書評11

村上陽一郎『安全学』青土社, 1998.


 現代社会は自然的および人為的な危険に満ちている。そこで、著者は、本書の課題を「この多種、多様、そして多層な危険と対面し、安全を求める人間の営みを、それなりに統一的に把握してみることはできないか、あるいは個々の現場で積み重ねられている安全への努力を共有し、共通に議論するプラットフォームを造り上げることはできないか」(本書27頁)と設定する。まことに時宜にかなった、しかし、まことに困難な課題と言わざるを得ない。

 困難というのは、構築さるべき安全学は、当然にも、総合的・学際的な分野でなければならないからである。社会的なニーズに根ざした総合的・学際的な学問分野の開拓の必要性については、確かに、かなり前から各方面で議論されてきた。かくいう評者もその種の名称を冠した学部に勤務して20年余経過した。しかしながら、この間、「総合的・学際的な」研究・教育がいかに困難か、ということをしばしば思い知らされてきたのである。伝統的なディシプリンで育った教員だけでなく、若い学生・院生までもがしばしば既存の「専門」あるいは「何々科学」(科学という語には、元来、専門細分化した学問という含意がある)という城に安住しようとする傾向が見られるのである。教員に関しては出身の専門分野で研究業績を挙げねばならないという圧力があり、学生については大学院への進学や一流企業への就職を考えると、やはり基礎的あるいは伝統的なディシプリンに立てこもるのが賢明な身の処し方、というのが実状のようである。もちろん、評者の周辺に名実ともに総合的・学際的な研究・教育を展開している例がないわけではないが、そのような例外の存在は一般則をかえって強化する。

 このような現状に照らして見るとき、何を研究すべきかを研究する「国際高等研究所」のプロジェクト研究として安全学というきわめて総合的・学際的研究テーマが採用されことに、また、その成果の一端として、本書が出版されたことに感銘を受けざるをえない。

 著者は安全学を文明論的なパースペクティブに位置づける(第1部「文明と安全」)とともに、飛行機事故(第2部「社会と安全」)や医療事故(第3部「医療」)などの多くの具体例を挙げて安全学の考え方を実践してくれている。われわれは日常さまざまな危険にさらされて生きており、大なり小なり事故の経験をもっているので、自分の経験を安全学的に考えるとどうなるか、を追体験したり思考実験することができる。

 例えば、評者は、つい先年、運転免許を取得したばかりであるが、昨年、軽微な事故を起こしてしまった。駐車場から出る際、左方に注目し過ぎて、右方から近づいて来るスクーターに気づかず接触転倒させてしまったのである。当方がノロノロ運転だったことが幸いして、人身事故にはならなかったが、何しろ初めての交通事故経験だったので、気が動転してしまった。自分の運転技術の未熟さと不注意を相手にわびて、示談として落着した。しかし、この事故を単に運転者の未熟さと不注意に帰すのではなく、どうして、運転者は右方からのスクーターに気づかなかったのか、と問うべきではないか、というのが安全学的なアプローチであろう(本書111頁)。

 この場合、駐車場を示す看板が妨げになって右方向からの車両が見にくい、特にスクーターのような小型車両は、一瞬死角に入るということがあったのだと思われる。しかし、著者が何度も強調しているように、我が国では交通事故は当事者の不注意の結果起こるという考え方が強いので、また、(自動車)保険制度もそういう考え方から成り立っていると思われるので、もし、事故の時点で、評者が看板の存在を指摘して、自らの責任を軽減しようと務めると、おそらく、相手側から、自分の未熟さや不注意を潔く認めようとしない卑怯な人間だとの(道徳的な?)批判を受けたことだろう。そこまで考えると、あの時はあのような対応しかなかったのかな、と思えてくる。

 未熟な運転者(初心者マーク付き)がかなり存在しているということが前提となっているはずの交通システムでさえ、事故の発生がもっぱら運転者の不注意に帰されがちな状況を考えると、高度な訓練を受けたエキスパートから成る医療施設における事故など本来「あってはならないこと」とされ、もし発生した場合には「担当者の(予想もつかない)不注意」ということにされがちな現状が改善されるには、相当の根気と時間がかかるように思われる。

 とはいえ、本書の出版は、さまざまな事故の原因を当事者の不注意に帰し、それを道徳的に非難するという、従来よく見られた不毛な論議に終止符を打ち、「フェイル・セーフ」で「フール・プルーフ」なシステムの設計と運営(本書215頁)へと向かうための着実な一歩となるであろう。


『デジタル月刊百科(オンラインジャーナル)』1999年5月号