編者序言

 

 今回の企画が持ち上がったとき,内心少々憂鬱であった。無論,論文集を出すことに異論があったわけではない。70年代後半から80年代の半ばにかけて,広島大学の独文科はさながら“黄金時代”で,文学講座には好村先生の他に脇阪豊先生,語学講座には谷口幸男,植木迪子の両先生がおられ従来の文学・語学研究に飽き足らぬ学生たちが大学院に集まり,方法論をめぐって活発な議論を闘わせた。学問が保守化の傾向を強めて行く中で,肩身の狭かった学生たちも,ここでならE・ブロッホやベンヤミン,アドルノらのフランクフルト学派について,あるいはテクスト理論や記号論,さらには最新の言語学の動向について,遠慮なく論じることができた。およそ学閥や権威主義とは無縁で,今から考えると随分失礼な話であるが,授業や討論の場で院生が先生方を批判することもあった。そんな訳で,ある種の権威の発揚と言えなくもない退官記念論文集を企画しても,批判を浴びこそすれ論文は集まらず,まして刊行資金など集まるまいと思われたのである。だが,予想は見事にはずれた。

 好村冨士彦先生は宗教家の父春基,母ヒサコの長男として,1931年東京にお生まれになった。父上が北支派遣軍の宣撫官をされていた関係で,北京で幼少期の大半を送られた。帰国後,呉第一中学を経て,48年広島高等学校理科二組(翌年学制改革により広島大学理学部物理学科)に進まれたが,50年4月より肺結核のため休学。以後およそ8年間にわたり広島と東京で療養生活を送られた。この間,西条町の広島療養所で詩人の峠三吉を知り,強い文学的感化を受けられ,また所内の文化講演会で佐々木基一の『魔の山』に関する講演を聞かれ,ドイツ文学に強い関心を抱かれた。病気回復後,58年早稲田大学第一文学部独文科に再入学。60年安保闘争の際には学生運動に参加された。62年,同大学大学院文学研究科修士課程に進学。64年,浅井真男教授の指導の下,修士論文「作品研究トーマス・マン『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』」によって課程を終了,引き続き博士課程に進学された。65年,清水多吉,池田浩士,岡田浩平氏らと共にブロッホ研究会を結成。今日のご白身のブロッホ研究の基礎を築かれた。67年単位取得退学後,日本大学理工学部に専任講師として赴任。68年,同生産工学部に転任。日大闘争開始後は全共闘の学生に理解を寄せられ,ご自身も学内の民主化のために活動された。70年より京都大学教養部講師,72年同助教授,78年広島大学文学部助教授,83年同教授の各職を歴任。79年からは大学院担当になられ,ブロッホの『ユートピアの精神』,ベンヤミンの『パサージユ論』,アドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』,ゲオルゲの『空中庭園』などをゼミのテーマとして取り上げられた。本年3月,定年ご退官。4月より下関市の東亜大学大学院で引き続き教鞭を取られる予定である。

 言うまでもなく,好村先生のご活動はアカデミズムの枠内に収まるものではない。特に広島大学に来られてからは,83年にアジア文学者ヒロシマ会議の広島事務局長を勤められるなど,当地の市民運動を支える精神的支柱として精力的に活動されている。できればそうしたご活動の一端も示したかったが,紙数の制約もあるゆえ別の機会に譲ることにし,今回は執筆の申し込みを頂いた方々のご好意に応えるために,論文集の形を取ることにした。ただ,企画物と違って内容に制限を加えなかったため,結果として私たちの現在にまで至る問題関心の広がりが示せたかと思う。集まった論文は好村先生のお仕事に比較的近いものから順に配列した。興味を引く論文から読み進んで項きたい。今回の論文集を刊行するにあたっては,たくさんの方々にお世話になった。まず執筆を快く引き受けて下さった野村修さん,小岸昭さんにお礼を申し上げたい。刊行費用は執筆者の自己負担と寄付による自主財源としたが,都合で論文を寄せられなかった方々,及び学部の卒業生の方々からも,たくさんのご寄付を頂いた。合わせてお礼を申し上げたい。また,専門的な細かな注文にも忍耐強く応じて下さった原印刷の永易裕治さんとオペレーターの皆さんにもお礼を申し上げたい。最後に,長らく親身にご指導下さった好村先生に深く感謝の意を捧げるとともに,先生がブロッホに比肩するご長寿に恵まれ,未完のプランがーっでも多く実現されますように,論文集に携わったすべての方々とともに,心より希望したい。

刊行委員を代表して

S・K


『好村冨士彦先生退官記念論文集』