彰古館往来
             陸自三宿駐屯地・衛生学校
               <シリーズ82>
             北清事変と広島病院(5)
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 北清事変(1900)時に、廣島陸軍臨時病院で治療を受けた122名中、廣島陸軍臨時病院で亡くなられた将兵が5名います。
 これまでに、広島大学の原野昇教授が、広島に残る7基のフランス兵のお墓の調査を独自に進めており、防衛省防衛研究所図書館戦史史料閲覧室の膨大な陸軍公文書の中から、関係史料を発掘し、フランスにも赴いて子孫を探しています。
 また、彰古館の所蔵する治験記事には、死亡診断書も確認されています。
 広島に帰着した第1便は明治33年(1900)7月21日、宇品港内で砲創と赤痢によって2名が亡くなっています。残念ながらこの2名の史料は残っておりません。
 この日、サイゴン海兵第十一連隊のJ.Dorelラッパ手は、赤痢で重症のため、博愛丸に残留する予定でした。本人が他の者と同道することを強く望み、夕刻、涼しくなった頃を見計らって担架で搬送しましたが、翌朝4時、容態は悪化し、肝膿瘍で亡くなりました。
 アノイ第九海兵連隊軍曹J.Baurgeadeは、7月11日に天津で受傷しました。広島陸軍臨時病院での診断は、右腋下南部貫通銃創で赤痢も併発していました。
 腋下動脈の血管銃創であることが確認され、7月23日に手術の運びとなります。クロロホルム麻酔下で鎖骨下動脈の結紮を試みますが、ショック症状を呈し、4時間後に死亡しました。
 アノイ第九海兵連隊所属のJ.Lebean二等海兵は、負傷時の状況は不明ですが、8月6日の収容時には右側東部頭を始め、全身に及ぶ砲創ですでに危篤状態でした。15日に、全身衰弱、心臓麻痺で亡くなっています。
 赤痢による肝膿瘍で9月9日にはサイゴン第十一海兵連隊のF.Cohendy二等海兵が、9月19日には同じくF.Lelie'vre軍曹が心臓麻痺でこの世を去ったのです。
 帰還の念 祖国を遠く離れた、極東の異国に眠ることになったフランス兵に対して、広島陸軍臨時病院は、フランス式の立派な葬儀を挙行しており、彰古館には写真も残されています。
 本年6月20日、原野教授の調査で判明したF.Cohendyの子孫ジャクリーヌ・ジェルブ夫人と、無事にフランスに帰国を果たしたアントナン・ジャックマンの子孫アニー・シュロウカ夫人が、日仏交流150周年記念祝賀会で広島に招かれました。シュロウカ夫人は、ジャックマンが広島から送った沢山の手紙を、祖母から引き継いでおり、原野教授はフランスでそれらを確認していました。
 この会場で、彰古館所蔵のフランス負傷兵の写真が提示され、シュロウカ夫人は「これは私の祖父です」と一枚の写真を示したのでした。もし、広島で戦没していれば、この世に存在していなかったと、夫人は声を詰まらせました。
 子孫が見つかり、広島を来訪したこと、この場に当時の写真を提供できたこと、その中に祖父の姿を見出したこと、多くの人々の善意によって墓が守られて来たこと、種々の要素が絡み合い、この日の広島に集結した運命的な動きを感じます。
 彰古館は、歴史を保管するタイムカプセルなのかも知れません。

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