一二月にアナキストで準禁治産者であった栗原唯一と結婚したことにより、さらに深まったことと思われる。両親の反対を押し切っての結婚、そして貧困のなかでの長男の死亡(一九三四年)などの経験を経て、弱者への共感、抑圧者への批判、自由への希求は高まっていったであろうと思われるが、彼女の青春・結婚時代は、満州事変(一九三一年九月)に始まり、日中戦争・大東亜戦争(太平洋戦争)へと戦争が拡大し、言論の自由のない暗黒の時代となっていった。
そうした時代に栗原貞子はノート「太陽/戦中編(1935-1943)/さだこ」「あけくれの歌(一九四五・一)」を残している。そのなかには数多くの短歌と詩とメモ的な文章が書かれている。創作当時には発表できなかったが、そこには戦後になって刊行された彼女の初の詩集『黒い卵』(中国文化叢書、一九四六年八月)に収録されたものも含まれる。ここでは、中国文化叢書版『黒い卵』に発表しようとして米軍の検閲で削除され、のちに人文書院版『黒い卵』(一九八三年七月)に初めて収録された「巴里陥落、ヒットラー」一一首の中から三首を引用しよう。
英国の業のゝしりつその国に代わらんとする口はのごえど(四三頁)
笑止なり防共と云いてつながりし国等が持てる国に挑めり(四三頁)
次々に小国ほうりて勝ちおごるヒットラーに拍手送る人の多きも(四四頁)
これらの歌の最後には「(一五・六)」と制作年月が書かれており、ナチスドイツの昭和一四年九月のポーランド侵入による第二次世界大戦の開始と、その後の対フランス戦争の勝利によるパリ入城(昭和一五年六月)を鋭く批判していることがわかる。その批判の矛先は単にヒトラーのみならず、彼と手を組んだ同盟国の日本やイタリアの国と国民にも向けられ、また「持てる国」という言葉によってイギリスやフランスなどの先進資本主義国家にも向けられている。
以上のように、栗原貞子は戦前・戦中を通して「愛」の詩人であり、歌人であった。その本領はこうした抒情の詩歌にあったと思われるが、愛と怒りの強さゆえに弱肉強食の軍国主義に対して黙して語らないではいられなかった。そこに抒情詩と叙事詩の結び付きが見られ、戦後の彼女の詩(たとえば「生ましめん哉」など)に発展してゆく。
そうした反戦・平和主義、弱者への暖かい眼差し、そして抑圧する者への抵抗は広島の生んだ優れた抵抗作家・原民喜と共通するものがあるので、項を改めて考察してみたい。
三 栗原貞子と原民喜
栗原貞子と原民喜(一九○五〜五一)は二○世紀の初頭に広島市に生まれた。広島市は日清戦争で軍都となり、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争と相次いだ戦争によって拡大していった。そのなかで両者は共に反戦・平和主義の作家として成長していった。
まず二人の共通点を挙げてみよう。両者は共に広島で被爆し、「原爆作家」、「被爆作家」と称された。そして共に戦後は反核・平和主義者として創作活動を行った。また、両者は戦中にすでにノートや手帳に同盟国ドイツの独裁者ヒットラーやイタリアのムッソリーニへの反感・憎しみを表現している。(2)さらに両者は共に地球壊滅の予感におびえていた。また、両者は特高警察や右翼などによる弾圧を受けている。(3)そして、二人とも結婚による家族への愛を歌っている。また、両者の作品には、「青空」「鳥」「川」などのイメージの多用が見られるが、このことについては次章で述べることにする。
共通点ばかりを先に挙げたが、無論相違点も見られる。原は栗原より八歳年長で、学生時代から東京へ出て、同人誌を中心に創作活動を行い、戦時下でも発表を続けていた。栗原は広島で新聞や雑誌に投稿していたが、戦時下での栗原の作品の多くはノートに書き付けられたものであり、戦後になってから発表された。原は抒情詩から小説に進む一方で俳句を残したが、栗原は短歌と抒情詩から出発して次第に叙事詩を多く書くようになった。原は広島市内の陸海軍官庁御用達の名家の出であり、戦争の度に繁栄する軍需産業の家で育った。そのことは原の不安な感情や精神と結び付き、学生時代から「杞憂」という号を持つまでに至った。一方栗原は可部町の農家の出身で、農作業を歌った詩や短歌も見られる。無論、原は男性であり、栗原は女性である。原は最愛の妻を失ったあとは子供もおらず孤独な生活を送ったが、栗原は長男を失ったあと長女と次女に恵まれ、夫唯一も一九八○年(貞子六七歳)まで生存していた。そのほかにも原は四八歳で自殺したのに対して、栗原は九二歳で病死したように、早世と長寿の違いが見られる。
栗原は原との違いを「死と生と」という詩において歌っている。この詩は『原爆文学史』(風媒社、一九七五)を書いた長岡弘芳(一九三二〜八九)の自殺を悼んだものであり、「長岡弘芳氏を悼む」という副題を持っている。その第二詩節はつぎのように始まる。
民喜が天から墜落した人間で
あなた(長岡弘芳・筆者注)は天に舞いあがった男で
二人ともこの世の汚辱にはのれず
自分の方から この世には
用のない人間だからと
逝ってしまった(四八八頁)
そして最終の第五詩節では栗原は自分の長寿をつぎのように歌い、生き残った者の覚悟を述べるのである。
おぞましい私よ
天からも墜落せず
天にものぼらず
地を這って生きねばならぬ
そして生きられなかったひとの
見られなかったものを
この眼にいれねばならぬ(四八八〜九頁)
この詩は『文学時標』(一九八九年九月一五日号)に発表されたものであり、原民喜と同じく自殺し早世した長岡弘芳を悼んだ詩であるが、長岡を「天に舞いあがった男」と歌ったのに対して、原を「天から墜落した人間」と形容したことは栗原の原に対する認識を明らかにしていて興味深い。その一方で栗原は自分自身を「おぞましい私よ」と形容していることにも関心を引かれる。「おぞましい」には「鈍しい」と「悍しい」の二種類の漢字の当て方があり、どちらであろうか。「鈍しい」は「にぶい、おろか」という意味でつかわれ、「悍しい」には「悍馬」などに見られるように「感じがきつくて恐ろしい」とか「我が強く、強情である」の意味がある。「天にものぼらず/地を這って生きねばならぬ」からは「鈍しい」を連想させ、「そして生きられなかったひとの/見られなかったものを/この眼にいれねばならぬ」という詩句からは「悍しい」の強い意志に転じていくものを感じる。自嘲する言葉と自負する言葉がまじったのがこの「おぞましい私」ではないだろうか。
このように、原と栗原にはいくつかの共通点と相違点を見ることができるが、二人は共に日本の近代文学史上に反戦・平和・反核の作家として広島が誇ることの出来る作家であると言えよう。また、両者の詩作の根底には恋人や家族(夫、妻、子ども)などへの愛情を基にした人類やその未来を築く子ども達への深い愛情があることも指摘しておきたい。
四 イメージ・シンボルとしての「青空」「川」「鳥」
『栗原貞子全詩篇』を読むと、「青空」や「川」や「鳥」のイメージがよく使われていることに気づく。そして、それらのものを原民喜もよく用いていたことを思い出す。二人はともに広島で生まれ育った。広島の自然・風土は共通のイメージを二人の詩人にもたらしたといえるであろうが、しかし両者のイメージが表しているものはかなり違うようである。つまり、それらのイメージのシンボル性について、比較して考察してみよう。
1「青空」
原の「青空」は幼年時の汚れなき世界や、母親と姉ツルの思い出とつながり、純粋な愛情の世界を意味していた。このことについては拙著『青空 フランス象徴詩と日本の詩人たち 』(木魂社、一九九五年)のなかで「原民喜の青空」として詳述したので、今回は論じない。
一方、栗原の場合も「純粋なもの」の象徴として「青空」が存在していたことはつぎの初期短歌より明らかであろう。
純粋なものへのあこがれ秋空の濃い青さに消えも入りたい(四九頁)
しかしながら両者は日本の軍国主義とアメリカの落とした原爆とによって純粋な世界に生きることが困難になる。
原は大正一五年(一九二六年)に兄の守夫と作った雑誌『沈丁花』ですでに「杞憂亭」という号を使って俳句、詩、散文、日記などを発表している。「杞憂」とは中国の古典『列子』のなかにある故事で、天地が崩れ落ちることを心配した杞という国の人の憂いを意味し、日本でも「無用の心配」とか「取り越し苦労」という意味で使われているが、彼は慶応義塾大学の学生時代からこの号を使い始め、「杞憂亭」とか「杞憂亭民喜」と署名していた。また「杞憂」という俳号で昭和一○年代に多くの俳句を作り、「枯野の巻」「枯草の巻」という歌仙二巻を宇田零雨、佐々木基一らと巻き、また「杞憂句集 その一」と「その二」を残している。
被爆後の原の「青空」は単純ではない。夏の晴れた青空から突然原爆が投下されることで、青空は地球壊滅の惨状までをも想像させるものとなる。被爆後の原は魂の救済も許されない世界の破滅の不安に襲われながら、「青空」に無限の世界と魂の救済の象徴を見ようとする。たとえば、「鎮魂歌」(『群像』一九四九年八月号)は「僕」という人物にいろいろな声が聞こえてくるという構成であるが、その一つの「伊作の声」はつぎのように言う。
突然、僕のなかに無限の青空が見えてくる。それはまるで僕の胸のやうにおもへる。(中略)今、僕の胸は固く非常に健やかになつてゐるやうだ。たしかに僕の胸は無限の青空のやうだ。たしかに僕の胸は無限に突進んで行けさうだ。僕をとりまく世界が割れてゐて、僕のゐる世界が悲惨で、僕を圧倒し僕を破滅に導かうとしても、僕は……。僕は生きて行きたい。(・一二一頁)
しかし、そうした伊作の声は、「世界は割れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ。僕は理解できない。僕は結びつけない。僕は揺れてゐる。」(・一二三頁)と変化し、伊作も作者もすべてに確信を持てず揺れている存在となっていく。
それに対して栗原は「青空」を通して希望や理想を歌い、人間の尊厳を失うまいとする。空襲によって日本の国土は焼かれたが、その上の「青空」は焼かれていない。栗原は歌う。
国中の街々は黒く焼け払われ
その上に
青い空が森閑としずもる(「原爆で死んだ幸子さん」一六七頁)
その空を暗くするのは人間の愚かな行為である。
空は暗らく沈んだまま
時おり東と西に不気味なきのこ雲を浮かばせ
血色の火焔を放射する。(「新緑はもえている」一六六頁)
原爆投下を体験した広島の上にも「青空」はあった。しかし、その空も日米合同軍事演習によって汚されるようになる。「廃墟の上の青い空を」(一九八七年九月二五日作)では、つぎのように歌い出される。
いちめんの黒焦げの廃墟は
いく万の死者を埋没していたが
それでも青い空がかかっていた。(四六二頁)
そして日本は朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て復興し、経済大国となる一方で、労働者は分断され、戦争体験者は老い、若者は理想を失いあてどなく彷徨している。また、地球は「核戦争三分前の予定された絶滅の大廃墟」(同頁)となろうとしている。すでに「青空」は見られなくなっている。
核を積んだ艦船は日常的に
入港し、日米合同演習が
日本の空や海で展開され
青い空はもうどこにも見られなくなった
だが、栗原は絶望をせず、「青空」をとりもどそうと歌う。(四六三頁)
けれど耳を澄ますと
うたごえがきこえてくる
青い空をもういちど
とりもどそう。
人間であることを放棄すまいと。(同頁)
この詩には栗原の理想と現実認識が歌われている。たとえ原爆に遭おうとも、理想を失わない限り「青空」はあるが、経済大国となって繁栄しているようでも理想を失えば「青空」は暗くなり消滅する。現在の日本はすでに理想を失っているが、「人間であることを放棄」してはいけないと栗原は歌う。原の絶望した時点から再び反攻しようとするのが栗原の「青空」に託した思いである。
2「川」
広島は太田川のデルタに発達した町である。太田川はかつて七つの支流に分かれ、その流れの清さと美しさを誇っていた。原民喜はその川岸に育った。川は澄んでいて、泳いだり、川蝦を捕ったりした幼少年時代の思い出とつながっている。しかし、そうした美しい川の思い出も原爆により一変する。
天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガナガレテヰル
オーオーオーオー
オーオーオーオー(「原爆小景」(『近代文学』一九五○年八月号)より「水ヲ下サイ」の一部)(。・二六頁)
川ノミヅハ満潮
カイモク ワケノワカラヌ
顔ツキデ 男ト女ガ
フラフラト水ヲナガメテヰル(同上「燃エガラ」の一部)(。・一八頁)
川は血に染められ、死体を浮かべて流れている。生き残った人間も放心してなすすべもなく水を眺めているばかりである。
一方、栗原は太田川の上流の可部町字上町屋の農家に生まれ、山と川と畑のある里村で育ったが、結婚後各地を転々としたあと、一九四四年七月に太田川沿いの祇園町に疎開し、四五年三月に祇園町長束に転居した。栗原が原爆に遭ったのはこの爆心地から四キロメートルの長束の家においてである。その後三日して隣家の女学生の遺体を引き取りに市内に入りさらに被爆するとともに、広島の被爆の惨状を見ることになる。「原爆で死んだ幸子さん」はそのときの体験から生まれた。栗原はその被爆体験を繰り返し歌う一方で、傷ついた川がふたたびよみがえることをも繰り返し歌っている。たとえば、一九六六年一一月にRCCの芸術祭参加作品として作られた「川」(二五○〜二五三頁)は「おごそかにつらなる山々」に始まり、「鳥がはばたく翼の下に/藍の色たたえる 始源の流れ」と川の誕生が歌われる。ついで幼年時の追憶の川となり、また恵みをもたらすとともに洪水をもたらす川ともなり、涸れた川ともなる。さらに川は「いくさ」にも巻き込まれ、原爆によって「空も川も/街も/焼け果てた〈焼け果てた〉」が、平和の回復と共に川はよみがえる。「川は 青空をうつして/傷をいやし」「七つの川は ゆるゆると/川の街を ゆるやかに流れ/ふたたび未来をつくる」。この「川」という作品は自然と人間の営みを平行させて歌い、「人間のよろこびやかなしみを秘め」て流れる川に人類の未来の夢を託そうとする栗原のねばり強い「流動の思考」が見られる。この長詩の最後の六行を引用しよう。
流動の思考よ
人間のよろこびやかなしみを秘め
つきせぬ流れ
永劫に流れて
〈流れて 流れて〉
やまず(二五三頁)
このように、栗原にとっては「川」は傷つきながらも「青空」によって純化され、未来につながる永劫の生命の象徴となっている。原民喜の作品が被爆後は次第に絶望的な死の世界へと引き寄せられていくのに対して、栗原貞子の詩はつねに現実を批判して、明るい未来を、子どもたちに託そうとする。その向日性が「川」のイメージにも流れている。
3「鳥」
原民喜にとってそうした「青空」を飛ぶ鳥は死者の世界につながるものであったり、死者の魂であったり、死んだ自分自身であったりする。それは、『古事記』や『万葉集』などの古代人が歌ったシャーマニズム的世界とつながりながら、近代人の死の不安をイメージ化したものとなっている。
たとえば、「行列」(『三田文学』一九三六年九月号)では、主人公の文彦は死んでいて、死んだ自分の葬式を見るという話であるが、死骸を棺桶に入れ、蓋をすると綺麗な小鳥がやってきて、「文彦はもう鳥になつてしまひました」(氈E一八二頁)と母は真顔で呟く。また、「暗室」(『三田文学』一九三八年六月号)には多くの動物が登場するが、最後の場面は、主人公の「しん」が鳥になり、すでに死んでいる夫も真っ白な鳥になり、まわりの人々も鳥になって飛んでいくのである。こうした死んだ人間が鳥になる話は原の戦中の作品に数多く見られるが、被爆後はリアリズムに徹することでしばらく姿を見せなくなる。しかし、「鳥」のイメージは原のもとを去ったわけではなく、今度は日常の生活や未来の平和を象徴する「小鳥」のイメージとして登場する。たとえば、「鎮魂歌」では語り手の「僕」の「頭の高原地帯」に突然歓喜がわき起こり、つぎのように思う。「生きること、生きてゐること、小鳥が毎朝、泉で水を浴びて甦るやうに、僕のなかの単純なもの、それだけが、ただ、僕を爽やかにしてくれる。」(・一一六頁)そして、この死者たちの嘆きに満ちたこの作品はつぎのように未来への希望を「花々」と「小鳥たち」に託して終わる。
明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだらう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもつてそこを通りすぎるだらう。(・一四四頁)
原の最後の作品の一つとなった「心願の国」(『群像』一九五一年五月号、没後発表)は、「夜あけ近く、僕は寝床のなかで小鳥の啼声をきいてゐる。」(・三二八頁)で始まり、小鳥に生まれ変わって小鳥たちの国を訪ね、小鳥になっている親しかった者たちと出会うことを夢想する。そして、地球の未来を想像し、人類の「破滅か、救済か、何とも知れない未来」(・三三○頁)について考える。この作品はつぎのような雲雀になることを夢みる場面で終わる。
僕は今しきりに夢みる、真昼の麦畑から飛びたつて、青く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか、それとも僕のイメージだらうか)雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇つてゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃焼がパツと光を放ち、すでに生物の限界を脱して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃焼し、すべての刹那が美しく充実してゐたなら……。)(・三三五頁)
「雲雀」の「青空」に登ってゆく姿は自分の「心願の姿」であると原は言う。原にとって「鳥」は死者のイメージであるとともに、平和な日常生活や充実した作家の理想のイメージでもある。
一方、栗原の「鳥」は「飛翔=自由」の象徴として歌われることが多く、またリーダーのいない秩序として鳥族はアナキズムの理想を表しているようである。
鳥族の美事な秩序だ。
しかし鳥族にはリーダーはいないという。
鳥族はふいにとびたって
囀りながら竹やぶの中に入って行く。(「鳥」三七○頁)
また、「鳥」は「幸福」の象徴である。自由に青空を飛翔する鳥は栗原に「幸いを約束する」ものであった。
極楽鳥のように幸いを約束する鳥よ
はばたけ、はばたけ。(「黒い卵」六五頁)
栗原は原と同じく「純粋なもの」に憧れて詩作を続けていくが、時代の暗さが深まるにつれて、自由の象徴としての鳥の翼ももがれていくのを感じる。しかし、栗原は原よりもさらに不屈の精神で暗い時代を生き抜こうとする。
どんな強い嵐にも
あらがい舞いあがりつきすゝみ
自由に飛翔したあの羽は
いつのまにかとれてしまい
一生
足で歩こうと
心に決めた時、
不思議な力が体にみなぎり
踏み出す足に力がこもり
暗い雲の切れ目から
光が条のようになって降って来た。(「鳥」一三九〜一四○頁)
ここに見られる羽がとれて「一生/足で歩こうと/心に決めた」鳥のイメージは先に見た「天にものぼらず/地を這って生きねばならぬ」と述べた栗原自身のイメージと重なるものがある。
このように、栗原の詩には絶望を乗り越えて未来に向けて進もうとする力が見られ、暗い内容を明るい展望へと変えようとする意志が感じられるのである。
五 他者への眼差し 愛と怒り
栗原貞子や原民喜はしばしば「原爆詩人」「原爆作家」と呼ばれた。実際、原民喜には「夏の花」三部作を初めとする被爆をテーマとする小説や「原爆小景」などの詩作がある。また、栗原貞子には「生ましめん哉」をはじめとする原爆のもたらした悲劇を歌った優れた詩や短歌が数多くあるが、彼らは広島の被爆だけを歌った詩人ではない。
原は大正時代から創作活動を始め、戦中には幻想的な小品や四行詩あるいは俳句などで、戦争にのめり込んでゆく日本の時局への不安を描いていたし、戦後は亡くなった妻貞恵に対する愛情と、死者たちとの魂の交流を中心とした作品を数多く残した。
一方、栗原は原よりも長生きしたことにより、戦後の日本や世界に対する不安や批判をテーマとして、日本の政治や為政者に対するばかりでなく、世界の大国の政治や権力者に対して鋭く向かっていった。
彼女の『全詩篇』の戦後作品を見ると、広島の被爆から始まり、部落や朝鮮人に対する差別の問題、水俣の公害問題、沖縄問題、朝鮮戦争などを経て、中国の天安門事件、チェルノブイリやセミパラチンスクやスリーマイルあるいはビキニなどの放射能汚染の問題、ベラウ(ベラオ共和国)への核廃棄物投棄の問題などと詩の世界は広がり、後半生は「怒り」の詩人となっていった。
しかしながら、彼女は阪神大震災の被災者や「被爆米兵」への悼みをも歌う世界の痛みを担った叙事詩人でもあった。栗原の糾弾はもっぱら権力者に向けられ、弱者に対する視線は優しく、慈愛に満ちている。その原点として、貧困のなかで二歳の長男を病気で死なせたことと、原爆によって数多くの死者を見、また生き残った者の悲しみを見たことが挙げられよう。ここでは「生ましめん哉」とともに親しまれた彼女の詩「原爆で死んだ幸子さん」のもとになった歌を二首取り上げよう。
二日まり探せば空しき乙女子のついに死体となりて分りぬ
その母をいたわりにつゝ亡きがらを受け取にゆく戦禍の街に(八三頁)
これらの短歌には「戦災者収容所に死体を引き取りに行く」と題がつけられており、八月六日に建物疎開に動員されて亡くなった隣家の少女を歌っている。なお、これらの短歌は「ノート あけくれの歌(一九四五・一)」に書き記されたものであるが、作者はのちに(一九八六年二月八日と日付している)このノートについて「すでに戦争は末期となり、言論統制は狂気の如く、作品をノートに残すのも万一を思うと恐ろし」(七四頁)と追記している。日本の戦争時の狂気とアメリカの原爆投下という狂気のなかから栗原貞子という詩人は生まれた。さらに、彼女は「ヒロシマ」という詩においてつぎのように自分を歌っている。
わたしは天をこがす地獄の
火口から生まれた。
わたしは火ぶくれた死体で埋まった
デルタの河の血の流れのなかから生まれた。
(中略)
ビキニ
サハラ
ネバダ
ノーバゼムリヤ
タクラマカン
地球を軌道から転落させる破滅の祭典。
けれどわたしの涙はビキニの海よりも深く、
わたしの怒りはネバダの爆発よりつよく、
わたしの愛はノーバゼムリヤの砂粒より多く
わたしの祈りはタクラマカンの砂漠を
みどりの沃野にかえさせる。(二四一頁)
このように栗原貞子は広島での被爆体験を経て世界の被爆体験を歌う「愛と怒りと祈り」の詩人となった。
一方、原民喜も被爆後、疎開先で書いた小説「夏の花」(原題は「原子爆弾」であったが、GHQのプレスコードによる検閲をさけるために「夏の花」に変え、さらに三箇所を削除したという)では、アメリカを直接非難はしていないが、間接的に「愚劣なものに対する、やりきれない憤り」という言葉で、原爆や戦争に対する怒りを表現している。語り手の「私」は被爆後、泉邸(現縮景園)に逃れるが、そこにも火災が迫ってくるので、筏を見つけてそれを漕いで対岸に移る。水際にいた一人の兵士を助けて歩いて行くと、兵士は「死んだ方がましさ」と吐き捨てるように呟く。そしてつぎのように続く(以下の文章は削除された三箇所のひとつである)。
私も暗然として肯き、言葉は出なかつた。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけてゐるやうであつた。(氈E五一七頁)
この「愚劣なもの」という言葉は原の遺書のような小品「死について」(『日本評論』、一九五一年五月号に初出、遺稿)でも姿を現す。原が自殺をした一九五一年三月は前年に勃発した朝鮮戦争が激しくなり、原爆再使用の可能性が高まっていた。実際、日本に原爆を落としたアメリカのトルーマン大統領はすでに前年の一一月末に原爆再使用を表明していた。(4)そのことを聞いた原は友人の長光太に一二月二三日に手紙を送り、のちに『原民喜詩集』(細川書店、一九五一年七月、没後出版)で「家なき子のクリスマス」「碑銘」と題されて発表される二つの詩を書き送っている。(5)(。・三一八〜九頁)原は再び原爆が使用されるのではないかという恐れと、戦後自分が書き続けたことの無力さを感じたのであろう。「死について」の一部を引用しよう。
だが、死の嵐はひとり私の身の上に吹き募つてゐるのでもなささうだ。この嵐は戦前から戦後へかけて、まつしぐらに人間の存在を薙ぎ倒してゆく。嘗て私は暗黒と絶望の戦時下に、 幼年時代の青空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願つたが、今日ではどうかすると自分の生涯とそれを育てた者が、全て瓦礫に等しいのではないかといふ虚無感に突落とされることもある。悲惨と愚劣なものがあまりに強烈に執拗にのしかかつてくるからだ。(・六○二頁)
この「死について」という文章は原の人生を要約しているようだ。原は原爆への「憤り」によってその悲惨さを書き留めようとした。また、日本の軍事独裁時代に逆らって「幼年時代の青空の美しさだけでも」描きたいと願って文学活動を続けてきたが、原が翻訳したスウィフトの『ガリヴァー旅行記』に見られるような人類の愚かさによって打ち砕かれていく。
一方、栗原貞子は原よりも長生きしたために人類の愚かさを原の何倍も体験することになる。しかし、彼女は原のようには打ち砕かれなかった。彼女の詩作の根底には「世界中の人間が人間の尊厳を持って生を/終える」(「犬死論争 アジア太平洋の民衆の裁き 」五四二頁)ことを目指す理想がある。「地球と人類と 私たちの愛する者が/滅びぬ前に」(「人類が滅びぬ前に」四四四頁)、「憎しみと分断の世界/を、愛と連帯の世界に変えよう」(「パンと薔薇を」四○二頁)という決意と叫びがある。「怒り」を「愛と連帯」に変えて「世界を変えよう」とする主張がある。
総じて、原の作品は、戦時中は妻貞恵によって支えられて書かれたが、戦後は孤独のなかで原爆の被害を書きとどめなければならぬという使命感に支えられて書いた。しかし、その使命感も原爆再使用という大国アメリカの大統領の声明によって打ち砕かれていった。それに対して栗原は「愛と怒り」とによって詩作を続け、日本や世界の政治の反転・反動化に対しても敢然と向かっていった。「愛と怒り」というのは陳腐な言葉かも知れないが、戦前から戦後にかけて彼女が九二歳の生涯の大半を「愛と怒り」の詩歌を書き続け、くじけず戦い続けたことは希有なことであり、この「愛と怒り」の深さを知るべきであろう。また彼女が原のように打ちのめされず戦い続けていけたのは、戦中のノート「太陽・戦中編」にすでに記していたつぎのような短歌に見られる「向日性」が彼女の資質としてあったからではなかろうか。
植物の向日性の如くにも我生きの世にやまず求めぬ
己れ我空しくここぞ何かあらん太陽はみなのために輝く
うつせみは小さくみにくししかはあれ二つなきよ生ぞかな愛しまれつゝ(四三頁)
六 おわりに 栗原貞子や原民喜をどう受け継ぐか
栗原貞子は三良坂町(現・三次市)の平和公園内にあるモニュメント「わたすの母子像」のために「わたすの母子像」を書いた。その詩の末尾には一九九三年九月二五日の日付がある。ソ連の崩壊(一九八九年)後、冷戦が終わる一方で、湾岸戦争、米軍のソマリア派兵、ボスニア紛争など戦火はおさまるどころか各地に飛び火していた時である。栗原はその詩のなかでつぎのように述べている。
白い大理石の裸像の母は
白い裸像のこどもに
何をわたそうとしているのだろう
(二詩節略)
こゝ平和公園の白い光は
戦火をしずめる愛と平和の光
白い裸像の母がわたそうとしているもの
地獄の戦火をしずめようとする祈り
白いわたすの像よ
世界中の母とこどもに
わたして下さい
わたしたちのねがいを(五三八〜五三九頁)
栗原の願いは二○世紀の地球上を覆った「地獄の戦火をしずめようとする祈り」であった。その「地獄の戦火」の最悪のものとしての原子爆弾を目撃し、みずからも被爆しながら、「過ちは繰り返しません」という死者たちへの誓いを信じようとした。しかし、その誓いが踏みにじられていくことに対して栗原は怒りとともに焦りのような気持ちを抱いたのであろう。晩年の詩には痛ましいほどにつぎのような言葉が繰り返されている。
一度目は あやまちでも
二度目は 裏切りだ
死者たちへの誓いを忘れまい
それほどに現代の世界は栗原の願いを、広島の願いを踏みにじることが多かったと言えよう。死者たちは安らかに眠ることができないまま、栗原や原の作品に形象化されているのである。
栗原貞子を失った今、私たちに残された課題は彼女の祈りを引き継ぎながら、どのようにして世界に彼女の思いを伝えていくかであろう。
各自ができることを積み重ねていくしかないであろうが、私は栗原貞子や原民喜をはじめとする広島の詩人や小説家などの言葉を集め、世界に、未来の子どもたちに、発信する文学館を広島に造りたいと思っている。しかし、残念ながら私が「広島に文学館を!市民の会」の代表となって五年以上経った今でも、広島市によって文学館が造られる可能性はほとんどないのである。
注
(1) 栗原貞子「埃っぽいこと 原民喜の詩碑について 」『どきゅめんとヒロシマ24年 現代の救済』(社会新報、一九七○年)一七三頁。(なお、初出は『エスポワール』一九五一年六月)
(2) 原民喜の「原爆被災時のノート」は『定本原民喜全集』に収録されているが、そのノートが記載されている手帳の全体は収録されていない。しかし、「広島に文学館を!市民の会」が作った「広島文学館」というホームページ(http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/)に全文が写真版で掲載されている。その五月一日の項を見ると「風雨」という天候の他に「ムッソリニー殺される ヒットラ死んだ 万才」 と書かれている。「万才」は大きく書かれていて、彼が独裁者たちの死を歓迎している気持ちが感じられる。五月三日には「ベルリン陥る」とのみある。なお、その前後には広島の「空襲」とか「電休」などの言葉も見られ、「夏の花」のもとになったこの手帳の意味を臨場感を得て読むことができる。
(3) 原は一九三一年と三四年の二度特別 高等警察により逮捕されている。一九三四年の場合は「昼寝て夜起きるという奇妙な生活を続けたことから、特高警察の嫌疑を受け、夫婦で検挙されるも、一晩の拘留で帰された」(。、四○七頁)と全集の「原民喜年譜」にある。原民喜の妻貞恵は、こうした弾圧で落ち込んだ夫を支え、「エゴのない作家は嫌です。誰が何と云はうとも、たとへ全世界を捨てても……」(「苦しく美しき夏」・二七五頁)と言って励ましたという。栗原の場合は夫の唯一が一九四○年に徴用で上海に渡った折り、上海で目撃した日本軍の残虐行為をバスのなかで知人に話したことを乗客から密告され、起訴された。貞子は戦後夫から聞いた話をもとに「戦争とは何か」(六四頁)という詩を書いた。また、彼女自身、一九九一年に呉港でのPKO反対デモに参加したあと「血盟団」なるものより脅迫されている。こうした、国家や警察、右翼などからの弾圧に屈しなかった点も両者の共通点であろう。
(4) 『朝日新聞』一九九八年七月五日の「日曜版 100人の20世紀」には「21都市を原爆で狙え」と題されたマッカーサーの特集が組まれている。それによると、朝鮮戦争勃発後半年経った一二月二四日のクリスマスイブにマッカーサーはワシントンに暗号電を打った。その内容はソ連と中国における原爆投下の標的候補地を優先順に挙げたものであり、二一都市、三五発の原爆を投下する必要があるというものであった。この暗号電は、その三日前に「全面戦争になった場合に備え、原爆二○個の配置を決めなければならない。その標的と優先順位について、早急に勧告を求める」というワシントンからの機密暗号電が来たのに対する回答であった。マッカーサーはさらに三月一○日に原爆の使用承認をワシントンに求めたという。その時のアメリカの大統領は日本に原爆を投下したトルーマン大統領であった。トルーマンが原爆投下を決意すれば朝鮮戦争は米国対中国・ソ連の全面戦争になり、地球上に「核の冬」が訪れたかも知れない。しかし、トルーマンは全面戦争になることとマッカーサーの大統領への野心を嫌い、四月一一日にマッカーサーを解任したという。原民喜はこうした情勢下に「家なき子のクリスマス」を書き、三月一三日に自殺した。マッカーサーは日本に六年近くいたが、広島や長崎を訪れることはなかった。
(5) 昭和二五(一九五○)年一二月二三日に原民喜が長光太に宛てて書いた手紙は詩人としての感覚の鋭さと絶望の深さを示していると思われるので、つぎに全文を引用する。
主よ、あはれみ給へ、家なき子のクリスマスを
今家のない子はもはや明日も家はないでせうそして
今家のある子らも明日は家なき子となるでせう
あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き
破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません
明日ふたたび火は空から降りそそぎ
明日ふたたび人は灼かれて死ぬでせう
いづこの国もいづこの都市もことごとく滅びるまで
悲惨はつづき繰返すでせう
あはれみ給へあはれみ給へ破滅近き日の
その兆に満ち満てるクリスマスの夜のおもひを
先日の本探してゐますがまだ見つかりません
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ天地のまなか
一輪の花の幻(。・三一八頁)
なお、この二つの詩には原の自殺を予感させるものが見られるために、長光太から何らかの慰留の返事があったのではないかと思われる。原は昭和二六(一九五一)年初めに長光太宛てに「僕もクリスマスの詩は詩として、必ずしも人類の将来に絶望してゐるわけではありません。」(。・三一九頁)と書き送っている。