(アクサンが出ません。適宜補ってお読みください。)

『広島日仏協会報』No.165 (2004.10)

生まれ故郷に記念銘板

比治山墓地のフランス人兵士

原野 昇

比治山のフランス人墓地に眠る7人の兵士のうち2人の兵士の子孫が先頃見つかったが(『日仏協会報』162号参照),そのうちの1人Francois Cohendy氏の出身地エダAydat町では,このほど同氏を記念する銘板が設置された。同町内のルーイヤバRouillas-basという地区に戦没者記碑Monument aux Mortsがあり,第一次世界大戦(1914-1918,7人)および第二次世界大戦(1939-1945,6人)で亡くなった同町出身兵士の名前が刻まれている。しかし1900年の義和団の乱平定のために中国に派遣された部隊のことは何も書かれていなかった。そこでこの度の記念銘板設置にいたったわけである。その銘板には次のように書かれている。「中国派遣部隊のフランス人兵士および水兵,なかんずくAyadatで1870年2月2日に生まれ,1900年9月8日に負傷が原因で広島で死亡した,第11海兵連隊所属のFrancois COHENDYを記念して」。そしてその碑文の上部に,この銘板を設置した3つの団体名が書かれている。左に「Souvenir Francais協会」,右に「Aydat町」,そして中央に「広島日仏協会Societe Franco-japonaise de Hiroshima」の名前である。広島日仏協会はこの銘板設置に関し財政的援助など実質的な貢献は何もしていないが,忘れ去られていた同町出身で祖国フランスのために一命を捧げた兵士の記憶を喚起させ,しかも広島では手厚く葬られ,墓地が奉賛会の人びとの手できれいに保たれている事実から,すなわち今回の銘板設置のきっかけをつくった最大の功労者として,中央にその名前が刻まれたのである。

2004年6月19日にその記念銘板の除幕式が挙行されたが,広島日仏協会から原野専務理事が出席し,氏自身の手で除幕を行い,銘板の前に広島日仏協会からの花束を献花した。式典には地元出身の上院議員,町長,町会議員,Souvenir Francais協会(『広島日仏協会報』162号参照)ピュイ・ド・ドームPuy-de-Dome県支部長,退役軍人の会会長を始め,一般町民など多数が参加した。

式典後には,すぐ近くの公民館で祝い酒vin d'honneurが参加者にふるまわれた。それに続いて招待者のみによる昼食会が,近くのレストランを借り切って催された。この昼食会には約70人が参加していたが,多くは,Aydat町関係者,Souvenir Francais協会および退役軍人の会の主要なメンバーだったようである。午後1時ころから延々と4時半ころまで続いた。

昨2003 年8月に専務理事が同町を訪問し,子孫2人に町役場で会ったが,そのことが地元の新聞に掲載されたことがきっかけとなり,その記事を読んだ子孫がぞくぞくと名乗りをあげ,今年の式典および昼食会には,昨年より数人多い子孫が顔を揃えていた。

写真説明

001:戦没者記念碑

002:記念銘版と広島日仏協会から贈られた花束

003:記念銘版の碑文

SOUVENIR FRANCAIS    SOCIETE FRANCO-JAPONAISE DE HIROSHIMA   COMMUNE D'AYDAT

A LA MEMOIRE

Des Soldats et Marins Francois

du Corps Expeditionnaire de CHINE

Dont Francois COHENDY

du 11eme Regiment de Marine

Ne a Aydat le 02.02.1870

Decede a HIROSHIMA le 08.09.1900

Des suites de ses blessures

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