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2005年の映画採点簿

9月23日シネツイン1 Jean=Paul Salome『ルパン』Arsene Lupin
未済点

9月22日クラブ・クワトロ 犬童一心『メゾン・ド・ヒミコ』
未済点

6月4日サロンシネマ Theo ANGELOPOULOS『エレニの旅』Trilogia: to livadi pou dakryzei
未済点

5月30日シネスイッチ銀座 Wong KA WAI(The Hand)、Steven SODERBERGH(Equilibrium)、Michelangelo ANTONIONI(Il filo pericoloso delle cose)『愛の神、エロス』Eros

雨である。仕方がないので濡れずに行くことのできる映画館を探した。だからこの映画を観たということではない。この映画を選んだのは90歳を越えたANTONIONIがどのようにErosを扱うかを見たかったからである。Wong KA WAIやSODERBERGHははっきり言って眼中になかった。それにこの作品は単なるオムニバスではなく、どう見ても彼ら二人のANTONIONIへのオマージュと、ANTONIONI自身の作品で構成されたANTONIONI的作品なのである。「手」と言えばANTONIONIの映画に必ず出てくる、脚、窓、枠組み、鏡など一連のイメージの一つである。そのErosの道具としての「手」を主題にWong KA WAIは作品を仕上げている。湿っぽく、汗くさい働く男の世界と雨、そして美しい女。うまいことはうまいのだが、「手」は道具としてしかそこになく、ANTONIONIのようなイメージのふくらみを持った恐ろしく美しい「手」ではない。Wong KA WAIが「手」で直接的にErosを語るとすれば、SODERBERGHはそのような直接的なものでの到達を拒否し、「夢」というつかむことのできないErosを写し出す。まるでWENDERSの夢の世界の中で水浴する女性。『ソラリス』の中で度々このような映像が登場するが、SODERBERGHはよほど好きなのであろう。何度も窓から飛ばされる紙飛行機は到達できない夢の「不毛」を象徴しているようにも思われるが、いささか単調ではあるまいか。この二つのオマージュとANTONIONIを繋ぐのが、Caetano VELOSOの曲「Michelangelo ANTONIONI」である。これが奇跡のように美しい。この曲とバックに写し出されるロレンツォ・マットッティの絵に触れるだけでもこの映画を見に行くべきである。この曲を勢い余って講義で紹介してしまったが、その際、たまたま『太陽はひとりぼっち』が手元にあったので冒頭のシーンに重ねて流してみると、自分でも驚くほどの美しさであった(リカルドが椅子に座って固まり、ヴィットリアの顔が鏡に写し出されるあのシーン)。さて肝心のANTONIONIである。そこにあるのは美しくない二人の女性、多少の「迷い」、そして陳腐でやや投げやりとも思われる「奔放な性」でしかない。「危険な」pericolosoものは微塵もなければ、ANTONIONIお得意の心象としての「自然」も迫るものはない。もはや90歳を越えたANTONIONIに愛を語らせることはできないのだろうか。あの何を考えているかわからないモニカ・ビッティの顔に一陣の風が吹いて彼女の髪が微かに揺れる時、ANTONIONIを置いては他にその残酷で美しい「愛の不毛」をこの世に留めることはできなかった。そのANTONIONIはもうここにはいない。4点


4月23日シネツイン Christophe BARRATIER『コーラス』Les choristes

こういう善意に満ちた映画は批判しにくい。もちろん出来が悪いという訳ではない。ポイントもはっきりしているし、最後のナレーションが物語をうまくまとめてくれる。また、誰やらの声は驚くほど美しく、その母が南仏の太陽の光を受ける横顔は官能的でさえある。しかし子供の泥臭さがないんだよね。フランス的な大人の視線や芸術性が強過ぎて、物語の深みというか何か面白みに欠ける(唯一の救いはあの頑なな不良少年が更生することなく復讐の放火をしたことだろうか)。主演がJeacques PERRINで、物語冒頭はある人物の死から彼が過去を思い出すと言えばあの『ニュー・シネマ・パラダイス』にそっくりで、この愛すべき映画やTAVIANI兄弟の『父/パードレ・パドローネ』のごつごつしたところを思い出してもらいたい。『コーラス』ほど「洗練」されていないこれらの作品には「歴史」が描かれていた。「そりゃフランス映画だから仕方がないんじゃないの」という声も聞こえてきそうだ。それならこんなテーマはやめた方がいいんじゃないのと小さな声で切り返えしてみよう。TRUFFAUTの言っていたverite「真実」はどこに行ってしまったの。だって、これじゃあ結末が透き通って見える整理整頓好きの誰でもお分かり平和大ハッピーヤンキーアメリカ映画のようでしょう。あ〜あ、でもやめよ、善意の映画を批判するのは。この作品がフランスで本当に大ヒット(?)したのならば、ちょっとまずいなフランス。5点


4月11日広島スカラ座 Jean-Pierre JEUNET『ロング・エンゲージメント』Un long dimanche de fiancailles

英語タイトルがあまりにも無味乾燥なのでなかなか観に行く気がしなかった。まあ毎度のことですが、ちょっとそこは眼をつぶって行ってみれば、これは正に「アメリ・プーランの類い希なる数奇な婚約」。オドレイ・トトゥがやっぱり人を探している。しかし、完全主義者のJean-Pierre JEUNETにしてはどういう訳か最初からあっさりと逆さ吊りのキリスト像なぞを見せたり、『突撃』さながらの塹壕移動があったりして、WAJDAやらKUBRICやらを思い出させるシーンで冒頭が始まっていいのかしら、と思う。まあいいか。JEUNETには「プレゼンテーションの美学」があるのだから。遠近法の効いた画面構成の中で、紹介すべき人物を中央に置き、カメラはそれにズームアップする(真上からのショットも同じ動きだ)。この原点は『駅馬車』のジョン・ウェインの登場場面にあると私は見ているが、このアップと同時に短く象徴的かつ印象的なフレーズで人物を浮かび上がらせ、そのフレーズにフランス映画を感じさせる艶(かつてこれを「エスプリ」と言っていました)がある所が良いのだろう。『アメリ』でもそうでしたが、この「美学」に妙な安心感と切れがあって面白く心地良い。今回の作品でもこれは発揮されている。そんなプレゼンテーションでハッとしたのがジョディー・フォスターだ。一瞬誰かと思ったが、彼女の立ち姿でようやく分かった。こんなにフランス語が上手くていいのかい。このジョディー・フォスターやドニ・ラヴァンを始めとして、お馴染みのシャルチエや国立博物館、昔のレ・アールやオルセー駅を発見するのは楽しい。ラストもまるで外島の「不可能の家」のような終わり方だが、記憶が戻ったりべたべた抱き合ったりしないところがよろしい。6点


3月28日サロンシネマ 大林宣彦『理由』

やっぱり大林は凋落傾向にある。『ふたり』を頂点にして下降するばかりだ。冒頭の荒川を遡るところでは、白秋の「・・・さながら水に浮いた灰色の棺である」で始まった名作『廃市』のようにその叙情性を忘れない。しかし、その下町風情は所々白々しく挿入されるものの最後は忘れ去られた。高層マンションとの対比だけの役割で所詮は飾りだったのかもしれない。スピードと緊張感?それはつくはずだ。この作品、もともとはドラマで、その再編集なのだから。それに役者にノーメイクで登場させる演出もあの下町と高層マンションの対比を強める/和らげる装置として働いてはいるが、それならいっそのことDE SICAやROSSELLINIのように素人を使ってもよかった。このままでは古手川祐子の姿は確認できない。でもメイクなど関係ない蓮ちゃんはカッコ良かった。短い出番でしたが、その科白の言い回しとガサ入れの表情、ピカイチです。しかし、この作品の最悪の所はラストである。あれで本当によかったんですか。「八代祐司はどこにでもいる」な〜んて言って、ピューンと飛んで行くのです。ちょっとまずいでしょう。勝野洋や岸部一徳の科白でも、信子が傘を持って走るところでも終わることはできた。加えて、これは撮影ですなどとメタ映画のような色気も見せる。そうしながらも、このきっかけでも終わらない。何とも切れの悪いラストです。ただ、私が好きな「大林的青年」(ここでは綾子の弟、石田直澄の長男、そして小糸孝弘)がこの映画の脇を締めてくれたところがせめてもの救いでした。このままでは大林映画の味は大林的青年だけしか残らない。尾美君、何とかなりませんか。4点


3月3日Studio Galande (Paris 5区) Pedro ALMODOVAR『La mauvaise education』La Mala educacion
まずはパリ日記からの抜粋”3月6日(日)午前中Geroges Brassens公園の古本市を物色。収穫なし。午後友人Catherineの出産祝いのためにEvryへ。夜、Studio Galandeで最終のアルモドバルのLa mauvaise educationを観る(近々「映画採点簿」へ)。路面凍結。観客、私を含めて2名。帰り、Notre-Dameを見るために河岸に出る。深夜に雪空に浮かび上がるカテドラルにしばし足が止まる”ということで3月初旬とはいえ厳冬のパリでの鑑賞。いつもながら色も綺麗で映像にも切れがある。それにガエル・ガルシア・ベルナルとフェレ・マルティネスの交差する眼差しがいい。ただ物語が複雑で、その展開に説得力が欠けるような気がした。このところのALMODOVARの作品の物語性は比較的求心的であったのに、今回は物語の網の目が粗いのではないか。それはテーマとの距離の取り方が『「オール・アバウト・マイマザー』と『トーク・トゥー・ハー」に比べれて近すぎるからだろう。やっぱり今のALMODOVARには「女」を描かせた方がいい。5点


3月1日成田発パリ行きNH205便 行定勲『北の零年』
こりゃヒドイね。見てられない。よくもまあこんな物語作りますね。だいたい行定は撮り過ぎ。無節操に何でもかんでも撮ってはいけない。そんなに話しが来るなら、長谷川和彦に回してあげてね。しかし、この映画は芯がない。トヨエツはなんでここにいるんだよ。よみがえり謙ちゃんの変貌も分からない。「名優」香川の照ちゃんも粘りがない。さゆりさまはご都合主義で助けられる。何が権力で、その関係はどうなってんの?そもそもさゆりさまが画面に登場するとなんだかいつもドーンとするんだよね。何か布団をスカートに巻いて座っている感じ。その底なし沼のような「魅力?!?!?$$?」に行定は完全に溺れている。terrible!『北の零年』ならぬ「これは零点」ですね。帚木を読了した後の機中の暇つぶしとはいえ時間がもったいなかった。寒いところのロケ大変でしたということのみで、1点


2月27日サロンシネマ 崔洋一『血と骨』
未済点

2月14日サロンシネマ 井筒和幸『パッチギ』
未済点

2月7日サロンシネマ Julie BERTUCCELLI『やさしい嘘』Depuis qu'Otar est parti ...
未済点

1月28日サロンシネマ Walter SALLES『ビハインド・ザ・サン』Behaind the Sun
未済点

1月24日サロンシネマ 大谷健太郎『約三十の嘘』
未済点

2002年の映画採点簿

2001年の映画採点簿

2000年の映画採点簿


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