好村冨士彦先生を偲んで
 
古川千家


 九月一九日、エルンスト・ブロッホの研究で知られる好村冨士彦先生が、心不全のため七十一歳で亡くなられた。「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなくて、友の足音だ。」今から四年前の本紙上で、先生はベンヤミンの言葉を引きながら、ベンヤミンを「私たちに訳して伝えてくれた友の足音が途絶えた」、と敬愛する野村修さんに追悼文を書いておられる。私には先生の存在が近すぎて、先生がその時されたように、お仕事の全体を見渡して、客観的に評価することは困難である。そこで広島大学文学部で直接教えを受けた者として、先生のお仕事とお人柄の一端を紹介し、在りし日の姿を偲ぶことにしたい。

 私が先生の名前を初めて知ったのは、一九七二年、雑誌「情況」にブロッホの『ユートピアの精神』の部分訳が掲載された時だった。「ユートピア」という語は、エンゲルスの著書の表題が示すように、社会主義の文献では「空想」と訳され、否定的な意味で用いられたから、「ユートピア」という語を肯定的に用いた表題に私は興味を引かれた。扱われた素材と訳文から受ける印象から、訳者であった先生には骨太の硬派のイメージを抱いた。六年後、大学祭での講師を依頼するため、研究室の前で初めてお目にかかった時、先生は細身の身体に皮のジャケットを着て現れ、あまりのダンディさにそのイメージは吹き飛んだ。先生は最初の著書『希望の弁証法』(三一書房)を出されたばかりだった。

 この本にはブロッホ、ベンヤミンを扱った論文を含めて、計十一本の論考が収められている。「革命的終末論への試み」は、日本の思想的土壌では理解しにくかったユダヤ的メシアニズムに焦点を当てたもので、ブロッホ、ベンヤミンらのユダヤ系知識人の思想的背景を理解する上で重要である。また「暗闇と希望の弁証法」は、小市民階級や農民層の非同時的意識を重視するブロッホのマルクス主義の特質を理解する上で、今でも基本的文献と言える。先生の主著と言えば、八六年に出た『ブロッホの生涯』(平凡社)かも知れないが、これは題名の通り評伝で、『希望の弁証法』に収められた論考がベースになっている。


 七九年、私は大学院へ進み、その年から大学院担当になられた先生の最初の指導学生になった。『ユートピアの精神』の翻訳は、部分訳が出た当時から近刊が予告されていた。私が進学したのもそれを原文で読みたかったからだ。翌年、『ユートピアの精神』がゼミの題材として取り上げられ、私の期待は半ば満たされた。「半ば」と言う訳は、一つの言葉の解釈を巡って、延々と議論が繰り広げられ、遅々として進まなかったからである。的外れの議論にも先生はじっと耳を傾けられ――時には居眠りもされたが、取るべきところは取って、訳文に手を加えられた。ゼミの進行具合を見ると、存命中に訳が完成しないのではないかと、内心心配した。ブロッホの著作の中でも『ユートピアの精神』は最も難解なもので、問題の核心を螺旋状に巡って、隠喩を積み重ねつつ叙述が展開されて行く。九七年に白水社から翻訳が刊行された時、日本語に訳されたこと自体が奇跡のように思えた。

 先生は早稲田大学の学生時代に安保闘争に遭遇され、全学連の主流派として活動された。六十年代後半から全共闘運動に参加された先生にとっては、これは有難くない勲章だった。新左翼の学生や同僚たちから見れば、先生の思考や活動のスタイルが、旧左翼のように見えたからである。文学の上で旧左翼の象徴は花田清輝、新左翼の象徴は吉本隆明だった。私自身も二度目にお目にかかった時、本屋で花田の『アヴァンギャルド芸術』を薦められ、戸惑った覚えがある。後に先生は同人誌「匙」の誌上で、花田・吉本論争を取り上げられ、敗者と見なされた花田の復権を企てられた。初出誌に基づいて論争を再現する先生の手さばきは鮮やかで、今ここで二人の論争が行われているかのようだった。吉本の悪罵を通じてしか花田を知らなかった私にとって、花田の実像が浮かび上がって来る過程は衝撃的だった。この連載は八六年刊行の『真昼の決闘』(晶文社)にまとめられたが、弁証法的な思考のスタイルと無機物への感情移入において、確かに花田はブロッホと、より以上にベンヤミンと、思想的な親近性を有している。

 先生には喘息の持病があり、その上結核で片方の肺を切除されたため、階段を上がるときなどは、いつも苦しそうな息遣いをされた。それでも原稿料が入った時は、居酒屋やスナックでご馳走して下さった。あまりお飲みにならなかったが、談論風発で飲むことはお好きだった。しかし、六十歳の頃に心筋梗塞で倒れられてからは、それもかなわなくなった。先生は若い頃から意識の片隅で、死の予兆を感じられていたと思う。ある種の切迫感が先生をアクチュアルな課題へ向かわせたのかも知れない。その度に予定されていた仕事は後回しにされた。とはいえ、ベンヤミン論をまとめた『遊歩者の視線』(NHKブックス、2000年)の上梓をもって、懸案の仕事はほぼ達成されたと言えるだろう。
 


 定年退官されてからの八年間、先生は「広島文学資料保全の会」の代表幹事として、原爆文学の資料の収集と保存に努力を傾けられた。この運動は今「広島に文学館を!市民の会」に引き継がれ、「広島文学館」というホームページ(注1)で、先生が書かれた運動の経過を読むことができる。原爆文学の資料保存と言うと、すごく後ろ向きのことのように思える。それはしかし、戦争体験の風化が進んだ結果にすぎない。過去と私たちとの間に、ある種の断絶が生じているのだ。戦争体験の風化とは、ベンヤミンが言うように、歴史の伝承の危機に他ならず、過去が生者の忘却にゆだねられるならば、生者のみならず「 <死者> もまた危険にさらされる。」

 「死者の痛みをよみがえらせ、自己の痛みとして受けとめようとする」ところに、先生は野村さんの研究姿勢を見ているが、これは先生の研究姿勢でもある。そもそも先生の文学の原点は、結核療養所における詩人・峠三吉との出会いにあった。「『原爆詩集』の成立に立ち会う」(注2)という文章の中で、「この詩集を読むことで、これまで私に聞こえてこなかった被爆した人びとの呻き、叫び、泣き声が生ま生ましく伝わってくる思いがした」、と先生は書いておられる。死者の痛みを自己の痛みとすることで、過去の一回かぎりの悲痛な体験が、人類の普遍的な体験となりうる。ライフワークとなるはずだった峠三吉論が読めないのは残念だが、先生の遺志が受け継がれ、文学館建設のプランが実現することを祈りたい。 


(こがわせんや 愛媛大学助教授・表象文化論


(注1)広島文学館 http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/
(注2)初出:『新日本文学』2002年3月号


『図書新聞』2002年10月12日(2601号)、第1面