9月19日、71歳で死去
運命を変える出会いの場は、1951年、東広島市の国立広島療養所だった。物理学者を志して広島大理学部へ入ってすぐ結核を発症。打ちひしがれていた好村さんは、病と闘いながら「原爆詩集」を編さん中の峠三吉のエネルギッシュな姿にショックを受ける。
幾つもの文化団体を組織し、民衆詩人として多くの若者たちに愛されていた峠。そのイメージは53年の峠の死後も生き続ける。87年に広島文学資料保全の会を立ち上げたときも、最初に着手したのは、散逸の危機にあった四千点の峠の関連資料の収集だった。「最も輝いていた峠の姿を知ってほしいという思い入れが強かった」と、同会の池田正彦さん (55) は活動をしのぶ。
療養生活を終え、二十六歳で早稲田大に入学。ドイツ文学研究者の道を歩む。学者としては、マルクス哲学者、エルンスト・ブロッホ研究の第一人者だった。評伝『ブロッホの生涯』
(86年) は、金字塔的名著として読み継がれる。観念的な文体と難解な内容で知られるブロッホの代表作「ユートピアの精神」の翻訳は、三十年かけ完成させた。
学生連れ酒場で議論
京都大助教授などを経て、78年に広島大へ転任。原稿料が入ると、学生を引き連れ居酒屋へ。「人情家であり論客だった。話はいつも刺激に満ちていた」。愛媛大法文学部の古川千家助教授 (50) は師を懐かしむ。膨大な読書量と明せきな理論構築。学生たちは舌を巻いた。「現実と接点を持て」が口癖だった。広島市であった83年のアジア文学者ヒロシマ会議、88年のシンポ「日独文学者の出会い」では、進んで実務を買って出た。
「峠の評伝をライフワークにしたい」と周囲に漏らしていたが、文学館建設の夢とともに、存命中はかなわなかった。
写真:アジア文学者ヒロシマ会議であいさつする好村冨士彦さん=83年(遺族提供)
中国新聞2002年9月28日26面「別れの記」より転載