死者はいつまでも若い

好村冨士彦


 私は今年で六十二歳になった。峠三吉は一九五三年に三十六歳の若さで亡くなった。あれから四十年経った現在、勘定してみると私は二十六年も彼より長生きしたことになる。

 面白いことに私のイメージの中の峠三吉はあの三十六歳の若さのままで歳をとらないのだが、頭の中で対話する時の彼は、私にとってつねに十四歳ほど年長の「おっさん」なのである。

 なで肩で少し猫背で前かがみに歩き、私を見るとにこにこして近づいてきて握手する峠三吉の優しい面影は、いまもまぶたに焼きついている。

 私が峠から学んだものは数多くあるが、一番大きいのは、当時の文化運動ではプロレタリア的なものを絶対化して、その物差しに合わぬものを、ブルジョア的とかプチブル的とかレッテルを貼って排除してしまう傾向が強かったのに対して、峠はそういうブルジョア的と呼ばれる文学や芸術の遺産からも、学ぶべきものがあれば積極的に吸収しようとしていたことである。

 たとえば峠が私に読めといって貸してくれた本のひとつにヴァレリーの『詩について』があったが、私はこの中でヴァレリーがアレルブを援用して散文と詩の区別を歩行と舞踏の相違にたとえて論じているのを読んで、文学理論の面白さを初めて知った。その後ずいぶん経って気がついたのだが、峠は『われらの詩』十四号に載せた「詩の話」という啓蒙的なエッセイの中で、この比喩をヴァレリーの名など挙げずに、さりげなく使って論じているのである。

 峠はだから、私自身は気づかないでいたのに、私の中に今日のように文学研究者になって、小難しい文学理論をこねくりまわすに向いている素質を、一番早く発見してくれていたのかもしれない。

 私が花田清輝・吉本隆明論争を扱った『真昼の決闘』(晶文社、一九八六年)を出版したとき、それを峠三吉に捧げたのは、このような方向に目を開かせてくれた峠への感謝の気持ちを表したかったからである。

 一九八七年から、私は何人かの志を共にする人々と共に「広島文学資料保全の会」を結成して、その手始めに峠三吉の文学資料の調査と整理と保全に努力を傾けてきたが、そのさい同じように彼への感謝の気持ちがその底にあったといえる。(彼に子どもがいなかったため、その資料の多くが散逸する恐れがきわめて大きかったのが、第一の理由であることはもちろんであるが)

 同じ年の八月、甥の三戸頼雄さん宅にあった資料を調査し整理するさい、私も峠からもらっていた手紙のうち、手元に残っていた七通を市の中央図書館に寄贈した。私たち「保全の会」が主として編集にたずさわり、故今堀誠二先生の肝いりで市の旧企画調整局文化課から公刊された『峠三吉文学資料目録』に、これらの手紙も記載され、他の手紙と同様、それぞれに簡単に内容が付記されてある。そのうちの「年不詳」(内容からは一九五一年五月九日と推定される)、三戸金太郎(ペンネーム)名義のものは、「花屋のポスターを書いて百円もらったが、もうけるのも容易ではない(省略)今度の土曜日に来られるとよいが、無理せぬように、私の半生のうち、もっとも価値多き収穫は君という友達を得たことだ」と内容が記されている。この最後の文は面はゆいような過大な評価で、自分ではそんなことが書いてあったことを忘れていて、目録を開いてみてびっくりした。しかし、後によくよく原物を見てみると、「私の半年のうち、もっとも……ことだ」と読むのが正しいことが分かった。(「私の半年」とは峠が療養所に入っていた期間を指している。)これでもまだオーバーだと思うが、まだしも納得できる評価になった。あの目録はかなり急いで作ったので、誤植や誤記が目立つが、せめて自分に関する部分は自分でチェックしておけばよかった、と悔やまれる。この機会にお詫びして訂正させていただきたい。

 ところで右の目録には、私が峠三吉にあてた手紙も三通記載されている。峠の私あての手紙の内容からしてもっと多く書いたはずだが、たまたまこれだけが残ったのだろう。この中の一九五二年四月十日付の封書のものでは、峠が東京へ旅行に出て静岡近くで喀血して下車し、静岡日赤病院に入院したことに関して、私はスペイン戦線で死んだバルビュスの名をあげ、作家はああいう所へ行って死ぬよりは、生きて作品を書くべきだ、死んでしまってはおしまいだ、と一生懸命彼の体の酷使をいましめるべく書いている。

 実はその頃私は峠の体調の予言者として、峠から一目置かれていた。私が時々峠に会うと、彼の体調が危険な限界に達しているときはその時の彼の顔色でそのことがすぐピンと感じられ、静養を忠告した。しかし峠の置かれた状況がそれを許さなかった(といっても本当はそんなことはなかったはずだ。人一倍責任感の強い彼がそう感じていたにすぎなかったのだろう)ので、つねに無理な活動を続けて、間もなく喀血して寝込んでしまうのだった。私の予言はよく当たった。

 だから同年三月に上京の途中喀血をして、静岡日赤病院に緊急入院したとき、四月十三日付の葉書で、峠は私に次のように書いている。

 全く君の予言的中なので頭が上がらず、便りをしようと思っても「それみたことか」といわれるのが恥ずかしいのでペンを持てなかった次第、すでにニュースが入っていては仕方がないので返事を書きます。今後(度の間違いか?--好村)のことで私は自分の体の状態に対する測定が全くきかぬことを思い知って自信を失いつくしました。今後はどのように生活しようかと毎日考えています。御説のように今度こそ実践活動の範囲を限定し、創作に主力を置くことにします。

 私にはこう書いていながら、この後彼は五月初旬には東京へ赴き、青木書店と話し合ってガリ版刷りの『原爆詩集』を青木書店文庫版として刊行することと、児童・市民による原爆詩のアンソロジー『原子雲の下より』の編集をすることを約束して広島に帰ってくる。五月二十五日には原爆の詩編纂委員会を組織し、二、三か月で詩を集め、選をして、九月には出版にこぎつけるという、無茶な行為を重ねるのである。(この辺の詳しい経緯については、広島文学資料保全の会編『行李の中から出てきた原爆の詩』暮しの手帖社刊に私が書いた「解説」を参照していただきたい)

 この時期の彼の行動は、ひそかにしのび寄る死の影を予感して、その死と競い合うように、自分のしたいこと、なすべきことを片付けておこうとしているかのようだった。

 当時の社会情勢がまた彼の心をいっそう悲愴な気持ちに追いやるところも多々あった。海をへだてたすぐそこの朝鮮半島で戦争が行われていて、前の年の七月にやっと休戦会談が始まったが、停戦の合意にはいっこうに至りそうになかった。日本からは相変わらずどんどん武器、弾薬、兵員が鉄道や船舶や飛行機を使って送り込まれていた。国内では五月一日「血のメーデー」事件が起き、皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突して、警官の発砲でデモ参加者の一人が射殺されるということまであって、騒然とした雰囲気だった。一九五○年に発足した警察予備隊は着々増強され、自衛隊へ生まれ変わろうとしていた。日本の企業の多くは朝鮮特需で不況から抜け出し、やっと活気づいてきて、戦争様々という気分だった。

 峠はこのような情勢の中で、「平和・独立・民主主義擁護」をかかげる文学者の集団新日本文学会の広島支部長という地位にあり、「われらの詩の会」の主宰者として、広島の文化運動のもっともラディカルな革命的部分の先端に立っていた。その一方で詩人としての彼は創作活動の面ではもっとも脂ののりきった時期にありながら、右のような社会的責任を負う立場上多くの時間を奪われて、創作のために充分時間をかけることができず、そのディレンマの中で焦っていた。

 このディレンマから抜け出そうとして、峠は当時はまだ危険率の高かった肺葉切除術を受けることを決心して、五三年二月再度広島療養所(私も当時そこに入っていた)に入所して、三月九日手術を受け、その翌日暁方まで続く大手術の中で、ついに帰らぬ人となった。

 流星のように短く、しかし激しくわが身を燃やして消えていった峠三吉を想うとき、「峠さん、なぜそんなに死に急いだの」と詮ない問いを繰り返さずにはいられない。峠が理想化して見ていた社会主義諸国の崩壊を眼のあたりにして、峠と語ってみたいことが限りなくある今日この頃である。

 これも崩壊した国ドイツ民主共和国の代表的作家アンナ・ゼーガースの二代にわたる反戦反ファシズムの闘士を扱った小説の題「死者はいつまでも若い」という言葉は峠三吉にふさわしい。三十六歳の若さで逝った峠には永遠の青春が与えられており、彼と共に過ごした日々を回顧し懐かしんでいると、遠く過ぎ去った私たちの青春の新鮮な息吹が共によみがえるのを感じる。


峠三吉記念事業委員会『ヒロシマの青春 私の中の峠三吉』、1994年7月、pp.84-89。