好村冨士彦の葬儀に際して、親族を代表しての挨拶

 

 親族を代表して、一言お礼の挨拶を述べさせて頂きます。本日は皆様大変お忙しい中を、兄冨士彦の葬儀にご会葬賜りまして誠に有難うございました。冨士彦もさぞ喜んでいることと思います。

 顧みますと、二歳違いの兄と私は幼少の時から共に育ち、よく遊びよく喧嘩もしました。太平洋戦争終結の時、兄は14歳で、それまで当時の軍国主義教育のせいで、二人とも軍国少年に育っていました。飛行機に乗って敵の軍艦目掛けて体当たりするのだと、戦争ごっこをして遊んでいるのを見た母が、「子に死なれるのは情けない」と言うと、兄は「お母さんは非国民だ」と言って叱咤する始末でした。また、戦時下の中国北京で中国人が日本の軍隊の虐待を受けるのを目の当たりにすることも、たびたびでした。

 戦後中国から広島に引き揚げてから、世の中の価値観が一変し、アメリカの民主主義にならった国の復興と再建が進む中で思春期を迎えました。物資や食物が無い中でも音楽喫茶店「ムシカ」でクラシック音楽を聴き、文芸復興の息吹を感じて育ちました。

 兄は旧制広島高等学校に入学後、学校制度の改革に応じて一時広島大学理学部物理学科に籍を置きました。しかしながら喘息と肺結核の病に倒れ、休学して長期入院のやむなきに至りました。その後いったん広島大学を退学し、9年遅れて早稲田大学の文学部独文科に入学し、同大学院の博士課程を終えるまで、実に長い大学生活を送りました。

 この中で兄はものの見方に関する批判精神を身につけました。特に広島西条の結核療養所に入所中、詩人峠三吉氏と知り合い、深く影響を受け、文学や詩にも魅せられていきました。こうして兄はドイツ文学を研鑚する中で、音楽、文学、文芸一般における反戦、反核を貫く批評家として育っていきました。

 しかし結核の古傷の上に喘息と心筋梗塞の病を抱えながら、兄は思うようには活動が出来ませんでした。兄は病気に対して非常に注意深く、また共鳴して下さる皆様のご協力、ご支援を得て、今日まで細々と活動を続けることが出来ました。42歳で亡くなった父をしのぎ、兄が70歳を迎えた時、「俺もよくこの歳まで生きられたなあ」と感慨を述べていました。

 兄の一生は自分の意志を貫いた、満足すべき人生だったと思います。これも本人を励まし、助け、温かい言葉を寄せていただいた皆様のお陰と感謝いたします。

 最後に、残された遺族に対して、今までと同様、暖かく見守り、励まして頂きますようお願い申し上げ、お礼の言葉に代えさせて頂きます。ご参列頂きまして、誠に有難うございました。

2002年9月21日

好村 滋洋