このようなイメージは妻のイメージに似ていたに違いない。たとえば、戦後の作品では、民喜は直接妻に向って「お前」と呼びかけて語っている。極端な場合には、「鎮魂歌」のように全体が妻への祈願のように叙述されているものもあれば、短編「魔のひととき」、「心願の国」のように部分的に「お前」という呼びかけが使われているものもある。
自殺の予告
民喜は、戦後に書いた作品では弱者の立場からの自分の経験を通して、普通の人々の敗戦直後の生活における人間存在の不安を描写している。個人の思い出、特に病気の妻の追憶を、戦後の困難な日々の描写に重ねている。また、あまり多くはないが、最愛の姉ツル、父親の思い出も例えば「雲の裂け目」「昔の店」といったいくつかの作品に現われている。
なおかつ、民喜は〈他者の死〉、つまり、愛した家族や妻、広島の市民の死だけではなく、自分の死についてもよく語っている。無意識的で不安な死の妄想、あるいは計画的な「自殺の妄想」とも言える。心理学でいう「死の強迫精神症の観念」に支配されてきた民喜は、殆どの作品で自分の死、言い換えれば自殺の予告のような文章を入れている。例えば、「鎮魂歌」では次のように告白している。「あのとき僕は病気だと云はれたら無一文の僕は自殺するよりほかに方法はなかつたのだが・・・。」さらに「遙かな旅」では、次のようなあたかも遺言のように響く文章を書いている。「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。」この「一冊の詩集」と呼ばれた作品は、実は「夏の花」だけを指しているわけではない。妻が病死した一九四四年から彼が自殺した五一年までの七年間に書かれた様々な散文や詩のことも意味していると思われる。
さらに、もう一つの文章に注意を喚起したい。「魔のひととき」にあるこの一文は、民喜の人生における三つの大切なポイントを指摘していると考えられる。それは妻との死別、原爆投下とその後の経験、そしてそれらの結果としての自殺の予告である。
お前と死別れて一年もたたないうちに、僕は郷里の街の大壊滅を見、それからつぎつぎに惨めな目に遇つて来てゐるが、僕にはどこか眼もとどかない遙かなところで、幸福な透明な世界が微笑みかけてくる瞬間があるやうだ。
「つぎつぎと惨めな目に遇つて来てゐる」というのは、民喜の戦後の生活に強く関連している。いくつかの例を上げると、体の衰弱や疲れ、食糧不足や飢餓、人生の迷いや行止り、孤独さや近親者の死亡、病気に罹る恐怖や死の恐怖、失職、金銭の欠如や強盗の横行などの事情を以上の文章が示していると考えられる。しかし、民喜の場合には、この現実への視線が少し異なっていて、自分の性格のフィルターを通してこれらの現状を描きだしている。例えば、広島郊外にある八幡村の避難所での半年余りの生活を回顧した「廃墟から」や「小さな村」「氷花」を見てみよう。当時、人生の不安は多くの人々にとっては当たり前であったが、妻を失い、戦前の東京での長い生活によって故郷の家族との親しい関係を断っていた民喜にとっては、とても堪えられなかった。彼の生活は平静さを失っていた。それに加えて、従来の民喜の弱い体が被爆後もっと弱くなり、「何だか僕は死ぬるのではないかと思つていた」(「氷花」より)というような考えが彼を絶えまなく襲った。
自分の死のことばかりを考えていると、なかなか積極的に将来のことが考えられなくなるであろう。一生、他人の死の陰で生きていた民喜は、今度は自分の死の恐怖に怯えて、より恐ろしい精神状態に陥っている。自らの心配事ばかりを考える家族は、民喜の悩みをあまり気にせず、兄弟もめったに「一体、どうするつもりなのか」(「小さな村」)と民喜のことを心配することもなかった。また、自分の生活費を蓄えるためには村での仕事や広島での仕事をしなければならない。すると、彼のだんだん衰弱してゆく体がもっと疲れてくる。八幡村とその後の東京での生活で感じた病死の恐れ、あるいは過労死の恐れは、彼の精神に激しい影響を与えて、自殺の決意を次第に強めていったと考えられる。たしかに八幡村に避難した時には、まだこのことをはっきりとは考えていなかった。しかし、四六年の春、東京で孤独な生活を改めて営み始めた頃からこの考えは彼の心にたびたび沸き起こったと思う。
一九五〇年一月、民喜は転居して、武蔵野市吉祥寺二四〇六の川崎家に間借りすることになった。これは彼の最後の住まいであった。少しずつ外の仕事を辞めながら、作品を書くことに集中しようとしたのである。五〇年四月に「日本ペンクラブ広島の会」主催の平和講演会の講師の一人として帰郷した。これは広島に住んでいた家族とのT別れの出会いUであった。この年の終わり頃から、民喜は親友たちを一人一人訪ねて、その当時は誰も想像することはできなかったが、自分の心の中で別れを告げたらしい。翌年の春、三月十三日の夜中、線路に横たわって自殺した。
戦争が終わったにもかかわらず、彼はまだ「死の臭い」をどこかで感じたまま、惨めな生活を続けている。まるで「僕は惨劇の中に死にかかつてゐる男」のように苦しみながら、未来を前向きに考えず、過去の恐ればかりに囲まれて生きていた。彼と同じ運命をもつ人々と異なり、民喜はこの運命に対しての反応、つまり体の疲れ、就職口と住まい探し、食糧不足(「佗しい食後の空腹状態」)、そして肺結核の症状のような怪しい咳、あるいは精神病に近い症状に対する過敏な反応を示す人としての自分を作品の中でたびたび描いている。彼の態度をただ外面的に観測するとしたら、あるいは彼の作品の分析が不充分であれば、彼は精神分裂症に罹っているという推測が浮び上るにちがいない。しかし、より深く民喜の運命を観察するとしたら、この敏感な詩人、小説家がまわりの現実をとても細かく見ているのは、当然のことではないかと筆者は考える。「人類の渦の混濁のかなたに輝かしい幻像が浮びあがる。」と民喜は告白している。人間は現実に起こった地獄を絶対に忘れることができない。過去は民喜の心で次第に脹らんできて、不安は「自分を滅ぼす」にいたるほどに発展してきた。このような背景で民喜は「心願の国」を執筆した。
「心願の国」― 小鳥のモチーフと自殺の予告
民喜の死後に発表された「心願の国」は、作品の内容としては、彼の遺言のように、「さようならの言葉」として読みとれる。実際、民喜は雑誌『群像』の編集者であった大久保房男氏にあてた遺書の手紙と共に「心願の国」を送ったのである。その遺書には「大久保君 あなたにはネクタイをあげます あなたはたのしく生きてください 心願の国といふ原稿 群像で不要の際は近代文学へ渡して下さい」とあった。
ついに民喜の不安がもっとも恐ろしい結末を迎えた。神経の限界まできて、彼の人生における先の道はもはやなかった。いくつかの作品で予告したように、自殺の道しかないと自覚することになった。恐れのない国、標題通りの「心願の国」へ一刻も早く鳥となって飛んでいきたいと告白している。作品の終わりに「僕は今しきりに夢みる、真昼の麦畑から飛びたつて、青く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を・・・・。(あれは死んだお前だらうか、それとも僕のイメージだらうか)」と書き、妻のことを回顧している。
戦前に書いた様々な作品を通読すると、民喜の最愛の姉ツルが鳥になって青空へ飛んでいくというモチーフが現れてくる。しかし、今度は、自分自身に同じような運命を与え、鳥となって、孤独な生活を終え、不安に満ちた世界を去って、愛した家族、妻のもとに行きたいという願望が、民喜の死ぬ直前の作品に表現されていると解釈することができる。彼の好きな小鳥はヒバリであった。ファンタジーの物語と同じように、小鳥たちの国を幻想にして「心願の国」を次のように始めている。
今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。・・・・僕がこんど小鳥に生まれかはつて、小鳥たちの国へ訪ねて行つたとしたら、僕は小鳥たちから、どんな風に迎へられるのだらうか。
民喜は小鳥のモチーフを、多くの友だちに送った手紙の中で使っている。確かにこの空想は、友人に対する民喜の自殺の予告として読み取られたにちがいない。一九五〇年以降、彼は自分の別れについてたびたび作品の中に書いた。例えば、四九年夏に知り合って恋心を抱いた若い女性、祖田祐子に、五〇年八月ごろに書いた「讃歌」を、別離の悲歌として捧げている。民喜は十七通の遺書を用意したが、祐子には「自分はつひに雲雀になつて、空高く舞ひ上つてゆくことになつた。」という一文を残した。
民喜のもう一人の友人に注目する。四八年六月に民喜と知り合ったカトリックの作家、遠藤周作は、民喜をしばしば「三田文学の先輩」と呼び、彼の人生における面白いエピソードを回顧している。五〇年の春、多摩川周辺の遠足の最中に、民喜は突然「ぼくはね、ヒバリです。(略)ヒバリになっていつか空に行きます」と言ったそうである。「既に彼は自殺を決心していたのだろうか。空に行くというのはそういう意味だったのか」(遠藤周作「原民喜」=「新潮」六四年五月号)と、自殺のずっと後に回想している。さらに、次のような出来事を思い出している。特別なユーモアを持っていた民喜は、遠藤が五〇年七月にフランスに留学する前、次のような葉書を彼に送った。
次の謎を解いてごらんなさい。
エメラルドの空から
運命が湧いてでるなら
どうしてわたしは防ぎ得よう
運命のたわむれ
残された命
薔薇の蕾ふくらみ
かなしみの色、眼にひそむ
(遠藤周作「原民喜のいたずら」=「三田文学」五五年九月号)
その時、民喜が本当に自殺するという考えは、彼の頭には浮ばなかった。遠藤は「勿論、原さんが、それから半年もして自殺されようとは、愚かなぼくには夢にも想像できなかった」、あるいは「その詩句は既に死を決意していた」と、民喜の悩みに対する当時の無関心を振り返っている。さらに、すでに南フランスに留学していた時、朝鮮戦争が勃発し、再び原子爆弾が使われるかもしれないということを聞いて、改めて民喜を思い出し、「朝鮮事変のニュースが原爆を直接うけた原さんにどういう衝撃を与えたか」と想像している。その数年後に再び民喜の回顧を記している。これは友人であった小説家、丸岡明が民喜をモデルにした中編小説『贋きりすと』を書いた時であった。遠藤は、民喜を象徴的に描いたこの小説に次のようにコメントしている。「周囲のすべてのものが一瞬に崩壊してしまうような感覚に絶えず襲われていた彼は朝鮮にむけて空を飛ぶジェット機の鋭い音からもすぐ広島の地獄絵を心に浮べたようだ。」(前出「原民喜」)
以上述べたすべての事実をもう一度一覧すると、自分自身の人生に疲れ果てた民喜は、妻が亡くなった時期から自殺を図ろうとしたが、広島の惨事の後、五年間あまり自分の命を何とか延ばした。しかし、五〇年六月に朝鮮戦争が勃発し、原子爆弾が再び利用される恐れも出てきた。民喜はそれ以上忍耐することはできなくなった。
カトリック作家である遠藤は、民喜の自殺を非難したことはない。それとは逆に、この死を個人の悲劇として考えた。あるいは遠藤自身もこの死に関して責任があったと自分を責めている。民喜の自殺の様々な予告をあまりにも無視していたからである。
遠藤と民喜の交際は三年間だけだった。彼は次のように民喜の姿を描いている。
原さんの姿は、満身創痍となった一羽の小鳥がしかもなお、羽を動かし、生き続けようとしている姿に似ている。『お前が原子爆弾の一撃より身もて避れ、全身くづれかかるもののなかに起ちあがらうとしたとき、(略)何故にそれは生きのびようとしなければならなかったのか、何がお前に生きのびよと命じてゐたのか』と原さんは書いているが、外見弱々しくみえた原さんからは想像もできぬこの烈しい言葉こそあの六年をどうにか生き続けさせる気力となったにちがいないのだ。(「原民喜」より)
民喜の死とその意味
「心願の国」は民喜の最後の作品であると思われる。これは短編小説とは言えず、むしろ散文詩と呼ぶ方がふさわしい。それぞれの長さの異なる八つの部分から成り立ち、各部分の内容もかなり異なっている。しかしながら、青年時代からの思い出をはじめ、妻との対話、広島の爆撃の記憶、また東京における戦後の辛い生活の思い出などが作品に含まれているので、「心願の国」は非常に個人的(私的)な作品である。これは死を選んだ人の最後の言葉であるが、この言葉が非常に楽観的に感じられる。民喜にとって死が恐れでなく憧れであり、また死後の国つまり「心願の国」に最愛の者がいるので、そこに直ちに行きたいと希望している。「僕はこの世ならぬものを考へ耽けつてゐる。(略)死が僕を攫つて行く瞬間まで、僕は小鳥のやうに素直に生きてゐたいのだが。」
この世を去ることは辛くはなく、逆に現在からの解放と未来への喜びを意味している。民喜は自分の死にうっとりして、自殺の現場を精密に描いている。この描写は作品全体の中で強烈な印象を与える部分である。自殺をこんなに冷静で計画的に考えたり、その場所をこんなに明確に書いたりするからである。
ここは僕のよく通る踏切なのだが、僕はよくここで遮断機が下がり、しばらく待たされるのだ。電車は西荻窪の方から現れたり、吉祥寺の駅の方からやつて来る。(略)電車はガーツと全速力でここを通り越す。僕はあの速度に何か胸のすくやうな気持がするのだ。全速力でこの人生を横切つてゆける人を僕は羨んでゐるのかもしれない。だが、僕の眼には、もつと悄然とこの線路に眼をとめてゐる人たちの姿が浮んでくる。人の世の生活に破れて、あがいてももがいても、もうどうにもならない場に突落されてゐる人の影が、いつもこの線路のほとりを彷徨つてゐるやうにおもへるのだ。だが、さういふことを思ひ耽けりながら、この踏切で立ちどまつてゐる僕は、・・・・僕の影もいつとはなしにこの線路のまはりを彷徨つてゐるのではないか。(「心願の国」)
民喜は自分が死ぬ場所を念入りに選んだにちがいない。自殺の場として考えた線路の踏切は、死亡の確実性以外に象徴的な意味を持っているであろう。民喜が書いている通り活気のある人は電車の速度に気づくが、民喜のような絶望に陥る人は電車のスピードによって殺されること、つまりマイナスの効果に気づく。さらに、この確実性の高い自殺は、自分の悩む世界における唯一つの救いとなっている。民喜の年譜をもう一度みる。「昭和二六年(一九五一年)四六歳 三月一三日午後一一時三一分、吉祥寺―西荻窪間の鉄路に身を横たえ自殺を遂げる」と書いてある。民喜はついに自分を不安から開放しようとしたのである。
民喜が描いている死後の世界の空想、つまり小鳥の世界の空想は仏教の輪廻説に関連している。それ故に、「心願の国」をキリスト教の立場から解釈することはほとんど不可能である。しかし、そうではないかもしれない。というのは、作品の真中に内容とは一見したところ関係のない引用があるからである。それはフランスの哲学者、パスカルの言葉である。「我々の心を痛め、我々の咽喉を締めつける一切の悲惨を見せつけられてゐるにもかかはらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできない本能を持つてゐる。」何故民喜はパスカルを選んだか、さらに何故彼のその言葉を選んだかという疑問が生じる。筆者の解釈は次の通りである。十七世紀に生きたキリスト教の哲学者の概念が一九・二〇世紀の実存主義の創造的刺激となった。それは特に、人間の運命は悲劇的であるという考えであった。またパスカルによれば、人間は超自然のものを頭脳で理解するよりは、心と信仰で理解するのである。というのは、人間にとって神の存在、それから宗教の存在は最も大切である。この考えに従って、先の引用を解決し、さらに作品の前後関係(文脈)を調べてみれば、作品全体を通して非常に肯定的な概念が浮んでくる。
先に「内容に関係のなさそうな引用」と書いたが、実はそうではないかもしれない。民喜は雪が降っている道を歩きながら、「とぼとぼと歩いてくる跛の青年」に向って心の中で励ます言葉を呟いている。「しつかりやつて下さい」。そしてパスカルの引用の後に次の場面がある。六歳の民喜は石段で蟻を次々に「指で圧へつけ」るが、「暫くすると、また一匹、蟻がやつて来た」と書いている。弱々しい人や生き残ろうとしている人を支える人間がいるのである。また、どんな犠牲を払っても生き残るための強い生命力を持つ存在が必ずいるということを民喜は伝えたかったのであろう。この文脈をパスカルの言葉につなげると、人間は精神的に非常に強い存在である。心(精神)を押し潰しても体を苦しめられても、その人間には尊厳がある。それによって私たち人間は自己を高めなければならない。また、パスカルの言葉を借りると、「人間は彼を殺すものよりなおいっそう高貴」である。
結論を引き出すと、死は人間の敗北ではなく、むしろその人間の勝利である。キリスト教の教義では、キリストの死が勝利であった。救世主であるキリストの死によって人間が原罪から解放されたわけである。さらに人間は、神を真似て、自分の苦悩によって自らを高めるのである。あるいはパスカルの言葉を借りると、人間は「自分を高めようとする(略)本能を持つ」のである。苦悩にも死にも悲劇的な側面があるだけではない。そこに見出すことのできる意義を、民喜はそれぞれの作品で例示しているのだと思う。それ故に、「夏の花」「鎮魂歌」と同じように、民喜は「心願の国」でも我々に希望を与えていると思われる。その二作と同じく、民喜自身の祈りが含まれている。「人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みてゐたやうなきがする。」
戦争が苦しみと死をもたらすにもかかわらず、いつか希望と平和の時期が来るという民喜の伝言である。
【参考資料】「定本原民喜全集氈`。巻・別巻」(青土社刊)