峠三吉の人と作品

寺島洋一


(要旨)寺島さんははじめに「わたしと峠三吉」を話された。直接ふれ合っていないが、 「われらの詩」の後継誌としての「われらのうた」を増岡敏和上京後、56号終刊まで運営した。 和子夫人から三吉の日記と詩のノートを借り、和子夫人や共産党(当時は松江澄さん)から「峠三 吉祭」の要請を受けたが、峠三吉研究会をつづけ「『原爆詩集』試論」を書く。昭和40年和子夫人自殺後、「峠三吉とその時代」をライフワークにする構想を持つ。

 次に、寺島さんは同じ三月 に死んだ二人の原爆詩人、原民喜と峠三吉を対比する話に入った。「ぼくを容れてくれる屋根はない」…鉄道自殺した原民喜、「みんなのまんなかで喜んでくれるうちに死のう」…手術台で死んだ三吉。「母親」のような「 妻」。妻なしでは生きていけなかった二人。内気な民喜の「通訳」をする妻貞恵。喀血をつづける三吉の生活を支える妻和子。妻のために一冊の詩集を残そうとし、残した二人。三吉の人となりを示すキーワードは、「捨己献身(しゃきけんしん)」「生まれてきた以上、正しいことを為さねばならぬ。 そのためには己を捨てることも厭わぬ 」。「神のため」から「みんなのため」、「みんなのため」から「共産党のため」と捨己献身 は深化していったのでは。

 民喜は「8.6」の「メチャクチャ」の「広島の惨劇」を経験したが、三吉は三千。離れた自宅で被爆し、「メチャクチャ」を知 らない。8月8日、被服廠に行き、「終生忘れ得ず忘るべかざる光景」の克明な日記は、5年後に『原爆詩集』で「倉庫の記録」 「眼」となった。だが特徴的なことは、ストックホルム・アッピール(1950年3月)以後、原爆詩を書く。『原爆詩集』の三つの 作品群。

@原爆の惨害を描いた もの⇒記録的手法。「眼」は現代のわたしたちにも迫ってくる最大傑作

A原爆反対を呼びかけ るもの⇒“呼びかけ“調。「呼びかけ」「その日はいつか」

B原爆が生き残ったものに投げ込むもの⇒象徴詩的手法。「河のある風景

 時間切れとなったが、6月に出版される『雲雀と少年/峠三吉論』(文芸社)を参照されたい。なお当日、次のような資料が配付されました。

1. 峠三吉年譜 「クリスマスの帰りみちに」(劇画『風のように炎のように』から)  

2. 「序」「呼びかけ」「八月六日」「河のある風景」「眼」(『原爆詩集』から)

3. 峠三吉年譜 「クリスマスの帰り道に(劇が「風のように炎のように」