私の中の三つのひろしま

長津功三良


(要旨)松尾静明さん、御庄博実さんなどの<ほんまもんの詩人>の後に私のようなまがいものを呼んで頂いて大変恐縮しております。ご紹介を頂いた伊藤眞理子さんからも、「詩人ではない、などと気取っちゃって」と叱られたのですが、詩人には憧れていますが、本当に自分は詩人などではない、と思っています。なんとか真似をして近づきたい、とは思っています。幾冊が詩集らしきものをだしてはいますが、子供のころから単に本好きな、と言うだけの中途半端な人間です。

 まず、自分史的な略歴から。生まれ育ちは広島で高校を出るまで広島にいました。ただ、原爆投下の前後は、父親が兵隊に取られていた関係で、当時まだ生きていた祖母の元に縁故疎開していました。したがって被爆はしていません。被爆した方々には申しわけないが、自分は幸いにも原爆の被害には逢いませんでした。直後の広島には戻ってきましたが、そのため被爆された方々に引け目を感じながら生きてきて、また作品も書いてきました。原爆については原民喜、峠三吉、栗原貞子そして先日亡くなられました米田栄作さんなどの既に評価の定まった方も含めて、数がすくない。小説の方もそうだと思いますが、原爆と向き合って物を書くのがむつかしい。広島と原爆、と言う材料に寄りかかっている、と言う先入観念で見られてしまう部分がある。特に被爆した人ほど、書けない、書きたがらない、聞き取りさせてさせてくれない、だけに自分のようなものでも少しはそのことに関して書いて置きたい、置くべきである、という考え方になっています。

 自分の中には、三つの広島があります。一つは子供の頃、戦前の古い落ち着いた城下町であり、軍都であった町。それからもう一つ、原爆が落ちて壊滅し昭和28年頃までの復興へ向けての混乱期の広島。三つ目は18の年に広島を離れもう勤めに出ましたから、現在の政令都市として美しく再建復興した広島、です。一年に一度くらい帰省して町を歩いてみるくらいで、途中の経過を殆ど知らない。

 従って作品を書く場合にも、終戦直後の壊滅した広島と、現在の広島の時間を重ねて、対比して書く場合が多い。原爆が投下されたときは国民学校の五年生でしたから、直後の町の風景も鮮烈でありながら曖昧な部分もあって、自分なりに固定観念が出来あがっちゃっているのではないか…と思われます。現在と対比しながら再構築しなければならない、と言う作業が必要なります。

 家が貧しく、親父の仕事が新聞販売店であったので、疎開先から戻って小学六年の頃から集金の手伝いや小さな区域の配達をやらされて高校を出るまで続けていました。印象が深いのは、当時の広島駅周辺の闇市へ行く途中、八丁堀のあたりで立ち小便をしたとき、はっと気がつくと白いものにしぶきがかかっている。よく見ると、真っ白な頭蓋骨でした。男のか女のかわかりません。奇麗に縫合部もあって、他の部分はなにもありませんでした。だから今も<白>と言うのは鮮明に頭蓋骨の白いイメージです。町の中心部にもかかわらずまだ取りかたづけがされていませんでした。

 当時、新聞は現在の専売制ではなく、合売といって区割をして全種類の新聞を扱っていました。子供ながら毎日十数種類の新聞に目を通していました。子供の頃からの活字中毒の始まりです。戦後の混乱期に教育を受けて、あまりいい教師にも巡り逢えなかったので、何事も独学で先生はすべて本と新聞でした。子供の頃は新聞記者になりたかった。そして社会勉強して後は作家になろうと思っていました。詩を書き続けることになるとは思っていませんでした。

 原爆の後、基町に市営住宅が建てられて父親とそこで新聞の販売店をしていました。祖母と母と弟は田舎に残って米を作って運ぶ、こちらは金を稼ぐ、という二重生活を営んでいました。そのころ、自分の担当していた区域が現在のRCCや裁判所のあたりで、毎日大手門から広島城を抜けて歩いていました。その頃大手門の側に原民喜の詩碑が建てられました。佐藤春夫などが除幕式に来た記憶があります。その詩碑にかかれた詩は少年の日の自分には衝撃でした。『遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻』いまだにこの作品を越える詩を知りません。濃密に凝縮された宝石です。この頃から、小説を書き移したり、詩らしきものを書き始めました。高校では文芸部と図書部に所属し、二年生になって柔道部を創設しました。

 父とは、広大に受かれば行ってもいい、という約束でしたが、家も貧しく受験練習に銀行の試験を受けたら受かってそのまま就職しました。だから今でも学歴コンプレックスがあります。そして詩を書くことで心の支えとしてきたようです。財閥系の銀行で、大阪の場末の支店に配属になりました。最初にしたことは詩のグループに所属することでした。当時大阪には社会派浜田知章や長谷川龍生の『山河』が一番大きなグループでしたが、主義主張を強く出すのが肌に合わず、ニューモダニズムの芸術派ともいうべき少数精鋭の『爐』に行きました。

 冬木康、右原厖、吉川仁、日高てるなどの人たちです。素晴らしい詩人たちでした。なんとか真似をしたいと努めて来ましたが、いまだに近づくこともできません。ただ生涯に一つでもまともに人様に読んでいただけるような作品を書きたい、と思っています。

 そして「ひろしま」について、できるだけ書き残して行きたい、広島を発信地として、メッセージを発していきたい、と思っています。まだまだ勉強が足りません、少年の気持ちを失わず勉強を続けて行きたいものです。


(講師・作家紹介)1934年(昭和9年)9月2日広島市南千田町にて生まれ、以後父の転居伴い市内を転々。44年父の召集により山口の祖母の許に縁故疎開、従って被爆は免れました。東白島の家では軍需工場に徴用されていた叔父たちが被爆しました。戦後父と基町の市営住宅に居住。江波中学校を経て舟入高校卒業。三菱銀行(現東京三菱)に入行、大阪で七年勤務後東京に転勤。以後出向停年まで東京。数社出向後退職、老母の介護のため現在地(父母の郷里)にもどり現在にいたる。

詩集:『白い壁のなかで』1960年、『影まつり』1994年、『影たちの証言』1995年、『頭蓋の中のひろしま』1998年、『おどろどろ』2001年。所属詩誌:「竜骨」、「火皿」。文芸誌:「セコイア」、「シェニーユ」。所属団体:日本文芸家協会、日本現代詩協会、日本詩人クラブ、中四国詩人会(理事長兼事務局長)、広島県詩人協会(幹事)、山口県詩人懇話会、中原中也の会、原民喜・ヒロシマ花幻忌の会(世話人・会計担当)、日高摩梨やじうまフアンクラブ(事務局長)、他。


長津功三良自選詩集

 2002年11月24日に開催された朗読会「広島在住の詩人が自作を語るB 頭蓋の中のひろしま」(後に「私の中の三つのひろしま」と改題)で配布された資料に掲載された詩を読むことができます。