『夏の花』の喚起

竹西寛子


 竹西でございます。きょうは、こういう記念の会に思いがけずお招きいただいて、ささやかに書くことを続けてきた一人として、また、被爆者のひとりとして、深く感じ入っております。

 今朝、宿所の窓のカーテンを開けて、空と、山際が少しずつ変わってゆくのをながめ、きょうは、晴れの日になる、との予感を持つことができました。六十年前に、自分のいる街が、地上が、本当にむごい、ひどい、恥ずかしいありさまで、正気をどう維持できるのか、判断の根拠もなければ認識の主体もない、そういう時に、それにもかかわらず、まるで地上とは関係もないように、夏の幾日かが晴れ続けていたことを思い出しました。本当に、どこから湧いてくるのか分からないような哀しい気持と、どこに向かって憤っていいのか分からない、自分のやり場のなさ、その中で、自分の声がまともに出ないで、上ずっていた時間を、今朝の空を眺めながら思い出しました。

 私は、きょうの題を原民喜さんの「『夏の花』の喚起」とさせていただきました。「夏の花」にはすでに優れた評論や、文学以外の方たちのたくさんの発言があります。今さらなぜ、といわれる方もあろあろうかと思いますが、あの「夏の花」が、今の私にとってどれほど切実なものであるか、つまり、私個人にとっての「夏の花」の魅力、ということなのです。

 「夏の花」を原爆小説と規定されることは自由です。「夏の花」に限らず、どのような評価が与えられたとしても、それは作品自体とは別の話であろうと思いますが、こと「夏の花」に関しては、私は「原爆小説」と規定するのを好みません。事実、「夏の花」は原さんの原爆体験をきっかけに生まれたものですし、それは間違いないのですが、そういうふうに作品をひとつの枠にはめて語ることは読者にとっても作者にとっても不幸なことだと思ってきました。

 

文学のあるべき姿

 私にとっての「夏の花」は、優れた原爆小説であるということよりも、優れた文学とはどのようにあるべきか、その、優れようを示す強い喚起力が何より魅力なのです。ある時期から、私は、優れた文学に共通する特徴は、説得の力と読者を喚起する力だと考えるようになりました。「説得の力」とは、読者としては作品に親密感、共感を抱いたり、ということで感じられます。「喚起力」の方は、最終的には読者が、自分も人間の一人として、自分もその一部である世界、宇宙への愛着を与えられるー―そういうものを「喚起する力」と考えてきました。そして、原さんの「夏の花」は、そういう説得力と喚起力を兼ね備えた、力強い作品として私の中に今、存在しています。

 見た夢を互いに話し合い、その夢の共有が生きていくうえでの幸せであり、いつか、どちらの夢か分からなくなる……。そうした、原さんにとって大切な夫人が病気で先立たれた後に、原爆という体験を逃れられないものとされた原さんの衝撃がどのように深いものであったか、それは「夏の花」の文章にたどるほかはありません。もともと、原さんは早くから詩作も始めていられましたが、詩人的素質も豊かでした。私の読み違いでなければいいのですが、原さんは、静謐なもの、静かなるものへの、ひとかたならぬ親しみをもっておられた方、それがどうしても必要な方だったと思います。しかし、それは現実にたいする受身の、消極的な姿勢とはいえません。たとえば原さんにとっては、水の清澄に象徴される極度に静謐なる時間も、そのなかに宇宙の豊かさがすべて込められていると、そう理解できる言葉が幾ヶ所かあります。

 昭和十九年に奥様に先立たれて、二十年に被爆されて、それからほぼ一年の間に「夏の花」は書かれた、と年譜で知ることができます。ただ、当時は日本のおかれた状況もあって、米軍や当局への思慮から発表されなかった。「三田文学」に発表されたのは、だいぶ後になってからでした(編集部註=初出は「三田文学」昭和二十二年六月号)。その「夏の花」が書かれた後に幾編かの美しい亡妻記というような、「夏の花」に先立つ時間の、夫人を悼み、たどられる幾編かがあります。夫人の発病に始まって、不穏な時代に見つめあい、慰めあって生きていた日々を綴られています。「苦しく美しき夏」「永遠のみどり」「心願の国」などを読んでいくと、ことがらは確かに夫人の死に向かってたどられているのですが、私は、原さんが、被爆の経験を、自分の言葉の経験によって「夏の花」として発表されたことに、原さん自身がどんなに強く影響されたか、ということを考えます。

 具体的にどういうことかー。ご夫妻の中にあった甘美な時間だけでなく、名状しがたい不安、惧れ、そういう時間がたどられている間に、被爆の衝撃を作品化するという自分の中の大きな変化によって、「夏の花」を書く以前の自分には戻れなくなった作者の姿を感じるからです。初めに「夏の花」を「優れた原爆小説というより、よき文学のあるべき姿の強さを感じる」と言いましたが、原さんの中で、被爆の経験を言葉で経験する、ということが生じた場合、生じなかった場合を較べて考えると、明らかに大きな違いがあったろうと思います。作品の完成度という点では、「夏の花」以外の短編の幾つかに認められる方もいると思う。私もそう思います。しかし、それは「夏の花」の経験によって変化した原民喜の目と耳、ものの感じ方によって「整理された過去」という面もあって、つまり、「夏の花」の体験で、それ以前の原さんの環境が整理された。別の言い方をすれば、「夏の花」の作者による自作解説、と読める短編ともいえるのです。意識があり、現実があり、その中に言葉の経験を置くと、しばしば、知識は他人事で通り過ぎたり、言葉にならない体験の、体の中への染みとおりの弱さということも、併せて考えさせられます。

 「苦しく美しき夏」「秋日記」「冬日記」。一度読んだら忘れられない短編をいくつも書いていられますが、「夏の花」の力はずばぬけています。私は今度、こちらに来る前に何度目かの、「夏の花」をゆっくり読み返しました。書かれている文章をたどっていくと、息が苦しくなりました。それは不愉快ということではなく、あまりにも現実感が強くて、その時の自分ともう一度向かい合うことを要求される息苦しさだったと思います。六十年もたって、それほどの現実感で迫ってくる作品は、そんなにあるものではないでしょう。たいへんなことだと思います。とにかく、読み飛ばせる文章がない。書かれていることに関する限り、あいまいではない。もちろん、何かが書かれた、ということは、何かが省かれたということでもあります。いったい、この強い現実感はどこから来るのか。ただ過去を振り返らせるというだけではすまないんです。

 

なぜ書き始めたか

 原さんのことをお話する前に、少しだけ私自身のことを話させてください。私は昭和三十八年に、初めて小説を書きました。「儀式」という題で、広島の経験がきっかけでした。私は、多くのものをかかれる方たちとは違って、小説家になろう、などとは全く思わずに原爆の時まで生きてきました。先ほど、「正気を保つにはどうすればいいか、というほどの衝撃」と言いましたが、自分の周りで重傷者が増え、死者の数が増し、行方不明の数を増やしていくー。実際に知っている人が正常の感覚を保てなくなる。そういう現実の中で、本当に自分はどうしていいのか分からない環境の中で、どのように正気を維持できるか、とても怖かったのです。どこに向かって声を上げたら適当な答えが返ってくるのか、それも分からない。募ってくるのは違和感ばかり、生きていることの違和感ばかりです。自分が安心して身を置ける場所がどこにもない。どこから風が吹いてくるのか、どこから冷たいものが来るのか分からないのだけれど、とにかく、「安穏」という次元からは程遠いところで暮らすことになってしまった。この違和感を感じる環境のなかで、何とかして自分の平穏を取り戻したい、心と身体の健康―今から考えればとても信じられないような異常な状況がいくつもありましたーを保てるのか、そのことをいろいろと探していたように思います。そしていつの間にか、私は、言葉にすがろうとしている自分を知るのです。

 将来のことなどは考えられずに、今の違和感から逃れるために、周りにある凹凸を滑らかにするために、気持を落ち着かせるのにいちばん自然だという形で、いつの間にか書き始めていたと思います。一つ書いて、平衡感覚を取り戻したら、それでいい、と思っていました。小説を書く勉強などしていませんでした。手探りしながら書きました。それが「儀式」です。昭和三十八年、私は三十四歳でした。

 私はその時、自分の置かれた環境が特殊だということに、ひどく腹を立てていました。十六歳でした。どうしてこの土地で、この街の者だけがこんな目に遭うんだろう、ということから始まって、分からないままに、その特殊な状況を何とか冷静に見てみたい、と思いました。それで唯一考えたのは、その特殊なことを「特殊なことだ」と声を上げるのではなく、どれだけ客観的な広がりをもてる表現になりうるのか、そのことだけを思いました。広島だけが空襲を受けたわけではない。東京、大阪、名古屋、各地に戦争の被害は生じています。でも、私は今、やはり広島の被害は特殊だと、はっきりと思います。これまで生きてきた途中で、特殊だと思うまいとして、度々、一般化することに気持を注ぎましたが、それを経た後でやはり、広島の惨劇は特殊だったと思い至りました。

 最初に、特別なこととして無意識の優越感で表してはいけないと思うことが、小説から固有名詞を全部、削らせました。私は、広島の地名も町名も一切消しました。本来ならばそれぞれの立場に応じた、環境に応じた弔いを持つはずの一人ひとりの死が、何の弔いもないままに「死」として認められなければならない、その不公平について書こうと思いました。同時代の人なら、こちらが筆を惜しんだりしても、共通体験によって、ある程度は分かってくれるかもしれない。けれども、全く経験のない人に、自分の書くものをわかってもらうにはどうしたらいいか。人間の生活には、個々人の特殊な生活しかありません。その、特殊な生活を、どういう客観的な目で書けば、特別なことだけに狭まらないで広がっていくか、と考えるのが、書き始めたばかりの私にできる精いっぱいのことでした。固有名詞を削ったことも、自分の知恵の一つでした。私は今、広島は、書いても書かなくても同じだという気持になっています。

 もう一つ、近年では当たり前のように言われ、書かれていますが、三十八年ごろに、被爆者のなかで、加害者の目の可能性というものを引き入れて書くことは、とても勇気の要ることでした。でも、私は被害者の立場を追い詰めていくうちに、どうしても被害者だけでいられる自信がなくなりました。じゃあ、何をするか。特別何かをするわけではないけれども、「加害者の目の可能性」に気付いた以上は、その二つの目で事実を追い詰めていくべきではないか、と思いました。

 しかし、迷うばかりでした。どう書いていいか分からない。それで、多くの女性の先輩たちはどういう文章を書いてこられたのかー大変に遅い気付きで恥ずかしいのですがー読み始めました。野上さん(野上弥生子)、宮本百合子、岡本かの子、樋口一葉というふうに、気の遠くなる作業でしたが、人に強いられたのではないから、途中で止めるわけにはいきません。そのうちに王朝文学にたどり着いたのです。学校であれほど立派な文学として教えられていた王朝文学が何一つ、身についていないことを思い知らされました。実際に自分が文章を書くのに苦しみだして初めて、受身ではなく王朝文学と向かい合うことになりました。一応は国文学を専攻していたのですが、それは受身であって、自分が求めて血肉化していたのではないと思い知らされる時間が始まりました。

 広島での違和感を鎮めたい一心で文章を習い始めました。それで、唯一つだけ書いたらそれでいい、と思っていたのですが、それが、とんだ思い上がりだったことも分かりました。一つだけで、とても止められるものではない。それは「文学の力」ということでもあるけれど、読者でいることと、書くことの間には言い尽くせないほどの隔たりがあります。「書く」という経験で、言葉で生きていくことが肉体のこととして切実になってきます。社会で、家庭で、一人の人間として、より不幸せではない生き方を維持していこうとする時、言葉で生きていくことがどんなに大切なことか。不必要な摩擦を避けて、お互いがより不幸せにならない生活を維持していくために、言葉の生活がどんなに大切か。私はそのころから、世の中には言葉についての疑問を全く感じないで生きていられる人と、言葉につまずきながら、言葉について考えずにはいられない人と、大きく二種類あるんじゃないかと思うようになりました。

 日本人であれば日本語は楽に使えるか、といえばそうではない、というところで、私は立ち止まってしまいました。同時に、私たちは、言葉を糧にして自分を養っているということにも気持が新たになりました。言葉で育てられ、言葉で自分を育て、人間関係を保ち、成長していく。ものごとを考えるのも言葉。そのことを、なおざりにするかしないか、その岐路に立ったような気がしました。

 原民喜はある時期、リルケの「マルテの手記」を好んで読んでいました。私もリルケに、小さい刺激を、小さいけれども深い衝撃を受けたことがあります。「ものを殺す言葉」という詩の一節がありました。「ものは人間のように声はださないけれども、人間が使う言葉しだいで、ものがものであることの本質を殺してしまう。言葉が暴力になってしまう。誰も反論しない、もの自体も反論しないけれども、無意識のうちに人間はものを殺す」という趣旨のことを、リルケは詩の中で言っています。そうした曲折があって、私は今日まで小説と古典文学論、エッセイを書いてきましたが、小説と古典論をほぼ同時に始めたのは、お話したような理由からなのです。二つのことが、自分のなかではちっとも矛盾しないで今日まできています。

 一つで終らなかったのは、一つ書いたことで何が書けなかったのか、それが解った気味悪さです。まだ、自分にはものの見方、感じ方によって、もう少し先のほうまで見るべきものがあるんじゃないか、表現すべきことがあるんじゃないか、という、一つ書くことによって納得できた「自分の限界」が、私をそこに留めなかった、ということだと思います。そしそして、次々に書くようになって七十歳の半ばを過ぎました。満足できるものは未だないですし、今、気付いたことは次の文章に、と思うことの繰り返しです。

 

事実を見つめること

 昭和四十五年に、原さんの「夏の花」論を初めて書きました。晶文社版の「夏の花」に解説を依頼されたのです。それまでにも何度か読んでいましたから、また読み直して書こうと思いました。それで読み直したとき、それまで見えていたはずの「夏の花」とはまるで違う様相で私に迫ってきました。その違い方は(後になって理解するのですが)、私自身が書く苦しさとわずかな喜びを知ったために、他者の作品の読み方が変わった、ということです。「夏の花」にあったたくさんの長所が、私が言葉への新たな経験を持ったことでもっと切実な、強い訴えかけをしてきたことに、私自身が驚きました。それで、あの作品と対峙するような新しい気持で読み直しました。その結果、付けた題が「広島が言わせる言葉」でした。

 「広島」を言いたい気持は今も、私の中にたくさんあります。でも、「広島」という事実、「被爆の広島」という事実に反応する自分をまず言うよりも、反応を促した事実を見つめることの大切さを、原さんは教えてくれました。言葉で「広島を言う言葉」「広島が言わせる言葉」とかいうのはまだ易しい。その違いをどういうふうに自分で実感するか、それは全身的な経験になると思います。ただ意識の上で区別してはいけない、という気持があり、でも、どうしても区別したがる自分がいる。原さんは作品そのもので、気ままに「広島」を言うことをたしなめている。そう思います。悔しさを言いたい、腹立たしさ、嘆かわしさを訴えたい。しかし、なぜそうなったか、悔しさなどを引き起こす原因を、事実をもっと見極めなければ、その悔しさも腹立たしさも本当に言えることはないだろう。事実によって引き起こされた人間の内部の変化を性急に訴えるよりも、変化を促した事実に注目する意識、忍耐、集中力を、原さんはあの作品で示されたと、私は受け止めています。「喚起力」と言ったのは、なしくずしに事実を自分のなかで中途半端な理性と感性で処理し、解釈してしまわずに、分からないことは分からないで残し、あくまで事実を見通していく力を失ってはならない。それこそが文学の根本だと教わったように思います。

 「夏の花」の朗読を聞きながら、改めて原民喜の「眼」を思いました。その喚起力を支える大きな二つの要素についてお話したいと思います。

 一つは「眼の沈着」ということです。いいかげんに見ない。その結果、見えるものだけでなく、眼に見えるものの向こうに、目にはみえないものまで包み込む「眼の力」を持ったことです。

 自明の事柄をよく見つめて不明を知る。解ったことの向こうに、もっと計りがたい、解らないものがあることを、「視る」ことによってわきまえる、ということです。原さんの文章に表れている眼の特徴は、事実を的確に捉えることはいうまでもなく、事実の向こうにある不明をあいまいにせず、明晰に書きとめたことです。見えることをはっきりと分かるように書く。それと同じように、分からないことも、どのように分からないかをはっきりと書きとめた人だったと言いたい。

 ふだん、日常のなかで気を許し、あいまいなものと馴れ合っている時には「眼の沈着」などということはほとんど意識されません。しかし、これはいったいどういうことなのか、と本気で考え始めた時、ものの表面だけを捉えている横着な「眼の不誠実」、つまりは事実に対する不誠実に気付くはずです。不明のことをあいまいにぼかす、いかにも分かっているふうにぼかす方がずっと易しい。解らないことを、どのように解らないか自分の言葉で追い詰めていく作業は生易しいものではない。その自明と不明の両方に迫っていかない限り、文章は独りよがりのうぬぼれに陥ってしまう。

 先ほど、「何かを書くということは何を書かないかということだ」と申しました。「眼の沈着」によって、今、自分が書こうとするものが何かを徹底して追いかけている原さんの中で、鋭い直感と客観的な思考がものすごい速さで交錯していたと思う。自分を恃みたい直感が、果たして第三者の目で見たらどのような客観性をもっているのか。少なくとも文章に書く限り「私はこう思います」だけで書ける文章は一行もない。よく働くかどうかは別としても、その文章が客観的にどのような広がりを持つか、そこに目を働かせない限り、説得力のある文章はかけない。そう考えていくと、原さんの文章は、直感と客観性への意思の振幅が、ものすごい速さで運動しているように読み取れます。

 「喚起」の二つ目に、表現する場合の、原さんにおける「直感的な理性」の使われ方をあげておきたいと思います。その一方で、柔和な、生まれながらの、さらに言葉の生活を積み重ねて培われた感受性が自由に使いこなされています。その快いバランスが、「眼の沈着」と併せて均衡を保って、「喚起力」になっています。

 「夏の花」の中に、硬直した「ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム」といった、一編の片仮名の詩が挿入されています。何の解釈もされずに投げ出されたような言葉。事実と、自らの衝撃の深さと言葉がひとつになって、ヒリヒリするような感覚で書かれている作品の姿が、そこにはあります。もっと滑らかに書きたい、それらしく説明できたらいいのに、と思いつつも、書いてはいけない、片仮名にしなければならなかった作者を感じます。表現する者としての謙虚さでしょう。

 

「天地を動かす」言葉

 原民喜は、自らの命を絶ちましたが、作品のなかの原さんは、ある意味では最後まで見事に生きられたといえます。それは、たとえば「苦しく美しき夏」などの短編にもうかがえるのですが、何ともいえない、耐え難い病にまとわりつかれている時期に、一方で永遠なるものへのあこがれを失ってはいなかった。「永遠のみどり」は、その象徴的な作品です。

 悲惨な状況の中でも、青々とした田んぼの風景や赤とんぼに目を止める。尾道の海の光、少年時代の広島、五月の清冽な緑を、原さんは忘れられなかったのです。そうして現実の悲惨と平衡を保つことができたのです。何とも知れない未来に向かっている不安と、永遠なるものへの信頼とあこがれを持ち続ける。その二つを自分のなかで、最後まで戦わせていたのではないでしょうか。

 パスカルの言葉に(そのままの言葉ではないかもしれません)に、「人間は、どんなに絶望的な状態になっても、より高く生きたい欲望を制することはできない本能を持っている」とあります。私は、原さんの文章に、そのパスカルの言葉の精神が宿っていることに救いを感じます。あるいは、「古今和歌集」の「仮名序」の一節に「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、男女のなかをもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり」とあります。戦争。平和。人間の心の中の変化を考えると、迂遠でまどろっこしいことだけれど、「天地を動かす」のはやはり言葉なのだと思います。言葉によって、降り積もる雪のように少しずつ少しずつ人間観、世界観を変えていく。そう思うとき、原さんの「夏の花」もまた、紛れもなく「力をも入れずして天地を動かす」言葉であろうと、改めて思います。

 本日は、お招きいただいて、本当にありがとうございました。


【解説】「原民喜生誕一〇〇周年祭」の〇五年十一月十三日午後、広島市中区幟町の世界平和記念聖堂に作家・竹西寛子さんをお招きして記念講演会を開催した。賛助出演を引き受けてくださった「ひろしま音読の会」による「原民喜を詠む」に続いての講演は、「夏の花」が湛える言葉の力を丁寧にひもといて、多くの示唆に富む内容だった。竹西さんの了解を得て、その全容を採録した。(文責=「広島花幻忌の会」事務局・海老根勲)