原民喜――「内なる子供」が死んだ日

大牟田 聡


 現代における原民喜文学の意味、とでもいったものを書こうと思ったのだが、よく考えてみると、私が彼の作品を通読したのは十五歳のとき。もう四半世紀も経ってしまった。作品のディテールはすっかり記憶の彼方に霞み、漠とした匂い、のようなものが僅かに残っているだけだ。かなしい。

― 十五歳、中学三年だった私は夏休みに、何を思ったか原民喜の作品群について小論を書こうと考えた。父親から全集や作品集、関連資料を借り、図書館で文献を渉猟して、夕食後の台所のテーブルに原稿用紙を広げておよそ一週間。四○○字詰め原稿用紙五十枚の大作(?)『原民喜研究』が完成した。初期の作品から『心願の国』まで、作品の底流をなす「死と夢」のイメージから原民喜の世界を浮き彫りにしようとした意欲作だった(と記憶している・・・読んだ人がいないから好きなように言える)。

 残念ながら、実物はすでに残っていない。ウソです。ホントは実家のどこかに残っているはずだが、今ではその行方も杳として知れない。これもウソです。在り処もわかっているのだが、他界した父親の蔵書類に埋もれて、引っ張り出すことも不可能な状態なのだ。

 そんなわけで、原民喜文学についての本格的な考察、なんて無謀なことはあっさりやめて、漠然とした印象のようなものを頼りに彼の世界について考えることにした。

 実は原民喜の作品は、十五歳の私に近いところにあったような気がする。当時私にとって、原民喜といえば『夏の花』に代表される原爆文学の書き手というイメージが強かったのだが、ひと通り彼の作品を読んだとき、意外にも私は戦前の作品に強く惹かれるものを感じた。

 厭な夢、死後の魂、拒絶する他者・・・どの作品にも共通している繊細な、ちょっと怯えたような描写は、思春期の自分に重なるものがあった。佐々木基一がいうように、原民喜は「幼年時代の純粋無垢と夢とを終生保ち續け」、「自然と社會と人間を、彼は幼兒が謎に包まれた未知の世界を眺める時のやうな眼で見入り」(注1)続けた作家だった。まだ決定的な夏の朝の訪れを知らない時代の作品群には原民喜の本来的な世界の広がりがある。

 一九一七年、広島市幟町の自宅でふたりの兄とともに収まった民喜十二歳の写真(注2)を見ると、彼は師範学校附属小学校の白い制服に身を包み、少し斜に構えて立っている。ふたりの兄が堂々とポーズを取っているのとは対照的だ。民喜はこの写真が撮られた年の初めに父を喪い、翌年には慕っていた姉を喪ったという。身近で相次いだ「肉親の死」に、鋭敏な感性の持ち主だった彼が打撃を受けたことは容易に想像できる。

 

 二十年も前に彼は父の葬式が行はれたのを憶えてゐる。父の死骸が棺桶に収められ、焼かれた骨を拾つたことまで、こまごまと憶ひ出されるのだつたが、それらが今は却つて夢であつたのかしらと怪しまれた。(『冬草』)

 

 民喜が三十五歳の秋に発表した短編『冬草』は、死んだはずの父が「生還」するところから始まる。姉は「浮浮した表情」をして、遊学中の兄に宛てた「父生還」を伝える電報を打つよう主人公の秋彦に頼む。が、電報を打ちに行く途中、秋彦は「ふと、疲勞のやうなもの」にとりまかれる。

 

 (・・・)今初めて氣づいたことがあつた。それをはつきり考へるのさへ怕く、それと氣づくと、もうそのことは爭へない事實ではあつた。(中略)さつき彼に電報を頼んだあの姉も、既に十幾年も前に死んでゐた筈だつた。父が死んだ四年目にたしか彼女は亡くなつてゐたのだ。それを思ふと、全身が闇に沒してゆくやうな感じで、しかし、さつき見た姉の姿が奇妙に懐かしくもなるのであつた。もう今は茫として夢のやうにしか浮ばないが、姉の半襟についてゐた小さな刺繍の花がピカピカと光つた。

 

 妙な静けさに包まれた情景はまさに夢の中のそれである。何もなかったように主人公の前に登場する「死者たち」。しかし、怪談めいた印象はない。寧ろ、自らが死んだことにすら気づかないように語りかけてくる「死者たち」に、いつも主人公は気後れしている。まるで多数を占める「死者たち」に、生きている者の方が排除されているように・・・。

 こうした存在につきまとう不安感は、民喜の戦前の作品の多くにみられる特徴だ。

 川西政明は原民喜を、「幼いときから暗闇に怯える少年」であり、「成長してからも、幼い日の眠りのなかに入りこんでいた死とか夢とかを、白日のもとにまざまざと見てしまう」(注3)と表現していて、これは、先に引用した佐々木基一同様、きわめて的確な指摘だといえよう。戦前も戦後も、そうした面は民喜の作品に共通しているようにみえるが、いま私は、あの「頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた」(『夏の花』)朝を経験した民喜と、それ以前には、深い断絶を感じている。

 戦前の民喜にとって、少年の瞳に映った世界を描くことは、すなわち「死」のイメージを描くことに直結していた。父や姉の死がそこに大きな影を落としているのは確かだが、民喜の独自性は、一方で常に「生かされている」感覚につきまとわれている主人公を配置している点にある。そして、そこにこそ民喜の世界特有の、「子供」の浮遊するような不安感が作品となる余地があった。

― 「子供」は本質的に「死」に近い存在である。

「生きる」経験を獲得しながら、刻々と成長という名の「変化」を続ける子供からみると、「死」は「変化」という関数のひとつでしかない。「育つ」「成長する」という言葉と「死ぬ」という言葉は、子供にとって同程度の重みなのだ。実際つい半世紀前までは、子供が死ぬことは、社会にとっておりこみ済みの現実だった(一九五〇年の統計では幼児の死亡率は6%を超えている)。だからこそ子供は畏れを知らず、時には死を弄ぶほどに残酷な一面を持ち合わせている。

 しかし、いつまでも人間は「子供」ではない。生きることに慣れるに従い、ひとは生きてきた時間の堆積から逃れられなくなり、やがていまだ見ぬ「死」を恐れるようになっていく。

 そうしたなかで民喜は「永遠の子供」を内に抱えた稀有な作家だった。戦前の作品にみられる「死と夢」の幻想的なイメージは、まさにその「子供」の持つプリミティヴな感覚に溢れているといっていい。十五歳の私が、民喜の戦前の作品に反応したのも、そうした民喜の内包する「子供」に共鳴したからだと推測できる。

 だが、重要なことは、一方で「子供」は「生命」そのものでもある、ということだ。「子供」が「生」であり、「死」でもある両義的な存在だということ。つまり民喜は少年の瞳を通した「死」をモチーフにすることで、意識的にしろ無意識のうちにしろ、「生への渇望」を体現していたのではなかったか。

 では、あの決定的な夏の朝を経験した後の作品はどうか。

 戦後、『冬草』と同じように、父や姉の死が語られている作品がある。一九四七年に発表した『雲の裂け目』、四九年の『魔のひととき』だ。いずれも亡き妻に語りかける形でしたためられていて、技巧に走らず、より直截的に父や姉の死を回想している。そこではもはや「死者たち」は主人公に語りかけてはこない。死にゆく者たちが「僕」にもたらした「遥かな世界」のイメージが美しく紡がれているばかりだ。

 

(・・・)僕は運動場の喧騒を避けて、いつも一人で植物園の中を歩いた。そうすると、樹木の上の空が無限のかなたにじっと結びつけられているのがわかったし、樹影の沈黙のなかに秘められている言葉がみつかりそうだった。それから、ふと樹の枝にある花が僕に幼年の日の美しい一日をよみがえ甦らせたし、父親の愛情がそこに瞬いているようだった。僕の頭には、あの荘厳な宗教画の埋葬の姿が渦巻き、沈んだセピア色と燃える紅と、光と翳のひだ襞につつまれ、いま僕の父親の死が納まっていた。(『雲の裂け目』(注4)

 

 僕が幸福の予感にふるえ、その世界をもっともっと姉から教えてもらいたかった時、恰度その時、僕の姉は死んだ。臨終には逢えなかったので、僕が姉と逢ったのは、あの病室を訪ねて行った日が最後だった。僕ママ)が姉が話していた、あの遥かな世界に、もうほんとに姉は行ってしまったのだろうと思った。(中略)死んでしまったということも僕にはだんだん美しい物語のようにおもえた。二階の窓を夕陽が赤く染めている時、僕は遥かな遥かな世界を夢みている少年であった。(『魔のひととき』)

 

 ここには、もはや「生への渇望」の裏返しとしての「死」はない。描かれているのは彼岸としての「死」であり、永遠のイメージとしての「死」である。

 こうした「死」に対する民喜の視線が変化した契機が、最愛の妻との死別にあったことは間違いない。しかし、郷愁さえも感じさせる彼岸へと思いを駆り立てたのは、いうまでもなく妻との死別によるものだけではない。八月六日の虐殺が、民喜から「内なる子供」を永遠に奪い去り、根本的な「生への渇望」を剥ぎ取ったのだ。

 

 (・・・)水のなかに浸って死んでいる子供の眼はガラス玉のようにパッと水のなかで見ひらいていた。両手も両足もパッと水のなかに拡げて、大きな頭の大きな顔の悲しげな子供だった。まるでそこへ捨てられた死の標本のように子供は河淵に横わっていた。それから死の標本はいたるところに現れて来た。

 人間の死体。あれはほんとうに人間の死骸だったのだろうか。(『鎮魂歌』)

 

 (・・・)そうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけていたのだ。これらは「死」ではない、このように慌しい無造作な死が「死」と云えるだろうか。と、それに較べれば、お前の死はもっと重々しく、一つの纏まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆっくり営まれたのだ。(・・・)(『夢と人生』)

 

 最も深い威厳と哀悼に包まれるべき「死」を根底から拒絶し、「死」の意味性をも剥奪した原子爆弾は、逆に民喜を、本来あるべき「死」の風景へと回帰させていった。「生への渇望」とは遠く離れた、静寂に包まれた人間としての「死」、そして「遥かな遥かな世界」への憧れにも似た眼差し。苛酷な現実に倦んだとき、民喜が安らぐことが出来たのは唯一、「彼岸としての死」をイメージするときだけだったのではないか。一個の原子爆弾によって引き起こされた皆目わけの分からない現実は、何ひとつ「纏まりのある世界」ではなかったのだから。「だから」と民喜は書いている、「だから世界はあの時、消滅しても僕にとっては余り不思議ではなかった。だが、世界は消滅しなかった。夜が明けると、僕はまた、まのあたり惨禍のまっただ中にいるのだった。」(『火の子供』)。

 

― 民喜は「嘆き」の作家であり、「祈り」の作家であるといわれる。

「・・・僕にはある。/僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。」(『鎮魂歌』)狂おしいまでに繰り返す、よく知られたこの一節のように、民喜は苛酷な「原爆以後」の現実と正面から向き合おうとした。「彼はもはや自分のために生きることを自らに禁じ」、「他人の嘆きのためにのみ、人々の嘆きの代辯者としてのみ生きることを彼は自らに誓」(注5)った(佐々木基一)というのは正しい民喜の理解だ。しかし、一方で彼が夏の朝の閃光とともに「生への渇望」を剥ぎ取られたとするなら、「嘆きの代辯者」として生きることは耐え難い苦痛でもあったろう。

民喜は祈りと嘆きに充ちた作品をいくつも書いた。だが、民喜の戦後の作品は、原爆の惨禍を記録した文学としてだけではなく、原爆による徹底的な人間性の否定が、鋭敏な詩人からいかに「生への渇望」を奪い去ったのかを読み解くための得がたいテクストでもある、と私はいま考えている。そして、そのためには、「原爆以前」の作品も再評価されなくてはならない。

 

・・・とりとめがなくなったところで個人的な回想。

― いま、手元にすっかり茶色に日灼けした函に収められた『原民喜作品集』全二巻がある。奥付に記されているのは「昭和二十八年三月十日初版發行」の文字。民喜の三回忌を意識して出版されたこの作品集は、二〇〇一年秋に他界した父の蔵書だったものだ。広島の新聞社への入社が決まったばかりだった二二歳の若者は、当時としては決して安いとはいえないこの作品集をどのような思いを抱いて購入したのだろうか。

 

 あなたはお母さんの懐にいだかれてゐた子供の頃を憶ひだしませんか、あのお母さんの白い胸を見上げながら、夢みてゐた夢があの山なのです。そら、あの山腹の方には白いふはふはの雲が浮んでゐて、あそこで靜かに睡つてゐるのです。 (『幻燈』)

 

 一九三七年に発表された作品の最後に記された、柔らかな母のイメージ。「子供」への回帰。

 私は、死の床にあった七十歳を超えた父が、混濁する意識のなかで、「お母さん・・・お母さん・・・」と幾度も呼びかけていたのを思い出す。四十年近く前に死んだ母親への呼びかけは、決して叫びではなく、すぐそこにいる母親に甘えるような声の調子だった。

 死を前にして、人間の意識は生命に溢れた子供に還り、「生への渇望」を体現するのかも知れない。堆積した記憶の重みから逃れるように。

 そう考えると、民喜は線路に身を横たえたとき、「お母さん」とは決して呼びかけなかったに違いないのだ。「生への渇望」はあの日剥ぎ取られ、今や眼差しは「遥かな世界」に向かっていたはずだから。

 そして、そこにこそ民喜が見、聴き、経験した全ての惨禍がもたらした悲劇の結末がある。そう私は考えている。

1.佐々木基一『解説』(一九五三年「原民喜作品集・第二巻」角川書店)

2.『原民喜戦後全小説・下』(一九九五年講談社文芸文庫所収)

3.川西政明『花の幻―「夏の花」三部作と「美しき死の岸に」の連作について』

   (『原民喜戦後全小説・上』所収)

4.引用はそれぞれ使用した書物の仮名遣いに従った。角川書店版「作品集」からの引用は旧仮名遣いで、講談社文庫版「全小説」からの引用は現代仮名遣いで。

5.前出・佐々木基一『解説』


広島花幻忌の会『雲雀』第3号、2003年、pp.28-33。