長崎平和研究講座第1回 「平和とは何か、平和学入門」 ひろしま平和科学コンソーシアム-平和講座
                         (広島修道大学)岡本三夫

 学際的な学問としての平和学 今日の資料のなかに、平和学とはどんなものかが視覚的にわかる「ニューカムの図」があります。これは、カナダの平和研究者のニューカム夫妻(アランさんとハンナさん)が年以上前に出したものを私なりにアレンジしたものです。中心の大きな円のなかにある平和学というのは、平和学の理想的な形を示しています。そのためにはいろいろな学問、社会学や人類学、国際関係論、経済学、医学、科学、物理学、生物学、そのような学問を含めた非常にたくさんの専門分野が集まった学問として誕生したことを示しています。このなかに「学際的」という言葉があります。これは学問と学問が関係する、あるいは協力するということですが、現実にはこういうものは理想的な形では存在しないだろうと思います。



出所;Alan and Hanna Newcombe. Peace Research Around the World, Oakvill, 1969を基礎にしつつ、一部変更を加えたものである。

 スウェーデンにストックホルム国際平和研究所(SIPRI)があります。これはスウェーデン議会直属の平和研究所です。昨年の8月、私は二度目の訪問となりましたが行ってまいりました。この研究所にはスウェーデン外務省などから人が出向していて、核軍縮、世界の軍備状況に関する分厚い年報が同研究所から毎年出ています。私はこのような研究所は理想的な平和学研究、あるいは平和学に近いことを実践しているのではないかと思います。
 ニューカムの図のなかに、私は小さな円のなかに書いてある平和学を付け足しました。これは例えば鎌田先生が中心になってやってらっしゃる長崎平和研究所の平和学、あるいは私が広島修道大学などでやっている平和学、といった個々の平和学の営みを小さな円で表すことができるかな、と思って付け加えました。今日は、この小さな円のそのまた一部をお話したいということでやってまいりました。鎌田さんが理論的なことだけでなく、人間的なことも話してほしいということでしたので、自己紹介も兼ねて私の人間的な部分を最初にお話いたしますのでお許しください。

貧乏人差別を味わって
 私は非常に貧しい少年時代を送りました。平凡な家庭でした。栃木県の烏山という人口1万人足らずの小さな町で生まれ、15歳まで育ちました。父は町役場に勤めていて、平凡な生活をしていました。兄は非常に体の大きい人で、志願兵として満蒙開拓団で何年間か当時の満州にいました。銃剣でさす練習の標的にされた時に胸を突かれたことが原因ではないかと言われていますが、結核を患って戻り、数え年26歳で死にました。この看病疲れで、母が結核、栄養失調で亡くなりました。ひとつの卵に醤油をたくさんかけて3、4人で食べればそれがごちそう、というような時代でした。それから2年後、父がやはり同じように結核、栄養失調、最後は脳溢血で死にました。私が中学3 年のときには、父も母もいませんでした。姉は赤十字で中国の漢(ハン)口(カオ)というところに行っていて、1年くらい母親の死を知らずにいたという状況でした。私が中学校を出る頃には、家は稼ぎ手を失い本当に貧乏のどん底で、食うや食わずの生活、一家離散の状況でした。田舎では岡本家は結核で滅びるのではないか、と言われ、私は貧乏差別というのを随分味わいました。これは、戦争や爆弾で手足をもぎ取られたり、家を失ったりする、そういうはっきりとした戦争の犠牲者というより、間接的な戦争の犠牲者だったのではないか、と後で平和学をやるようになってから気づいたのです。
 私はいろいろ事情があって、神奈川県横須賀の叔母の家にお世話になり、神奈川県立横須賀高等学校に入学しました。これは、私の人生にとって最大の転機と言っても良いものでした。田舎の中学ではわりあい良くできた方だったのですけれども、中学卒業してから1年ほど働いていたこともあって、高等学校に入ったときには、 500人くらいいた同級生のなかで、ビリから数えた方が早いという状況でした。英語はスペシャルクラスというところに入れられ、そこで追いつき追い越せということで、私も猛烈な勉強をしました。高校を卒業して2年働きました。そのうちに高等学校に英語を教えにくる宣教師の影響で、神学校に行ったのです。日本クリスチャンカレッジ、後の東京基督教大学を卒業しました。

8年間の米独留学
 幸いアメリカに留学するチャンスがまわってきました。私は少年時代、非常にみじめだったものですから、もう日本人をやめたいという気持ちが非常に強かったのです。それで、横浜から船に乗ってアメリカに渡ったわけです。そのへんの事情は 1994年の10月末に朝日新聞で「平和の旅人」という連載が5回にわたってあり、私の半生をつづったかなり大きな記事が出たので読んだ方もいらっしゃるかとも思います。これは私の少年時代の悲惨な生活からいかにして平和学にたどり着いたか、ということをつづったもので、のちに『みんな生きていた』というタイトルで朝日文庫に収められています。そういうプロセスを経て、私は最初はキリスト教の宣教師になるつもりで、アメリカに渡ったわけです。1960年に横浜を出航するときは安保闘争の真っ最中でした。私の妻は当時、東京の大学生で、国会になだれ込んだりして、樺美智子さんなどが亡くなったそうです。私はそういうことをぜんぜん知りませんで、ほとんど関心がありませんでした。私はキリスト教によって世の中を救わなくてはならない、という気持ちで、ほとんど政治的にはノンポリの状態であったわけです。しかし、アメリカに行っている間に人種問題などさまざまな差別を体験することで変わりました。1963年のケネディ大統領の暗殺は、非常に大きなショックでした。理想を夢見て渡っていったアメリカで、一国の大統領が殺された。そういう体験を通して私はアメリカに失望し、かねてあこがれていたドイツに渡り、 4年間学生生活を送りました。

ヒロシマとの出会いから平和学へ
 合計8年間、日本を離れていましたが、1968年に香川県の四国学院大学の先生になる話がありました。棄民という言葉がありますが、私は「棄国者」でした。国を棄てたつもりだったのですが、就職と結婚を機に帰ってきました。そして新婚旅行で広島に行きました。その広島で初めて原爆の問題に引き込まれる、という運命的な出会いがありました。 1968年5月19日の朝、広島の平和公園は花盛りで、このとき訪れたのがまったく初めてのことでした。それまで、私は自分は大変不幸な人間だ、不幸な少年時代を送った、というふうに思っていたのですが、結婚して妻と一緒に平和公園にやってきたとき、私は確かに地下から声が聞こえてくるのを聞いたと思いました。私は12歳で敗戦を迎えたわけですが、敗戦を迎えることができずに亡くなった人、少年少女、無数の人たちが平和公園の下に眠っているのだ、ということをそのとき非常に強く感じました。妻も座ってやはり泣いていました。私と同じような気持ちだったのだろうと思います。われわれはその後の旅行の計画を全部キャンセルをして、四国学院大学のある 善通寺市に帰りました。それが私の初めての原爆との出会いだったわけです。
 それから2年後に、私がドイツで勉強を教えていただいたゲオルク・ピヒトという哲学の先生が『平和研究とは何か』という本を送ってくれました。その当時、ドイツでは平和研究が大きな国民的な支持のもとに大変高まりました。ちょうど社民党のウイリー・ブラントが首相として政権の座に着きました。ウイリー・ブラントはもともとベルリン市長をしていた方で、戦時中はナチス・ドイツを嫌い、ノルウェーに逃れ、そこから反ヒットラー闘争をしていた志の強い政治家でもあります。その方が首相になった後、ドイツの平和研究は世界の平和研究のリーダーになるような発展をいっぺんにとげ、ドイツ平和紛争研究協会ができました。私に送られた本の著者は、この協会をつくるために大きな力を発揮した人でした。この本を読んだ影響で、私は平和研究、平和学に打ち込むようになりました。広島への新婚旅行での体験は、しばらく表面には出てこなかったのですが、平和研究を始めると「平和研究とは何か」というなかでも広島のことは当然、研究されています。世界の平和研究を見ても、やはり広島・長崎が平和学の原点になっていることがわかります。

平和学・平和研究の成立
 「平和学」の定義では、戦争の諸原因、平和の諸条件についての学問的研究、というのが一番簡単なものです。これは平和学の源流でもあるわけです。そして戦争、特に核戦争回避の研究でもあります。平和学は、本当は 19世紀に生まれているのです。最初、平和学が生まれた頃は、「平和の科学」というタイトルでイギリス、ベルギー、ドイツ、アメリカ、イギリスで、それぞれ本が出されたり大学で講座が開かれたりしています。現在のわれわれが知っている平和学、平和研究は、 1950年代に初めて誕生します。これはカナダ、アメリカ、オランダ、イギリスなどでほとんど同時期に誕生し、特にノルウェーのヨハン・ガルトゥングという人が平和研究では突出しています。ソ連が核実験をするのが 1949年です。アメリカが原爆を落とした1945年には、ソ連が原爆を開発して実験をするまでに少なくとも20年はかかるだろうと言われていたのです。ところが、アメリカの原爆を開発をしたニューメキシコ州のロスアラモスには、ソ連のスパイが入っていまして、アメリカの原爆開発の設計図は全部ソ連に送られていたのです。戦争が終わるとソ連は、ドイツからノーベル賞級の科学者を捕虜としてモスクワに連れてきます。それで 20年かかるだろうと言われていた原爆を、たった4年間で開発したのです。まさかスパイがいるとは思っていないので、このことはアメリカにとって、大変大きなショックだったわけです。そして、ここで初めて米ソのいわゆる核兵器開発競争が始まります。アメリカが最初で、それにソ連が追いつくという構図で原爆開発、核軍拡競争と言われるものが始まるのです。 これに対して科学者たち、学者たちがどういう反応をしたかというと2つあります。1つはパグウォッシュ会議です。この会議はカナダの大西洋に近いパグウォッシュという町で、アインシュタインやバートランド・ラッセルといったような人たちの呼びかけに応えて開かれたのです。当時は冷戦時代でしたけれども、アメリカとソ連の学者を中心に、日本からも湯川秀樹博士などが加わって発足しました。 2つ目は、それと同じような流れの中で平和学、平和研究当時は平和研究、Peace Researchという言葉が使われていましたが、これが誕生するわけです。  特にアメリカやカナダの平和研究では、米ソの核戦争をいかにして回避するか、ということに主な関心があった。あるいはそれだけにしかなかった。核戦争が始まったら人類は滅びてしまうのだという意識がものすごく強かったわけです。それがひとつのバネになり、大きな支えになって、平和研究が誕生し、持続されたのです。そして数年前にノーベル平和賞をもらったロートブラットなどが中心となって The Bulletin of the Atomic Scientistsという雑誌が刊行されるのです。その後も原子科学の専門家、原子科学いわゆる核兵器の性能・構造を知りつくしている人たちが中心になってこの雑誌をずっと発行し続け、今も年に 4回だしています。核戦争何分前かを示す時計、いわゆる終末時計を表紙の左肩に掲げ、世界にずっと警告をし続けています。

国際平和研究学会(IPRA)と途上国の視点
 平和研究についてもう少し限定してお話します。その後、1964年に国際平和研究学会(International Peace Research Association)が設立されました。これに日本から、当時、東京大学教授だった川田侃(たかし)さん、学習院大学教授だった宗像巌さんの二人が出席され、川田さんが中心になって、国際平和研究学会日本支部をつくったのです。これで日本の平和研究、平和学が出発するのです。当時、東京にまだできて間もない頃の国際基督教大学( ICU)にケネス・ボールディングさん夫妻が教えに来ておられました。ボールディングさんはもともとイギリスの方ですが、カナダに移住してカナダとアメリカを行ったり来たりして両国で教えておられました。奥さんのエリーズ・ボールディングさんもたいへんえらい方で、ノーベル平和賞候補にもなったことがあります。この方は国際平和研究学会ができる前から International Peace Research Newsletter(国際平和研究ニューズレター)というのをだしています。その頃は平和研究をやっている人は世界中でバラバラでしたが、エリーズ・ボールディングさんは、いろいろなつてで知り合った人たちにこの『国際平和研究ニューズレター』を送っていたのです。これが素地になって、 1964年に国際平和研究学会の創立総会がオランダのフロニンヘンで開かれることになったのです。この後、この学会の国際会議は2年に1回開かれています。
 私は非常に面白いと思うのですが、この国際学会ができる意味というのが非常にきわだって感じられる事件、というか対立が創立総会で起きるわけです。それは、北の学者と南の学者の出会いです。北の学者、つまり先進・工業国であるヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダといったところの人々は、核戦争がおこったら世界はどうなるんだ、ということしか頭にないので「何とかして核戦争を避けなければならない」と言うのです。ところが南から来た学者は「あなた方はいつ起こるかわからない核戦争の話ばかりしている。私の国に来てください。毎日何万人もの人が路上で飢えて死んでいるのです。核戦争さえ回避されればあなた方は満足なのか」と言ったのです。 これには北の学者も考えさせられました。2回目のときにインドのスガタ・ダスグプタという学者が「第三世界、途上国にとっての平和研究とは何か」を発表しました。「途上国では戦争がなくても平和はない」と言ったのです。「北側のあなた方にとっては、戦争がなければ平和でしょう。だけど南側のわれわれにとっては戦争がなくても平和ではない。戦争がなければ平和だというのは、西洋の考え、欧米や日本のような先進国の考えだ。ところが南では戦争がなくても平和ではないのだ」という訴えをしたのです。彼がそのときに使ったのが peacelessnessという言葉なのです。Peaceless(平和がない)の名詞形として‐nessをいれたのです。われわれはpeacefull、peacefullnessという言葉は非常に平和だという意味で使います。 Peacelessnessという言葉を聞いて北側の学者はびっくりしたのです。北側の学者は、平和の反対は戦争だと思っていましたが、そうではなく「平和」の反対は「平和がないこと」(peacelessness)なのだというのです。当時、東大の経済学の教授だった川田先生はこれを日本に持ち帰って「平和ならざる状態」と訳しました。皆さんにお配りした「平和とは何か、平和学入門」の資料の中に、そのことをまとめて書いてあります。
 積極的平和(peace)について「一般に平和とは戦争の不在(absence of war)、つまり戦争がないことを意味するが、途上国の中には極度の貧困・飢餓・疾病・無秩序・犯罪などのために『戦争もないが、平和もない悲惨な状態』に置かれている国が少なくない。途上国は戦争や紛争の多発地帯でもあるが、戦争や紛争がない期間でも、『平和な』社会というイメージにはほど遠い状態が続いており、その実態は『戦争と平和』という伝統的な図式 では捉えきれない。インドの研究者スガタ・ダスグプタ( Sugata Dasgupta)は『戦争もないが、平和もない悲惨な状態』を『非平和』(peacelessness)と定義している」とあります。
 川田さんは「平和ならざる状態」、私は単的に平和を否定するという意味で「非平和」と訳しています。「こうして、作業概念としての平和概念の分節化が要請され、『戦争がないという意味での平和』は『〜でない』と消極的・否定的( negative)に定義されることから、消極的平和(negative peace)と呼ばれるようになり、『平和は〜である』と積極的・肯定的(positive)に定義することによって得られた積極的平和概念と区別して使われるようになった」のです。

平和概念・暴力概念の多様性
 これが国際平和研究学会ができたことによっておきた事件です。つまり平和概念が消極的平和、積極的平和の二つに分かれたのです。消極的平和というのは、戦争がないことを定義した言い方なのです。戦争がないことが消極的だというのではないのです。この点、誤解を招く言い方だということで、こう呼ぶことに反対する人もいます。抵抗を感じる人もいます。なぜ、戦争がないことが消極的なのか、というのです。当然の議論なのです。昨日も東京大学でこの話題を取り上げました。授業は 6時に終わったのですが、議論が夕方7時過ぎまで続いて大変でした。平和の概念をこのように分節化する。このような考え方が、平和学の手法、方法論として定着してくる。つまりダスグプタの問題提起というのは、戦争がなくても平和がない状況は何と定義したらよいのか。実はわれわれも平和を考える場合、ただ戦争がないことだけを考えているのではないのですね。よく新聞社のアンケート調査で「あなたはいまの日本が平和だと思いますか?」という設問があります。おもしろい調査があります。それは 1997年12月8日に、朝日新聞社がやはり全国の何カ所かを選んで調査したものです。第1問は「12月8日は何の日ですか」第2問は「あなたにとって平和とは何ですか」でした。この結果が12月9日の新聞に出ていました。 12月8日は何の日か。ジョン・レノンが死んだ日だというのです。「あなたにとって平和とは何ですか」では、10人の人があげられています。しかし「戦争のないこと」と答えたのは一人しかいない。他の人は、年金で普通の生活ができること、孫の顔が毎日見られること、恋人とドライブができること、これらが自分にとっての平和だというのです。
 私にとってこの記事は非常に重要なものだったのです。なぜかというと、日本人は平和というと何をイメージするか、ということが私にとっては非常に大きな関心なのです。誰でも戦争と平和について普段、考えるのではないか、と思いがちですが、決してそうではないということです。「そこそこにお金があって、普通の生活ができること」、「家族に病気がでないこと」、「一緒に暮らせること」などと考えている人が多かったのです。ということは、先程からお話しているように、平和の反対というのは決して戦争ではない、と国際平和研究学会で世界中から集まった学者先生たちが気づいたことを、実はわれわれは知っているということなのです。ただこれを学問的にどう位置づけるか、ということができなかったのです。 そこで出てきたのが、ヨハン・ガルトゥングというノルウェーの若き天才だったのです。当時はまだ30代の若いガルトゥングが、「積極的平和」と「消極的平和」という概念を練り上げました。その時のキーワードになったのが、構造的暴力です。彼は、インドのダスグプタが提起した peacelessness(非平和)を、この言い方ではうまく学問的用語として定着しない、これは暴力ではないか、と考え、これを「構造的暴力」と呼び始めたのです。この反対に、刀で相手を切る、ピストルで相手を撃つ、バズーカ砲で敵を爆破する、原爆を落とす、人を殴る、棍棒で人に傷害を加える、などといったことを、彼は「直接的暴力」あるいは「物理的暴力」と呼んだのです。この「直接的暴力」の特徴は、暴力を誰が振るうかがはっきりしていることです。前の 長崎市長本島等さんが共産党の質問に答えて、「天皇にも戦争責任があるのだ」と言ったときにズドンとされたでしょう。あれは直接的暴力、物理的暴力です。ところが、スガタ・ダスグプタが言った「戦争はないのだけれども平和ではない状況」は、ガルトゥングの言葉を使うと構造的暴力なのです。構造的暴力の特徴とは、暴力の主体が匿名であることです。これは逮捕することができないわけです。本島さんに対して暴力を振るった人は逮捕されました。市長がピストルで撃たれることは、少なくとも日本の社会では非日常です。ところが、構造的暴力は、匿名のものであり、流血をともなわず、ゆっくりとしていて、日常的であるから、直接的暴力のようになかなか暴力としては気づかれない。だけどこれは明らかに平和と反対の社会的な現象であるとして、ガルトゥングはこれを構造的暴力と呼び、その実態がどういうものかを研究者にわかりやすく説明することに成功したのです。「極度の貧困、飢餓、無秩序、政治的抑圧、無政府状態などのために無数の人が死んでいく。あるいは自己実現の機会を奪われたまま人生を終わらざるを得ない途上国の現実は、構造的暴力の典型だと言うことができる。構造的暴力はあまりにも日常的であるため、大規模な破壊が行われる戦争、あるいは流血をともなうテロや暴力団抗争、多数の人を殺したサリン事件と違い、見えにくくニュースになることさえ稀である。」これをガルトゥングは平和学、平和研究のひとつの大きな柱として導入したのです。
 これには、やっぱり異論が出ました。昨日もやはり東京大学の学生たちに平和学、平和研究の講義を行ったとき、構造的暴力の問題まで手をのばしました。この問題について私が書いたものをここでとどめておけば問題にならないのですが、さらにその後を読んでみましょう。「男性が全権を掌握している家父長制社会において女性が無権利状態におかれ、自己実現の可能性を奪われているが、これは典型的な構造的暴力である。」これはどうですか。平和運動をやり、平和教育をやりながら、家に帰るとふんぞり返って「おい、ビール」と言ったら、女性はみんな笑っています。「お父さん、本当にあなた平和を知っているの?」と。そういうお父さんが私を含め、非常に多いのではないか、というところまで言うとカチンと頭にきて、平和学とはそこまで言わなくてもいいではないですか、ということになるかも知れません。 「医療ミスは直接的暴力だが、医師の権威が絶対視され、患者が無権利状態に置かれている状況も構造的暴力として機能している。女子小学生が駐留の外国人兵によって暴行されればそれは直接的暴力だが、軍事基地が存在するということ自体は構造的暴力である。」その次にまた問題発言があります。「公共の場での喫煙は副流煙によって周囲にいる者の健康を害する可能性が大きい直接的暴力だが、たばこが合法的な商品として販売されている状況は構造的暴力として機能している。」これも昨日はさんざん学生に叩かれました。タバコを国が売っているということまで、先生は認めないのですか、というのです。当然、皆さんのなかにも喫煙者がおられると思いますし、私も 22年前まではヘビースモーカーでした。マリファナって皆さんご存知ですか?マリファナというのは普通の麻から作るのです。私は少年時代に麻を栽培していたので、非常に不思議に思うのですが、いま麻を持っていると処罰されるのです。麻はいまは許可を受けないと栽培できないのです。しかし、国によってマリファナについての法律は違います。オランダのように合法化している国もある。また、タバコの方が有害だという有力な学説もある。しかし、ここでの議論はこういう問題にも平和学は取り組むのか、というのが素朴な疑問です。

身辺の平和から世界平和へ-結びに替えて
 前述したことですが、平和学の源流は核戦争の回避であり、戦争の廃絶でした。しかし、平和の概念が拡大され、戦争以外の諸問題が構造的暴力として知覚されるようになると、飢餓、難民、抑圧、人種差別などの問題も平和学の課題として避けられなくなってきた。と同時に、レイプ、偏見、いじめ、不平等、男尊女卑といった平和学の源流とは相当距離のある問題も平和学の対象として正当化されるようになった。さらに自然環境への暴力、資源、食糧、人口問題なども平和学の対象となり、必然的に個人のライフスタイルにまで話が広がって来た。肉食でいいのか、菜食主義にすべきかが、平和学の問題になることもある。そういう文脈で喫煙やマリファナもでてきた。これは脱線ではなく、必然だったと私は思います。平和主義者にとって、どのようなライフスタイルを選択すべきかは、本質的なことではないでしょうか。
 結論的に言えば、喫煙もマリファナも「必要不可欠ではない嗜好品」だということです。両者に対する法の規制は国により、地域によって違います。米カリフォルニア州では公共の場所での喫煙を法律で禁止しており、違反者は処罰されます。タバコもマリファナも麻薬だという説もあります。
 「必要不可欠ではない嗜好品」のために、他人に迷惑をかけたり(副流煙によるガンの誘発)、自然を汚染したり、法律問題を惹き起こしたりするライフスタイルでいいのか。それだけの経済的ゆとりがあるのだったら、一日一食に甘んじざるを得ない数十億人、三日に一食がやっとだという無数の人びとのためにカンパをすべきではないのか。もちろん、これは他人に押し付けることのできる問題ではなく、平和主義者が自省の問題として受け止めるべき問題だと私は思うのです。
 英国にいたとき、週に一日は24時間の断食をして、それに費やしたであろうお金を貯めてカンパに使っているというクウェーカー教徒に会ったことがあります。この人は、「必要な糧」を犠牲にしてまでカンパのための資金を作っているのですから、「必要不可欠ではない嗜好品」を犠牲にできないはずはないだろうと考えるわけです。「じゃ、お前の酒やカラオケはどうなんだ」と問い詰められると弱いのですが。(笑い)件のクウェーカー教徒も、「週に一日断食すると、健康にもいいのです」ということだったので、ただ「世のため人のため」という健気な犠牲精神だけで断食していたわけではないみたいでした。「意識化された自然体のライフスタイル」とでも言うのでしょうか。 私はこういう問題は確かに瑣末に属することだとは思いますが、平和学とは無関係とは考えません。暴力について、戦争について、核兵器について考えるためのステップとして、きっかけとして、平和について考えるための手がかりとして、一緒に考えるべき問題群に含めても何ら差し支えないだろうと考えているわけです。
 平和学入門ということで、私の少年時代の話から、戦争、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害、核兵器廃絶、構造的暴力などへと話を広げ、喫煙やマリファナの話にまで及んだわけですが、常々、「岡本は平和学の範囲を広げ過ぎる」という批判は耳にしていますので、ここでもその辺が質疑応答でのポイントの一つになるだろうことは覚悟しています。
 ご清聴、ありがとうございました。

〔質疑応答・討論〕
舟越:私も去年から教育学部の3年生に平和学を教えておりまして、岡本先生の書かれた本を片っ端から読み、学生に伝えている状況です。私自身も平和の問題に取り組んでいます。私は先生と同じ意見、つまり構造的暴力を視野に入れた平和の定義をすべきであるという立場をとっています。ところが、日教組の全国教研の平和教育分科会に行きますと、真っ向からこれを批判してくる人たちがいます。これは反戦という立場を薄めるという批判です。つまり構造的暴力に対立する運動が全部平和運動だとすれば、社会福祉活動を行っている人たちは平和運動をしていることになるのか。極端に言えば、差別、抑圧、貧困、こういう問題と向き合っている活動というのは、平和活動と言えるのか。そういうふうにシンプルに問題をたてられますと、なかなか反論しにくいという面があります。ガルトゥングの本を読みますと、構造的暴力というのは、正義が行われていない状態、公正でない状態、とあります。不正義、不公正という言葉がありますので、構造的暴力の問題をたてかえれば、平和と不正義、平和と不公正、という構図で捉えることもできるかなとも思うのです。すると、不正義や不公正に対する活動を平和運動のなかに、あるいは平和の定義のなかにいれることのメリットは何か、というように問題をたてていくことができるかなと思うのです。私は問題だけ提起していまして、ぜんぜん答は言っていません。積極的平和、消極的平和、私も賛成なのですが、例えば先生の今日のレジメに「『戦争がない』こと自体が『積極的な価値』であることには変わりはなく、…」とあります。つまり消極的平和と言いながら、それは積極的価値なのだ、という弁明がいつも引っかかるのです。定義の仕方はネガティブなのですが、消極的平和というとどうしても誤解を与えやすいと私は思うのです。私自身の学生時代からの生き方もあるのですが、日本では平和運動と言えば、反戦運動なのです。平和は反戦だったのです。私にとれば、そのなかに人権運動や福祉運動や差別反対運動など、そういうものも平和運動のなかに入れてくるのは、気分的に落ち着かない面がありまして、私自身のなかでも少々時間がかかっているのです。来月の私の平和研究講座でのテーマは「平和と人権」です。人権と言えば、まさに構造的暴力の問題ですから、平和と構造的暴力、というのが来月のテーマだと言っても良いのです。ですから、もう少しご意見がうかがえればと思います。

末永:僕は今日のテーマと少し離れるかもしれません。平和とは何か、と言った場合、日本とアメリカとヨーロッパと発展途上国、といろいろとらえ方が違うということを知ったわけです。論理的にはわからないわけではないのですが、やっぱり感情面が関わって、平和とは何か、となったとき世界の国々でいろいろ考え方が違うのではないか、と思います。それで例えば、私たちが、被爆体験を外国の人に伝える場合には、どうしたら効果的なのか。また体験だけ話していて良いものかどうか。もし体験だけでだめであるならば、どういうふうな話し方をすれば外国の人によくわかるか。つまり論理だけでなく、心と心が通じるのか。僕は昨年 1カ月、アメリカに行き英語で原爆を伝えてきました。自分の体験を紙芝居のようにして、あらかじめ原稿を用意してしゃべったのですが、それだけではだめなような気もするし、どういうふうに被爆体験を伝えたらよいのか、これが僕の問題意識のなかに絶えずあるのです。

高橋:ひとつは平和学の「主題鳥瞰図」が配られました。これは非常に包括的な平和学の配置図ですが、先生がこれを日本あるいは外国の講演でお示しになったとき、どういう批評あるいは質疑応答がなされてきたのか。それからこういう問題がこれによってどのような解決なり、見通しなり、見取り図なり、道筋なりが着くのか、ということもぜひあわせてお教えいただきたいと思います。また関連して、先生のこの主題鳥瞰図にしたがって、もうひとつ別に日本の大学とアメリカの大学における平和学のテーマについて、いろいろな大学、あるいは講座におけるテーマの扱い方が区分されている資料が配られました。これを見ると、日本とアメリカではわりと似たようなところもあれば、日本の場合、Dの平和学習としての平和教育に関するもの、心理的教育的暴力の批判についての部分がアメリカの半分以下になっています。それから、Eの哲学的、倫理的、宗教的平和思想に関するもののところは、アメリカよりもパーセンテージが低いことなどが特徴的かも知れませんが。
 第3点目は、冒頭で紹介されたニューカムの図をどういうふうに考えていくべきなのか、ということです。真ん中に平和学というのがありますので、私たちは様々な学問から平和学にアプローチできるし、同時に平和学はこれらの学問の総合的な学問であって、ある意味ではすべての学問が必要とされるような、そういう学問として認識すべきという提起なのでしょうか。それから昔のプトレマイオスが描いたような周辺円のような小さな円のなかにも平和学というのが入っています。それと大きなサークルの平和学との関連についてご教示いただければと思います。

岡本:まず、この鳥瞰図で外国などでどういう反応があるか、ということですが、外国でこういう体系化をしているところはないのです。もし、そういう論文をご存知だったら教えていただきたいのです。ガルトゥングはやっていますが。平和学の体系化というようなことを私が考えているのは、私の学問的なキャリア、遍歴からくるもので、特殊な考え方なのではないか、と考えられないではないのです。ヘーゲルなどの時代と違って、何か断片的なものを見直すというような考え方が多くて、あまり体系化というのを考えないのが、いまの時代です。この図は何回も見直しをして今のかたちになっています。最初は鳥瞰図という言葉も使っていなかったのです。ウィーンから南へ 1時間半ぐらい行ったところに欧州平和大学院大学という小さな大学があります。途上国、貧しい国の外交官というのは国の予算の関係で、留学して研修するチャンスがないので、ここにやってきて 3カ月間だけ平和について勉強するのです。ヨハン・ガルトゥングも客員教授としてここにやってきました。私もここで客員教授になったのです。そこへピーター・ヴァン・ダンジェンという人がやってきました。この方は、長崎へもいらっしゃっています。私が彼に会ったのは 1983年、そのときにはこの鳥瞰図を作っていたのですが、彼はなんと今でもそれを持っているのです。それが外国人の唯一の具体的な反応でした。裏を返して言うと、私のように平和学の体系化を考えている平和研究者、平和学習者というのはあまりいない、ということです。私は神学や哲学などを学んだために、どこかに体系化への志向というのがあるのです。高橋先生も哲学ご出身ですから、私の気持をわかっていただけるのではないか、と思います。社会学や心理学などから平和学に入ってくると、個別にある特定のことだけをやって、 あまりそういう体系化ということを意識されないのではないかと思います。私の場合には平和学を何とか学問として成立させよう、という気持ちがあるものですから、こういうことをやっているわけです。
 2番目の日米の平和学のテーマの調査についてです。いまのところと関連するのですが、A、B、C、D、Eというのは米国での調査で、両方とも1980年代、1985年前後に行った調査です。日本の場合には、やはり核戦争問題が平和学の大きな原点になっています。先ほど舟越先生が日教組の集会などに行くと、構造的暴力というのは反戦教育、再び青年を戦場に送るなという動き、そういう考え方を薄めるのではないか、と言われるという指摘をされました。それがここに反映されていると思います。Aの戦争と軍事に関するものが日本は 43.5%、アメリカは30%以上。アメリカでもベトナム戦争などを体験していながら、正義の戦争はいいのだという考え方が強いですから、やはり戦争を肯定する。この関連で、アメリカで平和学をやっている人たちの間で、この数字が出てきているわけです。それでもやはり戦争という問題に関しては日米の間に差があるなあということを感じさせます。またこれは、 80年代半ばの統計であるからかもしれません。今回は用意してこなかったのですが、舟越先生のご心配とは反対に、冷戦が終わってからはむしろDが増えているのです。つまり冷戦が終わってからは、構造的暴力の問題がやはり増える傾向にある、ということです。
 ひとつの参考にしていただきたいのですが。1970年前後に東ドイツででた『平和研究批判』という本があり、そこに「平和研究は革命研究を薄める」というようなことが書いてあったことを思い出します。そういう議論があるのです。ですから舟越先生のお話とある意味で非常に共通しています。
 平和研究というのは、革命研究でなければならない、というのが共産圏の人たちの一致した考え方です。スウェーデンやデンマークなどの新左翼の人たちの平和研究批判、あるいはガルトゥング批判の論文にも同じようなことが書いてあります。つまり、平和研究というのは pacificationだというわけです。この語は日本語ではいろいろ訳があり、ひとつの例は英語でpacifierというと、赤ちゃんが泣いたときにお乳の代わりにくわえさせる「おしゃぶり」のことをいうのです。要するに「まがい物を与えて満足させる」ということです。平和研究というのはそういう役割を果たしているのだ、まがい物である、つまり革命研究が本物なのに、平和研究で革命研究は薄められてしまう、ということです。しかもその批判の相手が、西ドイツきっての左翼の思想家ディーター・ゼングハースという人で、西ドイツの新左翼の思想をもろに受けて大学教授になった平和学の代表的人物です。このゼングハースを批判するのに、東ドイツのマルクス主義者は、それはまがいものの役割を果たしているのではないか、というのです。僕も舟越先生の質問に完全に答えることはできないわけですが、舟越先生にも取り組んでいただいて、満足できる答を発見されたら私にも教えていただきたいのです。
 それから福祉運動が平和運動か、そうなってしまうではないか、ということですが、確かにそういうことになると思います。私はこういう考えです。平和学や平和研究というのは国によっても違うし、人によっても違いますから、個々の平和学、平和研究の取り組みをその人の満足するようなかたちでやっていれば、それはそれとして認めて排除しない。フィリピンの人が自分の平和研究はこれなんだとやって、フィリピンの人々の生活の向上のために一生懸命やっていたら、それは平和研究ではない、とは言えないのではないか。ですから、日本で平和学、平和研究をやるとき、特に長崎でやる場合に福祉の問題と平和学とが違っていて、これが長崎の平和研究です、と言ったら、世界の人たちは違和感を感じる可能性があると思います。「長崎の平和研究」という膨大な著書なり、その特集が出たときに、福祉の問題がはいっていたとしても、それは平和学という大きなコンセプトのなかではよいのではないかと思うのです。そして長崎でもこういうところまでやっているのだな、と思われるのではないかと思います。これは私にとっても大きな課題です。
 高橋先生ご指摘のニューカムの図について言うと、私は真ん中の円の平和学を理念としての平和学というふうに考えています。理念型の平和学です。それに対して、周辺円の方の小さな平和学というのは、具体的な平和学の取り組みを指している、と考えています。ですから、これは私の平和学、舟越さんの平和学、東京で平和学に従事している先生の平和学、あるいはイスラエル、ヨーロッパ、アメリカでやっている個々の平和学は、この周辺円の方に挙げて考えているわけです。この理念型の平和学と周辺円の平和学の間にも平和学があるのではないか、とも思っています。さっきお話したストックホルム国際平和学研究所もこの中間にあるくらいのものかな、と思ったりしているところです。これは大ざっぱに、平和学というのは学際的で、こういう関係のなかでやらないと本当の平和学というのはできないのだという、ひとつの言い訳みたいにもなっているのかな、とも思います。
 最後に末永さんの心と心の体験、被爆の実相をどう伝えるか、あるいは外国人の論理と日本人の論理というのは違うのではないか。まったくおっしゃるとおりで私は付け加えるところはないのですが、私はやはり人間というのは情が基本だと思うのです。それをいかにして言葉にして伝えるか、というのが大事なのであって、その点で長崎・広島の原爆地獄を身をもって体験した被爆者の方の言葉というのは、非常に重い意味を持っていると思います。僕らは被爆していませんので、あくまでも被爆した人たちの気持ちを自分なりに受け止めて、自分の言葉に翻訳して伝える、ということしかできないわけです。だけど被爆者の方々は、そうではないわけですよね。直接自分の体験を言葉にして伝える。この直接性というのは、切り口が鋭い、というか、相手に対して与えるインパクトがぜんぜん違うと思います。
 私は広島に住むようになってからまだ12年しか経っていないのですが、広島に来る前と、広島に来て被爆者の方々と日常的に接するようになってから、原爆問題の考え方が私自身変わりました。私自身、広島に来る前は構造的暴力にものすごく惹かれて、どちらかというとそういう問題を中心にやっていました。ところが、広島へ来てから平和の問題、特に日本人として平和の問題をやっていく場合には原爆問題が中心であり、広島にいる平和研究者としては核兵器をなくすこと、核廃絶を中心にやっていかなくてはならない、と非常に強く感じるようになりまして、そういう意味では広島に来てよかったと思います。

森口(貢):私は小学校の退職教師で、広島でも同様だと思うのですが、長崎ではいわゆる8月6日、9日を中心とした平和に関する教育、というものをやってます。そのようななかで私たち組合に入っている者は、特に戦争体験、原爆体験、そのものずばりのいわゆる反戦という点から平和教育を強くやってきたのです。でも、いろいろな平和に関する講義などにいくと、構造的平和というのでしょうか、動物をかわいがりましょう、草花をかわいがりましょう、というのがテーマであり、それに対して私たちは随分強い批判をくわえてきました。そんなことでは特に長崎では、しっかりした平和をつくることができないのではないか、と思ってきたのです。いま先生のお話を聞きながら、少し自信が崩れかけてきたのですが、そのへんをもう少しすっきりとしたいと思います。

:先ほど構造的暴力のときに、先生はこの概念は第三世界の人たちと若い人たちを惹きつけるとおっしゃいましたが、その点はなぜかなと思ったのです。多分自分の生活とつながるということから、惹きつけられるということなのか。それがあって、戦争の問題とつながっていくのではないかと思います。

古川
:私は専門で医療政策をやっており、「患者の権利」、「患者の自己決定権」について研究しています。平和学とはあまり合わないとは思っていたのですが、先生の平和学の鳥瞰図を見ますと、私が研究している医療保険制度の整備など、被爆者に対する暴力の批判という切り口から平和学が分析できることがわかりました。今日は非常に大きなヒントを得ました。

鎌田
:私たちの研究講座、あるいは研究所自体の中心テーマになると思われることですが、広島・長崎が21世紀をリードできるのか、という問題です。これはいままでの何人かの発言に関わるのですが、私は広島・長崎の原体験に固執して、核時代、あるいは 21世紀になお跋扈(ばっこ)している欺瞞的な権力を痛打する一番拠点になるのが、広島・長崎だと思っています。だから、原点に固執すべきだ。しかし、これは舟越さんがいつも言っていることですが、そのことは被爆前の戦争に関わった、そしてそういう事態を引き起こしたことに対する加害者としての責任を免罪するものではない。むしろ自らの被害体験を徹底的に掘り下げて、人間と核の問題を暴けば、必ずそこから違ったかたちでの暴力、原爆ではないけれど、違ったかたちでの虐殺体験、レイプ体験を強いられたたくさんの民衆の被害体験と結びつかなくてはいけない。そこで、お互いの原体験を出し合い、ぶつけ合いながら、新しいそれを超える思想的な核を作り上げていく。このヒントを担っているのは広島・長崎だし、そういう方向に向かって全力を投球しているのがわれわれ広島・長崎の市民運動だと思います。
 そういう意味で言えば、例えば坂本義和さんが言っていることですが、彼の理論でいくと広島・長崎は原点だけど、同時に何百年か前のアフリカや黒人たちもまた、彼らの原体験というようなものを体験してきている。同じように各国の人々もそれぞれに経験してきている。むしろそれを広島・長崎が喚起して、お互いに交流しあい、新しい道筋を練り上げていく。おそらくそこらあたりが 21世紀を導く思想的な核ということに関わってくるのです。さきほどの話をこのことにぜひつなげていただけたらと思います。おそらくこれは10回目の講義で高橋さんが展開するだろうと思います。

岡本:ありがとうございました。森口さんのご質問ですが、草花をかわいがりましょう、というのが平和運動なんだ、平和なんだ、ということだけでしたら、私も違和感を感じますが、いま鎌田さんのコメントのなかにありましたように、原点は何かを考えたうえで、なおかつ平和問題とはそれだけではない、と言っている人たちをわれわれは理解していくし、自分もそういう問題に関心があるならば自分も参加することはたいへん良いことだと思います。私も草花をかわいがっています。小さな菜園があるのですが、草花に意地悪をしたりすると枯れちゃったりするんですよね。アメリカのジョージ・ロペスという平和学者が、 5年も10年も平和学を教えて人間が変わらなかったらそれは間違っている、と言っているのです。私自身は変わったと思うのです。人間はだいたい親から受け継いだことを子どもに対してまた受け継がせるというようなところがあります。私は親父にげんこつでやられたのです。それで、子どもというのはこうやって育てるのだ、と漠然と理解していて、げんこつではなかったのですが、子どもが小さくて、まだ平和学をやっていなかった頃、ちょっと子どもに手を出したことがあるのです。平和学をやるようになってからは、これはやっぱりひとつの暴力なんだ、ということがだんだんわかってきたのです。それから、夫婦喧嘩。いまでもよくやりますけれども、弁解の仕方がぜんぜん違ってきたのです。昔は平気で 1週間くらい口をきかなかったのですが、最近は喧嘩をしても30分後くらいには「ごめんな」というふうに口をききます。その点では僕の方がかなり平和的です。(笑い)
 ですから、草花を愛でるということも、平和問題を相対的にとらえているなかでの平和を愛する行為、ととらえないといけないと思います。君が代・日の丸に賛成しながら、草花をめでるというのでは、疑問を持ちます。やはり首尾一貫していなければならないと思います。
 峰さんから構造的暴力の問題で、若い人を惹きつける、あるいは第三世界の人を惹きつけるという話がありました。それはやはり身近な問題を平和問題としてとらえるところからきているのではないか、と思います。いまの若い人たちが原爆の話を聞くというのは、僕が子どもの頃、日露戦争を聞かされたよりももっと昔のことなのです。ですから、そういう人たちにとっては、構造的暴力の問題から入った方が入りやすいのではないでしょうか。私と一緒に東大生に教えている横山正樹さんは、フィリピンのビデオを学生に見せていたのですが、その内容はバナナ園で働く人々のものでした。フィリピンのバナナのほとんどが、フィリピン人の口に入りません。口に入るのは短い小さなバナナだけで、大きなバナナはすべて輸出用です。しかも農薬だらけです。私は毎日バナナを食べるのですが、あのビデオを見てどうしようかなと思っているくらいなのです。賃金はものすごく安く、トイレもなければベッドもないようなところに住みながら、ほんとうに構造的暴力そのものをもろに体験している人たちがバナナの栽培をしています。そしてその農園ではバナナ以外は何も作ってはならないのです。バナナを作って得た賃金で、自分たちの食べ物も全部買って食べざるを得ないような状況、すごい貧困のなかに置かれているというビデオでした。そういういま起きていることの方が若い人たちはすごく自分の問題として受け止める。自分のライフスタイルと結びつけて受け止める。昔の 50年前の戦争の問題、日本人の戦争の問題よりいま起こっているイスラエルやパレスチナ、あるいはタミール人の民族紛争、ユーゴ爆撃などの問題などの方がとらえやすい。もちろんそれ以外の問題についても身近な問題としてビデオなどで教えることができると思うのですが、構造的暴力というのはもっと身近な問題と結びつけられますから、すごくに入りやすいのかなと思います。

                          (長崎平和研究所客員研究員)