近代文学の歴史を振り返ってみても、近代演劇の創始者としての小山内薫や、『赤い鳥』を創刊して児童文学史上に不滅の名前を残した鈴木三重吉は、ともに広島市の出身である。そうした広島が生んだ優れた文学や文学者を、なぜ広島の人々は郷里の誇りとして高く評価しようとしないのであろうか。
そればかりでなく、人類最初の被爆地としての広島はその地獄絵巻のなかから数多くの被爆作家を生み出した。こうした原爆がもたらした痛みを後世に伝える資料が多く残されている広島に、いまだに文学館のひとつもないのはなぜであろうか。
広島平和記念資料館を訪れる人は、はじめはその被害のひどさと恐ろしさを実物と映像によって知らされ圧倒されるが、心有る人々は次にその悲劇のなかで人々が何を考え、何を伝えようとしたかを知ろうと思う。その時に手がかりとなるのはやはり人々が命がけで残した言葉であり、文学であろう。そうした言葉を集め、整理し、公開する文学館がなぜ広島のような大都市に作られないのか。これは大きな謎である。
広島に文学館を!という運動はこれまでなかったわけではない。私が知っているかぎりでは、すでに17年前の1987年にひとつの大きな運動があった。それは、「広島の文学資料保全をすすめる会」(のちに「広島文学資料保全の会」と改称)と呼ばれる会が6000人の署名を集め、7月14日に「ヒロシマの文学作品にかかわる資料等の調査、収集・保存、及びその施設建設に関する要請」という要請文を当時の荒木市長に手渡す一方で、その後主として原爆文学関係資料を1万数千点収集し、広島市立中央図書館に寄贈したことに始まる。ところが、それから平岡市長、秋葉市長と三代の市長に「広島文学資料保全の会」は文学館建設の要請を続けたが、実現しなかったのである。
2001年1月には「広島に文学館を!市民の会」(以下「市民の会」と略称する)が結成され、私が代表に選出された。そして「市民の会」としても秋葉市長と広島市役所企画調整課に宛てて、旧日本銀行広島支店を文学館として活用してほしいという要請文を提出した。しかし、残念ながら、これも現在にいたるまで実現していない。
私たち「市民の会」はこの旧日本銀行広島支店で開かれた「原民喜没後50年記念展」や「原爆文学展〜5人のヒロシマ」の成功から見ても広島市民に文学館を求める気持ちはあると思う。また、すでに湾岸戦争で劣化ウラン弾は大量に使われ、さらにアメリカはテロ防止の口実のもとに先制攻撃のための小型核兵器の開発を急いでいるという悲しむべき核時代に、広島・長崎の役割は大きいと言われる。
こうした時代に、自分たちの先輩が命がけで残した文学資料を集め、研究し、公開する努力をするのは、「国際平和文化都市」の看板を掲げた広島市の第一になすべき責務ではないだろうか。世界の大学に広島・長崎講座をという秋葉市長のアイデアは結構なことと思う。そのためにはまず広島の市民や文学者達の言葉を集め、英訳もして世界に公表すべきであると思う。
井上ひさしの「父と暮らせば」がこの夏映画化され好評であったが、この戯曲も広島市立中央図書館に集められた被爆者の手記などがなければ実現できなかったと作者は言っている。広島の文学館の早急な実現が望まれる。