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私たち「広島に文学館を!市民の会」は広島市ならびに安芸地方に文学館がひとつもないのを残念に思い、2001年1月に発足した市民グループです。私たちのグループの前身である「広島文学資料保全の会」は1987年に発足していますから、その年から数えると今年は20年目に当たるのですが、残念ながら文学館が広島市に作られる見通しはありません。 広島ほど重要な都市に文学館がないというのは異常としか言えませんが、黙って何もしないわけにはいきませんので、「市民の会」の発足以降は毎年、文学資料展、シンポジウム、講演会、朗読会、ブックレット刊行、文学散歩の絵はがき作成、電車でめぐる文学散歩など、さまざまな試みをしてきました。(詳しくは市民の会のホームページ「広島文学館」をご参照下さい。) 2006年11月、峠三吉(1917-1953)の甥の峠鷹志さんから峠三吉の資料を私たち「市民の会」に寄託したいとの申し出がありました。受け取ったところ、その中に『原爆詩集』の草稿があることが判明しました。この草稿は、1951年6月1日付けの「あとがき」がある『原爆詩集』の孔版印刷直前の最終稿だったのです。私たちはその重要性を考え、本年5月15日から8月20日まで広島平和資料館で「峠三吉文学展」を行いました。 今回は峠三吉と『原爆詩集』にゆかりが深い東広島で「峠三吉文学資料展--『原爆詩集』成立の周辺」を行うことにしました。 峠三吉は幼時より病弱でしたが、1950年11月より51年3月まで胸の病気のため国立広島療養所(現東広島医療センター、当時は西条療養所と通称)に入院しました。折しも朝鮮戦争が激化し、アメリカのトルーマン大統領は原爆再使用を1950年11月末に宣言しました。そのため、峠をはじめとする広島の人々は核戦争の危惧を感じていましたが、当時はアメリカの占領政策の一環としてプレスコード(占領軍による新聞雑誌などの言論規制と事前検閲)により、原爆の被害は発表できませんでした。しかし、峠は核戦争を押しとどめるために詩集の刊行を試み、西条療養所に入院中に『原爆詩集』の大半を書き上げました。その一方、愛妻和子が西条に見舞いに来てくれることを待ちわびながら絵日記とコラージュを1冊のスケッチブックに残しています。 今回は広島大学との関係にも焦点を当てました。「広島文学資料保全の会」の代表幹事であった故好村冨士彦広島大学名誉教授は、青年時代、西条療養所に入院中に峠三吉と出会い、『原爆詩集』の成立に立ち会ったことがきっかけで、物理学専攻から文学研究へ進路を変えたとのことです。療養当時の峠と好村青年の写った写真や『原爆詩集』の「序」(「ちちよかえせ……」で広く知られている詩)の元になった詩「生」に関する好村教授による考察も今回展示しました。 川手健氏は峠三吉や山代巴とともに市民の書いた原爆詩の収集にあたり、『原子雲の下より』(1952年)を両氏とともに刊行しましたが、刊行当時は広島大学文学部の学生でした。今回は、『原子雲の下より』の「あとがき」として川手氏が書いた原稿(最終的には採用されなかった)を展示しました。 「広島文学資料保全の会」は「広島大学ひろしま平和科学コンソーシアム」と協力して、2004年に「峠三吉被爆日記」ならびに「峠三吉編詩集『原子雲の下より』応募作品総目録」を刊行しましたが、今回、それらも展示しました。 さらに、いまでは貴重なものとなった『われらの詩』全巻を展示するとともに、これまで未公開だった資料も数十点展示しました。 峠三吉と東広島や広島大学との関係、また戦後日本におけるベストセラーである『原爆詩集』の成立を通じて、詩人峠三吉の全体像を身近な存在として感じていただけるよう、どうぞお出かけ下さい。 |
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2006年11月に発見 | |
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療養所内で和子宛に記録された日記、メモなど | |
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『われらの詩』 |
1〜20号 |
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詩碑レプリカ |
製作・池田正彦 |
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写真パネル |
家族写真、療養所、広島駅ホーム、「原爆の図展」後の座談会など |
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草稿多数 |
「倉庫の記録」、「八月六日」、「墓標」など |
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新聞「平和戦線」7号 |
1950年6月9日、占領政策に抗し、紙面に被爆の惨状を掲載 |
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辻詩 |
詩・峠三吉、絵・四国五郎 |
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書籍 |
『原爆詩集』はじめ峠三吉関連書籍 |
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遺品類 |
デスマスク、印刷用凸版など |