映画「怒りのぶどう」を読む

 

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 J・フォード監督によって1940年に製作された映画「怒りのぶどう」は、その前年1939年に発表されたJ・スタインベックの小説『怒りのぶどう』を比較的忠実に映画化したものである。後年、スタインベックはノーベル文学賞を受賞したし、映画「怒りのぶどう」も「名画」としての評価が定まっている。実際、この映画は比較的大きなビデオレンタル店の名画コーナーにはたいてい置いてあるし、TVでも深夜に時折放映されたりする。この映画を、人間と自然との関わりという観点から、あらためて「見る」あるいは「読む」というのが、本章の課題である。

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 映画「怒りのぶどう」の冒頭、次のような字幕スーパーによって物語の背景が簡潔に説明される。

 

  アメリカ中部に砂嵐地帯(Dust Bowl)と呼ぶ乾燥地がある。この乾燥と貧困が多くの農民の生活を不能にした。これは自然の猛威経済変動に土地を追われ、安住の地と新しい家を求めて長い旅に出る農民一家の物語である。

 

 若き日のH・フォンダ演ずる主人公トム・ジョードが刑務所を仮出所し、実家に帰るところから映画は始まる。トムが便乗したトラック運転手との会話から、トムの家族は40エーカーの小作農であることが分かる。トラックを降りたトムは元説教師で今は浮浪者になっているケーシーと出会って行動を共にすることになる。折からの砂嵐の中、トムたちは家にたどり着くが、家には誰もいない。トムの留守中、一体何があったのだろうか? 途方に暮れるトムたちの前に近在の農民ミュリーが現れ、事情を次のように説明する。

 彼によると、この地の小作農たちは、干ばつとそれに引き続く大砂塵、そして1台で小作農14〜15戸分もの働きをする「キャッツ」(キャタピラーを備えたトラクターやブルトーザーの総称)などの大型農業機械のために農地を追われ、新しい仕事と土地を求めて次々にカリフォルニアへ向けて移動しつつあるという。ミュリー一家も旅に出たのだが、老齢のミュリーは「自分の」土地にこだわって、居残っていたのである。

 同様に、ジョード一家も土地を追われ、新天地カリフォルニアを目指す旅に備えてジョン叔父の家に集結していたのだった。家財道具一式を売り払って200ドルを得た一家は、おんぼろトラックを購入し、それに必要最小限のもの一切合切を詰め込んでカリフォルニアに向けて出発しようとしていたのである。出発を前にして、母親が思い出の品々を整理しながら、家族が今よりもずっと幸せだった時代や自分が若かった日々を回想するシーンは、背景に流れる音楽とともに、とても印象的で、この映画の中で筆者が最も好きなシーンの一つである。

 さて、トムが加わって家族は12人、それに元説教師ケーシーの計13人。これらの数字は、キリストと12使徒を思わせるし、新天地を目指しての長い旅路は、旧約聖書「出エジプト記」の物語、すなわち、指導者モーゼに率いられて、「乳と蜜の流れる約束の地」を目指すイスラエルの民の長い旅路を髣髴とさせる。

 出発の朝、「自分の土地に残る」と駄々をこねた祖父は、出発間もなく衰弱死する。葬式をする費用のない一家は、死者を道ばたに埋葬せざるをえない。しかし、カリフォルニアは遥かに遠く困難な旅はまだまだ続く。

 ジョード一家は、おんぼろトラックで国道66号線を西に向かってひた走り「約束の地」カリフォルニアを目指す。途中、スナック(軽食堂)で温かい人情に触れたりもするが、貧しい「砂嵐難民」−−ジョード一家がそうであったように、オクラホマ州出身者の人々が多かったので、彼らはしばしば軽蔑的なニュアンスを込めて「オーキー」と呼ばれた−−に対する人々の態度は決して好意的とはいえない。旅の途中、祖父に続いて、祖母が亡くなり、(映画でははっきり描かれてはいないが)長男ノアも一家を離れる。

 多大の犠牲を払ってようやくたどり着いたカリフォルニアだったが、彼ら難民たちは、郊外のキャンプに「収容」されることになっていた。そこには貧しいジョード一家さえもが唖然とするような飢えと貧困が溢れていた。一家は、「カリフォルニアに行けば何とかなる」という希望を木っ端みじんに打ち砕かれたわけである。実際、このシーンは「世界一豊かなアメリカ」というイメージを強く埋め込まれているわれわれにとってもショッキングである。

 トムは、このキャンプでもめ事に巻き込まれそうになり、元説教師ケーシーはトムの身代わりとして逮捕されてしまう。また、トムの妹ローザシャーンの夫コニーも妻とその一家を捨てて行方しれずになってしまう。自らすすんで罪を引き受けるケーシーはキリストの、また、身重の妻とその家族を捨てたコニーには裏切り者ユダのイメージが重なる。先にも指摘したように、映画「怒りのぶどう」は、原作以上に、聖書的な隠喩が多用されているといえよう。

 さて、一家はこのキャンプを早々に退散することになる。大量の砂嵐難民の流入によって、労働賃金の低下と治安の悪化などを恐れる街の人々によってキャンプが襲撃されるとの情報をつかんだからである。辛くもキャンプから逃げだしたものの、持ち金をほとんど使い果たし疲労困憊した一家は、ある農場に行けば仕事があるとの話しに飛びついてその農場に行く。しかし、そこは賃金をめぐって争議中だった。この争議の指導者になっていた元説教師は農場の暴力団的な警備員たちに撲殺される。その際、トムはとっさに反撃して相手を殺してしまう。当然、トムに追手がかかるが、一家は無事農場を抜けだし、偶然見つけた連邦政府の農商務省が設置した国営農場で初めて人間並みの扱いをうけることになる。

 映画を見る者も、ここで初めて、ジョード一家とともに、人心地つくことができる。土曜日のダンス集会に言いがかりをつけて国営農場に乱入しようしていた地元警察のたくらみを農場の人々が一致団結して粉砕する場面や、トムが母親と楽しげにダンスをする場面は、思わず拍手をしたくなるほどである。

 しかし、ここにも官憲の追及が及んだのを知ったトムは一家と離れることを決意する。ケーシーとの出会いや長い苦難の旅を通じて、社会的不正義に目覚めるとともに人間的に大きく成長したトムは、母と別離の会話を交して、一人旅に出るのであった。

 観客は、トムとその一家の将来に、不安と希望が相半ばする気持ちでエンド・マークを見ることになるわけである。

 

 さて、冒頭の字幕に言うところの「自然の猛威」と「経済変動」についてあらためて考えてみよう。

 「経済変動」とは、1929年に始まる大不況を通じてさらに進行した、アメリカにおける資本主義的な経済システムの徹底深化である。その結果、農業経営のあり方も大きく変化した。すなわち、比較的小規模の土地を労働集約的に耕作する農業から、広大な土地をブルドーザーやトラクターなどの大型農業機械を駆使して耕作する資本集約的な農業への変化が急速に進行したのである。一言で言うなら、農業の資本主義化である。

 機械化と土地の集約化を伴いながら進行する農業の資本主義化は、当然にも小農や小作農を零落させ、彼らを土地から追い立てる。ミュリー一家のぼろ家がブトーザーに押しつぶされるシーンは、映画「怒りのぶどう」の中でも最も悲惨で胸が痛む場面の一つであるが、実際、1930年代、ミュリー一家だけでなく、数多くの貧しい小農や小作農たちが長年耕してきた土地を奪われ、移動農業労働者としての苦難の生活を強いられたのである。彼らを追い出したのは誰か? 直接、家を押しつぶしたのはブルトーザーとその運転手(皮肉にも元農民)だが、もちろん、運転手の背後には彼を雇っている「会社」があり、さらにその背後には会社に金を貸している金融資本、すなわち「銀行」がある。

 貧しい人々に対する熱い共感と、貧しい人々を生みだし、彼らを貧しさの中に押し止めておこうとする、容赦の無い資本主義経済というシステムに対する憤りは、「怒りのぶどう」の原作者スタインベックと映画監督ジョン・フォードによって共有されており、同時に、多くの読者や観客にも共有されるだろう。

 しかし、生態学の立場から、あるいは自然と人間との共生という視点から、ジョード一家の物語を見直してみると、別の問題が浮かび上がってくるのである。

 農民たちを土地から追い立てたもう一つの原因である大砂塵は果たして単なる「自然の猛威」だったのだろうか、という問題である。干ばつとそれに続く大砂塵は、それ自体としては確かに天災であり、その意味では「自然の猛威」としか言いようがない。しかし、大砂塵に最も激しく見舞われた地域がオクラホマ州やカンザス州を中心にした、アメリカ中部の大草原地帯であったことを考えると単に天災とばかりは言えない側面が浮かび上がってくるのである。というのも、この地域は、そもそも年間を通じて降水量が少なく、その意味では耕作には適さない土地だったのである。この地域の土壌・気温・降水量などに最もふさわしい植生(生態学では「極相」 と呼ぶ)は背の高くない草であり、それゆえ大草原が拡がっていたのである。作家ローラ・インガルスが『大草原の小さな家』で描いているように、19世紀から20世紀にかけて、多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民が草原地帯に入植し、開墾して耕作を開始したのだった。このような努力は、一時的にはアメリカの農業生産力を高め、特に第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパの穀物倉庫として多大の利益を挙げた。しかし、この地域の開墾は、生態学的にみれば、安定した状態にあった極相の破壊、あるいは生態系の破壊を意味していた。

 そして、本来、耕作に適さず、むしろ草原を利用した牧畜に向いている土地を強引に耕作地にしたツケは、いつかは払わねばならない。耕作によって表面を覆っていた草を失い、露出した土地は、この地方をしばしば襲う干ばつによって乾燥し、1930年代、折からの強風によって砂塵となって舞い上がったのであった。ツケの支払いは高いものについたのである。

 そのように考えると、痩せた土地を、多大のエネルギーを使って開墾し、努力の割には多くを報われず、挙げ句の果ては、農業の資本主義化に取り残され、土地を追われたジョード一家のような開拓農民たちには、まことに残酷な言い方になるが、大砂塵は、まさに開拓の結果として起こった人災とさえ言えなくもないのである。

 「怒りのぶどう」の原作が書かれ、映画が製作された1930年代〜40年代当時は、このような生態学的な知識は十分には知られていなかったために、大砂塵は単に「自然の猛威」と考えられ、原作者や映画制作者の関心は、もっぱら社会経済システムの問題とその告発に向かったのであった。しかし、現代の観客ないし読者は、この物語の中に、資本主義経済の矛盾と同時に、人間の営みと自然環境との危うい関係ないし矛盾をも読みとらねばならないだろう。

 映画「怒りのぶどう」を読む、とはそういう意味である。

 

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コラム なぜ「怒りのぶどう」なのか?

 スタインベックは原作『怒りのぶどう』第25章で、カリフォルニアに大量の果実や穀物が実っているのに、そして一方には飢えた人々が多くいるのに、それらの果実や穀物が収穫されず、むざむざと腐れ果てていく様子を描いている。なぜ、こういうことが起こるのか? 大農園・大資本による果実の価格操作と農業労働者に対する賃金操作の結果なのである。かくて、富めるものは一層豊かになって土地と資本を増やしていくが、貧しいものは一層貧しくなり、わずかに持っていた農地までも失ってしまう。しかし、貧しいものたちが、いつまでもこの状況を我慢しているわけではない。

 

  人びとの目の中には、失敗の色がうかび、飢えた人びとの目の中にはしだいにわきあがる激怒の色がある。人びとの魂の中には、怒りのブドウが、しだいに満ちて、おびただしく実っていく。収穫のときをめざして、しだいにおびただしく実っていくのだ。(邦訳『怒りのブドウ』407頁)

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もっと知りたい人へ(参考文献)

J・スタインベック『怒りのぶどう』石一郎訳、河出書房新社、1962.

D・オースター『ネイチャーズ・エコノミー:エコロジー思想史』中山茂・成定薫・吉田忠訳、リブロポート、1987(特に第12章「鋤で耕せば砂埃」参照).

東理夫『ルート66:アメリカ・マザーロードの歴史と旅』丸善ライブラリー、1997.


市川浩・小島基・佐藤高晴・品川哲彦(共編)『科学技術と環境(21世紀の教養 1)』(培風館,1999年), pp.29-34.