一 はじめに
広島・長崎への原爆投下から五十五年以上を経て、これまでに原爆に関しては全集や証言集をはじめとして膨大な数のものがまとめられてきた。が、原爆をテーマにしたいわゆる「原爆文学」は、今日でもまだ新たに書き続けられている。そして、過去が表象以前に内在的・決定的意味を持っているのではないことを考えるなら、今日新たに語り直された原爆をめぐるテクストから読みとれる問題点を考えることもまた、必要なことであろう。
本稿では、その試みのひとつとして、原爆投下前後の広島を舞台に描かれた井上ひさしの九十年代の二戯曲、『父と暮せば』『紙屋町さくらホテル』(1) を取り上げる。まず、それぞれのテクストについて主題やその目指す方向性について考察した後、同じ広島を舞台とするテクストがなぜ同じ一人の作家によって別々のものとして書かれたのか、そしてその違いは何か、それはどこから来るのか、等について比較検討してみたい。
二 『父と暮せば』あらすじ
舞台は昭和二十三年七月の広島。全四場すべてが、図書館司書の美津江とその父親竹造の対話からなる二人芝居である。美津江は図書館で一利用者の木下青年と知り合ってお互い心ひかれ始め、父もそれを温かく見守っていることが二人の会話でわかる。劇が進行する中で、木下青年の原爆資料の収集と美津江の恋が進展していく様子が語られるが、被爆当時の記憶がよみがえる度に、「自分だけが幸せになることはできない」と美津江は自身に恋を固く禁じる。これに対し竹造は、すでにこの世のものでない筈の自分がここにいるのは、その恋を後押しするためであると打ち明ける。第三場では、原爆による多くの友人の死の記憶を語って、美津江は「うちが生きのこったんが不自然なんじゃ」と胸の内を明かす。最終場である第四場に至って、家の下敷きになっている父を見捨てて逃げざるを得なかった場面が回想されたとき、「うち、おとったんと死なにゃならんかったんじゃ」と心の最深部に秘めていたものが吐露される。それでも、竹造のことばで「記憶の伝承」という、これから自分が生きていくための意味を認識させられることにより、美津江は生きることに、前向きに向かっていく姿勢を取り戻す。
三 「最大公約数」による「証言」
一九九四年、つまり原爆投下五十周年の一年前に初演されたこの作品は、井上が膨大な被爆体験記・証言集などを下敷きに書き上げたものである。自身が言うように父竹造は、「単純化」した「被爆死者の最大公約数」(2) の思いを語る存在であると言えよう。さらに、この戯曲が上演される時には、テクストは声となって観客に届くのであり、再現された広島方言の効果もあって、劇場は「最大公約数」の語り手による疑似「証言空間」になるのである。
ヨネヤマ・リサは、広島の証言者達の語りが、過去の瞬間を生き延びた生存者としての個人化された記憶(死者のための語り)と死者とともに共有した記憶の集合性(死者自身の語り)の間を揺れ動いているとしている。(3) 死者のための語りとは死者になりかわって語ることであり、死者の不在による死者の「痕跡」の証言である。一方、死者自身の語りが行われるとき、このような「語り手と語られる死者との神秘的な同一化の瞬間には、死者があらゆる意味付与の連鎖から断ち放たれ、何ら意味づけされることなくそれ自体として、想起されることを可能にする」(4) とされる。このように考えると、『父と暮せば』で美津江と父の二人によって織りなされる対話はまさに「語り手と、語られる死者」による証言であると理解でき、そこで語られる「死」(竹造の死も、美津江の知人友人の死も)にはどんな意味も持たされてはいないことに気づく。それぞれ「どのように」死んでいったか、のみが語られ、「なぜ」死んだかについては一言も言及されていないのである。
原爆が戦後日米両国でそしてアジアでその都度の政治的・社会的言説を根拠づける「手段」として利用され、各国においてそれぞれの「正義」のための「公式の物語」の中で意味を付与されてきたことは、すでによく指摘されているところである。(5) そのうち日米の二つの「公式の物語」が目に見える対立として議論となったのが、九十五年のスミソニアン博物館の原爆展示をめぐる日米双方の主張であった。このように対立が顕在化・先鋭化する以前の時点で、原爆をめぐる「規範化された言説」の虚偽をつき、そのような言説から個々の被爆体験を取り戻し伝承しようと書かれた試みの一つとして、この美津江と父の対話は読まれるべきではなかろうか。
四 忘却への抵抗と記憶の伝承
さて、現世に心残りがあるため、父の霊が子の前にあらわれる、という戯曲の設定は、多くの人にハムレットを想起させるだろう。高橋哲也は、亡霊として現れるハムレットの父すなわち先王を、闇に葬り去られた自身の死の理由を再び白日の下にさらし、復讐を遂げることを目的として出現するものとして、「戦争の記憶」との共通点を指摘している。つまり、「戦争の記憶」も、「亡霊」的にあらわれ、忘却への抵抗を促す。ハムレットにおいて、亡霊が生き残ったものに「復讐」と「記憶」の義務を要求するのと同様に、戦争の犠牲者達の記憶も、忘却への危機が強まったところに必ず回帰してくる、というのが高橋の論である。(6)
しかし、原爆に関しては、政治的に様々に意味づけされてきたし、今日記憶の風化は言われるものの、その暴力性そのものが忘却あるいは否定されてきたわけではない。よって、竹造は、ハムレット的な意味での亡霊とは少し異なる。つまり、竹造は、自分が「いかに死んだか」を伝えさせることを願っているのであって、先に述べたように、自身の死の理由の解明などまったく求めてはいないのである。むしろ、父や友を亡き者にした暴力のすさまじさ故に語ることのできない美津江に、それでも死者のために語り続けることを促す役割を積極的に担っているのだ。そのことを竹造が、自分の最期を回想しつつ述べているのが次の箇所である。
竹造 わしのえっとー一等おしまいのことばがおまいに聞こえとったんじゃろうか。「わしの分まで生きてちょんだいよォー」
美津江 (強く頷く)…。
竹造 そいじゃけえ、おまいはわしによって生かされとる。
美津江 生かされとる?
竹造 ほいじゃが。あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝えるところじゃないんか。 (7)
このように、同様に「忘却への抵抗」を求めながらも、ハムレットの父とは異なり、亡霊としての竹造は美津江に、死者の「死の意味」の解明ではなく、彼女自身の「生の目的」の認識を求める役割を帯びているのである。
五 記憶の寓話化
また、この美津江の「生の目的」としての、記憶の伝承、つまり「記憶の未来化」を考えるときにも、このテクストは十分に示唆的である。女専時代、昔話研究会に属していた美津江は、図書館司書という仕事上、民話を収集しそれを子供達に語り聞かせることも行っている。彼女は、昔話を伝え聞いたまま話すことはできる。だが、自らの被爆体験については、多くの被爆者の常であったように、「語り得ぬこと」として沈黙するのである。
しかし、最終場面において、死者の要請に応える形で、美津江とその後に続く者たちが語り継いでいくだろうことが予感され、それと同時に、竹造との別れも告げられる。
竹造 人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんが、おまいの仕事じゃろうが。そいがおまいに分からんようなら、もうおまいのようなあほたれのばかたれにはたよらん。ほかのだれかを代わりに出してくれいや。
美津江 ほかのだれかを?
竹造 わしの孫じゃが、ひ孫じゃが。
短い沈黙のあと、美津江はゆっくりと台所へ行き、包丁を握りしめる。
そしてしばらく竹造を見ていたが、やがてごぼうを取ってささがきにそぎはじめる。
そのうちにふと、手を止めて、
美津江 こんどいつきてくれんさるの?
竹造 おまい次第じゃ。
美津江 (久しぶりの笑顔で)しばらく会えんかもしれんね。
竹造 …。
そのとき、遠方でオート三輪の音。
竹造 こりゃいけん。薪をつぐんを忘れとった。
竹造、すたすたと下手奥へ去る。美津江、その背へ、
美津江 おとったん、ありがとありました。
オート三輪の音が近づいてくる気配のうちにすばやく幕が下りてくる。(8)
美津江が自らの意思で父に別れを告げるこの時点で、それまで竹造とともに行ってきた「死者自身の語り」から、「死者のための語り」への転換が行われているのが、はっきりと分かるだろう。
ここで見られるのが、先述のヨネヤマの言葉を借りるなら「記憶の寓話化」というプロセスである。つまり、「語り手が目撃した事件が将来再び起こりうるかもしれないと言う警告を、聞き手に伝えたい」(9) という欲求から生じる、ネバー・アゲインのための証言、つまり現在から未来に向かうという、証言のもう一つの目的のために必要なプロセスである。
言うまでもなく、数多くの証言を下敷きに書かれたこのテクストそのものが寓話化されたものと定義されうる。そして、このテクストの中でも、美津江がまず、「死者の語り」から始まり、「死者のための語り」を経て、「寓話化」への兆しを見せるというプロセスを体現していることに注目したい。直接体験した世代がまさに存在しなくなろうとしているこの時期に、語り続けることの意味を問うならば、やはり起こった出来事をその特定の時間と場所に限定し、その本来性のみに固執することなく、それが「未来にも起こりうること」として聞き手に認識されることが必要になる。こう考えると、先の引用箇所で竹造の要求する「語り手としての孫・ひ孫」とは、父親が娘の恋を後押ししその子孫を願う気持ちの描写としてのみ捉えるのでなく、証言の聞き手が次の「潜在的語り手」となることによる記憶の未来化の比喩とも考えるべきであろう。
また、未来に向かうという意味では、証言の持つもう一つ別の性質、つまり語ることによる「癒し」の効果も見逃せない。美津江はまず父との対話で癒され、その後も語り続けることによって生きる力を得ていくことが予感される。もちろん、この点については、楽観的にすぎる結末であり、戦後、被爆者達が耐えてこなければならなかった後遺症や差別といった種々の問題について、観る者(読む者)にほとんど意識させずに、安堵感だけを残して終わるという危うさは指摘しておかねばならない。(10) それをふまえたうえで、最後の美津江の台詞「おとったん、ありがとありました」は、「死者のために未来に向けて話す力を得たこと」と「話そうと決意することによる解放への導き」にたいする感謝として読むべきと考えられる。
以上のように、「父と暮せば」では、原爆の死をあらゆる意味付与から解き放して描き、何が起こったかを伝承していくことが目指されているが、作家井上ひさし自身が「なぜ彼等は死ななければならなかったのか」を問うていないわけではない。それどころか、彼の戦争をテーマにした他のテクストではむしろこの問題が中心になっているものの方が多いのである。その中でも、広島を舞台にして戦争責任の問題を提示しようとしているのが『紙屋町さくらホテル』である。次章からこのテクストについて考えてみる。
六 『紙屋町さくらホテル』あらすじ
昭和二○年五月の広島、移動演劇隊さくら隊の宿となったホテルが舞台。経営者と宿泊客が『無法松の一生』の稽古に励み、上演に向かうまでが描かれる。演劇隊の指導に当たる実在した二人の俳優によって繰り広げられる演劇論が中心テーマの一つとなっている。
他方、プロローグ・エピローグでは、戦後の巣鴨拘置所を舞台とし、さくらホテルでさくら隊の活動に参加した元海軍大将長谷川清と、元陸軍中佐の針生武夫の間で、戦争責任論が交わされる。針生は戦争末期、長谷川が本土決戦準備の進捗状況を探るための天皇の密使であることを察知して彼の行動を探っており、長谷川を尾行して立ち寄ったさくらホテルで望まずしてさくら隊の一員となった。さくらホテルでの出来事は、この二人の戦後からの回想としてよみがえる形になっている。故に、この戯曲のもっとも大きな枠組みとして戦争責任への問いかけがあると考えるのは妥当であろう。
演劇論と戦争責任論というこれら二つの中心的テーマの他にも、ナショナリティ、警察権力の問題も扱われ、国家と言語の問題も語られるなど、扱われるテーマがあまりにも総花的で焦点を失っているという批評 (11)もあるが、これは的を得た批判と言わざるを得ない。本来ならば、これらすべてに言及すべきところであるが、本稿では『父と暮せば』との対比という観点から、主として戦争責任の問題に焦点を絞って考察したい。
七 「差違はあっても共有されるべき責任」
「戦争責任」について語られることは多い。が、その内容はそれを負うべき個人の立場や状況により千差万別である。その多様な戦争責任のうち、この戯曲の中で繰り返され、おそらくもっともはっきりとした形で問われているのは「戦争の終結を遅らせた責任」であろう。それは、エピローグで長谷川の口から「和平を結ぶという基本方針をお決めになってからの陛下には、国民に対して責任がある。ご決断の、あのはなはだしい遅れは何か。あれほどおくれて、何が御聖断か。」(12) という言葉で糾弾されていることにも明らかである。したがって、表面的に読めば、判断力の欠如した軍指導部を弾劾し、彼等のために原爆の犠牲となった一般市民たちへの同情を表す物語と片づけることもできよう。
が、例えば、特高警官として淳子を監視する戸倉、「あっぱれ靖国の妻」正子、教え子を戦場に送ってしまった大島…それぞれに対して、各自の「差違はあっても共有されるべき責任」(13) を問うまなざしも存在していることを見逃しては成るまい。そして、そのまなざしの投げかけられる対象としては、広島という街そのものも例外ではない。劇の中で、広島が陸軍の軍都であることをにおわせるエピソードは繰り返し語られるのであり、さくら隊すらその恩恵に与ることが何度となくあるのである。
しかし、それでもなお、戦争のより早い終結は可能であったと長谷川は語る。
長谷川 私の報告を境に、わが国の基本方針が百八十度の大転換を始めた。(直立し
て)陛下は、それまでの本土決戦策をお捨てあそばして、ソ連を仲立ちにした和平策
をご採用になった。・・・・・・だが、その和平工作がまるで前へ進まない。
針生 大日本帝国憲法第一条。どのような和平を結ぶのであれ、これだけは死守しな
ければなりませんからね。
長谷川 皇室の安泰と、その皇室による国体の護持だな。
(中略)
長谷川 大日本帝国憲法第一条にこだわっているあいだに、なにが起こったか。
針生 ・・・・・・?
長谷川 沖縄の守備軍が全滅した。連日の空襲と艦砲射撃によって、わが国の都会の
三分の一が壊滅した。そして、広島があった・・・・・・。(14)
この自白により、広島やそこにすむ人々に対する原爆投下をはじめ、戦争末期の犠牲者の死は不可避ではなかったことが強調される。つまり、それぞれに負うべき責任はあるとしても、原爆そしてそれによる死は、各自の責任から来る当然の帰結ではなく、「戦争の終結を遅らせた指導者の側の責任」がもっとも問われるべきものだ、というこのテクストの構図がまず第一に把握されねばならないだろう。
八 「天皇の名代」長谷川
そこで注目されるのが、長谷川を天皇の名代ならぬ天皇その人に見立てるべきではないかという指摘である。(15) 「人民の側に立った天皇」という理想像、これがこの戯曲における井上流のレトリックだったのではないか、という解釈に基づくならば、プロローグで長谷川が自白した種々の戦争責任も天皇その人が負うべきものとして数え上げられていることが明確になる。(16) また、自身の職務を全うすることを危険にさらしてまで、さくら隊の上演を救った、劇中での長谷川の行動こそ、「あるべき天皇の姿」としてより痛烈な批判になっているようにも思われる。同様に考えると、さくら隊とその演じる芝居そのものも、天皇(長谷川)から軍部(針生)、警察(戸倉)、庶民(正子、玲子)に至るまで、それぞれが各々の役を引き受けて成り立つ国家のアレゴリーとして理解でき、国民国家の持つ、芝居にも通じる虚構性が浮かび上がってくる。
すでに述べたように、さくらホテルでの出来事は、長谷川と針生の戦後からの回想で甦るという形をとっている。しかし、戦後から過去へと溯る場面は二度とも、針生と長谷川の二人の会話の場面からさくらホテルの場面へ、次のように長谷川一人だけが立ち戻っていくのである。
〈プロローグから第一場へ〉
長谷川 …たのしかった。
針生 それはたしかに。
どこか遠くを懐かしく見つめるような表情の二人。
歌が『すみれの花咲く頃』と、さびに入ると、ホテル全体が動き出す。
そして、紙屋町さくらホテルの人たちの歌声に乗って、ゆっくりと舞台前面にせり出してくる。
すみれの花咲く頃 (以下歌詞省略)
ホテルが舞台前面で止まる寸前、長谷川は小型革トランクを掴み上げるや否や、まるで歌声に吸い込まれでもしたようにホテルの玄関へ入っていく。
長谷川 ごめんください。
「あっ」となって見送る針生。
そのまま、「一 発声練習」へ繋がる。(17)
〈エピローグ一からエピローグ二へ〉
長谷川 また、たとえ、わたしを消せたとしても、亡くなったひとたちは、もう消えませんよ。死者はもう二度と死ぬことはないんですからな。
針生 分かりました。手続きは、お取りしましょう。
長谷川 そうお願いする。
針生、吸う余裕もなく持っていたままだった煙草を思い切り投げ捨てる。
針生 このわたしにも芝居の毒が利いていたとはな。
ホテルが舞台全面で止まる寸前、長谷川は小型革トランクを掴み上げるや否や、まるで歌声に吸い込まれでもしたようにホテルの玄関へ入っていき、全員に別れを告げる。
長谷川 それでは、これで失礼いたします。
針生はしばらく黙って見ているが、やがて、食堂で歌っている一同と合流して、さくら合
唱隊の一員になる。
そのまま「エピローグ 二」へ繋がる。(18)
この二つの場面はどのように理解しうるだろうか。先程のハムレットの例になぞらえて考えてみると、針生は、ハムレットの叔父で先王の弟であるクローディアスのように、「時間の論理」に従い、いわば過去を断ち切ることによって、現在の地位を確保しているといえる。(19) それに対して、長谷川が哀悼の意を持って「死者との対話」としての回想へと立ち戻ることができるというのは、まさに「天皇の名代」、「あるべき理想の天皇像」として描かれている故だと読みうるのではなかろうか。そしてこの二場面がプロローグとエピローグにこのテクスト全体の枠をなす形で配置されることにより、このテクストの大きな焦点として浮かび上がってきているのである。
九 「原爆」の描かれ方
広島、というトポス、街自体の担うべき日本の戦争加害の責任の一端、そして国民一人一人の「差違はあっても共有されるべき責任」。免責されうるものは何も、どこにもないのだという告発と同時に、しかし、それでも原爆投下はそれらの責任に対する当然の帰結ではないし、そもそも不可避でもなかったのだということを、よりはっきり示すのが、さくら隊の回想場面が終わり、エピローグに入る前の三発の炸裂音であろう。
針生 陛下の思し召しと、芝居とを天秤にかけるおつもりか。そして芝居を選ぶと仰るのか。
長谷川、微かに笑って、足早に去る。爆音が頭上を通り過ぎる。
針生 (ほとんど天を仰いで)閣下もまた芝居の毒に当てられてしまいましたな。
近くで、爆弾の炸裂音。それもつづけざまに三発。(20)
(この後、場面転換、エピローグへと続く : 引用者注)
もちろん、直前の流れから考えると、これは通常の爆撃の炸裂音と素直に解釈すべきかもしれない。が、この直後の場面で、針生と長谷川との間で、「ヒロシマ」について語られることからも、原爆投下の描写だったのではないかという推測も否定しきれない。つまり、この炸裂音は二義的に解釈できる余地を持つのである。
しかし、「三発の炸裂音」では、従来の「原爆=ピカドン」の描写とはまったく相容れないものである。だが、これが演出によって案出されたものでなく、すでにト書きにはっきりと指定されていることに注目すべきであろう。つまり、原爆はこれらの個々に帰すべき責任の当然の帰結ではなかった、ということをより明白にするために、あえて原爆とのみ解釈しきれない描写をしたのではないか、と考えられるのである。
そして、『父と暮せば』では書かれなかった、「なぜ彼等は死ななければならなかったのか」に対する井上の答は、栗原貞子の詩 (21)によまれているような、パールハーバーでも南京でも、そして各自に帰すべき戦争責任でもないのである。それらは厳然として存在し問われるべき責任ではあるが、原爆投下をもたらした責任は、別のところ、つまり、戦争終結を遅らせた当時の支配者層ひいては天皇にある、つまり原爆による死はあくまで誤った政策の結果であることを明確にし、従来通用してきたような「国民一人一人の戦争責任への報復としての原爆」というイメージが誤りであることに改めて目を向けさせようとしているのがこのテクストなのではないだろうか。
十 終わりに ―なぜ、2つの「広島の物語」が書かれたのか
以上、『父と暮せば』『紙屋町さくらホテル』の二つのテクストに見られる「原爆」の語られ方と戦争責任の問題について考察してきた。最後に、まとめとして述べておきたいのは、なぜこの二つのテクストが、近い時期に別のものとして書かれたのか、という問題である。もちろん、初演発表からも分かるように、『父と暮らせば』の次に『紙屋町さくらホテル』というテクストが誕生したという成立の順序は明らかにある。井上自身が「『父と暮せば』を書きながら、考えていたことは、これを招いた原因についてです」(22) と述べているように、創作動機としてもこの順序はあると考えられる。
が、その他に、注目したいのが、両テクストにおける「死」の描かれ方の違いである。上述のように、『父と暮せば』では、「なぜ死んだのか」は一切問われず、「どのように死んだのか」のみに焦点化されている。一方、『紙屋町さくらホテル』では、原爆による「死」は各人の戦争責任の当然の帰結ではないが、同時に不可避のものでもなかった、という意味も含めて「なぜ死ななければならなかったか」が主題になっているのである。この二つの異なる問題意識が、一つのテクストによって成り立つ劇場空間では両立しにくいことを理解するのは、そう難しいことではないだろう。
『父と暮せば』を、死者から意味づけを無くし、寓話化のプロセスによって出来事を「過去の一回性」から解き放ち、未来化を目指すテクストと呼ぶことができるとすれば、『紙屋町さくらホテル』は、逆に、出来事の「一回性」にこそこだわり、その出来事の責任の所在を追求し、あり得た理想の姿までをも描こうとするテクストと見なし得るだろう。そして、それぞれのテクストのベクトルはまったく別の方向を向いているのである。
また、それぞれの上演場所、形態を見ても、テクストの目指す方向の違いがよく分かる。『父と暮せば』は、一九九四年の初演以降、数カ国語に翻訳されフランスやロシアで上演されている。これは、従来指摘されてきた被爆証言の「日本語という条件による制限」を乗り越えるという点で重要な意味を持つことと言え、証言の越境の可能性の一つの実現ととらえることもできよう。これに対して、『紙屋町さくらホテル』は、一九九七年新国立劇場での初演と、二〇〇一年の再演という経緯である。このテクストの中でさまざまな「責任」が問われているものの、それはもっぱら日本側の戦争責任にのみ向けられており、アメリカがそもそも原爆の投下を決定した、といういわゆる「人道に反する罪」への告発の視点が欠如していることからも、このテクストに内在する志向性が認められよう。このように、これらの上演の経緯は、そのままテクストの投げかける問いの対象の相違に重なるものであると考えられる。
そして、この二つのテクストが井上ひさしという一人の作家によって書き分けられていることも忘れてはなるまい。九十年代には、「記憶の風化」に対する危機感が声高になる一方、「唯一の被爆国」として原爆とナショナリズムの奇妙な結びつきへの指摘も多々行われてきた。また、沖縄に比べて、ヒロシマを語ることの政治的重要性やアクチュアリティが減少してきたということは、そのこと自体の孕む政治性は別として、厳然とした事実としてある。そのような時期に、小説・戯曲ともに太平洋戦争を扱った作品を数多く発表した作家が、原爆をめぐる現在の二つの大きな問題を明確に区分し、それぞれをくっきりと浮かび上がらせる形で戯曲化したということは評価されても良いことではなかろうか。
井上は、あるところで『父と暮せば』の第二部を執筆中であると述べている。(23) 未だ上梓も上演もされていないその第二部での韓国人女性の存在も予告されている。また、二〇〇一年五月には新国立劇場小劇場で東京裁判をテーマにした『夢の裂け目』が上演され、戦争責任追及ひいては戦後責任という問題点へと視点が移されている。このように、本稿は、『父と暮せば』『紙屋町さくらホテル』の二つのテクストをあくまでも現時点において考察した試論に過ぎず、最終的な評価を下すには時期尚早かもしれないことを断っておきたい。
注
井上ひさし『父と暮せば』新潮社 一九九八年。
井上ひさし『紙屋町さくらホテル』小学館 二〇〇一年。
本文からの引用は、両書による。
(2)川村湊他著『戦争はどのように語られてきたか』朝日新聞社 一九九九年 一八〇頁。
(3)ヨネヤマ・リサ『記憶の弁証法――広島』、「思想」 一九九六年八月号 一七頁参照。
(5)原爆をめぐる「公式の物語」と被爆者一人一人の物語のせめぎ合いについては次の論文に簡潔にまとめられている。 ローラ・ハイン、マーク・セルデン著、粟野真紀子訳『原爆はどのように記憶されてきたのか』、「世界」一九九八年一月号。
(6)高橋哲哉『戦後責任論』講談社 一九九九年 五五―八〇頁参照。
(10)セルツ・松尾は「原爆の問題を半ばドラマとして語ることは、原爆の悲劇を学ぶことの本質的な恐ろしさを減じてしまう不必要な感情的操作の要素を持ち込むことになる」として、「広島をあまりにも理解しやすくする危険、あまりにも解釈しやすくする危険」を指摘している。 ダニエル・セルツ、松尾雅嗣『戦争責任と原爆をめぐって : 現代日本における議論と平和博物館の役割』、「広島平和科学」一九九八年二一号参照。
(11)村井健『井上流演劇の総集編「紙屋町さくらホテル」』、「テアトロ」一九九八年一月号 一〇四頁。
(13)ノーマ・フィールド著、大島かおり訳『祖母のくに』みすず書房 二〇〇〇年 一四五頁。
(14)本文(エピローグ一) 二〇一頁 (省略および強調、引用者)。
(16)長谷川のせりふにある責任とは「戦を始めてしまった責任」「潜水艦を数多く作ればアメリカ太平洋艦隊に十分に対抗できると唱えた責任」「国際連盟から脱退すべしと叫んだ責任」「アメリカと戦わねばならぬと主張して莫大な軍事予算を海軍のために分捕ってきた責任が」「アメリカに勝つために月月火水木金金と休日返上の猛訓練を取り入れた責任」「台湾を島ぐるみ航空母艦にすべしと唱えた責任」「陛下の、軍事面の相談役としての責任」などである。本文(プロローグ) 一〇―一一頁参照。
(17)本文(プロローグ)二〇―二二頁 (省略および強調、引用者)。
(18)本文(エピローグ一) 二〇六―二〇八頁 (強調、引用者)。
(19)プロローグのある箇所で、長谷川はその英語力を生かして、GHQで働いていることが明らかにされている。 本文(プロローグ) 一五―一六頁参照。
「〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば南京虐殺
・・・・・・(以下省略)」
と読まれている。
栗原貞子『ヒロシマというとき』、「日本の原爆文学L詩歌」ほるぷ出版 一九八三年 一二九頁。
(23)井上ひさし『演劇ノート』白水社 一九九七年 二四八頁。