情報化社会の進展と知の変容


一 二つの文化論からモード論へ

 

二つの文化論とパラダイム論

 一九五九年、イギリスの著作家C・P・スノーは「二つの文化と科学革命」と題された講演で、科学革命----二○世紀前半における科学技術の発展をスノーは「科学革命」と呼んだ----の結果、西欧の知識人社会に大きな亀裂が生じつつあると論じた。すなわち、スノーは人文的文化(その代表としての文学者)と科学的文化(その代表としての物理学者)の間には越えがたい亀裂=溝があり、両者は互いに理解しあうことができず、言葉さえ通じなくなってしまっていると論じ、これは西欧文化における危機だと警鐘を鳴らしたのである(1)。スノー自身、物理学者としての経験をもつ評論家・小説家という特異なキャリアの持ち主であり、文化の分裂に深刻な懸念を抱いたのであった。文化の分裂という危機に対するスノーの処方箋は、科学革命という現実を踏まえて、文系知識人が科学技術に対する基本的な認識と理解をもつよう努力すべきではないか、というものであった。

 スノーの講演の数年後、クーンの『科学革命の構造』が出版された(一九六二年)。物理学者から科学史家に転じたクーンは、科学研究は「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与える」パラダイム(paradigm)を基盤に遂行されると論じ、科学の歴史を「パラダイム・チェンジ=科学革命」の歴史と捉えた(2)。クーンの科学論は従来の累積的・連続的な科学史観を根底からくつがえすとともに、自然科学(の各専門分野)には明確なパラダイムがあるが、人文・社会科学にはパラダイムがみてとれないと論じて、自然科学と人文・社会科学の差異を浮き彫りにしたのである。「二つの文化」の存在を科学論の立場から裏付けたともいえる。

 学問は二つ(文系と理系)に分断されているだけではない。学問の高度専門化に伴って、文系と理系それぞれの内部で際限のない専門細分化が進行していった。アカデミズム科学の発展は、知識社会に「二つの文化」を、さらには「百の文化」を作り出したのである。

 

大学紛争とその後

 その一方、一九六○年代末、世界的規模で生じたいわゆる大学紛争は、大学のもつ知的権威を根底から揺るがした。大学紛争の原因や背景はもちろん一様ではなかったが、世界的に共通した要因として、専門細分化した学問研究とそれに埋没している学者研究者に対する批判があった。山積している社会的に重要な問題に有効に対処できない大学の学問に対する苛立ちが大学紛争というかたちで噴出したのである(3)。裏返せば、大学とその学問に対する強い期待の表明でもあった。欧米の大学では、大学紛争を契機に、大学運営に学生の参加を認めたり、女性やマイノリティに配慮したカリキュラムが設けられるなど一定の制度的改革がなされたようである。しかし、我が国にあっては、大学紛争は見るべき成果を挙げることがないまま終結し、徒労感だけが残った。急速に大学改革のエネルギーは衰退していき、大学および大学人に対する期待は急速に消失した。そして、国家財政の逼迫を理由に、一九七○年代以降、長年にわたって、国立大学に対する予算は極力抑えられた(4)。当然のことながら、大学は財政的困難に直面した(5)。一九六○年代中葉に我が国の大学教育がマス段階(大学・高等教育進学者が十八歳人口の十五%を越える)に達し、これ以降、「教養主義」が急速に没落したという指摘もある(6)

 これらのことが相まって、大学紛争後、特に我が国にあっては、知識生産の場としての大学の優位性、それに伴う大学人の特権性は急速に失われていった。大学人およびアカデミズムの権威が失墜したのである。実際、一九八○年代末から九○年代初頭にかけて、大学の研究教育環境の劣化は深刻化し、ついにはマスコミの取り上げるところとなった。例えば、週刊誌『アエラ』は「頭脳の棺桶、国立大学」という衝撃的なタイトルで国立大学の理工系研究室の惨状を報道した(7)。時を同じくして、一九九一年には、大学設置基準の大綱化というかたちで、文部省による大学政策にも大幅な見直しがなされ、個々の大学の裁量と自主性を尊重するという名目のもとに大学の多様化・差別化が目指されるようになった。

 

ネットワーク社会の登場

 一方、この間、大学を取り巻く一般社会は大きく変貌を遂げた。大衆化した大学・高等教育から送り出された多くの人材が社会の各方面に配置され、それに伴って、官庁・企業・民間団体などさまざまな場所に知的資源がストックされるようになった。そこに一九八○年代後半以降急速に進行し、現在もなお急展開しつつある情報化・コンピュータ化が到来した。かくて、さまざまな場所にストックされた知識や情報がコンピュータ・ネットワークを通じて流通し始めた。その結果、多くの人々が知識や情報にアクセスしやすくなった。さらに、知識を生産する、あるいは加工するということも従来よりはずっと容易になった。コンピュータ・ネットワークを通じて得られる資料やデータを駆使して文章を書き、それらを論文や書物として出版することが可能になったのである。出版という形をとらなくてもコンピューター・ネットワークで流すことも出来る。

 アカデミズムの権威の失墜と情報化社会の進展が相まって、知識や情報を生産・ストックするセクターとして「産・官・学・民」の四つを想定した場合、学(大学)以外の三つのセクター(企業、官庁、民間)の比重が相対的に大きくなった(8)。知識や情報が大衆化したとも言える。

 

知のモード論

 このような事態を「大学の地位の低下」といった観点から慨嘆するのではなく、むしろ積極的に評価しようとする議論がある。現在起こりつつある事態を、知識生産の様式(モード)の根本的な変化と捉える視点である。

 M・ギボンズらは、従来の知識生産の様式を「モード1」と呼ぶ(9)。モード1とは、概ね、大学を中心としたアカデミズム科学的な研究のあり方、知識生産のモードである。パラダイムを共有する科学者による、科学者のための研究であり、学問のための学問とも言える。したがって、知識生産は、もっぱら大学人の専売特許となっていた。また、大学人は、自ら生産した知識が、役に立つか立たないかについて、無頓着であった(あるいは無頓着を装っていた)。知識の生産の場としての大学は、外部に対して閉じていた。「象牙の塔」にたてこもって、専門細分化した研究に勤しむ、というのが典型的な研究スタイルであった。その行き過ぎが、批判の対象となり大学紛争の引き金になったことは前述した通りである。

 しかし、研究テーマが、社会の要請に応じる形で、例えば、地球環境問題といった広範で具体的なものになれば、研究は、当然にも、学際的・総合的にならざるを得ない。そこでは明確なパラダイムはないし、「パズル解き」的な研究では対応できない。換言すれば、固有の専門家もディシプリン(専門分野)も存在しない。同時に、科学者は、研究テーマを設定しそれを遂行するにあたって、研究費を直接負担しているスポンサーに対して、あるいは広く社会一般に対して、自らの研究の意義とその成果に「説明責任」(accountability)を課されるようになってきた。また、こういった研究の遂行にあたって、大学・企業・官庁の研究者相互の、さらには一般市民との協力が必要となってきたが、実際、コンピュータ・ネットワークを通じて協力が可能な条件が整ってきた。かくて、大学における科学研究は、外部に対して開かれつつある。このような研究や知識生産のあり方が「モード2」と呼ばれるのである。

 ギボンズらの議論に即してモード1とモード2を対比してみると次のように整理することができる(表1)。

モード

目的・対象

担い手

問題の設定

方法

技能と経験

組織

社会との関係

モード1

科学science

科学者

学会

ディシプリナリ

均質的

階層的・永続的

自由と孤独

モード2

知識knowledge

実践家

市場

トランス・ディシプリナリ

非均質的

非階層的・一時的

説明責任

表1 モード1とモード2の比較

 

ネットワークの結節点としての大学

 知識生産のモード1と2は、互いに排除し合うものではなく、むしろ互いに競合あるいは補完し合うものだと考えられる。とはいえ、モード2の登場は、モード1の拠点であった大学の機能とイメージを変容させたことは確かである。もはや、大学は「象牙の塔」に閉じこもり、「大学の自由と孤独」を主張し、「学問のための学問」に埋没することはできなくなったのである。この事態を大学の地位の低下とみることもできるし、実際、そのような側面があるのは確かだが、観点を変えれば、モード2的な知識生産が大きな比重を占めるようになった現状の中で、大学がその機能を変えた、あるいは変えつつあるとみるべきであろう。すなわち、大学は、大学以外の知識生産拠点と積極的に連携することによって活路を見出そうとしているのである。好むと好まざるとにかかわらず、研究費の面からも人材や情報の交流の面からも、この方向は不可避であろう。そして、現在のあるいは近い将来の大学は、かつての象牙の塔とは異なって、コンピュータ・ネットワークの結節点として機能し、知識の生産・蓄積そして継承に重要な役割を担っているといえるし、そこにしか大学が生き延びる道はないだろう。

 とはいえ、大学がネットワークの結節点となるということは、大学が「大学資本主義」(Academic Capitalism)を志向して、企業社会に飲み込まれることではないし、また、あってはなるまい(10)。そうなってしまえば、大学はユニークな結節点として機能することはできないだろう。

 スノーは科学革命が文化に亀裂を生じさせたと憂慮したが、コンピュータ革命は、学問と知識社会に生じた亀裂を乗り越えて、総合的・学際的な学問研究の実践を可能にしてくれるかもしれない。そのような実践が数多く積み重ねられることによって、二つどころか百にも二百にも分裂した文化が再び一つに統合されることも夢ではあるまい。

 

二 科学研究のスタイル

科学コミュニケーション

 コンピュータ革命は知識生産のモードを変革し、伝統的に知識生産を独占してきた大学の役割と機能を変化させただけでなく、研究者間のコミュニケーションの形態を変容させつつある。専門分野によって多少のばらつきはあるが、従来の郵便、電話を主としたコミュニケーションからEメールによるコミュニケーションへと急速に転換しつつある。また、近年、雑誌論文そのものが電子化されて直接インターネットを通じて、「オンライン・ジャーナル」として「出版」されつつある(11)。当面は、従来の印刷物も併せて提供される場合が多いようだが、オンライン・ジャーナルがさらに一般化すれば、論文を検索し、必要な論文・資料・データを引き出し参照した上で、自らの知見を加えて論文を執筆・投稿するという一連の作業が、ネットワークに接続されたコンピュータ端末を通じて行うことが可能になるであろう。実際、すでにかなりの数の研究者が、そのようにして論文を「読み」、「執筆し」、「発表」していると思われる。このような事態が一般化して、研究成果の公表ということには、必ずしも雑誌論文の印刷を含まなくてもよいということになれば、十七世紀の科学者たちが案出した、研究業績の雑誌論文による公表とそれを通じての先取権(第一発見者の権利)の確保という三百年以上続いた科学の伝統が大きくかつ急速に変化する可能性がある (12)

 実は、このような状況は、コンピュータ革命以前から、徐々に進行しつつあった。複写技術の発達・普及(いわゆる複写=ゼロックス革命)によるプレプリントによる情報交換あるいは研究成果の公表という事態である。すなわち、かつて科学者たちは、必要な文献・資料を手書きで、あるいは写真機で写し取っていたものだが、複写機の開発とその急速な普及によって、状況は一変した。複写機は、当初、もっぱら文献資料の収集に用いられていたが、一部の研究分野では、研究成果発表の手段としても用いられ始めた。すなわち、科学者の最新のアイデアや研究成果が、インフォーマルな会話や会合で発表された後(あるいは発表に先立って)、初期はタイプライターで後にはワープロで清書され、しかるべき部数が複写されて、関係者に直接配布されるようになったのである。プレプリントによる研究成果の公表というやり方は、迅速な情報交換とともに、先取権の確保を意図したものである。しかし、プレプリントには、雑誌論文の場合には必須のピア・レビュー(専門仲間による業績の評価)というプロセスが欠如しているので、内容的な検討が不十分のまま、配布されるものも少なくなく、論文の質の維持という面では問題があった。また、そのようにして(仮に)確保された先取権についても問題が生じる余地があった。

 コンピュータ革命の結果、科学者がインターネットを通じて仕事をするようになると、プレプリントを作成する必要はなくなりつつある。プレプリントを配布する代わりに、自分のホームページに研究成果を公表しておけばよいからである。あるいはEメールに論文のファイルを添付して関係者に送りつければよいからである。現にそのようにしている科学者は数多くいるだろうし、それほど遠くない将来、大多数の科学者がそのようにすることが予測される。印刷に要する時間的および経済的コストが一切不要になるからである。実際、理論物理学の分野を中心に普及しつつあるE-print Archiveというシステムでは、著者(研究者)自らが論文を電子的に登録し、それを他の研究者が自由に利用できるようになっている(13)

 

先取権と報奨システム

 しかし、その場合、プレプリントについて指摘された問題点は、より一層広範かつ深刻にならざるを得ない。紙に印刷されたものとは異なって、インターネット上の論文は、たとえピア・レビューを受けたものであっても、容易に書き換えることができるからである。いつでも自由に書き換えることのできる論文に、信頼性や安定性を期待することはできない。もちろん、出版社や学会が作成し管理するオンライン・ジャーナルやホームページに収録されている論文については、書き換えを防ぐための技術的な手だては講ぜられるだろう。とはいえ、論文のテクストやデータに対する信頼性や安定性には危惧がつきまとい、また、先取権の認定も混迷する可能性があるし、知的所有権(著作権)の保護管理についてもこれまでとは違った困難や問題点が生じてくるだろう(14)

 ただ、このような困難や問題点を否定的にのみ捉えることもあるまい。むしろ、知識の公共性・公有制という観点から見たとき、これまで先取権や著作権にこだわりすぎていた、あるいは、それらを過大に評価していたのではないか、と考えることもできなくはないからである。経済的な意義の大きい知識や情報などは別にして、インターネット上で公開されているような一般的・学術的な論文に関しては、知的公共財産とみなして、先取権や知的所有権について、これまでよりも緩やかに考えてもよいのではないか。また、実際上、そのように考えざるを得なくなりつつあるのではないか(15)

 知識生産に関するモード論に即して言うなら、独創性や先取権の認定に重きをおいた報奨システムや、ピア・レビューによる品質管理システムは、モード1的な知識生産には有効であったかもしれないが、コンピュータ革命の結果次第に有力になりつつあるモード2的な知識生産には、うまく適合しないのである。したがって、モード2的な知識生産を促し、また、それを健全に保っていくためには、新しい報奨システムや品質管理システムが模索され、案出されなねばならないといえよう。

 以上の議論を次のようにまとめることができよう(表2)。

 

種類

コスト(時間)

コスト(費用)

信頼性

安定性

写本時代

印刷革命(単行本)

印刷革命(雑誌)

複写革命(プレプリント)

コンピュータ革命(インターネット)

表2 科学におけるコミュニケーションの変遷と特徴(16)

 

三 インターネット時代の図書館と文学館

電子図書館

 アメリカの文明批評家T・ローザックは、コンピュータや情報化社会に対する盲目的な崇拝を痛烈に批判しつつも、図書館はコンピューター化が遅れていると指摘し、一般市民が有用な情報に的確かつ迅速にアクセスするために、図書館の急速なコンピュータ化が望まれると提案した(17)。しかし、ローザックが論じた図書館のコンピュータ化とは、図書・文献目録の電子化、その結果としての検索のコンピュータ化、せいぜいデータベースの利用ということだった。しかし近年では、前述のオンライン・ジャーナルなど電子出版が盛んになるとともに、電子図書館構想が盛んに議論されるようになってきた(18)

 電子図書館とは、図書館が所蔵している、書物そのもの、資料そのものを全部まるごと電子化し、それらの電子化された書物や資料をインターネットを通じて提供する、というものである。コンピュータの性能の向上とインターネットの登場が、電子図書館というアイデアを夢物語から実現可能なプロジェクトに変えたのである。

既存の図書館と電子図書館を対比してみると次のようになるだろう(表3)。

既存の図書館

電子図書館

イメージ

知識・情報の貯蔵庫

自律的な単位としての場所/空間

見えざる図書館(仮想図書館)

グローバルな拡がりを持ったネットワーク(WWWなど)の結節点

所蔵資料

文書(写本・図書・雑誌)

参考図書(データベース)

静止画(写真・絵画・地図)

映像・音声資料

ハイパーテキスト化されたコンテンツ(左記の資料をすべて含み、相互に参照可能)

サービス

保存・管理

貸出/レファレンス

読書・研究空間の提供

資料のデジタル化と管理(国内外に向けた情報発信・資料提供が可能)

スタッフの増強及び再教育が必要

オンラインでのレファレンスとコンテンツの提供

読書・学習・研究支援(例:音声朗読/辞書・翻訳)の可能性

特徴と問題点

利用が簡単(設備不要)

サービスは無料

利用のための時間的空間的制約あり

所蔵資料の保護管理が容易

資料の重複(ある程度)

資料所蔵スペースに限界

利用のためには端末(コンピュータ)と大容量高速回線が必要

莫大な設備投資とその維持管理が必要(機器更新も不可避)

サービスは無料?(著者・出版社などコンテンツ提供者との調整)

利用のための時間的・空間的制約なし

研究室・自宅からの利用可能(身障者にとっても利用しやすい)

デジタル化されたコンテンツは利用者によって時湯に(勝手に)加工され流通する可能性(危険性)がある

資料の重複を回避できる

スペース・メリットが大きい

サーバーと回線の容量に限界?

表3 既存の図書館と電子図書館

 また、表3から帰結する電子図書館のメリットを特記すると以下のようになる。

 

一 貴重資料の保存と有効活用が可能となる----電子化によって貴重資料の死蔵を避けることができる。

二 資料保存スペースを大幅に節約することができる。

三 利用がきわめて便利になる----利用者は、必要とする書物や資料に、端末を通じて、図書館内はもとより、どこからでも、いつでも、しかも瞬時に、アクセスし利用することができる。また、複数の利用者による同時利用も可能となる。

四 新しい「読書」形態やサービスが可能となる----資料の電子化によって、資料をマルチメディア化あるいはハイパーテキスト化することが可能となり、新しい「読書」形態が実現できるだろう。また、辞書・翻訳・朗読機能およびEメールなどを併用することによって、読書や学習活動を多様でインタラクティヴ(双方向的)ものにすることができるし、情報の利用・発信を促すこともできる。

 

 実際、フランスでも国立の電子図書館が建設されたし(19)、周知のように、我が国の国会図書館の関西館も電子図書館として建設された(20)。また、学術審議会の建議「大学図書館における電子図書館的機能の充実・強化」(一九九六年)を受けて、我が国の多くの大学図書館が電子図書館的機能の充実に向けて動き出している多くの大学図書館も電子図書館的機能を強化しつつある。

 筆者の見聞した事例を挙げると、奈良先端科学技術大学院大学は、設立当初からデジタルライブラリーの構築を目指しており、購入・所蔵している雑誌の電子化に取り組んでいる。すなわち、電子化された形で販売されている雑誌(オンライン・ジャーナル)はもとより、電子化されていない雑誌についても、雑誌が到着すると、すぐスキャナーで読み取って電子化し、到着の数日後には、各研究室の端末から「読める」ようにするという作業が進められている(21)。雑誌以外についても、学位論文など、多くの資料が、一日数千ページの規模で電子化されて、サーバーに蓄積されつつある。もっとも、著作権の問題があるため、せっかく電子化した情報も、奈良先端科学技術大学院大学の端末からしか見ることは出来ない(目次レベルまでは学外からも見ることができる)。

 既存の大学図書館でも、同様の動きがあり、例えば、大阪市立大学では旧来の大学図書館が廃され、多額の費用をかけて新設された学術情報総合センターの中に、従来の図書館的機能が包含された(22)。これらの例にみられるように、電子情報化に熱心であることをアピールする大学は図書館を廃止して、総合情報センターであったり、学術情報総合センターであったり、名称はさまざまだが、そういう所に図書館機能を組み込むということが行われている。

 

電子文学館

 国公立図書館や大学図書館とは別に、民間でも電子図書館につながる試みがある。この種の試みとしてよく知られているのは、M・ハートの提唱によって、一九七一年から始まった「グーテンベルク・プロジェクト」である(23)。プロジェクト開始以来、三○年以上にわたって、児童文学、一般の文学作品、参考書籍などを中心に著作権の切れた書物の電子化をすすめている。同様の試みとして、我が国でも「青空文庫」というプロジェクトが展開されており、著作権の消失した日本文学の作品が多数収録されている(24)。両プロジェクトとも、書物・文献の電子化作業は、民間有志の手で行われている。

 筆者自身も、原爆文学を中心とした広島の文学資料を保全し、公開し、研究するための文学館設立運動の一環としてインターネット上に「広島文学館」を構築する作業に従事している(25)。「広島文学館」のコンテンツとしては、「広島に文学館を!市民の会」など広島で文学運動を進めている民間組織の詳細な活動記録、二○○一年夏に開催した「原爆文学展 五人のヒロシマ」の記録、さらに「文学資料データベース」などがある。マンパワーが限られていることもあって、収録・掲載している文学資料は少ないが、原民喜の「原爆被災時のノート」、峠三吉『原爆詩集』の「序詩」(ちちをかえせ ははをかえせ……)の成立をめぐる論考などを読むことができる。また、栗原貞子の詩「生ましめんかな」をはじめ、現在、広島で活躍している詩人たちの作品も読むことが出来る。

 「広島文学館」プロジェクトは民間有志によるささやかな試みにすぎないが、最近、「ネットミュージアム兵庫文学館」が「開館」した(26)。この文学館は兵庫県が約五千万円の費用をかけて開設したとのことで、さすがにコンテンツは充実している。音が出るし、画像も豊富で動画もある。

以上のようなさまざまなプロジェクトを通じて、ある意味では、電子図書館(電子文学館)はすでに実現されているとも言えるし、目下、急速に整備されつつあると言うこともできる。

 

電子図書館批判

 もっとも、電子図書館について、批判がないわけではない。たとえば、天文学者でコンピュータの専門家でもあるC・ストールは、その著書の中で、電子図書館などとというものが、本当に役に立つのだろうか、そもそも、必要なのだろうかと疑問を投げかけている(27)。ストールは、例えば、グーテンベルク・プロジェクトについて、次のように批判している。なるほど、多くの書物を、好きなときに無料でインターネットで読むことができるというといかにも画期的なようだが、それらは著作権の切れた古い書物ばかりである。一方で、毎年何万冊、何十万冊という本が出版されている。結局のところ、全体から見ればごく一部が電子化されるにすぎない。もしこのプロジェクトがうまくいったとしても、どれ程のインパクトをもつだろうか。電子図書館というのは、本当にそれによって我々の文化的な世界、知的な空間が画期的に変わってしまうほどのものであろうか。確かに、電子図書館に対する期待ないし需要もあるが、それに費やされる膨大なコスト(予算、スタッフ、手間)に値するものであろうか。彼の書物の邦訳題になぞらえるなら、「電子図書館はからっぽの洞窟」ではないか、というわけである。むしろ、もともと多くはない図書館の予算や職員が、電子情報化に向けられ、その結果、図書館の本来的機能が失われてしまう、そんな危機的な状況に我々は今直面しているのではないか、とさえストールは指摘している。

 

利用権と著作権

 電子図書館が、作家ボルヘスの描いた「バベルの図書館」(28)なのか、それともストールが言うように「空っぽの洞窟」にすぎないのかは、結局のところ、利用者にどれだけ充実したコンテンツを提供できるかにかかっている。ここで問題になるのが利用権と著作権の兼ね合いである。

 すなわち、従来、図書館は「この門を入るもの(本)は一切の商品性をすてよ」という原則のもとに資料を収集・保存・管理し、利用者に対して無料で資料閲覧サービスを実施してきた(29)。電子図書館の構築は、この原則を徹底する可能性を持っている----わざわざ図書館に出向かなくとも、自宅や研究室のコンピュータ端末を通じて、読みたい資料を、いつでも、そして無料で読むことができるからである。しかし、一方で、通常の本や文献(印刷物)とは違って、電子化されコンピュータ端末で読まれた本や資料は、容易に複写され、さらには改変される可能性があることから、著者や出版社などコンテンツを作成・販売する側の権利(著作権)を大幅に侵害するおそれがある。電子図書館にあっては、商品としての本と公共的な文化財としての本の区別がつかないのである。コンピュータ技術の発達によって際限なく広がる利用者の権利と、著作権保護との折り合いをどこに求めるかに、電子図書館構築の問題点が集約されるといえよう(30)

 前節で、知識生産に関わる従来の報奨システムや品質管理システムが、インターネット時代にあっては見直しを迫られていることをみたが、電子図書館についても、知識の保存・管理・利用に関して新しい考え方ないしは原則が案出されねばならないだろう(31)

 

追記----本稿は先に発表した拙稿「コンピュータ革命のインパクト----知の変容と電子図書館」『国際高等研究所報告書 科学の文化的基底()』、(二○○一年、一五六〜一六四頁)を中心にし、新たな論点を加えてリライトしたものである。)

 

(1)C・P・スノー(松井巻之助訳)『二つの文化と科学革命』(みすず書房、一九六七年)。

(2)T・クーン(中山茂訳)『科学革命の構造』(みすず書房、一九七一年)。

(3)T・ローザック編(高橋徹解説・城戸智子他訳)『何のための学問』(みすず書房、一九七四年)。

(4)阿曽沼昭裕『戦後国立大学における研究費補助』(多賀出版、二○○三年)。

(5)有馬朗人『大学貧乏物語』(東京大学出版会、一九九六年)。

(6)竹内洋『教養主義の没落----変わりゆくエリート学生文化』(中公新書、二○○三年)。

(7)『アエラ』、一九九一年五月二八日号。

(8)中山茂「序説 戦後日本の科学技術と社会」、中山他編著『通史 日本の科学技術 1』(学陽書房、一九九五年)一〜一六頁。

(9)M・ギボンズ編著(小林信一監訳)『現代社会と知の創造』(丸善ライブラリー、一九九七年)。

(10)S.Slaughter and L.L. Leslie, Academic Capitalism: Politics Policies, and the Entrepreneurial University, The Johns Hopkins University Press, 1997.(この書物の第1章の拙訳「アカデミック・キャピタリズム」広島大学高等教育研究開発センター『高等教育システムにおけるガバナンスと組織の変容(COEシリーズ8)』2004年3月、pp.79-101.参照)

(11)森岡倫子「電子雑誌」、倉田敬子編著『電子メディアは研究を変えるのか』(勁草書房、二○○○年)、一七三〜二○七頁。

(12)倉田敬子「科学コミュニケーションの変容」、同書、二○九〜二二○頁。

(13)高島寧・倉田敬子「E-print Archive」、同書、一三九〜一七一頁。

(14)名和小太郎『学術情報と知的所有権----オーサーシップの市場化と電子化』(東京大学出版会、二○○二年)。

(15)L・レッシング(山形浩生訳)『コモンズ----ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』(翔泳社、二○○二年)。

(16)この表は、中山茂『20・21世紀科学史』(NTT出版、二○○○年)、二一一頁の表をもとに拡張したものである。

(17)T・ローザック(成定薫・荒井克弘共訳)、『コンピュータの神話学』(朝日新聞社、一九八九年)、二三七〜二四二頁。

(18)合庭惇『デジタル知識社会の構図----電子出版・電子図書館・情報化社会』(産業図書、一九九九年)、原田・田屋共編著『電子図書館』(勁草書房、一九九九年)など。

(19)M・レスク「明日の電子図書館」(『日経サイエンス』、一九九七年七月号)、三四〜三七頁、およびフランス国立図書館のホームページhttp://www.bnf.fr/参照。

(20)国会図書館関西館のホームページhttp://www.ndl.go.jp/jp/service/kansai/index.html参照。

(21)奈良先端科学技術大学院のホームページhttp://dlw3.aist-nara.ac.jp/index-j.html参照。

(22)大阪市立大学学術情報総合センターのホームページhttp://www.media.osaka-cu.ac.jp/参照。

(23)グーテンベルク・プロジェクトのホームページhttp://www.promo.net/pg/参照。

(24)青空文庫編『青空文庫へようこそ----インターネット公共図書館の試み』(HONCO双書、一九九九年)、および青空文庫のホームページhttp://www.aozora.gr.jp/参照。

(25)「広島文学館」のホームページhttp://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/参照。

(26)「ネットミュージアム兵庫文学館」のホームページhttp://www.bungaku.pref.hyogo.jp/参照。

(27)C・ストール(倉骨彰訳)『インターネットはからっぽの洞窟』(草思社、一九九七年)。

(28)千賀正之『本と図書館を読む----印刷本が消えて電子図書館が繁栄するという嘘?』(日本図書館協会、一九九八年)、一二六〜一三二頁。

(29)津野海太郎「この門を入るものは一切の商品性をすてよ」、原田・田屋、前掲書、七五〜八九頁。

(30)戸田愼一・海野敏「電子図書館時代の著作権」、日本薬学図書館協議会「薬学図書館」編集委員会編『電子図書館とマルチメディア・ネットワーク』(日本図書館協会、一九九六年)、一○五〜一二二頁。

(31)例えば、長尾真「電子図書館時代の著作権について」、電子社会システム研究推進シンポジウム『電子社会における知的財産予稿集』(二○○○年)、三〜七頁、「シリーズ 文化は誰のもの」(『朝日新聞』二○○三年七月より断続的に掲載)など。


越智貢(編著)『情報倫理学入門』ナカニシヤ書店、2004年、163-183頁。