日本史学研究室の所蔵している史資料には、猪熊文書や浦池文書など2000点に及ぶ 中世文書、1万点に及ぶ村方文書、3000点を越える古典籍、1000点に近い標本資料などが あり、全国の研究者が利用しているほか、各地の史料展などにも出品されている。そのうちの一部を紹介する。

 

 

「続日本後記」写本 7冊20巻

 

 
「続日本後紀(しょくにほんこうき)」は、貞観11年(869)に朝廷が編纂した仁明天皇の即(天長10年《833》)からその死去(嘉祥3年《850》)までの間の出来事を記し歴史書。この時代は、古代律令国家が中国的な支配の方式の踏襲から脱皮して、日本的な代国家の仕組みを模索した時代で、政治・社会・文化のうえで大きな転換点と考えられて いる。 ただし、政府が編纂した原本は現存せず、早くから本文が書き写されてその内容が伝 えられてきた。本文が書き写された写本は、現在20の所蔵機関・大学などに約40点の存在が確認されている。
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毛利元就書状

 

 毛利元就が、椋木飛騨入道に対して、しばらくの間跡目を知行することを認めた安堵状である。これは、飛騨入道の子息神三郎が、永禄11年(1568)の筑前国立花城(現福岡県粕屋郡)の合戦において討ち死にした事による暫定措置である。この書状の封は捻封 (ひねりふう)であるが、このような文書形式を毛利氏領国では捻文(ひねりぶみ)とい い、内々の約束や暫定措置に際して用いられた。これは、形態・内容ともに典型的な捻文として貴重である。

 

 

 

 

長谷川忠実筆京都落首(「猪熊文書」特殊文書)

 

天正19年(1591)、長谷川実忠という人物が書きとめた京都における落首であ る。いずれも当時の庶民が、全国制覇を成し遂げた豊臣政権を痛烈に批判し皮肉ったものである。とりわけ秀吉が「木の下のさる関白」と呼ばれていたことなどは、当時の庶民が権力者 をどのように見ていたかを生々しく伝えており、世相を知るうえでも貴重な史料である。
 「猪熊文書」とは、古文書・古典籍の蒐集家であった猪熊信男氏(1882〜1963) が、京洛の古書店・競売会などにおいて入手した厖大な古文書群である。総数は1162点。内容も多岐にわたり、全国的に見て屈指の質・量を有する。

 

 

 

 

豊臣秀吉検地条目(「猪熊文書」特殊文書)

 

文禄2年(1593)、肥前国松浦郡の豊臣氏直轄領(波多氏旧領)において実施さ れた太閤検地の実施要領である。太閤検地は六尺三寸竿を用いたとするのが通説であるが、ここでは六尺二寸竿を 用いている点がとりわけ興味深い(第一条)。
  また、波多氏は松浦党最大の豪族であったが、豊臣政権はかつて波多氏の支配に あった海上勢力に対しても強固な支配を行ったことが知られる(第5条)。条目の原本が残っている例は少なく、実状に即した検地の実施過程を窺わせる貴 重な史料である。

 

 

 


「藝備土産圖譜」全3巻(帙入)

 

 本書は、元文2年(1737)11月に、広島藩浅野家が幕府へ提出した「御領分産物絵図」の控えであると考えられる。幕府から『庶物類纂(しょぶつるいさん)』の編纂を命じ られていた丹羽正伯は、享保20年(1735)、その参考資料という名目で諸藩に『産物帳』の 提出を命じた。
  本書は、その図版編『産物絵図帳』に相当する。『産物帳』は、当時の植生・生 態系や呼称などから地域性を探る恰好の素材であり、また博物学史の最重要史料である。

 特に『産物絵図帳』は、正伯の求めに応じて再提出されたものであり、『産物 帳』の内の > 珍種を描いたものとしてとりわけ貴重である。
  しかし、大規模な調査事業であったにもかかわらず提出後の正本群が行方不明と なったため、多くの謎が残されている。
  広島藩については、従来は岩瀬文庫、国立国会図書館などに残された3点の絵図 帳写が知られていたのみであり、原本に近い本書の価値はきわめて高い。装丁・料紙・顔料は いずれも良質で、絵図の完成度も高く、保存状態もきわめて良い。

 

 

 

写真A「日清戦争時の宇品港」

 

明治27(1894)日清戦争時の宇品港(広島市)を撮影したものである。兵士たちは、完成したばかりの山陽鉄道・軍用鉄道宇品線と乗りついで宇品港へ着き、ここから朝 鮮半島へ渡っていった。
  写真の中央に、出発する兵士たちが整然と並んでいるのがわかる。この写真は、 『広島県史』はじめ諸本に掲載されているが、その元となる貴重なものである。
  裏には「本写真保存ヲ認可ス 大正十年十一月十一日」として「広島港要塞司令 部」の印が押されている。軍事拠点を撮影したものだけに、のちのちまで軍の監視が厳重で あったことがうかがえる。

 

 

 

 

 

写真B「日清戦争時の帝国会議仮議事堂」

 

 当時の西練兵場のなか(現在の広島県庁付近)に建てられた、帝国会議仮議事堂 を撮影した貴重なものである。日清開戦の1ヵ月後、大本営が広島に移されて天皇も来広し、あわせて仮議事堂も建設され、広島は臨時の首都となった。

 帝国議会開設からこの年の春まで、政府と議会(衆議院)は激しく対立していた が、この仮議事堂で開かれた第七(臨時)会議では、伊藤博文内閣が提出する軍事予算など政府原案をことごとく満場一致で可決するという歴史的転換を迎えたのである。

 

 

 

 

  史料を丹念に読む堅実な日本史学研究室の学風は、全国の日本史研究者に定評のあるところである。日本史の研究は、決して「暗記」することなどではなく、こうした確実 な史料との対話の中から、自分自身と現代社会の関わりを踏まえた確かな視点でもって地域性や時代性を客観的に解き明かしていく営みに他ならない。

 

     
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