森戸辰男、人と思想

小 池 聖 一
はじめに
 森戸辰男は、戦前森戸事件の被告として学問の自由を守ろうとし、大原社会問題研究所を通じて労働者教育・社会運動に寄与した人物として評価される反面、戦後は、中央教育審議会委員長として、また、家永教科書裁判の国側弁護人として法廷で証言したことから保守的な人物として叙述されることが多い。このような正反対の評価は、彼自体が明確な「転向」を行なっていない事実から、問題は、彼を評価する主体にあるのではないだろうか。そこで問題となるのは、同時代的な森戸の発言や、その背景となった思想がいかなるものであったか、ということであろう。この問いに答えるべく本稿は、森戸辰男を全生涯にわたって理解するための基礎作業として森戸自身の著作をもとにその人と思想の変遷について概述したものである。

一.思想の形成
 森戸辰男は、明治二一(一八八八)年二月二三日、広島県福山市に生まれた。森戸の生まれた時期は、「近代日本は二度目の誕生を迎えた。明治二二年に帝国憲法が発布され、翌年には教育勅語が出されるなど、日本は近代の姿をはっきりと整え始めたのである」という時期であった(1)。父森戸鸞蔵は、旧福山藩士の次男坊で「近代からとり残さざるをえない武骨者」であった(2)。この父に曽祖母と祖母、伯母、三人の姉と亡くなった三人の兄、末っ子の辰男という大家族を抱え、母タカの苦労は尋常なものでなかった。そのようななかで森戸家の目的は、「生き残った一人息子である私をなんとか立派なものに育て上げ、落ちぶれた森戸家を復興しようという一念」であった(3)。この悲壮感漂う環境のもと、森戸は、中学校在学中に伯母の影響で聖公会の信者ともなっている。さらに、家族の希望に応えて入学した第一高等学校で、新渡戸稲造と出会い、強い影響を受けた。森戸は、父譲りの清貧・武家の伝統とキリスト教という二つの精神的支柱を得たのであった(4)。

二.森戸事件(5)
 明治四三(一九一〇)年七月に東京帝国大学法科大学経済学科に進学。法科大学において周辺に位置した経済学者としての歩みを始め、大正五(一九一六)年にはいり助教授となった。専門は、ドイツ歴史学派にもとづいて自由主義経済の資本主義的矛盾を是正せんとする社会改良主義的な「社会政策」を志向するものであった。その後、法科大学より独立した経済学部の機関学術雑誌『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を寄稿。同論文が、大杉栄等の無政府主義を鼓吹するものだとして批判され、東京大学を休職処分となった。本問題は、新聞等により流布したため非常に大きな反響を生み、本は発禁処分となり、森戸と発行責任者の大内兵衛は朝憲紊乱罪で起訴されたのであった。結局、裁判で禁固三カ月の判決をうけ森戸は、巣鴨監獄に入り、東京大学を去ることとなっている。出獄にあたって森戸は、作家の有島武郎から大正九(一九二〇)年十一月一五日に森戸事件に関し、慰労する書簡をえ、交友が始まっている。そして、森戸は、高野岩三郎所長のもと大原社会問題研究所の研究員となり、本拠を東京から大阪に移したのであった。森戸にとって大原社会問題研究所に入ったことは、社会科学者としての実践の第一歩であった(6)。

三.社会科学者としての実践
 その後、終生の友人・大内兵衛とともに独露英仏の諸国に留学して、ドイツの現状を把握しつつ、書籍を収集するとともに経済学、社会問題を研究したのであった。帰国後は評論活動を行い、「社会科学研究の自由に関して」(大正十四年)、「思想闘争史上における社会科学運動の重要性」(昭和二年・一九二七年)、婦人労働問題に関して「婦人労働の推進力」『大原雑誌』(昭和七年)等を発表。研究の中心は、マルクス経済学に基礎を置く、日本の社会運動(キリスト教との関連もふくめて)・婦人問題・社会思想・教育問題等と多岐にわたるものであった。

 同時に「大阪労働学校」「神戸労働学校」で労働者教育に講師として携わり、松岡駒吉や西尾末広等と出会い、西村栄一を学生としている。講師としての森戸は、刺殺された大阪労働学校の同僚でもあった山本宣治の葬儀委員長でもあった。経済学者森戸の実践的活動としての大阪労働学校との出会いは、後年の教育に対する傾斜の端緒でもあった。

四.「大学顛落論」論争
 森戸の教育への関心を象徴するものとしては、雑誌『改造』に京都大学の滝川事件に関連して「大学顛落論」(昭和五年)を書き、反論する東京大学の河合栄次郎教授との間で論争をおこなっている。「大学顛落論」は、大学から「進歩的教授」が追われ、大学が自由の研究の場でなくなっている現状に警鐘をならしたものであった。これに対し河合は、大学人としての節度を守って研究し、逸脱した政治的な行動さえとらなければ大学の自治は守れると反駁。森戸は、これに対して「真面目な研究態度とはいかなるものか、大学は社会・政治情勢と深い関係がある」として再反駁を加えたのであった。論争の結果は、森戸自身の評価によれば、河合自身が東大を追われた事実から、自らの勝利としている(7)。河合と森戸の論争において重要な論題の一つが「自由主義」である。このなかで森戸は、「リベラリズム」と「マルクス主義」との対立を、それを担う「階級」問題として捉らえる。そして、後者「マルクス主義」の優位性を発展段階説から説明している。この区別をイデオロギー的に分別するものを「社会主義」の有無によるとしている。このような森戸の確信は、本書にみられる戦前日本の文教政策に対して批判するうえでの有効性という観点から立論されている点でも特徴的である。ただ、森戸は、「闘争」という観点で理解しているが、「コミュニズム」と決定的に相違することは、「文化」の概念を導入することによってた漸進的に進めようとする現実的な姿勢にあったと言うことができる(8)。しかし、この論争のなかで特記すべきは、論争が立場の違いを認めあいながら行われた点にあった。具体的に、東大経済学部の自治会(経友会)の招待による森戸の講演会に、河合も出席。講演後、学生により河合・森戸両先生を囲む会が喫茶店でもたれ、大内兵衛も参加。「大内先生は森戸君を呼んでくれたことに対して河合君に感謝すると挨拶され、河合先生は、森戸君と意見がちがうけれども立派な学者である」とのエールの交換もなされたのである(9)。

 森戸は、分析枠組みとしてマルクス主義を当該期、学者としては原典の精読を通じて研究を行い、社会主義者としては、それを漸進的な方法で利用しようとしていた。一例を挙げるならば、森戸は、昭和八年二月二〇日の南区精華小学校講堂における大阪都民新聞社主催講演会で、森戸は、中間階級がファシズムに流れやすい性質をもっているとし、それが実は資本家を利するものであり、中間階級の利害に合致しないこと主張。そのうえで無産階級との連動をとる必然性を述べている点で漸進的な方向性を見て取ることができる(10)。戦前期の森戸は、クロポトキンの無政府主義を理想としつつ(11)、マルクス主義(初期)に傾斜しつつあった。しかし、ドイツにおける政治闘争の見聞から、共産党の暴力革命主義にも、国家社会主義にも賛成できなかった。このため、中間派の独立社会民主党の漸進主義を妥当なものとし、労働者階級の漸進的拡大のため、これを支持したのである。

 その後、大原社会問題研究所も財政難から東京に移り、森戸も居を移すこととなった。戦争により評論活動の場を失い、太平洋戦争開始後には、栃木県の真岡に疎開しました。疎開先の鬼怒川で森戸は、アユ釣の最中に爆撃機の銃撃をうけてもいる。

五.敗戦直後、日本社会党と森戸
 敗戦。森戸は、「敗戦となり、鋭く露呈した日本の民族的・国民的危機の深刻さに、私はこの上なく動かされた。これはなんとかしなくてはならない」との意識のもと、昭和二十年(一九四五年)秋、恩師・高野岩三郎等の提唱による「日本文化人聯盟」に参加した(12)。そして「憲法研究会」にも参加、民族共同体論を提唱してる。また、森戸は、教育刷新委員会に委員として参加し、教育基本法に「勤労者」の一語を入れている。

 同昭和二十年十一月に、日本社会党に入党。翌年には、広島三区から立候補して当選。そして、「救国民主聯盟」を結成して国民の支持を得、共産党に対しては「建設的無血革命」をもって対抗せんとした。このような社会民主主義的な国民運動を推進する森戸は、昭和二二年四月の片山哲内閣発足後、「新日本建設国民運動」を提唱し、内閣の決定事項として森戸の名で綱領を発表している。

 敗戦直後の森戸は、民主主義を政治・文化・社会の三つの側面をもち、これらの総体的な発展であるとしている(13)。目指す国家は、社会的国家であった。その内容は、「民生的・平和的・文化的国家であることを期待される新生日本は、その土台として、社会的国家を是非とも必要とする。しかしこの社会的国家は資本主義の埒内における社会主義国家への過程段階であつて、「労働国家」と「民生国家」と「協同国家」であることをその基本的な性格とするとともに、物と心とを豊かにする国家であるとをその基本的な性格とするとともに、物と心とを豊にする国家であることをも、その特徴と致す」とするものであった(14)。これは、憲法研究会における国家主権論と人民共和国憲法の中間を意図したものであった。

 森戸は、日本社会党で日本労農党系中間派に位置していた。そして、日本社会党の政調会長として、各種政策の立案に参画した。森戸のもとの社会党政務調査会では、経済的危機のなかで生産力拡充を図る経済政策が志向され、これを国民政党的な立場で行おうとしてしていた(15)。この社会党の政策が支持され、社会党は、昭和二二年四月の総選挙で第一党となり、片山哲委員長を首班とする民主党と国民協同党との連立内閣を樹立させたのであった。

六.片山内閣
 片山社会党政権については、成立にあたっての過大な期待と短命に終わった事実、これを左右の派閥対立として叙述するネガティブな評価が中心であった(16)。しかし、経済復興政策における政策的妥当性(17)およびGHQとの支持の強さから(18)、片山政権の政策的再評価が進んでいる。森戸は、片山内閣を「片山内閣は戦後の民主的な諸改革を、苦しい中でよく実行したと私は思う。内務省を解体し、官僚的官吏制度を改めて国家公務員制度を導入し、行政機構の民主化を図った。労働省を設け、失業保険や児童福祉法も作った。不敬罪や姦通罪を廃止したのも片山内閣の時だ。いずれも以前からの企画立案であり、占領軍の強力な指令による改革ではあったが、片山内閣はこれを受けとめ、自発的にその推進を図ったのである。もしも社会党が国民的運動をリードしながら、このような進歩的な民主政治を堅持しえたならば、連立内閣は案外長期に政権を担当できたろう。片山氏自身も当初はそう考えていたようだ」と述べている(19)。

 森戸は、片山内閣に文部大臣として入閣した(20)。森戸の入閣は、彼が政調会長であったことから当然視されていたものの、重要な経済閣僚を想定されており、文部大臣の就任は意外なものであった。森戸は、これを「歴代文部大臣は、伴食大臣とか陪食大臣と陰口をたたかれ、敬遠されていたものだ。つまりは、実権も実益もない大臣なのだろうが、私は、これならできるし、やりがいのある仕事だと、引き受けた」としている(21)。片山内閣および次の芦田均内閣の文部大臣森戸の仕事は、六・三制の実施と、高等学校への定時制や通信制教育の導入であった。また、教科書の国定から検定制度とし、育英資金の拡充を行うものであった。しかし、六・三制の導入は、予算が閣議決定したものの、GHQで減らされている。この結果、森戸は、中学校校舎の建設費用に関する陳情を各都道府県からうけることとなった。しかし、校舎建設費用等文教予算の捻出は、キャサリン台風のための災害対策費に転用され、森戸の退任後にはドッチ・ラインにより大削減されている。また、森戸は、教師をプロフェッショナルとすべく、給与体系をあげている。また、昭和二三年六月一九日の第二回参議院本会議で教育基本法の制定に伴う「教育勅語等の失効確認に関する決議案に関する件」の決議後、「教育勅語は明治憲法と運命を共にすべきもの」、「真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義教育理念を堅く採ることによつて、教育の革新と振興とを図」ることをのべている(22)。森戸は、直接選挙による地方分権的な教育委員会制度の導入に反対であったが、CIE(民間情報教育部)の強硬な姿勢の前に国会会期終了直前に通過させられている。

 森戸は、片山内閣につづき芦田均内閣でも文部大臣の席にあったが、必ずしも自らの政策を遂行できないうちに総辞職のなかで閣外にさることとなった。

七.森戸・稲村論争
 芦田内閣崩壊後に社会党を待っていたのは、選挙での厳しい洗礼であった。当選者は、改選前の四三名から四八名に激減、片山元首相、西尾末広元副総理も落選した。再建を期した第四回党大会で森戸を一方の雄とする論争が生じた。森戸・稲村論争と呼ばれる運動方針をめぐるもので、社会党の性格を設定するものであった。森戸は、左派の稲村順三の起草した「科学的社会主義に立脚する党」「行動的階級政党」とする運動方針書に対して右派を代表して「勤労国民を基盤とする大衆政党」としての社会党再生を主張したのである(23)。当該論争は、党の性格設定をなす意味では重要な意味を持っていたものの、マルクス主義の問題を抜けば両者間の違いは少なかった(24)。この段階では、経済復興政策・政策的生産力拡充を中心とする労使協調的経済政策に関して社会党内に政策的対立がなかったため妥協が成立している(25)。

 そして、本論争と同時期、森戸は、転機を迎えていた。地元広島県・広島市あげての要請をうけて代議士を辞し、広島大学長に就任したのである(26)。

八.広島大学長時代(27)
 昭和二五年四月一五日、代議士を辞するにあたって衆議院で森戸は特に発言を許された。このなかで、広島大学に行く理由として、郷土からの就任要望、「日本の再建は青年の向背にかかる」という確信、平和都市広島にふさわしい大学をつくりたい、という気持の三点をあげている。「科学とモラルと教育を政治にいささかなりとも新生面を開きたい」という念願が、「文教政治と教育革命」に関心を注ぎ、文相として制度的に前進させたとの自負のうえで森戸は、大阪労働学校に引き続き、教育の実践の場として広島大学に向かったのである。しかし、政治家を辞した理由は、「政治の有効な運営には、現段階では、遺憾ながら相当の大金を調達する手腕が必要であり、したがつてまた、それにまけないだけの強く鋭い良心を必要とする」という二つの資格を有していないからであり、「道徳を尊び、真実を語ることを習慣とするものにとつて、政治の世界は必ずしもぴつたり身に合つた世界ではない」と考えていたからであり、さらに、政治家の仕事が個人の人間生活・家庭生活を脅かすからであったためであった(28)。そのうえで、政治に欠けている科学性と道義性、そして教育を政治に導入するため学究から政治の世界に入った森戸は、さらに高次の次元の道義性と精神性の政治の獲得のために大学に戻ったとしたのである。それは、森戸にとって冷戦下で学生運動が先鋭化し、新たな左の全体主義が学園を覆いつつあるなかで、自由と平和を守るためとの意識にも裏付けられていた(29)。

 新制広島大学の設置は、昭和二四年五月三一日のことであった。広島大学では、その後、約一年もの間、学長に人を得ず、文部大臣として斡旋の労をとっていた森戸自身に白羽の矢がたったのである。しかし、赴任した広島大学を取り巻く環境は、困難を極めていた。原爆による荒廃、多数の包括校の存在で一体感にかけ、実際、校舎は、三市一町に分散していたのである。このようななかで森戸は、昭和二六年十一月五日、中国・四国地方の中心大学、地域性のある大学、 国際性のある大学の三つの構想を明らかにしたのであった(30)。この構想に対応して、統合を目標とした整備が行われていった。まず、東千田町キャンパスへの統合がこころみられたのであった。具体的には、広島県立医科大学の移管、大学院の設置、原爆放射能医学研究所の設置などがあげられる。また、地域社会への貢献を念頭に政経学部第二部(夜間部)および水畜産学部の育成、教養部・教育学部で大阪労働学校以来の教育観の実践を図ったのである(31)。さらに、森戸は、自由で平和な一つの大学として広島大学を想定し、校章にフェニックスを制定、校旗も下地を復興の緑色と決定した。さらに、復興のために各国の大学等に灰燼に帰した図書館充実のため図書の寄贈をもとめた。同時に苗木の寄贈も求め、学内いたるところに自らの手で植えていったのである(32)。現在も旧東千田町キャンパス内の街路樹であるメタセコイア通りは、森戸道路と呼ばれている。広島で森戸は、アメリカ文化センターと原爆障害調査研究委員会(ABCC)と密接な連絡をとりつつ、日米の学術交流にも積極的に貢献している。また、この時期、国立大学協会の副会長として新制大学の教養部門の定着にも力を尽くしている。森戸にとって広島大学は、教育の実践の場であった。森戸は、教養部での講演を好み、青少年育成の場としての大学の意義を認めていたのである(33)。反面、全学連を中心とする学生運動に対しては、それが近代市民型民主主義に反対するものとして批判している(34)。それは、学問の自由と大学の自治に対する森戸自身の考え方にもよっている。森戸は、学問の自由と大学の自治に対する脅威として「大学顛落論」論争当時の国家権力の干渉よりも、原子力の平和利用問題等で例示しつつ、他の外部勢力、「あたらしいかたちの全体主義の勢力」をあげていた。そして、この新たな左の全体主義に対して、自由と自治を守る次の四カ条をあげている。その第一として森戸は、「大学は、その基本的使命に即して、真理探求の精神をさかんにすることです。そして、本学本来の任務が、基礎的理論の研究と教授にあることを、もっと反省すべきです」と述べている(35)。第二として「大学が、国家権力の干渉をしりぞけて、学問の自由と大学の自治をまもろうとすれば、大学は、現実政治の実践に参加することをつつしむ必要があります」とし(36)、第三として「現実における真理の相対性、研究の多元性を、具体的には、異なった思想・学説・理論の共存を尊重することであります」と述べている(37)。続けて森戸は、思想・学説の絶対性・不可謬性の信念とはなじまないが、それでも共存を図るためには、全体的主義立場のものに自制と反省(これは森戸自身が加筆している)を求めている。。そのうえで、第四として「教授・研究者にたいして寛容の心を期待」していたのであった(38)。

九.第三の教育改革
 昭和三八年、広島大学を辞して東京に戻り、同年、広島大学時代から委員をしていた中央教育審議会の会長に就任した。森戸は、昭和二八年九月より昭和四六年七月までの九期約一八年間、中央教育審議会の委員・会長を務め、「ミスター中教審」とも呼ばれる存在であった。委員としては、特別委員会の主査として私立学校教育の振興と教科書制度の改善(第二期)、大学の目的・性格およひ設置・組織編成・管理運営等(第四・五期)の審議のとりまとめをおこなった。結果は、中央教育審議会の答申として、昭和三十年九月の「私立学校教育の振興について」、同一二月「教科書制度の改善方策について」、昭和三八年一月の「大学教育の改善について」の各答申のなかで反映されている。そして、六〇年安保をめぐる激しい学生運動、その後の高度経済成長のなかで中央教育審議会の会長となった森戸は、占領下教育改革の矛盾点が生じ始めていると理解していた(39)。当時の池田勇人内閣は、「人づくり」を標榜し、文教政策を重視する姿勢を示していた。このなかで、文部大臣から国家にとって「期待される人間像」が中央教育審議会に答申された。高坂正顕主査のもとで昭和四一年秋に答申がまとめられた(「後期中等教育の拡充整備について」)(40)。で、森戸は、このなかで。その内容は、各人が身につけるべき諸徳性と実践的規範を「個人」「家庭人」「社会人」「国民」の四つにわけ、「戦後広まった無原則な自由・平等論、西洋一辺倒論を大きく修正した」ものであった(41)。

 さらに、昭和四二年七月「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」が文相より諮問され、四年間の慎重審議の結果、四六年六月に答申(「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」)を出した。森戸は、この諮問を明治維新・占領下の改革に続く第三の教育改革ととらえ、三つの柱を立てた。第一として森戸は、生涯教育をあげる。それは、家庭教育・学校教育・社会教育を体系化したもので、特に学校教育が外に開くことを要請していた。第二は、今回の改革が教育独自の立場にあり、これを「先導的試行」という「慎重な実験と研究を経た漸進的」な方法で行わんとしたことである。第三としては、教育課程、教員の人事・処遇、大学入学選抜制度等の改善(42)や主任制度を含む学校の管理組織・教育行政体制の整備、私学の財政援助方式と受益者負担および奨学金制度等であった。また、教師に対しては、プロフェッショとしての職制・給与の改善を主張した。本改革は、多岐にわたる内容を有し、大きな影響力をもつこととなった。また、日本育英会の会長としても、第三の教育改革のための奨学制度問題に取り組んだのである。具体的には、受益者負担の不均衡を考慮して私学に配慮すること、教育特別奨学制度の導入等であった。

一〇.国際性と生涯教育そして趣味
 森戸の履歴を特徴づけるもののうちに国際性がある。特に、代表的なのは、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)との関係である(43)。森戸は、衆議院議員時代よりユネスコに関心を持ち、日本の本の加盟に尽力した。昭和二六年六月のユネスコ加盟後は、国内委員会設立準備会の委員として「ユネスコ活動に関する法律」の作成等に貢献。国内委員会発足後は、副会長・会長として、ユネスコの国際会議やアジア地区の会議、また、教育の専門家としてユネスコ主催の専門家会合等にもたびたび参加している。冷戦下にあって教育も政治問題化しつつあるなか、森戸は、参加各国の独自性を尊重しつつ、その相互理解の増進を現実的にはかることに意を用いたのであった。また、ILO・ユネスコ主催の「教員の地位に関する特別政府間会議」の専門委員会の参加を通じて、教師を有識職(専門職)としての意識と大学が国民に責任を負う社会的機関であるとの認識を持つにいたっている。森戸がユネスコに期待したのも、ムードや絶対平和主義、方便的な平和主義を信用せず、政治や経済面で平和の土台が形成しにくいなかで、平和の精神もった人間の育成が大切と考え、漸進的な解決の主体と考えたからであった(44)。このような森戸の平和に対する認識は、冷戦が核兵器の開発・充実を核として進んでいることを批判する。同時に、日本の原水爆反対運動が被曝国を笠に着ていることを批判し、原水爆運動から、政党・イデオロギー色の一掃、ヒューマニズムの不可、そして被曝国としての謙虚さが必要であると述べている(45)。

 森戸は、昭和三七年、日米文化教育会議の日本側初代委員長ともなっている。六〇年安保問題以降の日米関係を文化・教育面から緊密化させることを意図したものでった。しかし、日本国内では、七〇年安保が近づくなか、反米意識がマスコミを中心に流布され、効果はあがらなかった。

 昭和四八年五月十一日付で森戸は、松下AVセンターの開所式にあたって出席できなかった森戸は、松下正治社長に当てて書簡を送付した。そこには、教育の分野における公共機関と民間企業の協力をのぞみ、松下電器産業のAVセンターのような「民間事業がよくその公共性を自覚しそれに即した進展を図られるよう念願してやみません」と記されている(46)。この森戸書簡に松下電器産業側は即座に対応し、民間の教育財団として松下視聴覚教育研究財団を設置させたのであった(47)。そして、森戸は請われて初代理事長に就任している。このような視聴覚教育に関して森戸は、日本放送協会学園高等学校長を開校以来続け、教育の機会の拡大を図っていた。大阪労働学校以来、広島大学における政経学部二部(夜間部)の設置、日本放送協会学園高等学校長という教育機会の拡大の試みは(48)、視聴覚教育というメディアの変化はあるものの、姿勢として一貫したものであった。

 最後となったが森戸は暇があれば釣りをし、各所で招かれる講演も「釣り」がセットとなっていれば、引き受ける理由ともなった。酒・たばこを日常的にたしなまなかった森戸にとって、静思を愛する釣りは、一に学究としての森戸を象徴するレクリェーションであった(49)。

おわりに
 以上のべてきたことをまとめるならば、森戸辰男は、究極の理想を無政府主義に於ける自由を想定しながら、その実現を常に現実的な対応関係のなかで求めてきた(50)。彼の理想は、戦前も、そして冷戦が進行する戦後においても実現可能性が低かったものの、この「自由」という理想があったため、戦前・戦後で大きく左右にぶれる世論、特に戦後世界が二極化するなかで「西側」の一員である現実を見据えつつ(51)、森戸は、「自由」を実現しうる左右の中間点をもとめ、その実現を「教育」に託して漸進的な歩みを続けたのである。また、森戸は、戦後改革のなかで、憲法と教育基本法を同一視せず、後者における日本側の自主性を高く評価していた。これは、憲法が意識として定着しながら、その解釈において教条主義化したのに対して、教育基本法が想定した近代市民社会が日本の伝統と融合して定着し、発展する可能性があると考えていたからであった。森戸は、「民主主義の反省」を唱え、戦後日本の民主主義が近代市民社会の規範性から逸脱し、極端にマルキシズムに傾斜することを批判していた(52)。このため、東西冷戦に対応して先鋭化する組合運動に対して反対し、敢えて家永教科書裁判の国側弁護人まで引き受けたのであった(53)。このような森戸を戦前の抵抗人から戦後の体制内抑圧者へというイメージでとらえるのは、上記のような森戸の一貫した姿勢を無視するものであり、むしろ森戸の視点に立てば、評価者自体の視点のブレを指摘できるだろう。同様に、森戸を「民主主義者」として概念的に、かつ教育基本法の制定過程にしぼって評価するのも、ソ連・東欧の崩壊による社会民主主義の見直しという冷戦後の現在における視点による一面的な評価にすぎない。その意味で、戦前・戦後を連続して存在しえた希有の知識人と森戸の本格的な再評価は始まったばかりなのである。

(1)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、七頁。
(2)同前注、三頁。
(3)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、九〜十頁。
(4)森戸辰男「小学校時代からの思い出」『文部時報』昭和四七年十月臨時増刊号。
(5)森戸事件に関する先行研究としては、中村勝範氏による下記の一連の論文がある。「森戸辰男事件序論」『教養論叢(慶応大学法学研究会)』九三巻、一九九三年三月。「国家と文化の対立ー森戸辰男事件をめぐって」『法学研究』六六巻七号、一九九三年七月。「森戸事件と吉野作造の「クロポトキン論」」『法学研究』六七巻八号、一九九四年八月。「森戸辰男事件ト黎明期学生運動」『教養論叢(慶応大学法学研究会)』九五巻、一九九四年二月。「森戸事件と吉野作造の「クロポトキン論」」『法学研究』六七巻八号、一九九四年八月。「森戸辰男事件と黎明会」『法学研究』六八巻一号、一九九五年十二月。
(6)大原社会問題研究所については、『大原社会問題研究所五十年史』、『高野岩三郎伝』等を参照。
(7)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、一九七六年、五九頁。
(8)『大学顛落論』同人社、一九三〇年。
(9)丸山真男の証言『聞き書 南原繁回顧録』東京大学出版会、一九八九年、一八八頁。昭和十年頃におこなわれた「河合・森戸両先生を囲む会」に対して、丸山は「なかなかいい会でした」と回顧している。
(10)森戸辰男述「中小商工業者は何処へ行く」大阪都民新聞社発行、昭和十年一二月。
(11)森戸辰男「無政府主義」『岩波講座 世界思潮』昭和四年。
(12)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、六〇頁。
(13)民主主義の拡充(昭和二〇年一〇月二二日)ラヂオ(二〇.一〇.二三)『社会民主主義のために』第一出版株式会社、昭和二二年三月。
(14)同前注六〇頁。
(15)昭和二二年三月五日付日本社会党政務調査会発表「産業復興・労働・インフレ・民生安定に対する当面の危機突破対策」。
(16)日本社会党結党二〇周年記念事業実行委員会編『日本社会党二〇年の記録』一九六五年、日本社会党機関紙経営局。月刊社会党編集部著『日本社会党の三十年』一九七六年、日本社会党中央本部機関紙局。
(17)中北浩爾著『経済復興と戦後政治 日本社会党一九四五−一九五一』東京大学出版会、一九九八年。
(18)福永文夫著『占領下中道政権の形成と崩壊』岩波書店、一九九七年。
(19)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、七四頁。
(20)森戸は、鳩山一郎の追放にともなう社会党政権獲得の可能性があるなかで、大蔵大臣にも擬せられていた(西尾末広著『西尾末広の政治覚書』毎日出版社、昭和四三年、七〇頁)。
(21)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、七八〜九頁。
(22)鈴木英一・平原春好編『資料 教育基本法五〇年史』勁草書房、一九九八年、一八二〜三頁。
(23)『社会思潮』一九四九年七月。
(24)清水慎三著『日本の社会民主主義』岩波書店、一九六一年。
(25)同前注(17)参照。従来、当該期の社会党評価は、後年の分裂を前提とする左右両派の対立を軸に叙述されてきた。しかし、政策的な対立は、中北氏が述べるようにドッチ・ラインの導入をめぐって先鋭化するのであり、当該期の社会党を左右両派の対立のみで分析するのは問題である。
(26)この後、森戸は、主体的に政治活動を行っていない。とはいえ、労働問題に無関心となったわけではない。森戸は、「社会科学に対する批判と反省を促し、イデオロギーの呪縛から解放された、客観性のある社会科学への努力に途を開く」ものとして労働科学研究所の理事・理事長に就任している(森戸辰男「労働科学の役割ー理事長就任に際してー」労働科学研究所出版部、四頁)。また、政治に無関心であったわけでもない。具体的には、六〇年安保に対して、森戸は、議会政治と民主主義の危機論をとらず、国際環境と日本の議会政治における二大政党制が実質的に機能していないことを指摘し、中間政党(民社党)の役割に期待をかけている。森戸の主張は、当該期の知識人が岸信介首相の責任論と事態の収拾に主に言及していることに対して、建設的な意見であった(「NHK特別番組、日本の政治に直言する」昭和三五年六月七日ラジオ第一放送で放送)。
(27)広島大学二十五史編集委員会編『広島大学二十五年史』広島大学、昭和五四年。森戸辰男『広島大学再発足のころ』民主教育協会中国支部、一九七〇年十二月。
(28)森戸辰男「政治と教育ー国会から大学へー」『読売評論』第二巻第八号、昭和二五年八月、二七〜八頁。
(29)同前注。
(30)森戸辰男「変革期の大学」広島大学本部、一九五二年。
(31)森戸は、広島に社会科学を導入し、また、高等師範学校以来の伝統を有する広島大学の教育学部において、近代市民型の専門職業人としての教師育成を期待していた(森戸辰男「何がよい教師か」昭和三四年三月、広島大学学生部)。
(32)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、九二頁。
(33)森戸は、アメリカ型のリベラルアーツ型の大学としての新制大学にあって、教養教育(リベラルエデュケーション)が学園共同体の強化を目的としたのに対して、戦後改革の結果としての学生自治がそれと反対の方向に向いていると認識していた。これに対する反省から、森戸は、一般教養を人間形成の場として重視し、また、当時の一般教育の制度面を含む充実を主張している(森戸辰男「新制大学の盲点ー人間形成の場としての反省ー」。
(34)森戸辰男講演「大学に関する諸問題」大阪倶楽部講演特集第八八号、昭和三五年八月。
(35)森戸辰男著『学問の自由と大学の自治』IDE教育資料第一八集、民主教育協会、一九六一年、51〜2頁。
(36)同前注。
(37)同前注、五二頁。
(38)同前注、五三頁。
(39)森戸辰男『講演 戦後教育の問題点』和歌山市教育委員会主催、昭和四十年二月。
(40)森戸は、会長として審議に異例の三年四カ月をかけ、「期待される人間像」を扱った第十九特別委員会報告と「後期中等教育のあり方」を扱った第二十特別委員会報告の一本化に苦労している。結果、「答申冒頭の「後期中等教育の理念」の中で「人間形成の目標としての人間像」の必要と意義と使途の大綱を記すとともに、答申の「別記」として「期待される人間像」の全文を掲載することとした。そして、中教審は、別記の期待される人間像が広く一般国民、とくに青少年の教育に従事する人々が人間像を追求しようとする場合、あるいは、政府が基本的な文教施策を検討する場合に、参考として利用されることを期待するのである」とのべている(森戸辰男『答申と教育再改革』昭和四一年十一月)。
(41)森戸辰男著『遍歴八十年』日本経済新聞社、昭和五一年、一〇〇頁。
(42)森戸は、能力開発研究所理事長でもあった。
(43)森戸にとってユネスコは、戦後日本が国際社会に復帰し、国際性を獲得する一つの階梯であると認識していた。森戸は、日本が平和国家となり、国際社会、具体的には強い期待を持っていた国際連合に参加することを期待していた。その際、森戸は、平和国家日本の平和主義を日本の独立を推し進めるものとして、また、観念的・抽象的なもの、孤立平和主義や絶対平和主義ではない現実的平和主義を提唱している。森戸は、現実的であるがゆえに集団安全保障の重要性を認識しつつ、国際連合の安全保障理事会における大国の拒否権を是正し、国際連合における漸進的な軍備縮少の必要性を主張している(森戸辰男著『国際連合と平和主義』日本国際連合協会、昭和二七年。これは、昭和二七年三月二十日の東京日比谷公会堂における日本国際連合協会・当該協会東京本部共催の平和条約締結記念講演会の速記に森戸自身が加筆したものである)。
(44)森戸辰男著『国際緊張とユネスコの立場』国際理解教育叢書、国際理解教育研究会、一九六二年。
(45)森戸辰男「原水爆と日本人」(一九六二年八月五日、NHK日曜解説原稿))。
(46)松下視聴覚教育研究財団所蔵。
(47)森戸辰男『人間形成と放送』松下視聴覚教育研究財団、昭和四九年。森戸は、教育改革と並行して教育方法の改善を考えていた。森戸辰男『放送教育の実践とその課題』松下視聴覚教育研究財団、昭和五十年二月。
(48)NHK学園創立十周年で森戸は、教育機会の拡大とともに、学生の質的変化からくる多様化についても言及している(校長森戸辰男「NHK学園創立十周年記念式典での講演」昭和四七年九月三十日)。
(49)森戸は、日本友釣同好会・全日本釣り団体協議会の名誉会長、日本釣振興会の顧問でもあった。
(50)森戸は「社会運動や社会政策の実践と研究をあやまりなくやっていくためには、窮極的な社会思想が必要である」「社会思想が空想に終わらないためには、現実を正しく見つめ、これを踏みしめて具体的な目標を立てていくことが必要である、ということでありました。そして、この現実への道を、すなわち前進的で平和的な制度改革の主な方途の一つを、広い意味での教育による新しい人間の形成に求めたのであります」、と述べている(森戸辰男『理想と現実』一九六五年一月、NHK放送「人生読本」同好会刊、五頁)。
(51)後年、森戸は、その人生の過程で反共色を強めつつある(森戸辰男『豹変する共産党ー叙勲祝賀会における追憶と所見ー』日本労働運動史研究会、昭和四九年)。
(52)森戸辰男著『民主主義の反省』IDE教育選書一七、一九五七年。森戸辰男著『民主国家の建設と人間形成』昭和四一年七月。
(53)森戸辰男「戦後の教育行政と教科書問題」『文部時報』昭和四三年七月。

(こいけ せいいち ・ 森戸文書研究会、広島大学助教授)